村長は民意を尊重し、事前了解の撤回を! 肌で感じた「プルサーマルNO!」の思い 刈羽村を訪ねて |
5月27日午後9時40分すぎ。開票場所である村立生涯学習センター「ラピカ」のすぐ裏手にある反対団体「刈羽村を守る会」の事務所に、「賛成1500、反対1800」の中間結果がもたらされました。それまでの中間報告では賛否同数。初めて反対が賛成を上回ったのです。どうかこのまま反対の票が増え続けますように・・・。祈るような気持ちの中、続けて「賛成1500、反対1900」の報告。当日の投票者数は3600あまり。この瞬間、刈羽村民がプルサーマルを拒否したことが明らかになったのです! 最終結果を待つことなく「プルサーマル反対 住民投票勝利」の垂れ幕がおろされ、歓声の中勝利集会が始まりました。30年以上にわたる地道な反対運動が実り、世界最大の柏崎刈羽原発のお膝元である刈羽村でプルサーマル拒否の民意が示された、まさに歴史的な瞬間でした。 その一週間前の週末。大阪の人間でも何かお手伝いできないかと住民投票を控えた刈羽村を訪ねました。5月の刈羽村はさすが米どころの新潟、田植えが済んだ水田が広がっています。その中を走る何本もの巨大な送電線、そこかしこで見受けられる「電源立地促進対策交付金事業」「広報・安全等対策交付金事業」の文字が入った建物や広告板が、この村が原発の立地点であることを如実に示していました。また、ナイター設備付きの小学校や400メートルトラックが運動場にある中学校など、施設は豪華なものばかりでした。どれだけ多額の交付金がつぎ込まれたのだろうかと思わせられました。 ビラをまきながら各集落をまわって感じたのは、住民の方の中に育っている、プルサーマル反対の確固たる思いです。ビラを手渡す際に、何人もの方が「私も反対です。ご苦労様です」「うちの家では全員反対」「あんな恐ろしいもの反対するのは当たり前」「大阪から、まぁよく来てくれた。私は反対している。本当にご苦労様」といった言葉をかけてくださいました。とりわけ若いお母さんたちに反対の思いが強く感じられました。 また隣近所では、プルサーマル問題が自分たちの問題として熱心に議論されていました。とある集落で洗濯物を干していた女性に話しかけると、既に不在者投票で反対票を投じてきたこと、「プルサーマルなんて絶対やめて欲しい。安全だというのは刈羽に住んでいない人ばかり」と自分の思いを語ってくださいました。そこへ近所の同年輩の女性が駆け込んできて「聞いて! さっき○○さんと話してたら・・・」と息せき切って話しかけます。 お邪魔になると失礼しようとすると、なんと話題はプルサーマルのこと。最初の方に、「あんたも聞いていらっしゃい」といわれ、お話を最後まで聞かせていただきました。駆け込んできた方がいうには、近所の男性と今回の投票について話していると、その人が賛成に入れるつもりだということが判明した。子どもや孫のことはどうなると聞くと、「そんなもの知らない」。別の男性もそう言っている。何たる無責任か。推進する人たちの言い分には真剣さというものがない! 本当に真剣な表情。方言のため全部を聞き取ることができなかったのが残念でなりませんでした。これまで原発に関することはほとんど村長や議会が勝手に決めてきた刈羽村で、今回自分たちの本当の思いを表すことの出来る住民投票にむけ、村民の皆さんが本当に真剣にこの問題を考え、結論を出そうとしていることがひしひしと感じられる光景でした。 事故時の風評被害に対する懸念も聞かれるなか、何より強かったのは、「安全だというならここに住んで欲しい。安全というのは東京の人間」という、政府や東電に反発する声でした。もともと新潟は東北電力管内、柏崎刈羽原発は首都圏に電気を送るためだけに作られています。なぜ、自分たちが使いもしない電気を作るために、危険な目にあわされなければならないのか・・・。この至極当然の思いが強い中では、田中真紀子外相ら県選出の国会議員が賛成票を投じるよう説いた手紙が配布されても、「自分たちが住んでもいないくせに」と反応は冷ややかなものでした。 もちろんいい反応ばかりではなく、「信頼しています。私は、賛成です」と書かれた、プルサーマル賛成を訴える「刈羽村を明るくする会」のステッカーが貼られた家で門前払いのうきめにあったことも。「大阪から? よその人間がかき回すな」といった言葉もいただきました。けれども、原発関連で働く人が村民の4分の1をしめるというしがらみの強い村でありながら、ここまで反対の思いが育っていることに、ねばり強い反対運動の成果を見る思いでした。 住民投票を翌日に控えた土曜日。当初は大阪で投票結果を見守る予定でしたが、いてもたってもいられず、前日の夜行に乗って再び刈羽村へ。全国から寄せられた、プルサーマル反対のハンカチがひるがえる「刈羽村を守る会」の事務所を再び訪れると、巻町の例にならい、空き地にハンカチ・ツリーを建てる準備がなされていました。ツリーが完成すると、ハンカチが風にたなびき、道行く人の目を引いています。近寄ってハンカチを眺めていると、東海村臨界事故現地のお母さんから何枚も寄せられたハンカチが目に入りました。「本当に欲しいものは何だろう。そしてそれを奪うのは何だろう」と。 村内には、投票用紙の反対欄に○をつけた絵の看板が、田んぼの畦や家の前の道路などに100枚以上も建てられました。そして地元の方がおっしゃるには、たくさんの方が、自分の土地に看板を立てることを許可してくださったとのこと。人口5000人台の村、どこが誰の土地かはすぐわかります。そのなかで「反対に○を」の看板を掲げることは大変勇気のいることですが、それを何人もの方がやってくださるということそのものが、反対の声がいかに強いものであるかを示しています。 これに対し、推進団体「刈羽村を明るくする会」は、道路脇で、「賛成に○を」と書かれた看板を、建てずに2、3人で支え持っていました。異様な光景です。その他にも「最後のお願い」と題して、この住民投票を「反原発活動家と村を守ろうとする私たち村民の戦い」と決めつけたチラシをまき、村外者が村を混乱させているかのような宣伝を行っていました。けれども、その日私が訪ねたある家で、女性がしみじみと「地元で反対を表明するのは本当に難しい。村外の人にこのようにまわってもらって本当に感謝している。私は反対の意思を決めているから、ほかの家で、ぜひちゃんと説明してきてください」と述べられたのです。結局、賛成派の言い分は、地元のさまざまなしがらみにつけ込んで声を封じようとすることにほかなりません。 けれども、いくら押さえつけようと、反対の声は吹きあがってきています。ある四つ角では、「賛成に○を」の看板をもつ「刈羽村を明るくする会」の人々が立ったちょうど対角線上で、新潟県選出の女性国会議員がプルサーマル反対を訴えていました。すると、賛成派が立つまさに筋向かいの家から女性が出てきて、彼らの視線をものともせず議員の演説に聴き入り、何度も力強く頷いたのです。本当に感動的な光景でした。 忘れられないのは、「刈羽村を明るくする会」の会員の家を再訪したときのこと。前の週は全く耳を傾けてくれなかった女性が再び出てきて、今度はこちらの話に聞き入り、なかでも「22日に行われた討論会で、政府側もMOX燃料は厳重な被曝管理が必要と認めています。つまりプルサーマルをやると中で働く人々の被曝も増えるということです」と説明したときの、不安そうな顔。実際に原発で働くひとが身近におられるのでしょう。どうか表向きの美辞麗句にごまかされないでくださいと思いながらその家を立ち去りました。 勝利集会では、何人もの人が「30年以上運動を続けてきて本当によかった」と喜びを爆発させておられました。また今回、街頭宣伝の中心を担ってこられたお母さんたちが、涙で声を詰まらせています。その周辺で、結果を聞いて集まってきた人たちが、肩を抱き合い、涙を流して喜び合っています。きっと各家庭でも、反対票を投じた過半数の村民の方々が、喜びをかみしめていたことでしょう。 強いしがらみの中、政府の恫喝のような宣伝にも屈せず、反対の思いを貫かれた刈羽村の住民の皆さん。そして、30年以上運動を続けて今日の事態をもたらした反対運動の方々。どちらにも本当に頭が下がる思いです。本当にすごい。 ところが大阪に帰ってきて聞いたのは、「もともと住民投票にはなじまない」といった政府、都市部のマスコミの大合唱。腹立たしい思いでいっぱいです。自分たちのいわば枕元にある原発で実施される危険な計画に反対することを、地元に住んでもいない人たちに非難されるいわれはどこにもありません。しかも、村民が既に下した「プルサーマルNO!」の結論は、民意を確かめもせず受け入れた首長の決断などとは比較にならない重みを持っています。にもかかわらず、「法的拘束力がない」などと、結果をうけた村長の判断こそが重要であるかのようなマスコミの報道にも怒り心頭の思いです。 この何日か刈羽村を訪れて、プルサーマル反対の声は本当に根強いものであることを肌身で感じました。「民意は変わることも」と、品田村長は述べていますが、99年3月に村が受け入れて以来、村民の方々がよく考えて下した決断が「プルサーマルNO!」なのです。それは、民意を確かめないままプルサーマルを事前了解した当時の村長の姿勢そのものにNOを突きつけています。村長は、条例にあるとおり民意を尊重して、事前了解を撤回すべきです! また政府や東電も、民意を無視して村長に圧力をかけることなく、凍結ではなく計画そのものを断念すべきです! (Cy) |