「中帰連」8号(1999.5.20)

南京大虐殺61周年

南京レイプを明らかにする東京集会

福田昭典


日本軍の南京占領61周年にあたる昨年(1998年)12月13日、 永田町の星陵会館で、 「南京レイプを明らかにする東京集会 日本軍の性暴力」が催された。 「ノーモア南京の会」の呼びかけにより発足した集会実行委員会は 「中国帰還者運絡会」「在日の慰安婦裁判を支える会」 をはじめとする様々な団体・個人により構成された。 また、今回の東京集会は、 昨年の「南京大虐殺60年東京国際シンポジウム」を引き継ぐ集いでもあった。 日本軍が南京を占領した12月13日を前後して、人間の心を喪失し、 鬼と化した日本軍は、身に寸鉄を帯びない中国の人々を、数限りなく虐殺した。 そして、日本軍は女性を漁り、見つければ子どもであろうが老婦であろうが強姦した。 日本軍によるレイプ被害者は優に8万人を超えると言われる。 「南京レイプ」、この言葉ほど南京大虐殺における日本軍の道徳的頽廃ぶりと、 残虐性を表現し得るものはない。
南京事件に思いを寄せ、その真相解明に努める全国の市民団体が結集する 「南京大虐殺60ケ年全国連絡会」の仲間たちが、 南京レイプ被害者2名を招請することとあいまって、今回の東京での南京集会は、 「南京レイプ」に焦点が当てられることとなった。
12月13日、実行委員会の準備不足にもかかわらず、 200名をこえる人々が集まった。 実行委員会を代表して田中宏・一橋大学教授が、 続いて今回来日された中国からの証言者の招請人を代表して、田英夫参議院議員が挨拶。
その後、南京大虐殺の研究者である蘇智良・上海師範大学教授が、 研究報告を行うこととなった。

1. 蘇智良教授の報告

蘇智良教授は、被害者の証言資料から、 戦後中国政府と研究者たちが調査・収集した資料から、 そして南京に在住していた外国人の記録から、 「日本軍兵士は、常に三々五々、市区をぶらつき、女性を探し、 見つければ強姦した」様を報告した。 ここでは、蘇智良教授が引用した二つの証言記録を留めておきたい。 ひとつは、南京鼓楼病院の Rev. James MacCallum の日記である。 日記は次のように語っている。 「一週間が過ぎ、ここはこの世の地獄になった。・・・ 私は生まれて初めてこのような残忍なことを知らされた。 レイプ、レイプ、またレイプ。 一晩に少なくとも1000件はあったと思う。 昼間でもこのような事件がたくさんある。 抵抗、あるいは拒んだら、銃剣で刺し殺し、あるいは銃で撃ち殺す。 我々は一日だけで、このような事件を数百件も書ける。 民衆は絶望の境地に苦しみうめいている」

もうひとつは、目撃者・楊朱さんの証言である。 「1937年12月14日、3名の日本兵は、湖北路28号で、15歳の少女、 陳代弟を輪姦した。 翌日、その3名の日本兵は、再び12歳の少女を輪姦。 水西門外で1人の未亡人には18歳、13歳、9歳の3人の娘がいたが、 いずれも日本兵に輪姦され、三女はその場で死亡、長女・次女は意識不明になった。 凶暴残虐な日本軍は、夫の目の前で妻を輪姦し、あるいは子どもを殺し、 母親を輪姦する」。
蘇教授は最後に「日本軍による南京の女性に対する大規模な暴行は、文明史、 また世界女性史上、最も凄惨な1ページである。 良心のある人問、人間性のある人間ならば、誰でもこの惨劇を忘れるべきではなかろう」 と講演をしめくくった。

2. 鈴木良雄氏の加害証言

   <私たちが初めて聞く性暴力加害>

蘇智良教授の講演終了後、「加害の側」の証言者として、 中国帰還者連絡会の鈴木良雄氏が登壇した。 聴衆側の私から見て、鈴木氏は緊張していた。 その表情は「語らねば!」という思いに満ちていた。 彼は語りはじめた。

まずは、 鈴木氏が新兵だった1941年10月頃の山東省のショウキュウ県での粛清討伐作戦に、 大砲の砲手として戦闘に参加した時の話であった。 部隊がある村にさしかかった時、 中国側民兵からと思われる銃撃により一人の上等兵が死亡した。 すると部隊は「何々上等兵の敵討ちだ!」と叫びながら、その村に襲いかかった。 砲手として、村から離れた所に配置された鈴木氏の耳に届いたものは、 阿鼻叫喚の地獄絵を想像させた。 鶏のけたたましい鳴き声。 バリバリと聞こえる人を撃ち殺す銃声。 逃げ惑う人々の悲鳴。 そして、犬の遠吠え。
村に入った鈴木氏の見たものはまさに地獄であった。 撲殺された、刺殺された、斬り殺された、銃殺された、男と女と老人と子どもの死体、 死体、死体であった。 そして、鈴木氏を最も驚かさせたものは、全裸にされ、局部に竹を突き刺され、 死んでいた女性の姿であったと語った。
次はライブ県のある部落に宿営した時の体験だった。 彼の分隊長であった伍長が、若い女性を強姦したあげく殺害し、 しかも自らの梅毒を治すためと称して、 殺害した女性の脳みそを自分の飯盒でゴトゴト煮る情景は、まさにこの世とは思えない。 獣以下になりさがった天皇の軍隊が、そこに見える。 何というヘドの出る醜悪さよ!
続いて、1944年の春頃、鈴木氏が分隊長として、 討伐作戦に参加した際のある村の話であった。 彼の分隊が休憩していたある農家に、一人の憲兵が現れ、惨劇が始まった。 村の女性に食事を作ることを強い、お湯を沸かせていた時のことだった。 突然、その憲兵は梅毒にまみれた自らの陰茎をとりだし、食事の準備中の、 一人の女性に、これを舐めろと要求した。 ところが毅然と拒絶したその女性に、憲兵は激怒し、 服をちぎって沸騰したお湯を浴びせ、遂に殺害した。 鈴木氏は憲兵を責めることも、注意することもなく、 その情景を眺めていたと告白する。

そして、引き続く討伐作戦のさなかに、 自ら鬼と化した鈴木氏は「次は私の強姦の罪行について告白します」と語りはじめた。 私にとっても、元兵士の自らの強姦体験の告白を聞く、初めての機会となった。
討伐隊が大きな部落に駐屯し、鈴木氏が近くの村に掃討に行った時の話である。 分隊長である鈴木氏は、分隊に休憩を言い伝え、部落に自ら女漁りに出かける。 ある一軒の家で、 日本軍の性暴力を避けるために顔に泥や鍋墨を塗りたくった7・8人の女性を発見した。 そのうちの一人の若い女性に彼は目を付けた。 他の女性を部屋から追いだす間に逃げたその女性を捜しまわる。 そして、ブタ小屋に逃げ、汚物を衣服に塗り付けて抵抗するその女性を発見し、 銃を突き付けて衣服を脱がし、強姦した。

会場は静寂に包まれ、参加者の目と耳は、鈴木氏の口元に集中した。 聴衆は、日本軍の中国侵略の過程で、どれほど多くの女性たちが、 強姦被害に遭遇したことだろうかと思い巡らさざるを得なかった。 鈴木氏の加害は、中国の村々で、 日常的に繰り広げられた強姦事件のほんのひとコマに過ぎず、 決して例外ではなかったはずである。 彼は語った。 「延べ100人以上の都下と接したことになります。 この中で、この人は性暴力に関係ないという兵隊を、 私は一人も証明することができません」
彼がこの証言に際し、どれほど逡巡したかは想像できる。 しかし、私たちは、自らの性暴力加害を正直に語った元兵士を知らなかった。 だからこそ、鈴木氏の証言の後、彼の勇気に、会場は大きな拍手で応えた。

この集会には、南京から日本軍による性暴力被害者である、蔡玉英さん、 張俊英さん(両名とも仮名)のお二人が証言者として出席された。 蔡さんは8歳の時、張さんは9歳の時(両名とも数え年)日本軍の強姦にさらされ、 その後61年間、お二人はその痛苦に満ちた体験を誰にも語ることができず、 その痛苦を背負いながら今日まで生きてこられた。 このお二人は昨年初めて、南京大虐殺記念館を訪ね、被害体験を証言された。 蔡さんは、殺された父母については語られたが、 自らの性暴力被害については語ることはできなかった。 記念館からの聞き取り調査で、 ようやく蔡さんは初めて自らの被害について語りはじめた。
お二人が61年聞の沈黙を破り、日本で証言をすることを決意された動機は、 日本には今もなお「南京大虐殺は中国人のデッチ上げ」 という人々がいるという話を知ったことによる。 しかし、最終的な訪日の決意に至るまでには、長い躊躇があったと聞く。

3. 蔡玉英さんの証言

   <8歳の少女のレイプ−−父母の殺害・流浪>

鈴木氏の加害証言終了後、舞台前方の幕が引かれ、まず、蔡玉英さんの証言が始まる。 蔡さんが両親と共に生活をしていた家屋に日本軍が押し入ってきたのは、 日本軍が南京を占領した12月13日早朝のことだった。 父親が左腕を銃で撃たれた。 午後、再び押し入ってきた日本軍は、家にある貴金属、お金、 そして布団までも掠奪していった。 翌14日、またも日本軍が押し入ってきた。 蔡さんのズボンを脱がそうとする日本軍に抵抗した父親は、 首を切られるという致命傷を負った。 12月15日、またもや押し入ってきた日本軍の兵士が、 数え年8歳の蔡さんを強姦した。
蔡さんはその様子を次のように語る。 「日本兵は、私の陰部に手をねじ込み、その時まだ幼かったので、 非常に硬かったのを無理やり押し込んでこじ開けた。 さらにもう一人の日本兵は強姦を恐れて顔に墨を塗っていた母親も強姦した」
どれほどの恐怖と絶望感が蔡さんを襲ったことであろう。 それは私たちの想像を絶する。

蔡さんは孤児となった。 「食べるものもなく、お金も当然なく、12月の寒い空の下、路地で寝ていたんです。 乞食をしながら南京の路地で!」と語る。 彼女は数年間、南京の路地で乞食をしながらさまようなかで、 日本軍の数々の強姦を目撃する。 蔡さんが心と体に受けた傷は、計りしれないほど深く、今なお彼女の心と体をさいなむ。 彼女は語った。 「傷つけられた下半身の痛みは今も続いており、 今でもおしめを充てなければならないという後遺症が続いています」
最後に蔡さんは「私は日本に対して受けた被害の賠償をここに要求したい」と語り、 証言を終えた。

4. 張俊英さんの証言

   <レイプ、そして娘と父の怒りと悲しみ>

続いて、張俊英さんが証言を始めた。 張さんはまず、「これから話すことは、私の家族を含めてまだ誰にも話していない。 ・・・今の日本が依然として、南京大虐殺を認めないということを聞き、 自分の体験を語ることにしました」と語った。

張さんは、1937年当時、父母と3人で暮らしていた。 日本軍を恐れて、妊娠中の母親がとりあえず南京市街から疎閑した。 しかし、張さんと父親は逃げおくれ、日本軍の暴虐の嵐に巻き込まれることとなった。
12月14日か15日のことだったと張さんは言う。
中華門近くの自宅に日本軍が押し入り、そこにいた張さんが女の子だと分かると、 その兵士は彼女を押し倒し、強姦した。 苦痛にもがき苦しむ数え年9歳の少女を強姦するなど、人間のできることではない。 家に戻った父親は、娘のことを知ると彼女を抱きしめ、二人で泣きあったという。 張さんの苦痛、恐怖、屈辱、 そして父親の怒りと悲しみの深淵はいかばかりであったでしょう。 父親はすぐさまそこを逃げることを決意する。 天秤棒の片方に娘を乗せ、もう一方に布団と探し出した残りの米を乗せ家を出た。 「夜が明けて、周りをみたら死体だらけでした。 何処にもやたらと死体が転がっていました」。 逃げ惑う途中で、張さんは日本軍の殺戮と強姦を目撃したのだった。
張さんは続いて語る。 「私は60年間、この事を全部胸の中にしまい込んで・・・ みんなが私の話をどういうふうに聞くのか心配で、言えなかったんです。 しかし、今度日本に来て、私たちの話をちゃんと聞いてくれて、私たちの身になって、 ものを考えてくれる人々がいることを知りました。 私は帰った後、まだ言い出していない人たちに、 自ら話すことを勧めたいと思っています。 南京大虐殺で犯した罪を日本政府が認めないという事を、 私たちは中国人として許すことができません。 私は日本政府に謝罪を求めます」。

そして最後に、張さんは次のような証言を終えた。 「私は中国人を、少なくとも南京で被害を受けた人々を代表して、 皆さんに感謝したいと思います。 ありがとうございます。」 私たちが感謝されるべきでないことは言うまでもないが、私は彼女の言葉に、 計り知れない中国人の度量の広さを見た思いだった。
蔡さん、張さんの証言に、会場は嗚咽に包まれた。 人々は涙なしには、聞くことができなかった。 しかし、私には苦痛でもあった。 複雑な感情が入り交じる。 そして考える、心と体に癒しきれない傷を負い、今も苦悶する彼女たちに、 私たちはどう償えぱよいのだろうか。

私たちは、何度も歴史に向かい合わねばならない

日本人の中では60年も過ぎているのに、 何を今さらと主張する人々は決して少なくはない。 しかし、60年という時間の経過にいかほどの意味があるのだろう。 時の経過が決して被害者の受けた傷を癒しはしない。 そして、彼女たちを強姦した兵士たちは紛れもなく、私たちの父であり、 祖父であった事実を認識することさえできれば、60年の時空は一瞬のうちに消え去る。 私たちは何度も何度も歴史の事実に向かい合わなければならない。

集会終了後、昨年に続き追悼デモを行った。 100名ほどの参加者であったが、新橋、銀座の街々で声を嗄らして 「南京大虐殺の犠牲者を追悼しよう!」 「私たちは南京大虐殺をわすれないぞ!」と叫んだ。 来年こそはもっと多くの人々の参加を願いながら・・・
          (ふくだあきのり・ノーモア南京の会)


「中帰連」編集部(中国帰還者連絡会)のご厚意により再録させて頂きました。


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