No.2010-1

証言者   郭 秀蘭さん
      
    1932年生れ、当時6歳、女性、南京・中華門近く。


 うちは6人家族でした。父方の祖父と、父と母と私、それと妹2人の6人でした。日本軍が南京に入って来る前に何度も空爆がありました。空爆はとても怖ろしく、空爆があると、私たち家族は中華門の近くにある防空壕に避難していました。家から100メートル位離れたところにあるとても大きな防空壕でした。100人から200人入れそうな大きな防空壕でした。
 日本軍が南京に入って来ました。そして防空壕の近くに日本兵がやって来たとき子供が泣いて、中に人が隠れていると分かってしまいました。
 3人の日本兵が入ってきました。防空壕の中は暗いのですが、外は明るいので3人の姿が中からはっきり見えました。3人は帽子をかぶっていて、手には機関銃を持っていました。私たちの姿を見つけると、すぐに機関銃掃射を始めました。私はその時は6歳(数え)で幼かったのですが、その時のことはよく覚えています。私は大人の後ろに身を隠しましたが、他の人たちは、機関銃掃射が始まるとできるだけ壁際に貼り付いて銃弾を避けようとしました。でも、みんな撃たれて死んでいきました。わたしは、大人の背中にかくれていたので撃たれずにすみました。やっと機関銃掃射が終わって3人は出て行こうとしましたが、入り口のところでまだ生きている人がいないか確認していました。ひとりのおばあさんが倒れていました。髪の毛が真っ白のおばあさんでした。厚い綿入れを着ていて、血だらけでしたがまだ動いていました。日本兵は、おばあさんがまだ動いていることに気がつくと、容赦なく銃剣を何度も突き付けて殺してしまいました。日が暮れたころ日本兵は帰っていきました。日本兵が出て行ったあと、生き残った人は少しずつ外に出て行きました。
 その時、祖父は防空壕に入っていませんでしたが、誰かが私たちが避難した防空壕で機関銃掃射があったことを伝えてくれたので、びっくりして駆けつけました。祖父は、私と妹の名前を呼びました。「大巧(ダーチャオ)、二巧(アールチャオ)、どこだ!」。私はすぐに「ここにいるよ。」と返事をしました。祖父はすぐに私たちの近くにきて、私と妹を外に連れて出しくれました。その時の私の記憶はうっすらとしていますが、父と母と8カ月の妹の3人は殺されました。私は、暗闇のなかでも父が、目を大きく見開いていたのを憶えています。
 祖父は、私は妹を外に連れ出してから、入り口のところで待っているように言いました。生きている人を探してみると言って、中に入っていきました。そしてまず親子2人を発見しました。私の家のすぐ隣に住んでいる、‘賀’という少年とその母親でした。賀さんは、生きていたけれど体中血まみれでした。賀さんは今83歳でまだ生きていますが、その時のショックと怪我で今も障害を持っています。それから祖父は、もう一度なかに入って行って、サイという人を連れて出てきました。サイおじさんは生きていましたが、脚をうたれていて歩けませんでした。祖父は、ほかにも生きている人を探しては外に連れ出していましたが、もうだいぶ遅くなってきました。祖父は、中にまだ息のある人がいるかもしれないけど、これ以上はもうできないと言って、私たちを連れてそこを出ました。防空壕の近くに小さな家があったので、そこで私たちを休ませました。その小さい家にも、避難している人がいっぱいでしたが、また日本軍が来るかもしれないと皆恐れていました。私たちはそこで一夜を過ごしました。
 翌日おじいさんは、私たちを近くにある大廟という大きなお寺まで連れて行きました。お寺に行く途中も道路は死体でいっぱいでした。今思い出しても、ひどい死体ばかりでした。例えば、頭を切り落とされた人、脚のない人、喉に大きな穴があいている人、怖くて怖くてたまりませんでした。祖父は、もう見るな、見ちゃだめだ、と私たちに言いました。お寺に行く前のことを言い忘れていました。
 防空壕での機関銃掃射の翌日、3人の日本兵がまたやってきました。私はそばでこっそりと見ていました。そのうち1人は手に緑色のバケツを持っていました。私はあのバケツは何だろうと、不思議に思って見ていました。3人がバケツの中身を防空壕の中に放り込んでマッチをつけると、防空壕の中が燃え上がりました。祖父が言うにはガソリンのようなものです。その火はものすごい勢いで燃え上がり、2、3日の間燃えていました。そのために、前の日の機関銃掃射があって、防空壕の中で生き残っていた人も全部焼き殺されました。2、3日燃えていたので、最後は防空壕の天井が崩れ落ちました。大阪の松岡(環)さんと(最近)その防空壕を見に行きましたが、その跡はまだ残っていました。
 その後祖父は、日本軍にたびたび捕まって連れて行かれました。言葉はもちろん通じませんでしたが、拳銃で脅されて連れて行かれました。私たち2人は、近くのおばあちゃんたちに預けられました。12月なのでとても寒く雪が降っていました。食べるものもなくて、妹は泣きました。私も泣きました。妹はまだ3歳でした。
 夜になると、祖父が帰ってきましたが、4回位日本軍に連れていかれました。そこで日本軍の肉体労働をさせられていました。やっとわかったのは、私は日本兵と祖父は言葉が通じないと思っていましたが、日本兵だと思っていたうちの1人は中国人でした。日本人と同じ服を着ていたので今までわからなかったのです。その人が、これが最後だから、日本人がお風呂に入るので、水を汲んだりしてお風呂の用意をしてほしいのだと言いました。 日本人が去っていく時、いくらかお金をおいていきかした。その時は日本のお金だとは知りませんでした。お金といっても小銭程度のものでしたが、祖父は、そのお金を、私たちの世話をしてくれたお婆さんたちにあげました。
 それからまた次々と日本軍がやってきましたが、少し落ち着いてきたら、‘紅十次会’の人たちが南京にやってきました。紅十次会が何をしにきたかと言うと、死体の処理をしにきたのです。死体は山ほどありました、死体はみるみるうちに山のように積み上げられました。穴をほって、万人坑に死体を埋めました。
 近くに大きな川がありました。私の記憶では中華門の近くに有名な秦淮河という川があって、たくさんの死体が浮かんでいました。ふつうの死体ではなくて、異常な殺され方をしたとても見るにたえないものでした。日本軍が入ってきて、また次の日本軍がきて、日本兵が4,5人で女の人を見つけると強姦しました。そして強姦のあとは殺しました。強姦されて殺された女性はたくさんいます。女性、特に若い女性はみんな怖がって、家の中の鍋の底の灰を顔に塗って、顔を真っ黒に汚くしていました。顔を炭で汚くしておけば手をつけられないと思うからです。それでも怖いので外に出ませんでした。
 少し落ち着いてきたから、避難していた人たちが家に戻ってきました。でも、私たちにはもどってきても食べる物がありませんでした。特に3歳の妹はお腹がすいて毎日泣いていました。祖父は、食べ物を探しに外に出て行きましたが、なかなか食べ物を持ってくることはできませんでした。ある時、どこかの家でピータンをもらってきましたが、まずいので妹は食べられずに泣きました。住むところもなくて、前の家は貧しい茅葺きの家で、焼け崩れていましたが、寒さをしのぎました。
 私の家は中華門の近くでした。南京は城壁で囲まれている街ですが、城門は全部で13個ありました。さっきの映画のように、日本軍が城門の上で万歳、万歳をしていました。少し経ってから、城門が開き中に入ることができるようになりました。そして少しずつ、食糧も出回るようになってきました。
 それから1、2年経って、祖父は無理がたたって病気になり、起き上がれないことがあるようになりました。祖父はある日、私と妹を呼びました。その時のことを思い出すととても辛いです。ひとりは王、ひとりは周というお婆さんに来てもらいました。祖父は日に日に弱ってきていましたから、ふたりのお婆さんに、「私の身体はもうよくならないから、私が死んだら、残ったこの2人を頼みます」と言いました。頼むというのは、ただ預かってもらうのではなく、“童養〔女息〕(トンヤンシー)”にするということです。“童養シー”は、将来の嫁という意味です。中国では昔からよくあった風習です。将来、息子の嫁にする為に、幼い時からひきとって育てる女の子のことです。そして、幼い時から働かせることが多いのです。祖父はもう、私たち2人を育てることができませんから、私は‘胡’という人の家に、妹は‘セン’という人の家の“童養シー”にしたのです。祖父がまだ生きているうちでしたが、私と妹は離れ離れになってそれぞれ別の人の“童養シー”になったのです。私は8歳、妹は5歳でした。
 そのあとは大変な苦労をしました。私は幼い時に身体が弱かったので、父母にとてもかわいがってもらいました。梨を食べると身体に良いからと、よく梨を食べさせられました。貧しい家でしたが、大事にされていました。“童養?”になってからは、ほとんど子守のような辛い生活でした。食べるものも充分ではありませんでした。私が16歳の時に姑が亡くなり、私は17歳で、結婚させられました。
 ここで皆さんにお話ししたことはすべて本当のことです。嘘はひとつもありません。これ以上話すことはとても辛いのでこのへんで終わらせていただきます。ありがとうございました。

<出 典>
●ノーモア南京の会ニュース、第30号ニュース(2011年5月10日発行)に掲載されているものである。
 この記事は、2010年12月12日開催の“南京大虐殺73ヵ年 証言を聞く東京集会―もっと知りたい南京の真実―”、(主催:南京東京証言集会実行委員会、於.全水道会館)に於ける、被害者である中国人婦人、郭秀蘭さんの証言を記録したものを、殆どそのまま収録したものである。