2015年12月9日
南京大虐殺78カ年東京証言集会
230名の市民が熱心に証言に耳を傾けた この熱気を2016年以降も続けよう

証言:陳徳寿さん

講演:笠原十九司さん



201512
9日、東京水道橋の全水道会館で開催した「南京大虐殺78か年 東京証言集会」には予想を超えるたくさんのみなさんが参加し、熱心に証言を聞きました。一昨年も大盛況でしたが、今年も集会開始前からぞくぞくと参加者が集まり、すべての椅子を出しても足りない、ついに会場のドアを開け放し、通路に座ったり、会場の外で立って話を聞いてもらうという事態になりました。それでも参加者はみな熱心に話に聞き入り、またメモを取る人もたくさんいました。参加者は230名にものぼりました。
 安倍政権によって戦争法案が強行され、日本の自衛隊が戦場に出かけていくということが現実のものになりつつあるという状況のなかで、集会は、「もうくりかえすまい 戦争と虐殺」をサブテーマとしてかかげました。
 集会の最初にノーモア南京の会代表の田中宏さんが、名古屋市と南京市の姉妹都市提携やユネスコ世界記憶遺産登録にふまえて、集会の意義についての挨拶をし、続いて南京大虐殺紀念館の陳慧さんが、張建軍新館長の挨拶を代読しました。生存者陳徳寿さんの証言には、みんなが一言も聞き漏らすまいと真剣に耳を傾けました。
孫娘陳雨さんは「祖父のことばを引き継いで語れるようになりたい」と話しました。
休憩のあと、笠原十九司さんが「南京大虐殺を否定しようとする安倍自民党政権」と題して講演しました。笠原十九司さんはユネスコ世界記憶遺産に登録された「南京大虐殺の記録」について詳細に話されました。
 昨2015814日、安倍首相は「戦後70年談話」を発表しましたが、それは日本による暴虐の限りを尽くしたアジア侵略と植民地支配の歴史を直視しようとせず、その加害責任を頬かぶりし、なんら真摯に反省しようとするものではありませんでした。それどころか、韓国併合への一歩でもあった日露戦争を賛美し、日本が西欧諸国のアジア植民地支配とたたかいアジア・アフリカの人々を勇気づけたとしていう、とんでもない歴史の歪曲をしています。
 それでいて、「戦後生まれの世代が、今や、人口の八割を超えています。あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」と述べています。どうして「謝罪が宿命」といえるのでしょう。口先の「謝罪」は被害者の胸に響かないというだけの話しです。侵略と抑圧、人権蹂躙の歴史の居直りにはいつまでも謝罪の要求が続くでしょう。
 安倍首相の「謝罪」なき「反省」は全くの欺瞞であり、現在やっきとなっている「中国の脅威」キャンペーンと「積極的平和主義」という名の戦争政策、「戦争のできる国」作りの裏返しでしかありません。
 今戦争体制作りが強行され、これに歩調をあわせるように、ヘイトスピーチは地方にまで広がり、また各地で加害の歴史を反省する、施設や掲示板の撤去が進められています。社会全体に排外主義が強められる危険な情勢といわざるをえません。あまつさえ日本の報道の自由度は世界72位と言われています。政権による情報統制がますます進められているのです。
 集会の最後に事務局長の細工藤から今後の集会に関する説明を行い、証言者はみな高齢となり、生存者証言としては今年が最後になるのではないかという話も出ましたが、形は変わっても証言集会を必ず続けていきたいと述べました。
 集会後、参加者からは、陳徳寿さんの証言に感謝するという声がたくさん寄せられました。また若い学生からはぜひ大学で宣伝していきたいという声もありました。多くの人から、ぜひ南京を訪ねてみたい、ツアーを組んでもらいたいという声がありました。
講演に関しては、勉強になった、講演だけでも続けてほしい、本を読みたい、というアンケートが寄せられました。
たちは少し変わるかもしれませんが、どのような形であれ、私たちは、これからもこのような証言集会を粘り強く続けていきたいと思います。



陳徳寿さんの証言
 1937年日本兵が南京を占領した時、私はやっと6歳になったばかりでした。当時私の家には、祖父、祖母、父親、母親と私、そして叔母とその娘と息子の8人で住んでいました。家は城南天青街古鉢営4号にあり、服装店を営んでいました。父親は一着の服を請け負っており、お金は材料費に使っておりましたし、加えて、母は身ごもっており、臨月を迎えていましたので、どうしようもなくて南京を離れて逃げることはできませんでした。
 1213日の朝、日本兵が城内に入ってきました。すぐに街角に放火したので、隣近所の人は消火にでかけました。私の父も出かけましたが、日本兵に捕まって連れて行かれ、帰ってこなかったのです。父の名は陳懐仁といい当時28歳でした。
  その日の午前89時頃一人の日本兵が銃剣をもって家に入ってきました。家族はなにも準備をしていなかったので、接待をすればいいのだと思い、祖父母は煙草や飴菓子を差し出しましたが、彼は要らない、娘を出せといいました。当時私の叔母は一方の手で2歳の女の子を抱え、もう一方の手で4歳の男の子の手を引いていました。日本兵は彼女を見つけると彼女に近寄り引っ張っていこうとしました。叔母は文化的な家庭婦人です。死んでも従わないという態度だったので、もみ合い、この部屋から次の部屋へと押しやられ、この時叔母はかかえていた娘を祖母に渡し、日本兵と応酬しました。日本兵は恥ずかしさの余り怒り出し、銃剣で彼女を続けて6回も刺して帰って行きました。
 私は、叔母が地面に倒れて血を流しているのを見ました。彼女は祖母に、お母さん、砂糖水が飲みたくて堪らないといいましたが、祖母が砂糖水を持って来たときには、すでに意識がありませんでした。かわいそうな叔母は母親がもってきた砂糖水を飲む間もなく死んでしまったのです。叔母の名前は陳宝珠といい当時26歳でした。叔母の死体は戸板の上に載せられ家の前に置かれていました。お金が無いので安らかに埋葬することができなかったのです。
この時、私の母親は妹を生みました。彼女はベッドの上に横たわり、生まれた子供の胎盤や羊水をベッドの上に散らかしたままでした。毎日日本兵が来て、時には掛け布団をはいでそれを見ました。
 日本兵が城内に入って6日目、家では食べるものは何一つなくなりました。この時一人の日本人らしい軍官が入ってきました。腰にはピストルをぶら下げています。祖父が手まねで家の状況を説明すると、彼は祖父を連れて出ていきました。まず、叔母のために一つの棺桶を捜し出し、そして私たちのために僅かばかりの食糧を探してくれました。私はこのような同情心のある日本人を忘れることができません。
 母親は家にいても落ちつきませんでした。家族の安全のために、私の伯父はある夜、私たちを難民区の近くの親戚の家に避難させました。この日は大雪でした。道々私たちは常に死体に足をすくわれながら、よちよちと進みました。ここに私たちは40数日いてから、家に戻りました。
 父といっしょに連れて行かれた近所の人が家に来て、私の祖父に父親は日本人に殺されたと伝えました。その詳細な経過は以下のようなものです。父親は消火に出かけた時に日本兵に捕まり連れて行かれそうになりました。父親は、家には老人から子どもまでいて、妻は出産を控えている、行くわけにはいかないと懇願しましたが、その結果、日本兵にこめかみと首を刀で刺されました。そのほか一緒に捕まった2人も行きたがらなかったので、一人は刺し殺され、一人は首を刎ねられました。後に父の死体は三山街の承恩寺で知り合いが発見し、彼は木綿の掛け布団を戸板の上に掛けて防空壕のなかに入れてきたのですが、40数日過ぎて祖父と伯父がそこに行って死体をきちんと埋葬しました。
 父が死んでから、家のなかの主要な労働力はなくなりました。生活はじり貧になり、母親は乳母をしていいましたのでものもらいをしました。私が9歳になった時、南京では俗に『進口痢』とよばれた(急性の細菌性の下痢)流行病が大流行しました。私の妹と祖母はこの病に罹り、医者に掛かるお金が無く相次いでこの世を去りました。彼女たちを安らかに埋葬する費用のために、私の母は改めて嫁がざるをえませんでした。この時、我が家は70数歳の祖父と私たち3人の子どもが残され、祖父は3人の子どもを養わないわけにはいかないので、近所の助けのもと、従弟を孤児院に入れ、小さな従妹を別の人に預けました。後になって、祖父は彼らを捜しにいきましたが、捜し出せませんでした。聞くところでは皆病死したそうです。
 1945年私は14歳になりました。生活のために丁稚に行きました。1948年継父がかつて日本兵に傷つけられたところが再発して、母親と8ヶ月の弟を残して、血を吐いて死んだので生活は非常に困難でした。祖父も私には扶養する力がなかったので養老院に入りました。1949年私は18歳になり、工場で働くようになり、母親のもとに戻ってきました。生活は徐々によくなりました。
  そして我が家はまた8人になりました。家族は娘、娘の婿、息子、息子の嫁、孫娘です。みんないい仕事をしており、私たち夫婦も年金があるので健康で幸せな生活を送っています。私たちが幸せな生活を送れるようになったのは、我が国が永い間戦争をせずに経済建設に邁進しているからです。そして人民の生活環境を改善しようとしているからです。こういう平和な時代ですから、私はみなさんに言いたい。むかしの悲惨な歴史を忘れてはなりません。去年私は長崎の原爆資料館を訪問しました。そして日本人もまた被害者だとわかりました。平和と友好が私たちの未来の幸せで安定した生活を守る基盤です。私たちには、平和と友好しかいりません。戦争はいりません。戦争はだめ、平和が大事、友好が大事。私の話は以上です。