日中国交回復40周年と妄言
― 南京大虐殺はなかったという河村名古屋市長発言に思う ―
 
                    2012年2月27日
                       内 田 雅 敏  

 名古屋の河村たかし市長が同市と姉妹都市提携している中国、南京市からの訪問団に、「南京大虐殺はなかった」と語り、中国において大きな反発を受け、厳しく批判されている。長年にわたる日中友好の積み重ねを一気にぶち壊す妄言である。
 南京大虐殺がなかったという理由として河村市長は「事件直後、南京に行った自分の父親が中国人に優しく接せられた。大虐殺があったなら優しく接せられるはずがない。」と語っている。
 人口226万人の名古屋市のトップの歴史認識がこの程度だとは涙が出るほど悲しく、情けない。
 河村市長は言う。「目撃者はいない」と。南京に於ける日本軍の略奪、暴行、虐殺、の事実については辛うじて虐殺を免れた中国人「幸存者」の証言を始め、南京安全区国際委員会を結成して南京市民の安全を計ろうとしたマギー牧師(米国人)、ラーベ(独国人 ジーメンス南京支社長)らの各報告など、国際的にも様々な証言がある。
  今、これらの証言は措くとしても、日本側にも南京戦終了後、日本軍が捕虜の虐殺を組織的に行ったと見られる資料はたくさんある。例えば南京包囲戦の際、下関での退路を遮断し、南京占領後は市内の警備を担当して掃討作戦を遂行した第16師団の師団長・中島今朝吾陸軍中将は、1937年12月13日の陣中日記に以下のように記載している。
 一、斯クテ敗走スル敵ハ大部分第十六師団ノ作戦地境内ノ森林村落地帯ニ出テ又一方鎮江両塞ヨリ逃ゲ来ルモノアリテ到ル所ニ捕虜ヲ見到底其始末ニ堪ヘザル程ナリ
 一、大体捕虜ハセヌ方針ナレバ片端ヨリ之ヲ片付クルコトトナシタル共千五千一万ノ群集トナレバ之ガ武装ヲ解除スルコトスラ出来ズ唯彼等ガ全ク戦意ヲ失ヒゾロゾロツイテ来ルカラ安全ナルモノノ之ガ一旦掻〔騒〕擾セバ始末ニ困ルノデ
   部隊ヲトラックニテ増派シテ監視ト誘導ニ任ジ十三日夕ハトラックノ大活動ヲ要シタリ乍併(しかしながら)戦勝直後ノコトナレバ中々実行ハ敏速ニハ出来ズ 斯ル処置ハ当初ヨリ予想ダニセザリシ処ナレバ参謀部ハ大多忙ヲ極メタリ
一、後ニ至リテ知ル処ニ依リテ佐々木部隊丈ニテ処理セシモノ約一万五千、大〔太〕平門ニ於ケル守備ノ一中隊長ガ処理セシモノ約一三〇〇其仙鶴門附近ニ集結シタルモノ約七八千人アリ尚続々投降シ来ル
一、此七八千人之ヲ片付クルニハ相当大ナル壕ヲ要シ中々見当ラズ一案トシテハ百二百ニ分割シタル後適当ノケ〔カ〕処ニ誘キテ処理スル予定ナリ
(『増刊歴史と人物』「南京攻略戦中島第一六師団長日記」中央公論社 1984年12月)
 中島師団長が正直に記載しているように、日本軍は、「大体捕虜ハセヌ方針」で、捕捉した捕虜は「片端ヨリ之ヲ片付」けてしまった。12月13日の1日だけでも「後ニ至リテ知ル処ニ依」れば、2万5000人くらいの捕虜を「片付」けたのである。
 第16師団歩兵第38連隊副官であった児玉義雄氏は戦後になって「聯隊の第一線が、南京城1、2キロ近くまで近接して、彼我入り乱れて混戦していた頃、師団副官の声で、師団命令として『支那兵の降伏を受け入れるな。処置せよ』と電話で伝えられた。私は、これはとんでもないことだと、大きなショックを受けた。
  師団長・中島今朝吾将軍は豪快な将軍で好ましい御人柄と思っておりますが、この命令だけは何としても納得できないと思っております。
 参謀長以下参謀にも幾度か意見具申しましたが、採用するところとならず、その責任は私にもあると存じます。
 部隊としては実に驚き、困却しましたが命令やむを得ず、各大隊に下達しましたが、各大隊からは、その後何ひとつ報告はありませんでした。激戦の最中ですからご想像いただけるでしょう」(畝本正己「証言による〈南京戦史〉(5)」『偕行』1984年8月号)と語っている。
 また、独立攻城重砲兵第2大隊の砲兵中尉であった沢田正久氏も「俘虜の数は約一万(戦場のことですから、正確に数えておりませんが、約八千以上おったと記憶します)でしたが、早速、軍司令部に報告したところ、『直ちに銃殺せよ』と言ってきたので拒否しましたら、『では中山門まで連れて来い』と命令されました。『それも不可能』と断ったら、やっと、『歩兵四コ中隊を増援するから、一緒に中山門まで来い』ということになり、私も中山門近くまで同行しました」(前同)と証言している。
 当時同盟通信社上海支局長であった松本重治も1937年12月18日、中支那方面軍が南京で行った慰霊祭の終了直後、松井石根最高指揮官が参列者一堂に対し、「おまえたちは、せっかく皇威を輝かしたのに、一部の兵の暴行によって、皇威を墜してしまった。」「何たることを、おまえたちはしてくれたのか。皇軍としてあるまじきことではないか。今日より以後は、あくまで軍規を厳正に、絶対に無辜の民をしいたげてはならぬ。」と泣きながら叱責したのを目撃したという(『上海時代』中公新書 1975年刊)。
 南京大虐殺事件を知った昭和天皇の直宮は「これでは皇軍でなく《蝗軍》だ」と現地の軍幹部らを叱ったという(保阪正康『そして官僚は生き残った 内務省、陸軍省、海軍省解体』は参謀本部幕僚の陸軍大佐の「即ち、無辜の民衆に対する殺戮、同民族中華民国人に対する蔑視感、強姦、略奪等の結果は、畏れ多きことながら、或る高貴の方をして、皇軍を蝗軍と呼ばしめ奉るに至ったのである」という発言を紹介している)。
 日本の敗戦後、南京軍事法廷で南京事件が裁かれ、谷壽夫陸軍中将(熊本の第6師団長)らが死刑に処せられたが、中島今朝吾中将は1939年に予備役に編入され、敗戦直後の1945年10月病死していたため、起訴を免がれた。
 東京裁判でA級戦犯として絞首刑に処せられた武藤章陸軍中将は南京事件当時、中支那方面軍参謀副長であったが、彼も日本軍が残虐行為を犯したことを法廷内外で何度も認めている。例えば、国際検察局による取り調べに対して、「南京の場合は二大隊か三大隊が市中に入ることになって居りました。ところが全軍が入城してしまった結果、ついに南京略奪暴行事件となったのです。」と述べ、更に「支那でもフィリピンでも非常に多くの罪のない婦人子供が殺害され又は強姦せられたことを知って、貴殿は良心の苦しみを感じませぬでしたか」と問われ、「南京及びマニラの残虐行為のあと、自分は両件に於ける参謀の一幕僚でしたので、日本の軍隊教育に何か欠陥があると感じました。」と答えている(戸谷由麻『東京裁判 第二次大戦後の法と正義の追求』みすず書房 2008年8月刊)。なお判決では武藤は南京大虐殺事件については司令官の松井石根陸軍大将とは異なり、虐殺を止めさせることの出来る地位にいなかったとして、無罪とされ、スマトラとフィリピンにおける日本軍の広範な戦争犯罪について責任があるとされた。
 東京裁判では文官で唯一、広田弘毅が絞首刑に処せられた。近衛内閣の外務大臣として慎重論を唱えた陸軍参謀本部の反対をも押し切って、1938年1月16日のいわゆる近衛声明「爾後国民政府を対手(相手)とせず」を近衛首相に迫り、日中(侵略)戦争を果てしのない泥沼に引き込んだ責任を問われたのであるが、同時に、南京事件についても外務大臣として、在中国の出先機関から報告を受けながら、これを閣議に諮り、対処しなかったという閣僚としての不作為責任を問われたのであった。広田の直属の部下であり、南京事件当時、外務省東亜局長であった石射猪太郎は東京裁判で、事件について広田に報告したが、彼は陸軍省に警告した以外には何もできなかったと以下の様に証言している。
検察官  広田はこれらの残虐行為を阻止するために、更に何かの処置を取るかという事について、あなたと協議をしたことがありますか。
石射証人 協議は数回したと思います。
検察官  その時に広田はどういうことをすることを提案しました。
石射証人 陸軍の事務当局に、厳重に言ってくれという事を、たびたび言われました。
検察官  しかしそういうことを彼がしても、全然効果がなかったという事を我々は知っています。あなたは広田に対して、この問題を閣議に持ち出すことを提案しませんでしたか。
石射証人 この問題を閣議に持ち出すという事は、かつて、話したことがありません。何となれば私には閣議というものはそういう問題をデイスカッションするものであろうとは思われませんでしたから。
検察官  どうして閣議はそういうことを協議しないのでしょうか。
 石射は1938年1月6日の日記に「上海から来信、南京における我軍の暴状を詳報し来る。略奪、強姦、目もあてられぬ惨状とある。嗚呼これが皇軍か。日本国民民心の退廃の発露であろう。大きな社会問題だ。」 (伊藤隆・劉傑編『石射猪太郎日記』中央公論社) と記し、1月17日には「今朝の新聞は『国民政府を相手とせず』(前日の近衛声明)を皆礼讃して居る。哀れな言論機関だ。南京、杭州では引き続き日本軍が米国人の家屋に浸入して掠奪暴行をやるとして米大使より厳重抗議して来る。出先はまさに腐っている。人道の裁きは来ねばならぬ。」と記す(前同)。
 これらの事実は広田に対する絞首刑の当否とは全く別な問題として、南京事件については外務省の現地出先機関もその事実を把握していたことを物語っている。
 警察庁長官を経て、政治家となり、副総理を務めた後藤田正晴も事件当時陸軍軍人として台湾にいたが、南京では大変な事態が生じていると噂を聞いたと新聞のインタビューで答えている。このように日本側においてもこの種の証言は数多ある。
 1938年、中央公論3月号に発表された石川達三著『生きている兵隊』は南京攻略に至るまでの戦闘を兵隊らからの聞き取りによって書いたものであるが、そこには暴行、略奪、強姦をくり返す「皇軍」が描かれており、そのリアルさの故に発売禁止となった。
 被害者の数が中国側の言うように30万人かどうかは別として、さまざまな証拠、証言からすれば南京攻略後、10数万人の被害者が虐殺された事実は否定できない。なお東京裁判の判決では「南京が占領された後、最初の二、三日の間に少なくとも1万2000人以上の非戦闘員である、中国人男女子供が無差別に殺害され、占領後の最初の一ヶ月の間に約2万人の強姦事件が市内に発生した。また一般人になりすましている中国兵を掃蕩すると称して、兵役年齢にあった中国人男子2万人が集団的に殺害され、更には捕虜3万人以上が屠殺された。なお、南京から避難していた市民のうち5万7000人以上が日本軍に追いつかれて収容され、彼らは飢餓と拷問にあって、ついに多数の者が死亡し、生き残った者のうちの多くは機関銃と銃剣で殺された。」と認定し、被害者を約12万人としている。しかし、他方で、同判決は、「日本軍が占領してから最初の6週間に南京とその周辺で殺害された、一般人と捕虜の総数は、20万人以上であったことが示されている。」とも認定している。
 河村市長は「議論しよう」とも言う。前記のような事実に向き合わないで、一体何を議論しようというのか。事実に向き合う事を拒否し、日本の大衆の間に潜在的にある反中国感情を鋭く嗅ぎ付け、それに乗っかり、煽る。典型的なポピュリズム政治家だ。河村発言を支持すると表明した石原慎太郎都知事はその親玉みたいなものだ。民衆の不安、不満を巧みに吸い上げ、選挙で勝利をするや、「民意」を得たとし、それをあたかもテレビドラマ水戸黄門の印籠の様に掲げ、独裁を行おうとする、これが彼らの正体だ【注】。 
  昨今、中国の覇権主義的傾向には物申さねばならないことも多々ある。しかし、それとこれはとは全く別問題、中国が好きとか嫌いとかいうことではないのだ。反中国感情、それは閉塞した日本社会の不安感の裏返しでもある。
 私は自国の近・現代史を全て肯定することは勿論のこと、逆に全てを否定する立場にも与しない。どこの国の歴史も高揚の時と低迷の時代がある。自国の負の歴史に向き合うことは決して楽しいことではない。南京大虐殺のようなおぞましい事件についてはできれば忘れたい。かつて、ドイツ、ベルリン郊外のザクセンハウゼン強制収容所跡を訪れたとき、思わず、《このような施設を未来永劫に遺してゆかなければならないとは……ドイツ人も大変だな》とつぶやいたが、翻って、自国、日本のことを思い、ハッとさせられたことがある。《加害者は忘れても、被害者は忘れない》、加害者は被害者が被害を忘れるほど真摯に被害者に向き合わねばならない。どんなにつらい事実であっても、それに向き合い、将来の戒めとすることによって真の友好を築くことができる、「前事不忘 后事之師」(周恩来)なのだ。
 今年は1972年の田中角栄首相、周恩来首相による、日中共同声明、日中国交回復から40周年。同声明の前文において日本側は「過去において、日本国が戦争を通じて、中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省」し、両国は同6項において主権及び領土保全の相互尊重、相互不可侵、内政に対する相互不干渉、平等及び互恵並びに平和共存、国連憲章の原則を謳い、同7項において「両国のいずれも、アジア・太平洋地域において覇権を求めるべきではなく、このような覇権を確立しようとする他のいかなる国あるいは国の集団による試みにも反対する。」 と述べた。残念ながら、両国のその後の歩みは必ずしもこの精神を体現したものではなかった。今、改めて、日中共同声明に思いを馳せ、その精神に立ち返ろうではないか。
 
【追記1 妄言の戦後】
※ 1986年(中曽根内閣)、藤尾正行文部大臣「日韓併合は合意の上」と発言し、その撤回を拒み、更迭。中曽根首相が訪韓し、陳謝
※ 1988年(竹下内閣)、奥野誠亮国土庁長官「白色人種がアジアを植民地にしていた。(略)、誰が侵略者か。白色人種だ。何が日本が侵略国家か、軍国主義か」と発言し、その撤回を拒み更迭
※ 1994年(羽田内閣)5月、永野茂門法務大臣「大東亜戦争はアジア解放の戦い、南京事件はでっち上げだと思う」と発言し、辞任をさせられる。彼は陸軍士官学校出身、陸上自衛隊幕僚長を経て、参議院議員
※ 1994年8月(村山内閣)、 櫻井環境庁長官「日本も侵略しようとして戦ったのではない。アジアはそのおかげで植民地支配から脱した」と発言し、辞任させられる。
※ 1995年11月、江藤隆美総務庁長官「日韓併合、良いこともした」と発言し、辞任させられる
 等々、日本の戦後は歴史問題についての謝罪とそれに対する反発としての妄言の歴史である。ただ上記ケースではその発言についての批判が直ちに巻き起こり、彼らは辞任に追い込まれ、あるいは辞任を拒み更迭されている。その意味では日本社会にも、歴史問題について、まだ、それなりの復元力が存在した。ところが今回の河村発言については国外からの批判はともかく、国内的にはその批判の声が小さく、同氏は依然として、市長の座にある。日本社会が復元力を失ってしまったのか。これは妄言以上に深刻な問題である。
 なお、3月29日付『朝日新聞』によれば、今年度の検定に合格した高校歴史教科書すべてに南京虐殺(被害者の数については諸説ある)についての記述があるという。

【追記2】 3月14日付、『中日新聞』は河村市長がその発言の趣旨に付きこの問題についての「政府見解とほぼ同じ」と述べたと報じている。しかし河村市長の2月27日付「『いわゆる南京事件』を巡る一連の報道について」は「私の『いわゆる南京事件はなかったのではないか』という発言がメデア、報道により『南京大虐殺はなかったとする持論を展開』とのテロップになり、私の発言の趣旨が南京ではあたかも何もなかったと誤解され……」、と弁明しながら、しかし、結局は「30万人もの非武装の中国市民を日本軍が大虐殺したとされるいわゆる南京事件について、私は30万人もの非武装の中国市民を日本軍が大虐殺したことはないと思っており、『いわゆる南京事件はなかったのではないか』と申し上げたことは撤回しない。」となってしまっており、「1937年の旧日本軍による南京入城後、非戦闘員の殺害又は略奪行為等があったことは否定できないと考えている。」としている政府答弁書とも、相当距離がある。
 南京大虐殺の被害者には非武装の市民だけでなく多くの捕虜が含まれていたにもかかわらず、それを「非武装の中国市民」と限定してしまっているところにも河村市長のレトリックがある。河村市長は被害者30万人という中国側の公式見解をしきりに叩く。しかし問題なのは30万人という数字ではなく捕虜、非戦闘員らに対する虐殺があったかどうかという事である。本文で述べたように日本側の資料によってもこの虐殺の事実は否定できない。そこでこれを否定しようとする人々はまず「30万人」という数を攻撃し、「嘘だ!」と言うことによって、「中国人は嘘つきだ!」と言い、そしてその勢いでもって、「大虐殺」そのものも「嘘だ!」と言おうとしているように思える。

【追記3】 2012年3月21日付、『朝日新聞』夕刊「窓」は「中止された黙祷」と題して3月11日、サッカー中国スーパーリーグ開幕戦を迎えた杭州市で予定されていた黙祷が取りやめられたことを伝えている。リーグ初の日本人監督となった杭州緑城を率いる岡田武史・前日本代表監督の働きかけで準備が進められていたところ、河村発言がそれをぶち壊した。中国政府からの中止要請を聞かされた岡田監督は「なぜそんな発言をするのか、理解できない。次の世代に遺恨を残していいのか。」とやり場のない憤りを覚えたという。
 同じく3月26日付「窓」も「勘助の悲しみ」と題し、NHKドラマ「カーネーション」の或るシーン――戦争が終わって4半世紀後、病床にある母が二度目の招集で戦死した息子を回想し(あの子が最初の招集から魂の抜けたような状態で帰って来た時)、「あの子はやられてああなってしまったと思った。けど、間違いやった。あの子はやったんやな、あの子がやったんや。」と呟く――に触れ、「やられた」側と「やった」側の双方が抱え込む、苦しみや、悲しみを想像する力について語っている。いずれも心に沁みるコラムだ。しかし、このような見解が明快な社論としてなく、記者個人のコラムとして発信されるところに腰の引けた社論との帳尻合わせを感ずる。

【注】2012年3月22日、石原都知事は首都大学東京の卒業式の祝辞で、中国が侮蔑的な表現だとしている「シナ」という言い方にわざわざ言及し、「言っとくけど、諸君ね、中国のこと『シナ』と言わなきゃダメだよ」と発言し学生達に反中国を煽った(2012年3月22日『朝日新聞』)。