−「否定派のウソ」と「事実」−



 今、各地で「南京大虐殺はなかった」という人たちが「活発」に声高に叫んでいます。しかし、あったものをなかったということはできません。南京大虐殺否定派の主張のウソと「事実」を示してみます。[1、2]


否定派のウソ 1
 「戦後の東京裁判で連合国が日本軍の残虐・非道ぶりを示すためにでっち上げたものである」

「事実」
 1937年12月、南京は中華民国の首都であり、諸外国の公館も存在し、外国の報道機関も存在した。虐殺の報道は世界をかけめぐった。日本の外務省も軍も当時から知っていた。当時の外務省東亜局長石射猪太郎が回顧録で「掠奪、強姦、目も当てられぬ惨状」等と書いている。だいたい軍が知らないということはあり得ない。
1937年12月15日以降多くの欧米の特派員が南京の事態を世界中に打電している。とくにイギリスの「マンチェスター・ガーディアン」の中国特派員ティンバリーは1938年8月に「戦争とは何か・・・中国における日本軍の残虐行為」を出版し、日本語訳も中国語訳も出版されている。日本の外務省はこのティンバリーの上海発の電報を押収し、南京その他で30万人を下らない中国民間人が殺されたと述べていることをワシントンの日本大使館に情報として伝えている。戦後の東京裁判で、はじめて日本が知ったわけではない。
 そもそも日本政府はこの東京裁判の結果をサンフランシスコ条約で受け入れたのである。つまり日本政府は公式に承認したということである。


否定派のウソ 2
 「東京裁判の証拠資料は伝聞ばかりで、直接証拠は何もない。マギー牧師の証言は虐殺をみたのは1件だけだと言っている」

「事実」
 マギー牧師はけが人や強姦の被害者の救済をしていた。殺害現場に立ち会わなかったのは当然。いわゆるマギーフィルムが殺害現場そのものの映像がないのは当然のことである。もし殺害現場を撮影していたら、日本軍はマギー牧師をそのままにしておかなかっただろう。むしろたくさんの被害者の映像記録を残している。このことの方が重要な証拠となっている。
 東京裁判でも11人の証人が証言し、南京安全区文書・南京裁判所検案書・慈善団体の埋葬記録・ラーベの書簡・アメリカ大使館の文書・在中国ドイツ外交当局の報告書などが東京裁判で採用された。


否定派のウソ 3
   「当時、国際的な批判はこの「事件」についてはなかった」

「事実」
 1937年9月から10月にかけての国際連盟総会は日本軍の中国侵略そのものを非難している。当時日本はすでに国際連盟を脱退し(1931年の柳条湖の事件をめぐっての国際連盟決議を不服として)ていて、国際的な孤立状態にあった。1937年9月というと南京陥落前であったが、南京爆撃を国際連盟の決議は非難している。つまり日本軍の中国侵略そのものを非難しているのである。南京大虐殺というひとつの事件に対する非難がないからと言って国際批判がないというのは当たらない。
ドイツ人ラーベは南京安全区国際委員長として日本軍が占領した南京に止まり、市民とりわけ女性を日本軍の暴虐から守るために奮闘した。ラーベは1938年2月、帰国命令を受けベルリンに戻った。ラーベはナチス党員であったが、南京での日本軍の残虐行為をヒトラーはじめドイツ政府の指導者に知らせた。そしてヒトラーあての「南京事件・ラーベ報告書」を提出した。


否定派のウソ 4
 「蒋介石も毛沢東も南京のことは問題にしていない」

「事実」
 1938年7月(南京陥落後)<日中戦争1周年>に蒋介石は「日本国民に告げる書」で日本軍の放火・略奪・虐殺を非難している。「南京」という名指しはないが、この時点で中国大陸における大規模で集団的な略奪・虐殺は南京以外に考えられない。蒋介石はこのことを念頭に書いている。次のように書かれている「・・わが婦女同胞に対する暴行がある。10歳前後の少女から5,60歳の老女までひとたび毒手にあえば、一族すべて逃れがたい。ある場合は数人で次々に辱め、被害者は逃げる間もなく呻吟して命を落とし、ある場合は母と娘、妹と兄嫁など数十人の女性を裸にして一同に並べ強姦してから惨殺した。・・・このような軍隊は日本の恥であるだけでなく、人類に汚点をとどめるものである・・・」
毛沢東は1938年1月週刊誌「群衆」で「南京大虐殺は人類に対する犯罪」と述べている。その内容は次の通りである。「・・・9・18に敵軍がわが東北・華北ではたらいた残虐な行為は、すでに世のともに知るところとなっている。しかし、南京・上海沿線、とりわけ南京市の大虐殺は、人類有史以来空前未嘗有の血なまぐさい残虐な獣行記録をつくることとなった。これは中国の全民族に対する宣戦にとどまらず、全人類に対する宣戦でもある。敵の凶悪な残忍さは、人道と正義を血で洗い、全世界・全人類の憤怒と憎悪をよびおこした。・・・」


否定派のウソ 5
 「当時の南京の人口は20万人しかなかった。だから30万人も殺せるはずがない」

「事実」
 否定派が20万人というのは南京安全区委員会が1937年12月17日付け文書で「もし市内の日本兵のあいだで直ちに秩序が回復されないならば、20万の中国市民の多数に餓死者がでることはさけられないでしょう」と書いてあることによる。しかし、これは南京陥落後の安全区内に非難収容された人にかぎった数であり、南京大虐殺以前の南京市の人口ではない。  南京市は「城区」(市部)と「近郊区」(県部)にわかれる。城区に限っても1937年11月23日(日本軍制圧直前)に南京市政府が作った文書には人口約50万人となっている。さらにこの後、避難民の流入もあり、日本軍に包囲された中国軍の兵士も15万人いた。 戦前、城区の人口は約100万人、近郊区の人口は約130万人という数字がでている。 そもそも30万人殺したか1万人殺したか数が問題なのではない。日本軍の残虐行為があったかなかったかの問題なのである。南京大虐殺の犠牲になった市民・農民・兵士は一人ひとりの個人であり、名前をもった一度だけの人生を生きていた人たちである。個人の犠牲を考えれば、一万人、四万人、二十万人、三十万人という数の問題はあまり意味をもたない。


否定派のウソ 6
 「南京虐殺の目撃者はいない」

「事実」
 全体像をみたものなど誰もいない。しかし1937年12月から翌年はじめにかけて南京城区・郊外で強姦、虐殺、略奪がおこったことは確かである。自分のまわりにおこったできごとを「目撃」して生存している人はたくさんいる。中国では幸存者といい、その目撃証言を大事にし記録している。日本政府を訴えている李秀英さんは日本軍の兵士に強姦されそうになり、全身にたくさんの傷を負った証言をおこなっている。この李さんを「ニセモノ」よばわりする人物が書物をあらわしているが、これも李さんは名誉毀損で提訴している。


否定派のウソ 7
 「李秀英さんの証言を読むと食い違いがある。実際に体験したことではない」

「事実」
 南京虐殺を否定する人は李さんの証言を直接聞いている人はほとんどいない。ニセモノだという人たちも伝聞で書いている。60年以上前のことを前後関係も数字もきちんと覚えていることの方が不思議である。何ケ所刺されたかなど「刺された人」が数えているはずもない。全体として李さんが体験したことに真実をみいだすべきである。マギーフィルムにも李さんが病院で治療している映像が収録されている。ことさら証言の細部にくいちがうことがあるからと言って「南京大虐殺」そのものをなかったことにしようという「よこしまな」意図が働いているとしか言いようがない。


否定派のウソ 8
 「百人斬り」というのは捏造記事である」

「事実」
 百人斬ったかどうかが問題なのではない。戦闘で斬ったというのは確かに「ウソ」であるが、それよりひどいことをした。捕虜を斬ったのである。戦闘行為ではなく、降伏してきた無抵抗の中国兵を斬ったというのが事実である。これ自体とんでもないことである。もちろん南京虐殺を否定したことにはまったくならない。


否定派のウソ 9
 「遺体埋葬記録は信用できない。たくさんの人は死んでいない」

「事実」
 紅卍会という宗教団体が埋葬した記録をつくっているが、1937年12月から翌年3月にかけて南京市内で4万体以上の死体を埋葬した記録がある。(正確には40371体)この記録は他のいくつかの記録とも符号していて、信憑性の高いものである。また崇善堂という慈善団体も埋葬の行動をしており、これは11万2266体と記録している。その大半は1938年4月に南京城外で10万5千体を埋葬したとなっている。その時期までに城内の死体埋葬はほぼ終了していた。崇善堂は数千の死体埋葬をすませていた。4月になると気温も上昇し、死体の腐敗もすすむという状況になったので、それまで死体に軽く土をかけただけのものなどが城外に放置されていた。
 これ以外に日本軍が揚子江に流してしまった遺体などは記録されていないのだから、実態は当然もっと多いことになる。


否定派のウソ 10
 「とらえた捕虜が暴動をおこしたので、仕方なく発砲した」

「事実」
 1937年12月13日の戦闘で1万8千人の中国兵が無抵抗で捕虜となった。16日に捕虜収容所内でボヤが発生したが、捕虜の逃亡も銃撃もなかった。この夜、軍命令で揚子江岸の魚雷営で2千人から3千人が試験的に虐殺され、死体はその夜のうちに揚子江に流された。残りの捕虜を翌17日に上元門から約2キロ下流の大湾子で虐殺した。この日の虐殺は大量だったため、薄暗くなるころからはじまった虐殺が18日の明け方まで続いた。そして、死体処理には18・19日の2日間かかった。大量の死体は揚子江に流された。[3]


否定派のウソ 11
 「日本軍が殺したのは、民間人のふりをした「便衣兵」であり、投降兵である。正当な戦闘行為である」

「事実」
 南京陥落前に主要な中国軍部隊は蒋介石とともに南京を離れている。南京陥落後に南京に残された中国兵は戦意を喪失しており、ほとんど日本軍への攻撃はなかった。南京陥落直後の南京で撃墜された日本軍機の搭乗員の遺体捜索活動に従事した奥宮正武の記述である。「便衣兵あるいは便衣隊といわれていた中国人は、昭和7年の上海事変の際はもとより、今回の支那事変の初期にもかなり積極的に日本軍と戦っていた。が、南京陥落直後はそうとはいえなかった。わたしの知る限り、彼らのほとんどは戦意を完全に失って、ただ生きるために軍服を脱ぎ、平服に着替えていた。したがって彼らを通常いわれているゲリラと同一視することは適当とは思われない。」(「私のみた南京事件」PHP研究所1977年)
 南京占領後日本軍は「便衣兵の疑いあり」というだけで次々と虐殺した。また投降兵についても軍事裁判などの手続きをせずにどんどん殺害していった。


否定派のウソ 12
 「南京虐殺は日本軍の仕業にみせかけるために中国軍の反日攪乱工作隊がやったことだ」

「事実」
 南京に潜伏した中国軍の兵士がいたのは確かだが、用心深く潜伏していることが重要であって、攪乱するなどという状況になかったことは明白である。こういうこしを発想すること自体「妄想」のたぐいである。
たしかに南京を退却する時の中国軍が脱出・避難のために必要な物資を略奪したり、不法行為を働いた事実もある。しかし、それをはるかにしのぐ進駐してきた日本軍の蛮行があったのである。「ニューヨークタイムズ」のダーディン記者の報告である。「南京に知勇国軍最後の崩壊が訪れた時、人々の間の安堵の気持ちは非常に大きく、また南京市政府及び防衛司令部が瓦解した時の印象はよくなかったので、人々は喜んで日本軍を迎えようとしていた。しかし、日本軍の蛮行がはじまると、この安堵と歓迎の気持ちはたちまち恐怖へと変わっていった。日本への憎しみをいっそう深く人々の心に植え付けた。」(「ニューヨークタイムズ」1938/1/9)


否定派のウソ 13
 「南京大虐殺の写真はニセモノばかりである」

「事実」
 日本の軍隊に従軍して写真をとっていた従軍カメラマンはたくさんいた。南京戦では200名をこす新聞記者やカメラマンがいた。しかし、撮影も報道もしていない。厳しい陸軍の検閲があったからである。「左に列挙するものは掲載を許可せず」といい、・・・我が軍に不利なる記事写真・・・というのである。これでは「我が軍に有利な写真しか」載らない。南京安全委員のマッカラムは日記に書いている。「1938年1月8日、難民キャンプの入口に新聞記者がやってきて、ケーキ・りんごを配り、わずかな硬貨を手渡して、この場面を映画撮影していた。こうしている間にも、かなりの数の兵士が裏の塀をよじのぼり、構内に侵入して10名ほどの婦人を強姦したが、こちらの写真は一枚も撮らなかった。」
しかし、平站自動車第17中隊の写真班の村瀬守保氏は輸送部隊であったために比較的自由に写真を撮り、検閲もうけなかった。戦後「一兵士が写した戦場の記録」という写真集をだしている。この中には南京大虐殺現場の生々しい写真が何枚か収録されている。「虐殺された後、薪を積んで油をかけられて焼かれた死体。ほとんどが民間人でした」のキャプションがついたものがある。

参考文献
[1] 南京事件調査研究会編、「南京虐殺13のウソ」大月書店、1999年
[2] 笠原十九司、「南京事件」、岩波新書、1997年
[3]小野賢二、本多勝一、藤原彰編、「行軍兵士たちが記録した南京大虐殺」、大月書店、1997年

                             (大谷 猛夫