「うちの理事さん」

     林業家・「木楽里」主宰 井上淳治さん

2000年8月号掲載・紹介者:園田安男

 

 井上さんは埼玉県飯能市東吾野地区で林業を営む。この地は西川林業地として有名である。この歴史ある林業の町で、代々の林業家の家に生まれた。森づくりフォーラムには様々な経路で市民参加の森づくりかかわってきているが、井上さんも森林クラブにかかわって長い。その間にも、林業そのものはますます困難なものになってきた。林業家ということをどう考えてきたのか、を中心に話を聞いた。

 

◆代々の林業家

 代々の林業家に生まれたが、特別に林業を継ぐように親に言われたということはない。ただ、兄が小さい頃なくなったので、まわりや親戚などからは「淳ちゃんががんばらないとね」というふうに言われてきたんで、いつの間にか本人もその気になっていたそうである。

 親は林業を継げとはいわなかったが、小さいときからよく山に連れられて行った。5歳で木を植えた記憶があるという。そんな環境だったから、よく山には行っていた。どっちかというと大学時代が一番行かなかったかな、と笑って言う。山に入って、中学、高校の時などは作業をするというより、注文があった材の選木などをしたりして、木を見ることを学んだ。

 以前、井上さんから自分の子どもも山が好きになってほしいというのを聞いたことがあるが、その後どうか訪ねると、やはり子どもは山が好きになっているらしい。

 やはり、林業は時を相手にする仕事だから、世代をつないでいくことには敏感だ。

 

◆西川林業地

 井上林業は西川林業地でも集約的な林業が中心の東吾野地区にあり、その東吾野地区の林業家の中心といってもいい。ただ、井上さんは小さい頃からそれほど意識することなく林業を継ぐと思っていたが、しかし、この地区がそういう環境であるということではないらしい。歴史ある林業地だからといって、林業でやっていこうと誰もが考える環境ではないらしい。サラリーマンをしながら副業的な林業、という形態が主流だ。

 

◆林業家になる

 井上さんが本当に意識して林業を継ごうという強い気持ちになったエピソードを紹介してくれた。

 「大学を卒業してちょっとしてからのころ、初めてひとりでヒノキの伐採をしたことがあった。80cmくらいのヒノキである。時間にしてほんの数分のことだが、木を伐ることだけに集中していたと今でもその感覚を覚えている。あとで年輪を数えると160年以上だった。そのとき、いった誰がこの木を植えたのだろう、そして、育ててきた人のことも考えると、このヒノキを通して160年がつながっているような、何か共有できたような気がした。

 この醍醐味が林業なんだとそのとき、初めて実感した。」そして、林業をやるという気持ちを確認できたという。

 

◆森林クラブとの出会い

 森林クラブは15年以上前から、市民による森づくり活動を続けてきた、この「業界」では最古参のグループであるが、この森林クラブと知り合うことによって、さまざまな形で森林に関心ある都市住民とつきあうことになる。

 そのきっかけは、1984年。おりしも「国際青年年」ということで、あっちこっちで関連するシンポジウムが開かれていた。そのひとつに、森林クラブが担当するものがあり、そのシンポジウムに誘われて参加することになり、ここから森林クラブとのつきあいが始まった。

 最初は、日頃も山に入って、休みも山に入るなんて、という気分があり、専門家という立場からの、外からのお手伝いということに限定して、深く関わる気持ちをセーブしていたらしい。そのうち、森林クラブが「子ども森林学園」という夏休み子どもキャンプを始めたので、それを手伝うことになり、結局、その中心にいることになるのである。はまり込んだのである。

 

◆林業と都市住民、そして「木楽里」

 井上さんには2つの流れがある。林業家としての意識と森林クラブ、それから森づくりフォーラムなどで関わりを持った都市住民とつながっていこうとする意識である。

 これまでは、森林や林業に直接関わりのない都市部の人たちに働きかけたりするのも、ある程度の即効性の経済効果というか、すぐに役に立つPRといったような考えで、そして、ガイド料などでいくらかはそれが稼ぎに役に立つようになればいい、というようなことを考えていたそうだ。

 確かに昔から林業だけでなく、養蚕とか林産物からの収入とかで、ある種の複合経営だった。これまでも林業を専業でやるというのは無理があると思っていた。今の複合経営の形態は勤め人になって、休みの日に山の仕事をするというような形になっている。井上さんとしては専業の林業家として、山に関わることで生活できる程度の金を稼いで行ければいい。そういった、複合経営として「木楽里」を考えた。

 「木楽里」、井上さんが3年前、木工を通して木を知り、木をもっと好きになるように、という思いで始めた木工工房だ。

 しかし、ここまで木材がやすくなれば少々の複合経営的なことではそれも難しいと思うようになったという。このままでは林業は忘れ去られてしまう。井上さんとしては、やはり、「木の文化」ということにこだわって、この「木の文化」をわかってもらいたいという「使命」で、林業を続けていきたいと思うようになったという。

 誰かがどっかでそういうことをやっていくことをやらないと林業も忘れ去られてしまう気がする。経済的な速効性だけでなく、長い目で見ての呼びかけや働きかけが必要なことを意識しているのだそうだ。 そして、次の世代につなげていく。 

 「木楽里」にも新しい役割があるのだ。オープンして3年。木楽里はまだ経営的には赤字だが、方向としては間違ってなかったと確信しているという。

 

◆これから

 代々、林業を続けてきたということから考えれば、林業が盛んで、よい目を見た親父の世代があれば、林業が困難になっている自分たちの世代もある。長い目で見れば帳尻が合っていると思っていたそうだ。だが、いまは危機感を強く感じている。

 人々が山を離れている時代に、いわば「使命感」のようなものでやってみようという気になっている。もっともっと一般の人たちに働きかけたり、受け入れたり。

 そして、このような一般の人たちに働きかけたり、受け入れたりすることそのものも事業にしていく方向を考え、とにかく山側から積極的に情報を伝えることが自分の役割だという。林業家が自分で情報を発信する、そんなことを意識してやっていきたいそうだ。

 最近、木楽里が木工をしたり、木工品を売ったりの場所としてだけでなく、新しい要素も出てきている。ときどき、木の家を建てないなどと住宅相談をする人が立ち寄ったりする。そうなればいいなあ、と木楽里を始めるときに漠然と思っていた木の情報センター的なことができるかもしれないと、ちょっと希望を持っている。

 

 最後に、森づくりフォーラムももう少しスタッフが充実して、それにはスタッフが普通に生活できるくらいの給料が出せるようになってほしいと笑っていっておりました。

   

【補足】

◎森林クラブ

森林との触れあいを「森を育てる」ということを通して体感しようと発足したのが1983年。当初は、各地の林業家の手伝いなどをしていたが、自分たちの森を持ちたいという1985年から群馬県下仁田に1.6ha、87年から神奈川県山北町に1.1haの国有林を分収造林契約をして、植林、下草刈り、枝打ち、除間伐などを行ってきている。会員は約100人。 

なお、森林クラブの活動とその歴史については、「わたしたちの森林づくり」(信山社:1994年)に詳しい。ほしい方は森づくりフォーラムにご連絡を。

◎木楽里

木工を通して、もっと木に親しんでもらいたいという井上さんの願いから始めた、誰もが手作りできる工房。

個人でも、グループでも利用でき、また、木工品のキットもいろいろと取りそろえている。

場所:埼玉県飯能市井上138

電話:0429-70-2007 FAX:0429-70-2008

交通:西武池袋線「東吾野」駅より徒歩15分

   国道299号線飯能市内より10km

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