南京大虐殺77カ年 証言を聞く2014年東京集会 --教科書問題の現在と歴史認識--

大盛況でした。


日時:12月10日

【幸存者証言】艾義英さん(当時9歳、南京市)

【講演】高嶋伸欣さん(琉球大学名誉教授) 講演資料
    「教科書問題の現在と歴史認識」


証言:艾義英

私は艾義英と申します。今年
86歳です。南京大虐殺の生存者です。
 私は10歳まで南京城外の許巷村に住んでいました。
 南京大虐殺の時、私は自分の目で日本軍が人を殺したのを見ました。〔陰暦1114日(陽暦1216日)〕日本軍が2人の人を殺したのを見たのですぐ家に逃げました。私は家に帰って、「日本軍が村に来た」と両親に伝えました。おじさん二人と従兄弟二人がいっしょに逃げました。〔陰暦1117日(陽暦1219日)〕父は私たちを連れて〔東流鎮の〕おばさんの家に逃げ込みました。昼間は家を出ることが出来ず、夜になってやっと家を出ることができました。おばさんの家で食事をして家に帰ろうとしたときに、おばさんが外を見て日本軍が村に入ったかどうか確認してから家に帰った方がいいといいました。
 おばさんが外を見て、やっぱり日本軍が村に入ってきたと急いで知らせて来ました。そこで父たちは急いで山に逃げました。
 私の母はちょうど妊娠していたので逃げませんでした。私は父と逃げて牛小屋に隠れました。その時、部屋の中に鶏二羽を連れていましたが、鶏が鳴いたので、その声を聞いて日本軍が戸を破って中に入ってきました。父は捕らえられ連行されました。その時私は父の服の裾を引っ張って「行かないで、私は怖いから、弟の面倒を見られないから、行かないで」と頼みましたが、父は「大丈夫、すぐにもどるから心配しないで」と言いました。
 父の叔母たち女性たちも日本軍がまた来るから、すぐに逃げた方がいいとすすめられました。私よりも3つ上のいとこのお姉さんが日本軍に捉まえられて強姦されました。私はそれを見て泣き家に帰ろうとしました。いとこのお姉さんは「帰るならいっしょに帰ろう、だけどこのことは誰にも言わないで」といわれたので、私は「誰にも絶対に言わない」といいました。夜の7時、8時頃裏の山に逃げ込みました。一晩裏山で隠れましたが、空が明るくなって日本軍が帰ったので、村人が私たちをさがして裏山に来ました。
 母から聞いた話では、隣の村の1213人が殺されたということです。私の家族は5人が殺されました。従兄弟2人、おじさん2人と父です。1人の従兄弟は重傷で死を免れました。父が殺されてその死体がそのままになって、この死体をどうすればいいかわからなくて困惑して死体の前で泣きました。死体を運んでいくことも出来ずに、その時、殺された人が多かったのであちこち死体だらけで、どうすることもできず、そのままにしていました。
 私たちは1週間ほど山に逃げ込んでいました。その間に母は子どもを産みました。私の弟もまだ2歳なので、生活できずにどうしようもなくて、生まれた子供を人にあげようとしましたが、結局人にあげることもできずそのまま山に置き去りにしました。10日間ほど山にこもりました。
 昼は山に隠れ、夜は家に帰りました。こうした生活は20日以上かかりました。おじが山に来て母親と相談しました。このままずっと山で生活するのは食料品もなくない子どもたちも生活できないので、難民区に逃げようといいました。私たちは〔セメント工場〕難民区に逃げ込みました。日本軍は中に入り込むことができませんでした。難民区に逃げ込んでもちゃんと泊まるところもなく、草を敷いてその上に寝ました。周りの人が私たちの様子を見て、いろんな話しをしました。昼間ここで生活するのも大変だから、夜家にこっそり帰って生活用品を持ってきた方がいいと勧められました。結婚したばかりで従兄弟が亡くなった従兄弟の嫁さんが毎晩のように家に帰って食料品とか布団などを持ってきました。食料品を持ってきたので、地面に穴を掘って火をおこして、お粥などの簡単な食事を作りました。3月位になるとそろそろ春になるので食料品もなくなるし、家に帰って何かつくらなければならないと母がいいました。家に帰って畑を耕して物をつくろうと思ったのですが、まだ日本軍が時々村にくるので、夜は畑仕事をし、昼間は山に逃げました。
 4月になると日本軍があまり村に来なくなりました。日本軍のちゃんとした駐屯地に泊まるようになったのです。日本軍は村人に草をその駐屯地に送るようにいいました。日本軍が保長(村長)に100キロの草を駐屯地に送るように強要しました。いい草だとそのまま受け取りますが、草がよくないと殴られました。母の送った草はあまりよくなかったので殴られました。母が草を負ぶって帰り、歩き方がおかしく、足が怪我したようなので、どうしたのかと聞くと母は日本軍に殴られたといいました。各家は100キロの草を送らなければならないという要求ですが、私の家ではどうしてもできません。母はこのままでは命が確保できなくなります。殴られて怪我をして生きていけませんと言いました。すると保長があなたの体調がよくないのでしばらく休んで、体調がよくなったら100キロを駐屯地に送らなければなりませんといいました。そのうち、母は怪我が良くなったので草を送りますという約束をしました。
 日本軍が1年ぐらいそこに駐屯したので、その間ずっと草を強要され、提供し続けました。
 中国人に対して日本軍が犯した罪は決して忘れてはいけません。苦難に満ちた歴史を忘れてはいけません。
 私は日本に来てこの話を紹介して聞いていただきましたが、もし私がここで話しをしなければ、皆さんは当時の事実を分からないでしょう。歴史を忘れてはいけません。そして歴史を知らない人もたくさんいますのでこの話をずっと続けていきたいと思います。特に若い人たちがたぶん余り歴史を知らない人が多いかと思いますが、ここで私が今日紹介させていただいたこの歴史的事実をぜひ覚えて、この歴史をくりかえさないように頑張っていただきたいと思います。中国政府は、今年の1213日を国の公式記念日、南京大虐殺記念日と定め、その日警報を鳴らして記念します。皆さんにもぜひこの苦難に満ちたこの日を覚えて欲しいと思います。
 平和が欲しい、戦争は欲しくない。ぜひ平和な生活が営まれますように。
 このような歴史を忘れないで、二度とこういうことにならないように皆さんにがんばってほしいと思います。
 私は字も知らないし、うまい話もできませんから、知っていることだけをお話ししました。