−事故発生から臨界の終息まで(9月30日〜10月1日)の事故の経過をまとめました−


 政府と科技庁、安全委員会は事故を理解していなかった。彼らの動きからは住民の被曝を避ける、低減させようとする意図が見えない。住民の被曝量を公衆の被曝限度である1mSv以下にするためには少なくとも500メートル以内の住民の可能な限り早い、より遠くまでの避難が必要であった。

−−9月30日−−

臨界の惨劇と放置された住民


●10時35分(0分)
 JCO東海事業所(茨城県東海村石神外宿)の放射線モニター警報。
 転換試験棟内で臨界事故。3人が致死量の被曝。
●10時40分(5分)
 JCO事業所従業員全員がグランドに避難。
●10時45分(10分)
 グランドの放射線線量も高かったため正門まで避難(放射能や放射線を扱う人の「正常」な感覚ではサーベイメータの針が振れる場所には居られない)。
 救急車到着。 このころJCO所長は臨界の可能性に気づくが中性子は測っていない(事故のファックスに「臨界事故の可能性」の記述あり)。中性子計は同事業所内には無かったという。
●11時15分(40分)
 JCOが科技庁にファックスで通報。
●11時33分(58分)
 JCOが茨城県に通報。
●11時34分(59分)
 JCOが東海村にファックスで通報。村長は不在。
●11時52分(1時間17分)
 3作業員を救急車にて搬送、午後12時7分に国立水戸病院に到着。
●11時57分(1時間22分)
 東海村が職員招集。 このころ野中官房長官に事故の第1報入る。
●12時00分(1時間25分)
 東海村の助役や総務部長らが協議し災害対策連絡協議会を設置。
 東海村が学校に対して屋外に出ないように呼びかける。


動かない首相官邸

●12時30分(1時間55分)
 東海村が防災無線で住民に対して自宅退避を呼びかける。「JCOで事故があり、放射性物質が漏れたようです。付近の方は外に出ないで、次の村の放送をお待ち下さい」。この防災無線は東海再処理工場爆発火災事故(1997年)の後に村が設置したもの。しかし村民の中にはJCOが何であり、どこにあるのかを知らない人も多くいた。 小渕首相の居る首相官邸に事故の第1報が届いた。しかし彼も周辺も事故を知らせるファクスに気づかない。古川官房副長官は1時前の記者会見で、記者からのこの事故についての質問を受け「聞いていません」と答弁、その後執務室に駆け込み事故のファクスを発見し、ようやく事故を意識する。でも重大さが理解できない。
●12時41分(2時間06分)
 ひたちなか西署、転換棟の周囲200メートル内立入禁止に。しかし「事業所は国道6号線沿いにあり、普段とおりの通行がある」。
●13時56分(3時間21分)
 JCOが東海村に半径500メートルの住民の避難勧告を要請。TV報道によれば職員が大慌てで役場に駆け込んだという。


中性子線を測定させなかった安全委員会、何のための専門家か?

●14時00分(3時間25分)
 このころ原子力安全委員会で臨界の可能性に住田委員が言及するが、中性子を計測する指示は出さなかった。犯罪的なサボタージュである(あるいは事故の性格を全く把握していないかであるが、住田氏は原子炉物理の実験の専門家、原子炉物理の訳本もあるほど)。後の国会での答弁で間宮原子力安全局長は「過去の例では臨界はすぐに停止したし、ガンマー線のモニター値も下がる傾向にあった」と述べるが、過去には37時間臨界が継続した例がある。JCOの測定によればガンマー線の線量率は下がっていない。役立たず。
●14時30分(3時間55分)
 JCO所長が東海村役場を訪れ「所員も避難している。500メートル以内の住民は避難させてほしい」と要望。ところが茨城県の担当者は観測されていた放射線レベルが規制値よりも低いことから「避難をする必要はない」と主張したという。 科技庁内に対策本部を設置。


苦悩する村長と無能な科技庁、事故を気にもかけない首相

●15時00分(4時間25分)
 出先から戻った東海村村長は、災害対策法には基づかずに任意の避難を求める避難要請を出すことを決めた。「JCO職員が避難している。住民が避難しなくて良いとはならない」(後に避難の遅れについて「今までわが国には原子力事故で住民を避難させた経験がない。国や県と連絡が取れない中で住民の命を守るために自分の責任で前例のない措置に踏み切らざるを得なかったという状況を理解してほしい」と語る)。村では混乱をおそれて一軒一軒の家を回って避難を要請。 このころ小渕首相は「原発で事故が起こったようだな。でも僕の頭の中は組閣で一杯なんだ」と記者に。住民の周りは放射線で一杯だった。 科技庁の対策本部に、関係省庁を集め、有馬科技庁長官を本部長とする対策本部に格上げ。この有馬氏は後に全てが判明してから「中性子線の測定を指示しなかたのは核物理学者として反省」し、退任のあいさつ。原子力の必要性を解く科学者、東大教授、同学長を経て大臣になった人物の程度と無責任さ加減を示す最高の標本か。テレビの特集では現場の作業員の「モラル」をただひたすらに問題にした。
●15時20分(4時間45分)
 現地対策本部設置が決定される。場所は原研東海研究所。


村長の孤独な住民避難の決定、でもせめて500m必要だった

●15時30分(4時間55分)
 東海村で半径350メートルの住民の避難が始まる。中性子線に関してはこの措置のみが住民の被曝を低減させた(もちろん十分ではない、最低でも500メートルは欲しかった。乳幼児や妊婦さんも居たのだから)。
●16時00分(5時間25分)
 茨城県が原子力災害対策本部を設置。 野中官房長官が定例の記者会見で「被害はこれ以上拡大しないと認識している」と語り、予定通り内閣を改造すると明言。 この頃、放射線医学総合研究所に移送された患者の吐瀉物からナトリウム24検出。
●16時30分(5時間55分)
 この頃、ようやく中性子線の測定が開始される。およそ6時間後である。
●17時00分(6時間25分)
 那珂町が住民に屋内退避を呼びかける。 科技庁局長が官邸を訪れ野中官房長官に「放射能の数値が上がったり下がったりしている」などと事態の重大性を説明するがその話は要領を得なかったという。その後、野中官房長官は官邸主導で対策本部を立ち上げようと決意したという。小渕首相は未だ改造に執着し午後6時から午後8時までに執務室に籠もる小渕首相を野中官房長官は4回訪れる。


ようやく中性子線を測定

●17時05分(6時間30分)
 JCO敷地周辺で科技庁スタッフが中性子を検出したことを本部に報告。毎時4ミリシーベルト。臨界が継続していることをようやく誰もが否定できなくなるが、科技庁も安全委員会も避難範囲を広げようとしない。住民の被ばくを避けようとする意思のないことを態度で表した。


8時間後に避難の「助言」、何の措置も講じない役人と専門家

●18時05分(7時間25分)
 安全委員会の緊急技術助言組織会合始まる。「検討の結果、特に再臨界の可能性があるとの結論を得」たという(しかし、臨界はずっと継続していた)。19時頃に最初の「助言」を科技庁を通じて行ったが、そこには「1.境界での中性子線量が高いことなどから、再臨界が起こっている可能性があり、余計な被ばくを避けるために、特に風下の避難を要請する。(特に本米崎小学校) 2.再臨界を抑制する方策を早急に立案すること。また、再臨界を抑制するため、ボロンを手配すること。」とある。彼らには中性子線による被ばくを避けようという意欲がない。また、臨界が継続していたという認識が無かった疑いが濃厚である。また、夜になって小学校に避難を呼びかけているが、彼らは小学生がまだ学校に居ると思っているのか。この完全に浮き世離れした「助言」を誰が必要としたか?住民が避難することについて、被ばくを避けることについて彼らはまるで役に立たなかった。
●19時50分(9時間15分)
 科技庁稲葉政務次官、現地対策本部に到着。「先に現地入りした科技庁安全局次長や現地の専門家らは、それまで事故現場の臨界状態に対して何の措置も講じていなかった。稲葉次官は現場の様子を見て唖然としていた」。稲葉氏は急いで、原子力研究所、核燃料サイクル開発機構、日本原子力発電の専門家に原子力安全委員を加えた対策委員会を開いたという。すなわち、少なくともこの時刻まで政府・科技庁は何の働きもしていないことを科技庁の役人自身が認めている。
●20時00分(9時間25分)
 科技庁が「再臨界発生の可能性」を発表。野中官房長官が「(改造よりも)事故を優先させる」。およそ10時間かかって政府が動き始める。
●21時00分(10時間25分)
 首相官邸で政府対策本部が初会合。 野中官房長官が自衛隊の出動を打診したが、「自衛隊はこの種の事故に対応する能力を持ち合わせていない。自衛隊員が事故の発生源に近づくことはできない」と野呂田防衛庁長官に拒絶される。 このころ小渕首相は加藤紘一前幹事長に「お前、おれを追い落とすつもりか」と脅迫まがいの電話をしたという。糞。結局、小渕首相のした仕事はメロン付きの昼飯を食べに後日東海村まで出かけただけ。
●21時40分(11時間05分)
 野中官房長官が「日本初の臨界事故」と発表。 原子力安全委員会(住田委員長代理、金川委員)現地対策本部に到着。
●22時28分(11時間53分)
 JR常磐線水戸-日立間運転見合わせ
●22時30分(11時間55分)
 茨城県知事が半径10キロの住民に自宅退避を要請。


屋内退避によって強要された被ばく

●22時45分(12時間10分)
 安全委員会の緊急技術助言組織が助言2。「緊急技術助言組織は、JCO施設から、半径10km圏内の住民が屋内に退避することは適切であると判断し、科学技術庁に伝達した」。これにより350メートル付近の中性子線による被ばくは避けられないものになった。彼らには500メートルの避難を「助言」することもできはずだがそうはしなかった。同組織は近隣住民の中性子線による被ばくを強要する措置にお墨付きを与えた。また、県の後追いであり、形式的にも「助言」になっていないのではないか。この後の彼らの仕事は、10km圏内屋内退避の解除と350m圏避難の解除を「助言」することだけであった。避難は地元の自治体が、住民との距離におうじて、それなりに苦しんで実施したが、その解除はさしたる根拠もないままに安全委員会の同組織がさっさと決めてしまった。彼らは自治体の判断の不十分さを補うことも何もしなかった。「緊急」でもなく、科学「技術」にのっとたものでもなく、「助言」らしきものもなかった。没。「助言」とは自らの責任を回避するための方便であった。

−−10月1日−−

●1時00分(14時間25分)
 常磐道などの一部区間通行止め。
●1時18分(14時43分)
 茨城県知事陸上自衛隊に災害派遣を要請。


JCO職員に詰め腹を切らせる

●2時00分(15時間25分)
 第1回現地対策本部会議開催。状況説明。 このころ、JCOの職員が被ばくして臨界を止めることを原研や核燃機構、日本原電の専門家、そして住田委員が迫る。100mSvの限度を200mSvに超法規的措置で引き上げることも検討。事故を起こしたのはJCOである、だが、その燃料を発注しつくらせたのは核燃機構であり、JCOはBWRの燃料もつくっている(日本原電の敦賀1号はBWR)。JCOに操業の許可を与えたのは住田氏のいる安全委員会である。事故管理において詰め腹を切らせるようなやり方しかできなかった。事故処理のロボットなどというものはないようだ(東海村にないということは国内のどこにもないということか、米国から提供の意思が伝えられていたはずだが)。これが彼らの安全文化である。作業員に被ばくを強要する姿勢は住民に被ばくを強要する姿勢と同質のものである。自らの体質を自らの行動で理解したはずである。原子力の残忍で強権的な決してぬぐい取れない体質。
●2時30分(15時間55分)
 事故現場の写真撮影。
●2時58分(16時間23分)
 沈殿漕の冷却水を抜き作業開始。
●6時15分(19時間40分)
 アルゴンガスを注入、水抜き作業終了。中性子モニターのレベル下がる。
●6時30分(19時間55分)
 第2回現地対策本部会議。避難の範囲を350メートルから500メートル圏内に広げることを見合わせる。彼らは避難の必要性をある程度認識しながらもあえて実施しなかったということ。
●8時30分(21時間55分)
 ホウ酸水注入。  


 これらの後に「安全宣言(10月2日)」があったが、その後、事故から8日後に施設の排気口付近から放射性ヨウ素が検出され、その後も放出されつづけた。放射性物質が事故発生以来ずっと排気され続けていたことが判明する。デタラメな安全宣言。




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