梶村太一郎さんを囲みドイツの戦後補償を聞く集い
(2010年7月17日 総評会館)
梶村太一郎
さっき福田さんの話し(ドイツでも2000年の7月に強制労働補償財団の動きが本格的に始まるという、歩みが出てきて、日本では花岡和解をきっかけにしてドイツを後から追っかけていく…)にあったように、冷戦終結後20年間というのは、日本とドイツの社会というのはまったく違った変化が起こっています。日本では当初いわれたのは「失われた10年」、今は「失われた20年」と言われています。もっとこれからさき失われた時間が、時代が続くんじゃないかという閉塞状態があります。一方ドイツでは、この20年間というのは、私はベルリンのど真ん中に住んでいますから余計感じるのかも知れませんが、ものすごく急速に時間が変わるし、社会も変わってきました。
日本に帰ってきて実感として思うのは、度し難いような停滞感と閉塞感というのがあるということです。これはいわゆる先進国といわれるG7の諸国の中でも日本だけの特有の現象です。わたしは今いる首都大学、昔の都立大学ですが、私は哲学科で教えていますので学生の数も少ないし客観的なことはいえないかも知れませんが、たまたま、この間に他の大学、国立大学、私立大学で、三度ほど話しをしたことがあるのですが、そこでも若い学生達の閉塞感というのはものすごいものがあります。これはもう特殊な状態になっているというのは、おそらく皆さんも感じているでしょうし、実際そうなんです。
本当に困ったことになりつつある。というのは、特に若者に対して呼びかける力をもっていない、若者に対して指針を、彼等の未来について明確なヴィジョンを政治家はもちろん社会も与えていけないという状態は、大変困ったことだと思います。
経済分析だとかでいうと、一方で皆さんご存じのようにいわゆる経済のグローバル化はものすごい勢いで進んでいます。これは冷戦終了後顕著になってきて、特にアメリカのブッシュ政権の下で新自由主義的な経済政策の下でグローバル化がものすごく進んで、この前の経済危機でも、世界を否が応でも巻き込まざるをえない、日本もそれに巻き込まれてきている。
ところで、これまで私は分からない言葉があって「日本のガラパゴス化」というのは何のことだろうかと思っていたのですが、私は今度帰ってきてなるほどと思ったのですが、これはどうも話しを聞いてみると携帯電話関連の用語から始まっているらしい。
日本の携帯電話のシステムが世界の中の独自なもので外に通用しないということで「ガラパゴス化」というらしい。考えてみると、日本はいろんな面でガラパゴス化していると思う。じっと様子を見ていると、一方で経済、情報のグローバル化はものすごい勢いで進んでいる。例えば、私はベルリンにいる時は日本の様子はインターネットに頼ってインターネットで詳しく見るんですが、日本に帰ってきてみると、日本の新聞はほとんど読まない。読んでもあまり役にたたない。読まなくても実際住んでいるから様子は分かる。朝飯食って珈琲を飲みながらラジオを聞いてればそれで十分分かる。
そこで気づいたのは、日本は経済及び情報のグローバル化のなかで、それに反比例して、ますますガラパゴス化しているということが間違いない。それはなぜだろうと、今ちょうど私は考え始めたのですが、今日の話しの根幹になるのですが、補償問題において、先の戦争、あるいはこの間の近代史に対する歴史認識の問題、歴史認識そのものが日本は「ガラパゴス化」している。これをはっきり私は断言できる。そのことを前提にして皆さんにこれからお話をしていきたい。
実は4月に帰ってきたものだから、これは良い機会だと思って、先ほどの福田さんのお話にあった4月17日に大館の花岡平和記念館の開館式に参加しまして、週間金曜日に短いけれどその報告を書いた。
その時も思ったしそれからずっと考えてみると、花岡の記念館というのは、やっと加害の現場に、初めて、ある意味で行政も援助はしなかったけれども容認したようなかたちで、市民が主体になって「加害の記念館」が作られた。これは日本にとっては画期的なことだと思います。
その後、去年の選挙で政権交代があったものだから、そろそろ日本の政治家達も、民主党、社会民主党も、政権与党になったのだから、戦後補償問題に正面から取り組んでくれるのではないかと希望を持ってきた。花岡から帰って、ちょうど民主党の中に、戦後補償問題議員連というのができて、2,30人議員の名前が並んでいるのでこれは良い、そろそろ潮時だと思って、議員たちに「まずドイツに視察旅行したらどうか」という提案をしました。補償問題の解決をやるには、ドイツの過去に対する取り組みというのは現場に行かなければ分かりませんよ。私はそこにいくつかの資料をお渡ししましたが、私の渡した資料を読まれるのもいいが、現場に行かなければ実感として分かりませんよと言った
(略)
最低限これからみなさんに述べるような歴史の現場に行って、これから私が述べるような場所に行って、ドイツと日本の歴史認識の落差、これは格差というよりも落差です、もう完全に違うから。落差を現場で実感して「愕然として」帰ってきたらこれは成果です。それ以外だったら「これは税金の無駄遣いだ」とわたしは叱りつけてやろうと思っているのです。
戦後補償問題に取り組んできた日本の皆さん方はドイツやポーランドなどの国々を訪ねられた方も多いでしょうが、さっき私が話したように、この20年間で、ヨーロッパは冷戦終結後ものすごい勢いで変わっている。急速に変わっています。東西冷戦でヨーロッパは分断されてきたが、社会主義体制が崩壊し、通貨も統一する、ヨーロッパ同盟が出来ていく過程というのはものすごい社会変化です。
みなさんご存じのように冷戦というのは、第二次世界大戦の一つの結果ですよね。その第二次大戦を象徴する冷戦体制が終わって、では、第二次大戦の戦後処理は終わったのかというとそれは大きな大間違いです。
例えば、ドイツ一国をとってみてもドイツの東西統一は大国家的プロジェクトです。まだドイツ人の意識から見れば、戦後処理なんです。現実にまだ続いているのです。
経済的な意味では、東ドイツの経済は崩壊しましたから、東の援助をしていかなくてはならない。それで20年前に「連帯税」というのを作った。所得に応じて、これは東の人も所得の多い人は払わなければならない。私も払っている。外国人でも払います。これが終わるのは2019年です。あと10年続く。ということは今でもドイツでは戦後処理をやっている。経済面でも。
今日本の大学で話しをしていると、大学生がちょうど壁が崩壊して、冷戦が終結したときに生まれている。わたしはいつも大学で、ドイツの学生は未だに第二次大戦の戦後処理で税金を払っているというとびっくりする。日本の今の若者からすると第二次大戦の戦後処理というものはとっくの昔にお父さんの時代に終わっているはずだと考えていて、私達はその恩恵を受けるだけという考えですが、ドイツはそうではない。そういったのがドイツの現状なのです。
それから、日本でよく話されるのが戦後40年の時1985年のワイツゼッカー大統領の演説ですよね。日本人のドイツに対する見方というのは、どうも日本の戦後あのワイツゼッカー演説で止まってしまっている。今年戦後65年ですから、あれから25年経っているのだけれど、日本はついていけない。メディアも報道しないからわからない。これが日本のガラパゴス化の一つの表れなのです。
話しを具体的にしまして、中国人強制連行を考える会にしても、花岡事件の提訴の前に新美弁護士と田中宏先生と朝日新聞のある記者が1992年位にベルリンを訪ねてきて、私が通訳として付いていって、ドイツの戦後補償問題についての取り組みについて調査したことがある。その時訪ねた人の一人がユダヤ人協会の会長のガリンスキーさんです。
その時のことはその当時小さい記事ですが朝日新聞に増子記者が書きました。
彼はその話しをした2ヶ月か3ヶ月後に突然亡くなった。大変なお歳でした。
彼は家族が全部アウシュビッツで殺されて唯一彼一人が生還した。ほとんどのユダヤ人というのは生き延びていても、こんなひどいドイツに居られないといってほとんど国外に出て行って、わずかのユダヤ人だけがドイツに踏みとどまったのです。
その人達のなかでガリンスキーさん達は、ドイツにおけるユダヤ人たちの生活を再建するための努力をずっと続けてきました。そして例の補償要求などもずっとドイツ政府を相手に続けてきた。1992年段階では対ユダヤ人に対しては、もとドイツに居住していたユダヤ人に対する補償というのはかなりの金額、回数で実現されてきました。それは国だけではなく、各企業に対する要求もかなり実現されてきました。
花岡事件も鹿島建設という企業があり、その裏にもともとの計画首謀者である日本政府というのがあるのですが、そのことについて一体どういうアイデンティティで対応するべきなのか、裁判をするのであれば裁判をすべきか聞いたのです。その時ガリンスキーさんは、まず、企業が残っていれば企業に対して補償要求する、もし企業が無くなっていれば、その場合は国に対して補償要求する、いずれも国家は最終的に責任を問われることになる、ということを簡単明瞭に述べられました。
花岡事件に関していうと、みなさんご存じの被害者と代理人と鹿島建設が1990年7月に共同発表をやって、そこで初めて企業が事実を認めて、謝罪し、解決をはかるとした。それは、一枚の紙だけれど、当時の日本にとっては画期的なことだった。日本の戦後補償問題において歴史的なものです。ところが、鹿島建設となんとか法廷外で解決しようとしたところがらちが明かない。結局これは提訴を視野にいれなければいけないなというところでドイツの体験を学びに来て、アメリカにおける日系人の体験を学んできた。
こうしたことが頭にあって、1995年6月28日に提訴をしました。ちょうど花岡事件から50年目の6・30を意識していたわけです。
そこから中国人の強制労働に関する裁判が始まり、今15件の裁判になりますが、法廷では敗北が続きました。例外的に西松安野の高裁勝利はありますが、敗北が続き、最終的には例の2007年4月27日の最高裁判決の内容ということになってしまいました。
実は、ドイツでもこういう状態というのは、私も後からしまったと思ったのですが、冷戦終結前からずっと続いてきた。ドイツは東西に分断されていたものだから、東側、東欧諸国の人達はなかなか補償要求の訴えをおこせなかったんですが、西側の被害国の人達は強制労働に関する損害賠償請求というのは、大小かねて何回も行われた。でも全部負けた。あまりに重大な場合は大企業は涙金を出した。この事情は日本では報道されていなかったのでしまったと思った。
ところが日本と同じように、ガリンスキーさんから話しを聞いている前後、壁が崩壊したものだから状況が変わった。例えば、西ドイツは分断国家で韓国のような反共国家でした。ドイツ国防軍の東部戦線でのドイツ戦争犯罪は、歴史家達はよく研究して一定程度のことはもちろん知っていましたが、展示会などというものは出来なかった。それは利敵行為になるから出来ない。それが89年までの現実なのです。
ところが壁が崩壊して、とたんにゲシュタポの戦争犯罪、焦土作戦の実態を明らかにすることができるようになった。それと同時に日本の近隣諸国の被害者と同じように、統一ドイツに対する戦後補償要求が旧社会主義圏、東欧諸国からも起こってきた。それから、強制連行強制労働の問題が出てくる。これはユダヤ人だけではなく東欧諸国の人達が多かった。
強制連行強制労働に関する研究がドイツで本格的に始まったのは、戦後二世代目の研究者からです。ウーリッヒ・ヘルベルトという若い研究者が、「ナチス時代の戦時経済というのは強制労働、外国人の労働力に頼っていたか」という分厚い博士論文をまとめた。ドイツの博士論文というのは本格的です。それが出版されたのが85年です。そうした研究をもとにして、これが史実だ、ということで東欧諸国から、それまで洩れていた人達から補償要求運動の裏付けができ、90年代に提訴が続いた。
彼らは推定で1500万人位いるといわれている。中にはユダヤ人もいるけどポーランド人、ウクライナ人、ロシア人等々東欧諸国の人達の賠償請求ですが、これが90年代では裁判では日本と同じように全部負けてしまう。当時のドイツの国内法ではこれは認めることができない。
ちょうど今の日本の状態といっしょです。これはほっておけない、時間がどんどん経って当事者達が亡くなってしまう。これはやらなければならないということで、戦後初めて緑の党が、新しい立法措置でやらなければならないと提案した。これに関連して、97年の南京集会に日本に呼ばれて話しをしたときに、後から記録を読んでみると、私はおもしろいことを言っている。「98年にドイツで総選挙がある。ひょっとすると社会民主党と緑の党の政権獲得があるかも知れない。そうしたら残された強制労働の問題に立法措置をして戦後補償にけりを付けると思いますよ」といった。そうしたら、質問がでて、「政権交代したらどうして可能なのですかと問うから、それは難しい質問だから、簡単明瞭に答えるが、私のような人間が首相になり大臣になるからです」と答えたら、会場がどっと笑った。しかし実際にそうなりましたよ。
98年に政権交代があって、連立政権の連立協定、ドイツの連立協定は、日本のマニュフェストの目次だけのようなものではなくて、詳細な徹底的に党派間で詰めた膨大なものですが、その中にきちんと取り上げられた。
総選挙が終わって、新しい連立が出来るという時に、後の首相になるシュレーダーのところに現れたのが、ダイムラーベンツ当時はダイムラークライスラーの取締役です。彼は「この問題はもうほっておけない、この問題を解決しましょう」と言ってきた。正式な話しではなく個人的な立ち話だという話しもありますが。
そこで連立協定の条文のなかにちゃんと「新しい法律を作る」とちゃんと書いてある。
首相は特別に自分のイニシアティブで、野党に転落した自由民主党の経済界の大物政治家を交渉相手に立てて、アメリカとほかの東欧諸国と交渉に入った。ものすごい多国間国際交渉でした。
非常に興味深いことに、片方では、花岡の和解勧告が出てその交渉をしているときに、ドイツでもパラレルでこの交渉が行われていたのです。花岡のことは私は書く立場にないが、ドイツの補償交渉のことは週間金曜日にこまかく書いてあります。そうしてやっと2000年の7月にやっと最終的な結論が出て、立法ができた。
当初は何人位生きているかやってみないと分からないところがあった。しかも1999年の正月に首相とダイムラーベンツの取締役が合同記者会見をやった。首相自らが記者会見をして決意表明を述べた。記者会見のその日に、生存していた当事者が補償を得ることができた。それまでに亡くなった人は空手形です。
結局、2000年に立法が出来て、支払いが始まったのですが、結果として2007年までに156万何千人の支払いが終了した。それでも、おそらく全被害者の10%前後がいいといころではないでしょうか。
ところで、補償の支払いをしている途中でそれまで分かってなかったような事実が次々と明らかになった。
例えばナチスは徹底した外国人の奴隷国家だったということですが、戦争が逼迫してくると、日本と同じように、男達は皆戦場に出ています。女性達も勤労動員でいろんなところに出て働かされる。そうすると誰が、幼児の面倒を見たり、煮炊きをやるかということになる。
そこで何をしたかというと、ウクライナ等から若い女の子を連れてきた。言うことを聞かないと、強制収容所に入れるぞと脅して15,6歳の若い女の子をドイツに連れてきてお手伝いをさせた。それをドイツ人は忘れていた。しかし、一旦補償支払いが始まり、ウクライナでも調べてみると、「乳母をしていました」「私も行ってました」といっぱい出てきた。彼女たちにも補償した。
私の見方からすると、ドイツは最後の瞬間に、やっと生き残った10%ほどの強制労働の被害者に、涙金ではあるけれども、ぎりぎりのところで、最後のチャンスを生かしたということです。
もうひとつ大きな政治の枠組みをいいますと、実は、これは日本の戦後とまったく違うところなのですが、ドイツ人の戦後処理と言うのは日本からは信じられないような苦労をしています。これだけははっきりしています。ひとつは国家が分断されたということです。本来ならば、日本だって侵略国として分断されたかもしれない。朝鮮半島の人から見ればそれが当たり前だったかもしれない。しかしその冷戦の分断が朝鮮半島に行ってしまって、日本は片面講和でアメリカの軍事力の核の傘の下に入って、のうのうと経済復興をやった。けれども、ところがドイツはそうじゃない。
ドイツと言うのは戦後、平和条約とか講和条約とか一切ない。分断国家だからできなかった。だからドイツ問題と言うのはずっと棚上げされて冷戦が続く限り続いた。いわゆる、1990年のドイツ統一に対する、モスクワで調印された4+2条約というのがあります。ドイツ問題最終解決条約というのが正式な名前だけれども、それが、第二次世界後のドイツの戦後処理の国際的な枠組みでの最初で最後の国際条約です。そこには、講和という言葉はひとつも書いていない。それが1990年です。
みなさん、ベルサイユ条約のことを知っているでしょう。ドイツは、第一次世界大戦のあとのベルサイユ条約で、ものすごい賠償をさせられた。それがナチスがでてきた原因になったという、悪名高いベルサイユ条約ですが、この賠償というのは、ナチスが政権をとっても払ってない。20年代はなんとかかんとか払ったけど、それ以後は払ってなくって、これが戦後にも滞納していた。ドイツはなんと戦後になって延々と少しずつ払ってきて、たしか1960年代に払い終えている。ドイツはベルサイユ条約の賠償金をちゃんと最後まで払っているのです。(滞納分の利息支払いを終えたのは2010年10月)。
話はもどるけど、1990年のドイツ問題の最終解決条約、4+2条約で、ドイツ問題は最終的に国際的には解決しましたけど、アメリカは日本に対してはサンフランシスコ講和条約で賠償を放棄しましたね。中国も日中国交回復で一応、賠償を放棄しました。では、アメリカはドイツに対しては、国家賠償請求を放棄したかというと放棄していなかった。4+2条約でも放棄しなかった。どうしてなのか。2000年の強制連行の補償立法、それに付随する国際協定で、やっとアメリカはその賠償請求を放棄した。日付は2000年の7月30日だったか、8月2日だったかな。要するにドイツの議会で特別立法、強制労働の補償特別立法が決議された日付をもって、アメリカは初めてドイツに対して最終的な戦時賠償請求を放棄しました。私はその時現場にいて、交渉とかを見ていたのですが、ドイツ語と英語で出てくる書類を、集まっている何百人という世界中の新聞記者やメディアの人達とつかみ合うようにけんかしながら、読みました。私は、補償に関することはだいたい内容を把握していたんだけれど、このことは予想していなかった。
そこでアメリカはドイツに対して、戦時賠償を放棄するというたった一枚の短い紙を読んで、ドイツもやっと国際社会の一員となったという感じがすごくしました。当時の新聞は大きく報道しているわけですが、どの新聞もそのことを書いているけれども、それを見出しに使ったところはひとつもないと思います。いや、ひょっとしたら書いているかもしれませんけど。そういう歴史なんです。そこから始まって2000年で、やっとドイツは、法的にも強制労働に対する補償をして、大きな枠組みで国際的な一員となったわけです。
さて、ここでまた話を、がらっと変えます。市民にはどうしたか、具体的にはドイツ人市民に対する補償はどういうふうにしたのか。
日本では、こないだシベリア抑留の捕虜に対する補償の問題が、やっと立法化されましたが、あれはひどいね。生き残っている人しかもらえないんでしょ。最大で130万円から150万円みたいな補償がやっと日本で出来ましたけれども、たとえばね、シベリア抑留されたのは日本人は、民間人も含まれていると思うけれども60万かそこらですよね。ところが、ドイツは、ソ連と戦争やっていましたから、捕虜になって強制労働させられた人が240万人いる。日本とはちょっと法的な関係が違うんですよ。シベリア抑留と言うのは、国際法上でもいろいろ問題です。ドイツの場合は明らかに戦争をして、捕虜になった。でもこの人たちは、アデナウアーという西ドイツの首相がソ連と交渉して、日本もそうですけど、最終的には、だいたい56年までに生き延びた人は全部帰ってきた。彼らにも、ドイツは、帰ってきた早々からはじって、約10年くらいかかったらしいけれども、捕虜にたいしてもちゃんと補償しています。そうでないと、彼ら自身は、当時の貧しかった西ドイツ社会で生きていけなかった。それよりも何よりも、ドイツは分断されたこともあるけど、多くの領土を失っているでしょ。東プロイセンご存じでしょう。ソ連とポーランド領になったところ。それから、シュレジア地方(シュレジェン)という、今ポーランド領になっているところがあります。東プロイセンというのは、大体11世紀か12世紀にドイツ人が移住して出来た古いドイツ領です。シュレジア地方というのは、フリードリッヒ大王が強い時、18世紀のなかごろに、オーストリアとの争奪戦で領土にした。ドイツは、戦後これらを全部失います。その他にもロシアのボルガ地方、これはエカテリーナというロシアの女帝が、この人はドイツの貴族で、結婚してロシアへ行きました。その時、ドイツ人を連れていって、ロシアの一番肥沃なボルガ地域にドイツ人がずっと住んでいた。そういう人たちは、スターリン時代あるいは戦争が始まるとすぐ、シベリアに送られた。そこから生き延びた人たちも戦後にドイツに帰ってくる。ドイツ軍が撤退を始めたころ、どんどんその地域の人たちも難民になって、引き上げてくるというか、難民になってドイツに帰ってきます。これがだいだい、1400万人いて、そのうち逃亡の段階で最低200万人は死んでいます。特に1945年の冬は寒かったですから、冬になって戦争が進行しましたからね。いずれにしても1200万人位がドイツに帰ってきました。
日本はどうですか。日本は、戦後になって、海外から引き揚げてきた人、何万人くらいいるかご存じですか。皆さんのなかにも親御さんとか、あるいは引揚者の方もいらっしゃるかもしれません。200万という人も、600万と言う人もいますね。みなさんもそういうところから知らない。これは驚くべきことです。いわゆる満州からの引揚者とか、いろいろありますが、私の知っている限りでは600万と聞いています。でも、これは軍人もいれた数です。民間人はそのなかで、おそらく200万〜300万はいたんじゃないかと言われています。こういうことが何で忘れられているかというと、補償が一切ないからです。(引揚者に関しては、在外財産補償問題という形で、少しは出されていると思いますが)ドイツは、これらの難民たちに対しても補償をしています。少なくても西ドイツはしています。
それからもうひとつ、東京大空襲について、空襲の被害補償要求がでています。同じように戦災に遭ったのに、軍人の遺族だけに補償して、同じように空襲で死んだ人はなにも補償がない。
ドイツは戦後からちゃんと戦災被害に補償しています。調べたところ日本の国会も早いうちから、やるべきだって50年代には議論をしています。そこでドイツはこんなことやってますよ、ということは一応議会のなかで述べられている。ところがそんなことはもう忘れ去られちゃって、過去の50年前くらいの国会の議論で終わっています。
日本もドイツも焼け野原になっているのだけれども、しかもドイツは地上戦をやっているし、空襲も激しかった。戦後は分断国家で大変だったのにも関わらず、どうやって補償したかというと、ひとつは被害者があまりに多いので、これは何とかしなければならないというので、特別立法を作った。「負担調整法」という立法をして、じゃあその財源はどうするかというと、まず資産をもっている大企業から税金としてふんだくった。それを、家を失った人、難民は家もなんにもない、学校にも行けないでしょ、そうした人たちに額は知れているけれど、最低限の生活保障といろんな形での補償をした。
ひとつ具体的な例をあげると、ちょうどこの前辞任した、ホルスト・ケラー大統領という、私よりも3つ年上、1943年の生まれの人物ですが、この人は、今はウクライナ領になっている、その当時、旧ポーランド領の古いドイツ人の農家の家に生まれた。7人兄弟の真ん中あたりです。とにかく戦争が始まったので、まず、ドイツが占領したポーランドにいったん逃げました。敗戦時にドイツ領内に逃げたところ、そこが戦後は東ドイツになって、社会主義体制になったのでまた逃げてフランスの国境近くの片田舎に定着した。7人兄弟のなかで大学を出たのは彼ひとり。優秀なひとだったから真面目に勉強をして、経済学を勉強して、財務省に入って財務次官になって、優秀だからIMFの専務理事になって、2004年にドイツの大統領になった。私はこの人物に2回くらい直接会って話をしたことがあります。ほんとにびっくりするくらい謙虚な人です。(図書新聞に一緒の時の写真が載っています)こういう人物がなんでできたかと言うと、さっき言った「負担調整法」で、学校に行くこともできたし、大学もでることができたし、大統領になることもできたわけです。これは典型です。
では、翻って考えてみましょうか。日本はどうですか。日本の市民はほったらかしにされたでしょ。いわゆる、戦災の被害者、引揚者、戦災の被害者なんて、その時、罹災証明だけで、にぎりめしと着るものもらったぐらいで終わりでしょ。私の説は、ドイツ人は、自分たちがそうやって行政あるいは立法によって、国に助けられてきた、そういう体験があるから、だから外国人の戦争被害者に対する補償と言うのにも文句を言わず、納得できたんです。これが日本と大違いです。ここのところ、皆さん、歴史の裏側というか、背景としてぜひ覚えておいてください。そういう意味で、日本というのは、戦後において、自国民に対しても非常に冷たい社会です。
だから、消費税値上げして、云々なんてこと皆さん信用しないでしょ、あれは国に対する信頼がないからです、明らかにそうです。今、ドイツでは15%とられて、私なんかひいひい言ってるけど、でもそれだけの見返りがちゃんとある、安心した社会であるというので、みんなあまり反対はしない。そこのところを、補償問題を考えるときにもきちんと押えなければならない。しかもさっき言った「負担調整法」というのも、特別に役所をつくった。「負担調整庁」という庁があり、戦後40年くらいまで延々と続いて役目を終えた。ところが、壁が崩壊した時、東ドイツの人たちはそれをもらっていない、それで、これはいかんということで、その機構をよみがえらせて、東ドイツ援助の連帯税のなかで部分的に形をかえて90年代に補償を終わらせたという歴史がある。そこまで丁寧にやったというところを押えなければならない。
さて、話しがえらく長くなったけれど、まだ肝心なことを言っていない。
そういった国際的国内的な大きな枠組みがあります。その中で過去の残酷な歴史に対して市民達はどう取り組んだか。戦後第一世代、加害の世代の問題です。これは、こまかく話しているときりがないけれど、しかもドイツは東西に分断があって大変なんですけれども、簡単に述べると、第一世代は、日本と違って、加害者の組織、ナチスっていうのが徹底的に、排除されましたよね。ニュルンベルク裁判と東京裁判の一番大きな差というのは、ほぼ同時じゃなくて、ニュルンベルクの方が先行して行われたのですが、あの時、ナチスの犯罪は、絶対悪として、世界のメディア、あるいは国際世論に訴えることができた。これは皆さんも、ニュルンベルクの裁判の記録をみればわかることだけど、連合軍、ソ連軍、それからアメリカ軍とイギリス軍が強制収容所を解放した時の状況がナチスのA級戦犯の前で放映され、それを見ているA級戦犯の表情がニュース映画になって世界中に回った。目をそむけるような、ああいった死体の山が世界中に放映された。それはもう、特にユダヤ人に対する虐殺ですね。みなさんご存じだと思うけれど、ヨーロッパに1100万人いると言われたユダヤ人のうち600万人がいろんな形で虐殺された。39年に戦争を始めてからわずか6年弱の間にそれだけ虐殺された、これが否定できない事実としてある。これに目をそむけることはできない。したがって、ニュルンベルク裁判でナチスは絶対悪だとされた。
ところが、東京裁判では、ちょっとねじれがある。ひとつは、よく言われることですが、平和に対する罪、国際法違反、人道に反する罪ということは明らかですが、天皇制というものが生き延びる。よく言われることですから、ここではあまり言いませんが、加害意識をもつべき侵略者の日本が、東京裁判、あるいは、広島・長崎の体験によって被害者になり、国の分断もまぬがれた。かつての植民地を失っただけです。
あとは、米軍の後方基地として、日本は正式な軍隊をもたないで、経済活動に走っていった。あまり軍事費をもたないでいいというで、豊かになっていった。それがずっと戦後89年まで続いていったわけですね。そのなかで、培われていった歴史認識は、ドイツのように分断され、もともと絶対悪としてナチスと対決しなければならなかったドイツとは自ずから違うんですね。そこに大きな落差があります。
もちろん、戦争体験をした、軍隊に行った、今80歳、90歳になる世代は、日本と同じで黙っている。へたしたら、自分がやったことを言ったら追訴されるかも知れないから言えない。これは家庭の中でも言えない。だから絶対しゃべらない。これは日本でも多かれ少なかれ同じです。
(略)
日本の人たちは、いわゆる広島・長崎、それから空襲の体験と被害は語られるけど、加害者というのもこれだけ苦労するんだということは日本の戦後社会では語られてこなかった。ところが、ドイツはちがう。加害者も苦しいということを、常に戦後すぐに研究もされ、絶対悪というナチの犯罪を学ばなければならなかった。そうすると、いくら自分が加害者でなくても、親の世代の歴史に直面することになる。そういうことを学校教育のなかでやっている。日本では8月15日は終戦の日ですが、西ドイツでは、45年の5月8日は 敗戦の日か、それとも解放の日か、ナチスから解放された日か、あるいはドイツ社会の敗北の日か、戦後長い間、これにはいろんな意見があって、したがって、意識が分裂していた。その長い議論に決着をつけたのが、実はワイツゼッカーの演説です。日本では、いわゆる「過去に目を閉ざすものは、未来にも盲目である」というこの一文だけが引用されるのですが、実はドイツにとって大切なことは、あれは「解放の日」だということです。大統領、ドイツの国家元首があの演説のなかでそれを初めて宣言しました。そこで決着がついた。前からあれは解放の日だということを言っていたのは、実は社会主義の東ドイツ、それから西ドイツでは市民運動でした。
それが1985年でしょ。1985年というのは、日本でも歴史認識に関する大事な出来事がありました。すぐ答えられる方はいますか。中曽根の靖国参拝ですよね、私の見方からすると、アジアから猛反発があった。ある朝日新聞の記者と話したら、あの靖国参拝に対するアジアからの反発の声で、初めて、日本のマスコミも、「ああ、やつらまだ怒っているんだ」と思ったということを、ついこのあいだ聞いた。あのとき、私は日本にいなかったから、ドイツにいたからそのことは聞いてなかった。
アジアに対して、アジアの声は普通じゃないと、その時が1985年、その時ドイツでは、初めて国家元首が、きちんと歴史を見ていかなければならないということを宣言したわけです。それで、取り組みが始まって、市民運動が主張していたことをずっとやっていく。戦後補償もその脈絡のなかで出てくる。
今からだいたい5年前の2005年の戦後60年の時に、まず最初に国家プロジェクトとして完成したのが、ここに書いてある虐殺されたユダヤ人の追悼碑です。これは2000年に首都がボンから元のベルリンに移転してきます。市民運動が提案して、国会決議をもって国の首都移転記念の財団のプロジェクトとして実現した。
だから国会議長がその財団の理事長です。さっき私が言った、日本の民主党の議員団に会うべきだと言ったのは、その時の理事長のティールゼという人です。その人に会って話をきかないと、下っ端の国会議員に会ったってしょうがないでしょう。ワイツゼッカー大統領とか。そういうことを言ったのだけれどあまりぴんと来てないようだ。そうでしょ。ま、しょうがない。
で、やっと残された課題、自分たちの加害というものを自分たちできちっとやらなくてはいけない。日本で言うと、東京駅かあるいは、日比谷公園なんかに、巨大な加害の記念碑ができたと同じことですよ。そんなプロジェクトは世界中探したってないです。もうひとつは、今年の敗戦の65周年記念に合わせて、ゲシュタボ跡に加害の研究所が建設され開館しました。これはドイツに帰ってから書くつもりです。
今まで、ドイツは被害者に対する補償ばかりを一生懸命やってきて、忘れられ、歴史から消された被害者たち、その人たちの名前を掘り起こして、つまずきの石というのを作った。完全に市民運動でプロジェクトを作った。ドイツ社会が殺していった、名前もアイデンティティも全部消されていった人たちの名前と顔を掘り起こして、彼らに対面していくという活動をずっとやってきた。学校でやる歴史教育でえんえんとそれを続けていく。日本みたいに「日の丸・君が代」みたいなことや、従軍慰安婦の記述が教科書から消されたりとか、どこの世界かと思います。この差は隔絶というか断絶というかより、まるで別の社会のようです。
そういうことがあって、今やっと、加害者、自分たちのじいさん、ばあさんは一体どんな人間だったのか、今度は加害者の研究の段階に入っていっています。日本では、加害者の歴史はあまりにも知らないし、研究もされてこなかった。例えば、中国における日本軍の犯罪ということはほとんど知られていませんし、知りません。南京虐殺だとか平頂山とか万人坑とかあるでしょ、強制連行された中国人4万人の被害者の名前なんて、花岡にやっと小さな記念館ができて、その人達の顔と名前を今返している。でも、そんなものはほんわずかで、氷山の一角の一角です。日本軍のやったことのほんの一角です。あとのことは全然知られていません。
私は、日本軍の満州統治ですね、よく研究しているわけではないですが、中国帰還者連盟の供述書ね、今日持ってくるのを忘れたのですが、45名の有罪になった人の供述書、岩波新書から4月に「侵略の証言者たち」という名前の本がでました。撫順の戦犯管理所で証言して、供述書を書いて、瀋陽の法廷で45名が有罪判決を受けるのですが、その人たちが自筆で書いた供述書を、私たちが、中国に行ってやっと2005年に提供していただいた。それを専門の歴史家たちがよってたかって読んで、それの解説書としてでました。分量はこんなになる。これも学生達に夏休みに読めと言ってある。
皆さんご存じだとおもいますが、撫順の戦犯管理所で約1000人の日本軍の高官の人たちが、中国で行った戦争犯罪というのは、少なくともそれは、中国政府が1954年から6年にかけて徹底的に洗い、裏をとったものです。そこで彼らは間接的に直接的に、わずか1000人の日本人たち、満州国あるいは、華北で59師団と117師団というのが主なんですが華北から山東省にかけての戦争犯罪で裏付けがとれた犠牲者の数が最低でも85万人だったんです。85万人ですよ。たった1000人の軍人で、ですよ。主に117師団と山東省で兎狩りをやった59師団です。それだけでその人被害者が85万人ですよ。私たちも、また中国ですら、いまだにどのくらいの犠牲を払ったのか、本当の実態というのを知らない。
私はついこないだ、初めて、みなさんの中でも行かれた方がいるかもしれませんが、 ハルピンの近くの731部隊の罪証記念館に行ってきました。実際に行かないとわからない、文献だけでは分からないことがいっぱいあります。あれはアウシュビッツより「立派」ですね。アウシュビッツは、ナチスが最大最悪の殺人工場で、その記念館を作った目的はだいぶ違いますが、あの施設よりも731の施設は、はるかにすごい。あれは世界遺産になりますよ。建物の規模、計画性、いずれをとっても。私もずいぶん、世界中のそういう記念館を見てきました。今日は時間がないのではしょりますが、いわゆる強制収容所とか、ドイツ軍の犯罪の跡、これはヨーロッパ全体にあります。ドイツ国内にもありますし、もちろんポーランドにもあるし、チェコにもあるし、フランスにもあります。オーストリアにもあるし、いろんなところにありますよ。だけど、731罪証記念館みたいな立派な施設は他にないですよ。そういうことを言った人間はおそらく私が初めてなんですよ。なぜかと言うと私は、いろいろなところを見ているから比較できるんです。記念館の館長さんの金成民さん、とても気さくでいい人なんです。庶民的でね。彼と話をして、あなたアウシュビッツに行ったことがあるかと聞いたらないと言うんですよ。世界遺産にしようと一生懸命言ったって、見ていないんです。世界遺産となった加害の記念館は、アウシュビッツが最初なんですね。今度は一緒に行きましょうと提案しました。ひょっとすると実現するかもしれません。そうすれば、アウシュビッツ博物館からいろんなことを学ぶこともできます。
ですから、日本人はほんとに加害の歴史を知るのはこれからですよ。そういう意味で花岡事件、日本の戦後補償裁判の動きと言うのは、端緒にすぎない。一番最初のことです。ほんとにこれはね、ドイツのように自らの歴史に対して、正面から、教科書、教育、あるいは社会的にも、今、ホロコーストの記念碑、虐殺された人の記念碑、追悼碑の見学者は年間300万人から400万人です。ブランデンブルク門のすぐ近くです。世界記録ですね。それを見てはじめて、ああドイツは昔のドイツと違う国になったんだな、ということが世界中の、かつての被害国の人たちはもちろん、世界中の人が確認できる。
日本はどうですか。アジアの人たちが日本にきて、靖国神社を見てびっくりするのが現実でしょう。これじゃあ、ばかにされちゃう、相手にされませんよ。隣人として受け入れてもらえるかということです。そのことを、知らなければならない。そういう意識すらないということが、最初に言ったように、最近その状態がますますひどくなっている。在特会じゃないけれど、ますます亢進しているのが日本の現実だと思うんです。
こういうことが絶対に続くわけないですよ。必ず、そのことに直面せざるを得ない事態になるわけです。これは経済的なかたちで出てくるかもしれない、あるいはほかの形で出てくるかもしれない。それで、皆さんはまだいいけど、若い人たちはどうなのか、近隣諸国と対等に付き合っていくためには、どうしても避けて通ることができないのが、歴史教育であり、歴史認識です。そのことを改めない限り、日本は孤立するというか、馬鹿にされますよ。そんなことはどうでもいいんだとばかり、意識が向いていない。経済力もなくなって。私は、日本は強くなってほしいなんで思ってないですよ。ないけれど、少なくとも、東アジア共同体であるとかを構想するのであるなら、一番肝心な国家100年の計である、歴史認識にきちんと取り組まなければならない。見通しは非常におぼつかないけれど、私は別に悲観しているわけじゃありません。悲観していません。若い世代が68年世代がなんとか言っていますが、そんなことじゃないです。彼らは、日本の若者と言うのは、ある意味で非常に素直です。素直すぎて、ナイーブ過ぎる。だから、その若者たちにきちんとした情報や教育を与え、そこで議論をするならば、少なくとも隣人ときちんとそのことについて話ができるということが大事なことです。
もう2時間近くになるのでこの辺で終わります。
あと、これは岩手大学の教育学部でひと月前に話したんですが、今ゲシュタボに関連する、加害の歴史の立派な研究所ができた、その写真があるのでこれからまわしますので見てください。
質疑
Q1。ドイツ兵による性暴力の被害はどのように補償されていますか?
ドイツ兵による性暴力被害は補償されていません。ドイツ兵による性暴力というのは、戦後の加害の歴史の研究の中でほぼテーマにならなかったのです。もちろん戦争ですから、先ほどお話した映画にも出てくるとおり、強姦、殺人など日常茶飯事でした。ただ、ナチスというのは第一次大戦の体験から、戦場において慰安所を徹底的に管理しました。性暴力というのはいわゆる慰安婦問題というのを念頭に置いて質問されていると思うのですが、最近性暴力に関する研究書が出ました。いわゆる慰安婦あるいは性暴力問題が歴史研究のテーマになったのは、むしろ日本の影響によるのです。日本で慰安婦問題の訴訟が起きましたでしょう、それに応じてドイツでもあったに違いないということで、1990年代の初めになって、女性たちが細々と研究を始めたのです。
もうひとつよく知られているのは、慰安所を軍が徹底的に管理しました。これは第一次世界大戦時に戦場で性病の蔓延ということを体験したことによります。(以下略)
Q2.加害者としての認識におけるドイツと日本の落差、その根本原因あるいはスタートはどこにあったと考えますか?
(略)
Q3.2000年にその時点の生存者に賠償が支払われたということですが、被害者が亡くなっていた場合、遺族からなんらかの申し立てがあったと思います。ドイツ政府の対応はどうでしたか。
(略)
Q4.ドイツと日本の違いは戦後再軍備したかしなかったかの違いなのでは?
(略)
Q5.ドイツの植民地支配の認識はどのようなものですか?
(略)
Q6.日本では軍人恩給という形で軍人家族にも補償がありますが、ドイツでは末端に対して補償はどのようにしているのでしょうか?
(略)
Q7.過去の総括に対して、市民レベルの歴史認識の揺り戻しや、ネオナチの動きはどうなっていますか?
(略)
Q8.ドイツの戦後補償のきっかけは政府主導なのか、自然発生的市民運動なのか、一部の運動団体が起こしたものなのか。
(略)
※ 全文は『2010年東京証言集会報告集』に掲載