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Date: Tue, 2 Nov 1999 01:08:08 +0900
To: keystone@jca.ax.apc.org
From: "M.Shimakawa" <mshmkw@tama.or.jp>
Subject: [keystone 2034] from FACTIVE > 名護市民投票裁判/東ティモール
Sender: owner-keystone@jca.ax.apc.org
X-Sequence: keystone 2034
Precedence: bulk
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 ---------------------------------------------------------------------------

*- FACTIVE  MES( 5):  
 574 住民投票>市民投票裁判、比嘉証人採用却下
 575 住民投票>名護市民投票裁判、証人最終意見
 578 住民投票>名護市民投票裁判第8回公判傍聴記
 579 住民投票>名護市民投票裁判、第8回公判記
 580 東ティモール>救援プロジェクトニュース5
 

*- FACTIVE  MES( 5):●分科会 政治 自治 情報公開  
*574   CXQ04025  WAKAX             住民投票>市民投票裁判、比嘉証人採用却下
( 5)   99/10/06 19:33  407へのコメント

 昨日、名護市民投票裁判第8回公判が行われました。結果を原告団の輿石さん
に聞きました。

 比嘉前市長の証人採用は却下されたそうです。原告団側から裁判官の忌避を
申し立て。1週間から10日位で忌避に対する回答があり、多分拒否され、もう一
度公判を行い、そこで結審するだろう、とのことでした。

 提出署名は全部で約3700筆だったそうです。ご協力くださった方々ありがと
うございました。

 大変残念な結果です。

 WAKAX

*575   CXQ04025  WAKAX             住民投票>名護市民投票裁判、証人最終意見
( 5)   99/10/07 23:27  407へのコメント

 名護市民投票裁判原告団から、輿石正さんの「第8回公判証言 証人最終意
見」の原稿をいただきましたので転載します。
 公判当日に傍聴に来てくださった方にも配布したそうです。

 証言内容に関しては、後日「原告団だより」にまとめるということですので
また紹介いたします。

 比嘉前市長の証人採用を求める署名は、最終的に3819筆を提出したそうです。
ご協力いただいた方々、ありがとうございました。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

第8回公判証言 証人最終意見

 裁判長!被告側は、昨年11月30日提出の「準備書面」の中で、“原告らの主
張はその独断による「名護市民の良心」、「名護市民の意志」というフィクシ
ョンを前提にしたもので、極言すれば法的には内実のないものである”と主張
しています。しかし、さきほどからの原告側証人の証言にもあるように、この
市民投票は、市長も含めた、「米軍ヘリ基地移設に関する全名護市民の法的意
思決定」でした。米軍ヘリ基地移設という、この地域で生活している住民の個
別の問題に関して、この決定以上のものは存在しません。

 私たちは、「平和的生存権、思想信条の自由」を基に、米軍ヘリ基地移設ノ
ーの結果をかちとり、市民生活を既定する具体的な権利として享受する権利を
もったのものです。ですから、特段の合理的理由のない限り、投票結果に拘束
されるのであって、これらの事情のないかぎり、前市長は、これに反する行為
ができないと考えます。前市長の行為の違法性は、「信義誠実違反」であり、
「裁量の逸脱、濫用」であると考ます。私たち市民に公的に与えられているも
のは、市民投票条例の「意見書」および「条例の具体的内容の別紙資料」そし
て〈「海上基地受け入れ」の比嘉市長声明〉だけであります。これ以外なんら
逆転判断の説明を市民にはしていません。したがって私たちの訴えている前市
長の違法性による損害賠償の立証のためには、前名護市長の証人尋問が不可欠
であると思います。被告の証人採用を強く求めます。

 最後に私的なことを一つ加えておきます。
 今回の一連の運動のなかで、私は個人的な中傷ビラを3回にわたってまかれ、
大ボリューム音量の賛成派妨害情宣によって授業をできない状態に追い込まれ、
「偏向教育をしている」とのデマを流され、予備校業務にも大きな痛手をこう
むりました。“名護を分裂させるために来た内地人”との連呼もありました。
考えてみましたら、本土日本は、まさに沖縄を分裂から分裂へと強いてきたわ
け、徹底した犠牲と金による見返りと称するばらまき財政によって差別を固定・
強化してきたわけです。まさに「沖縄を分裂させるための内地」なわけです。
本土から来られた裁判長、今日、私たちは「比嘉鉄也前名護市長の証人採用を
求めるための署名」3,717名分を提出しました。〈平和的に生きる権利〉にむけ
て、公正でユーモアのある、勇気ある司法の判断を求めたいと考えます。8回
目までの長きにわたるおつき合いありがとうございました。

1999年10月5日(火)
輿石 正

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

*578   CXQ04025  WAKAX             住民投票>名護市民投票裁判第8回公判傍聴記
( 5)   99/10/15 19:51  407へのコメント

 名護市民投票裁判第8回公判の傍聴記を転載します。書かれたご本人に許可
をいただきました。
 裁判官の忌避申し立ては、損害賠償裁判で、被害者については調べるけれど
も加害者について調べないというのは公正ではない、比嘉鉄也前市長の証人申
請却下は絶対に認められない、という理由から行われたそうです。
 転載にあたり補っておいて欲しいとのことでした。

 改行位置を訂正しました。
=====
 10・5 名護市民投票裁判第8回公判について
                           原 義和(会員)

 この日の公判をはじめから終わりまで傍聴させていただいた責任として、緊
急にその内容について、私なりに感じ、理解したことをご報告します。

 この裁判は、1997年12月に行われた市民投票で、普天間基地返還に伴
う代替ヘリポート基地建設について、名護市民の意思が明らかになったにも関
わらず、比嘉鉄也前市長の基地受け入れ表明により、具体的に確保した平和的
生存権と、思想・信条の自由を不当に侵害されたとして、名護市と比嘉鉄也前
名護市長に対し、原告504人へ、一人当たり1万円の支払いを求めた損害賠
償裁判である。
 今回の公判の焦点は、原告側が証人申請をしていた比嘉鉄也前市長について、
それが認められるかどうかであった。504人の原告のうち3人が証言台にた
つとあって、この日は沖縄内外からの支援者と原告、合わせて約90名が那覇
地裁前に集まった。
 公判直前に行われた事前集会では、証人3人がそれぞれの思いを述べ、続い
て沖縄内外から連帯のあいさつがあった。どこか緊張感の漂う雰囲気だった。

 公判はまず、名護市で生まれ育ち、名護市の職員でもある宮城保さんの証人
尋問から始まった。主に、市民投票条例の制定から比嘉前市長の受け入れ表明
に至るまでの経過について証言があった。条例にある「いずれか過半数の意思
を尊重するものとする」はどう理解しても、その結果に従う、その結果に基づ
いて行政決定をすると誰だって思っただろう、比嘉鉄也前市長の発言を聞いた
時は空いた口が塞がらなかった、「苦渋の選択」について説明を聞いたことは
全く無いし、本人から説明を聞きたいし、説明する義務があると思う、などの
証言だった。
 「簡潔に証言して下さい。時間が足りなくなりますので。」との裁判長の注
意を受けつつ、素直でありのままの気持ちを朴訥と述べていらしたと思う。

 次に真志喜トミさんより、出身地である宜野湾での生活や幼い頃の戦争体験
を交え、市民投票までの慣れない「運動」がとても苦しかったこと、それは市
民投票により全て決着がつくのだという強い思いがあったからこそできたこと、
受け入れ発言で裏切られた、とても悔しい思いを味わったことなどを証言され
た。その声は震えており、涙をこらえながら証言していたのではないかと思っ
た。「苦渋の選択」の「苦渋」について名護市民として共有したいと思う、苦
渋とは何か、受け入れられるものかそうでないか、発言した本人をこの場に呼
んでいただいて直接聞いてみたいとも証言された。終盤にウチナーグチによる
証言があった。それに対し裁判長が、「今のところは括弧付きで入れておきま
しょう、先生(三宅俊司弁護士)から後で訳を提出してもらえますか」と口を
挟む様子が、とても印象深かった。傍聴席からは「沖縄で裁判をやっているん
だ」という女性の声も聞かれた。言葉の内容は残念ながら私には把握できなか
ったが、裁判をすることは沖縄の心とは違うよー、沖縄には馴染まないよー、
でも裁判をしないと…という感じだったと思うが、日本語では表しきれない内
容なのだろうと思う。裁判長の対応に、誠意は感じられなかった。

 若干の休憩をはさみ、最後に輿石正さんが証言された。力強く大きな声で、
堂々と証言された。沖縄を二分するナイチャーと言われたこと(本土出身者だ
から)、様々な圧力の中で闘ってきたし今も闘っていること、法治国家で生き
ているのだから司法の場で明らかにしたいと思って裁判を考えたこと、比嘉鉄
也前市長の判断を許すことは、権力を握ればいとも簡単に民意を覆すことがで
きると後世に残してしまうこと、合理的理由が無い限り市民投票の結果を覆す
ことは憲法違反である、などの証言があった。
 その後、宮城保さんが補足の証言をした。受け入れ表明により、個人的な被
害を、経済的にも精神的にも受けたことを話されました。

 被告側の反対尋問は、全く無かった。
 概して被告側の弁護士の態度は、ふんぞり返って天井を見上げていたり、お
よそ人の話を聞こうとするものではなかったと思う。後で輿石正さんにうかが
ったところ、証言中にその様子が目に入り、怒りがこみ上げてきたと仰ってい
た。3名の証人の声が、あまりにも相手に響いていないと感じざるを得なかっ
た。

 幕切れはとてもあっけなかった。
 比嘉鉄也前市長の証人申請があらためて出され、裁判官3名による合議(後
ろの部屋で行われる/2〜3分だった)の末、「比嘉鉄也前市長を証人として
呼ぶことは、いたしません。却下します。」と裁判長が述べ、傍聴席に一瞬ど
よめきが走り、「理由は!」という声が飛び交うやいなや、三宅俊司弁護士よ
り裁判官の忌避申し立てが出され、「忌避申し立てが出されましたので、裁判
を中止いたします。」と裁判長が言って、第8回公判は終わった。ごく短時間
の出来事だった。この時の裁判官の対応は、シナリオ通りとでもいうような、
淡々とこなしている印象を受けた。

 ある程度予想していた結果とはいえ、原告の方々は無力感、脱力感、失望感
を強く抱いただろうと思う。比嘉鉄也前市長の証人採用を要求する署名は、約
3800名分が提出されていた。

 今後の予定は、おそらく1週間から10日の間に忌避申し立てが妥当かどう
かの判断が同地裁の別の裁判官により出され、その後一気に結審に向かうので
はないか、とのことである。
=====
出典:名護ヘリポート基地に反対する会ニュースレター
   美ら海通信(号外)99/10/9

   名護ヘリポート基地に反対する会
   〒230-0014 神奈川県横浜市鶴見区諏訪坂18-19 石原気付
   TEL:090-1544-9350(原) 03-3329-4578(野口)
   FAX:03-3707-5073
   E-mail:nihao@alles.or.jp
   年会費:一口2000円、高校生以下無料
   郵便振替:00250-0-85676
   加入者名:名護へリポート基地に反対する会

*579   CXQ04025  WAKAX             住民投票>名護市民投票裁判、第8回公判記
( 5)   99/10/17 00:28  407へのコメント

 名護市民投票裁判原告団から、第8回公判で証人として法廷に立った輿石正
さんの「第8回公判記」の原稿をいただきましたので転載します。
 『名護市民投票裁判 原告団だよりNO9/個人編』のためにお書きになった
そうです。

(改行位置などを変更しました)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 第8回公判記(輿石 正)

 10月5日、1時半、那覇地裁等2法廷(裁判長 原敏雄)。1年9ヶ月の
裁判最大のヤマ。原告側3人(宮城保、真志喜トミ、輿石正)の始めての証言。
そのポイントは、今回の裁判が、比嘉鉄也前名護市長による市民投票の結果の
ねじまげによって、平和的生存権、思想・信条の自由が不当に侵害されたとし
て、504人の原告団が損害賠償請求をしたものであり、その損害賠償の立証
のためには、被告比嘉鉄也前名護市長の証人採用が必要不可欠である、とする
点である。
 自ら、市民投票条例の「意見書」を名護市議会に提出し、議決させ、その法
に基づき市の予算約2000万円を使って行われた名護市民投票の結果、「米軍ヘ
リ基地移設 反対 52%」が出た。それをたった3日後にくつがえし、基地受
け入れ表明をし、即日辞任(リコールを回避するため)した名護市の行政の長
の無責任さ、権利の逸脱・乱用。この事実の確認をしないで、損害賠償の立証
は不可能である。私たちは、そう主張した。原裁判長は、それは必要ないと拒
否した。前名護市長を証人にも立てずとも、権利の逸脱・乱用は報道記事(証
拠として提出済)などを通して明らかである、とでも考えているのだろうか。
私たちは、裁判長の「却下」の発言に対して、即刻「裁判長忌避」を申し立て
た。裁判長は「忌避申し立てが出されましたので、裁判を中止します。」とだ
け言って退席した。原告席、傍聴席のどよめきと、抗議の声を背に、大きな扉
のむこうに裁判長の黒い服は消えていった。
 「裁判長忌避」についての結論が今日10月15日まだ裁判所から出ていな
い。期待も何もしていない。次回公判あたりで出される「判決」についても期
待しているわけではない。どういう判決文が出てくるのか、その中身をきっち
りと読んでいこうと心しているだけだ。
 今回の公判前に全国から4000人に及ぶ人々からの署名協力がいただけた。遠
くの、地名すら知らない所からの署名文字の一つ一つに眼を通した。その一人
ひとりが大切だ。インターネットから情報を得て、署名用紙を自らコピーして
下さった人、ちゃんと届いたかどうか確認に電話をしてきた人、ひとりで集会
に出ていって、ドキドキして署名を求めた時の手紙をそえて分厚い速達で送っ
て下さった人、「あせらずに!」とひとこと署名用紙の上に書き、押し花をは
って送ってくれた人、などなど。それらの人々の支えもむなしく、「却下!」
のひと言になってしまったことにやはりお詫びしないといけないな、と思う。

 この裁判は、ゴールではない。沖縄から米軍基地をなくし、あらゆる所から
人を殺すことを許す軍事基地をなくしていくために、踏みかためていかねばな
らない一歩にすぎない。その一歩を大切にしていくこと。そこをきちんとした
い。
 沖縄戦で私のおじも宮古島で死んだ。妻のお腹に子供を残したまま26歳で殺
された。差別と拒絶にさらされて、唯一の地上戦にまみれた沖縄で殺された人
は200,656人。その中で沖縄出身者122,228人(民間人約94,000人)が殺された。
慰安婦として強制的につれてこられた朝鮮、中国、台湾、その他の領地の人も
殺された。そして、忘れてはならないこととして、この沖縄戦で12,520人のア
メリカ兵も殺されたのだ。私は「平和の礎」のある戦死者の石碑の所で、自分
の息子の名前に4つの手をのせて「I love you!」と絶叫したアメリカの老夫婦
を見たことがあった。この沖縄戦でアメリカ兵も殺されたことを忘れてはなら
ないと思う。感傷でもなんでもない。
 その後50年間、沖縄での米軍人による犯罪によって死に、傷ついた人々を、
自分のそばにもう一度立たせてみる想像力をどう持ちこたえてゆけるか。憎し
みが「考え方としての全体主義」にすすみ、アメリカ憎し、日本本土憎しと地
すべりをおこさぬためにも、〈人のくらし〉という言葉の生き生きとした全体
像を忘れないことだと思う。
 沖縄には、むき出しの軍事基地がある。辺野古の不発弾処理場では米軍基地
内で日本の自衛隊による不発弾処理が今もなされている。決して、米軍基地は
米軍だけのものではない。それすらもが共通の認識であるかどうか怪しい。こ
れほどの負担をなぜ沖縄に押し付けてくるのか本土日本、とやりきれなさでキ
レそうになることがある、沖縄県庁では、本土化をより前進させるため「新平
和資料館」の展示をよりやわらかいものにする(根こそぎにする)歴史の改竄
をすすめている。ついに沖縄の人々の心の中にまで押し入ってきた。巨額の振
興策なるもので、基地負担のバランスをとろうとし続けてきた本土日本が、本
音を表わして「沖縄人」の中に入ってきた。心の本土化という差別。
 くやしくて、くやしくて、という思いが一番素直な心の表わし方であると思
える沖縄で生きる人間として、私は今回の裁判で思いのたけを述べた。忘れら
れないことがあった。真喜志トミさんが、証言をしていた時のことだ。終わり
に近づいたとき、トミさんは、この裁判について地域のおじいおばあと話をし
たときのことを話した。話しながら心にせり上がってくるものでトミさんのこ
とばは方言になった。「基地はダメだけど、裁判までやるのはよくないんじゃ
ないか」そういう内容をトミさんは自然に方言で話した。本土から来た原敏雄
裁判長は、苦笑しながら、トミさんの発言を制し、困ったという顔で、「今の
ところは、記録の中でカッコでわかるようにして、弁護士さんから訳を提出し
てもらいますか」と言った。私は沖縄に来て14年目で一番の怒りにつき上げら
れた。“なんて言った?裁判長、今なんて言った?ここは沖縄だ!”私は、こ
の大切な怒りをこの裁判から掠めとった。渡してなるものか、と思って今も身
にしまってある。

 本土日本でくらす人に聞いてもらいたいことがある。私は、沖縄の北部、名
護で予備校を経営し、まるはだかで授業と反基地を堂々とやっている。ナイチ
ャーだけに叩きやすさも手伝って、陰に陽にイヤガラセをやられている。“黙
れ!”ということらしいが、私は正々堂々でいいと思っているし、それで楽し
いのだ。自分たちでつくた北部のエコツアー会社(エコネット・美(ちゅら))
での山作業で日曜日はくたくたになりながらも、そのことを授業の中にも入れ、
そして、受験突破の授業ものびのびとやっている。週25時間の授業はそれでも
楽しい。思いきって教えている。圧倒的な経営の苦しさに生身をさらして、そ
れでも、ナンクルナリヤッサーなのである。そんな仕事をしながら、本土日本
の豊かさの中の戦争を思っている。なるほど沖縄だけに戦争のむき出しの基地
と被害がある。しかし、本土日本は、沖縄に安定のため(?)の基地を押し付
けているが故に、血みどろの「平和のなかの戦争」を日々していることも確か
だ。どう見ても、こちらから見れば、そう見えてくる。くらしそのものが平和
の戦場にしずみ、金への突進、子供たちの代理戦争。本土日本の都市を「戦場」
と見えないのはいったいどうしたことだろう。息苦しさと苛立ちの実弾が飛び
交っていることが見えにくいのだろうか。戦場は、本土日本の方が深刻のはず。
私は15年前の自分の東京でのくらしを重ねても、そう思う。「沖縄の心を心と
して」、「沖縄を犠牲にした本土日本の平和」。そんなことばはもうやめにし
た方がいい。正々堂々と、自分たちの戦場を見つめてみる。そこには「米軍基
地」がちゃんとある。見やすい沖縄に我が事を写しかえてしまう想像力から
「沖縄」は見えないし、ユーモアなどうまれようもない。その本土日本の戦場
を沖縄の厳然たる米軍基地とつなげて、その上で「米軍基地ノー」をさぐって
いく。そういうことを今までの裁判運動のなかから教えてもらった。  
                               99.10.15
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

*580   SDI00872  山崎 久隆        東ティモール>救援プロジェクトニュース5
( 5)   99/10/20 12:12  557へのコメント

「東ティモール市民平和救援プロジェクト」ニュースNo5 
                            10月13日作成
10月5日、 石田伸子事務局長がダーヴィンに出発し、第一陣の連絡調整員ジーン・イ
ングリスさんは10月8日に帰国。翌日、帰国報告会を開催。

《石田さん報告書より抜粋》
 
inダーヴィン情報
 
10月6日(水) 石田さんダーヴィン着。翌日、ジーンさんと引き継ぎ作業。
10月8日(木) 緊急援助の調整員経験者である森本真理さん(大橋正明さん紹介
       者)と合流。 
10月9日(金) 2人で世界食糧計画(WFP)のチャーター便でディリに入る。
 
inディリ情報
 
10月10日(土) ディリでの活動体制を整えるため、一旦、ダーヴィンに戻る。
   11日〜東ティモール内での移動手段を確保するためトラック(中古車)を1
500AUドルで、購入。(1ドル80円換算:約12万円)Timor Aidや国連機関との情
報交換など。
 
10月14日(木)石田さんが、続いて15日には森本さんが再度ディリ入り。
 今回は「東ティモール市民平和救援プロジェクト」の名義登録でチャーター便に乗
る。
 
in ディリ情報
 
10月9日 ダン医師の診療所を訪問。 その後、ピースヴィンスジャパンのメンバーと
会う。OCHAの定例会議に参加し、ダン医師の家に帰宅。シスター・ルデスとともに、
今後の支援活動について時間をかけて話す。翌日、ダーヴィンへ戻る。
 現在、 保健関係は国際赤十字(ICRC)、食糧関係は国連食糧計画(WFP)、物
資分配管理はICRC、ワールドビジョン、CARE、水道設備はOFXAM、シェルターを ICRC
とCARE、教育分野をユニセフ、医療は国境なき医師団、AMIがそれぞれ担当。しかし、
物資分配は非常に遅れている。物は倉庫にたくさんあるが、多国籍軍が「安全宣言」
を出したところしか行けず、また、倉庫番はインドネシア軍。倉庫まで取りに行って
も、書類の不備などを理由に配給されないことがある。
 現在もインドネシア軍はしっかりとベースがあり、検問にもいる。電話が通じない
のは妨害電波を出しているのではないかという話もある。今後、物資の分配について
は、CNRTとNGO、国連機関合同の会議を計画中。
 
10月20日頃までディリに滞在予定。
 
マーシー船のその後:
マーシー船の主導NGOのTimor Aidは、  物資の配給とベコラ地区(ディリから約5キ
ロ)で診療活動を開始。石田さんが連絡を取り合っているダン医師は、諸事情により
Tiomr Aidの診療所では働いていない。プロジェクトから援助した冷蔵庫は、ベコラ
の診療所で活躍中。
 
現地からの提案:
・マーシー船の準備段階から関係がある、ダン医師の診療所(1日約150人を診察)と
シスター・ルデスの活動支援の一つとして車を購入することが必要と判断する。理由
は、移動手段がかなり限られていて、調査をはじめ、人や物の運搬さえ困難であるこ
と。ダンさんもルデスさんも山に入っていくことを重要視しているが、これから雨季
に入るため安全な車が必要。シスター・ルデスは、山に住んでいる子どもたちを訪ね
て、仲間といっしょに「学校」らしいものを開いている。(兄弟姉妹の教会というよ
うな呼び方をしていて、彼女は「生きるための学校」と説明。
・ 2回目の滞在では、山のほうにも行きたいと考えている。さらに、東ティモール医
師会とも連絡し、丁寧に状況を把握する。・物資として緊急に足りないものは、石け
ん、塩、炊き出し用の鍋、プラスティック皿、雨期に入る前に蒔く大豆やとうもろこ
しの種。
・また、長期的支援としては、以下のようなものが考えられるのではないか?
 ・助産婦、保健婦、看護婦の養成施設の機能拡充
 ・トラクター、ミシンなどの生活基盤、生活基盤の確立に必要な物資の提供
 ・タイやメキシコの農民との南南農民技術交流(種、技術、加工、共同組合活動)
 ・植林、山間地の生産基盤の回復
 ・自然をいかしたエコツーリズムの開発
 
石田さんが見たディリと現地の声:
 街は壮絶に焼かれていて、ほんとうにひどいことをすると、怒りがわいてきます。
でも、みんなニコニコです。VIVA XANANA(シャナナ)、CNRTの旗などの落書きも、
焼け跡にいっぱいあります。 国連がいてさまざまなNGOがいて、食糧はあるけれど運
べなくて、インドネシア軍もいてというなかで、じっと待っている、みたいな感じで
す。
 ただ、「安全」でないといわれる地区、物が配送されない地区は大変な状況だと思
われます。シスター・ルデスは、山の村に行くと、首のない死体など数多く見ると言
います。
 
 私たちプロジェクトは、規模は大きくないけれど、人々から人々へ、しっかり伝わ
り、 その後も関係を発展させていけるようなものでありたいと言うと、 ルデスは、
「NGOが援助をするというと、 大きなお金や建物をくれようとするが、それは結局、
そこに依存しなければならない、という体質をつくるだけだ。そして、おまえらは進
みが遅い、早くは早くとせかして、しばらくしたら消えてしまう。だから私たちは、
大きなお金がほしいとは思わない。上からの物ではなく、いくら速度が遅くても、下
からのものを自分たちの力をつくりながら、しっかりつくっていきたい。私たちは日
本のようになりたいと思わないし、アメリカのようになりたいとも思わない。私たち
には私たちの文化があるから、。貧しい人々を組織して、生きる力をつけていきたい。
 
ジーンさんの報告から:
 9月23日にダーヴィンに入り、 救援物資船マーシー号出航のためのいろんな準備を
しました。船は29日にディリに着き、港では多くの人が倉庫に収める作業を手伝って
くれました。10月3日から6日までディリに入りました。いくつかの診療所を見学しま
した。今、山に逃げていた人が町に戻ってきているのですが、結核と肺炎を患ってい
る人が多いようです。
 また、この1、2ヶ月間に生まれた赤ちゃんを連れてきているお母さんが多く、な
かには栄養不良で母乳がでない人もいます。診療所では外国人医者が働いていますが、
通訳として東ティモールの医学生が活躍しています。
 西ティモールに強制連行された東ティモール人は、20万とも25万ともいわれま
す。「難民キャンプ」と呼ばれていますが、実際は「強制収容所」のようなもの。東
ティモールよりも厳しい状況と思います。そして、心配なのはインドネシア軍がいま
だに電気や水道などを管理していることと、撤退するときにすべてのインフラを破壊
していくという噂です。すでに、ディリの家や商店は、建物が残っていてもすべて略
奪されています。戦後の廃墟のようだけれど、みんな元気です。(10月9日報告会
にて)
 
**************************************
 
 「ほんとうに何もないけどみんな元気よ」というジーンさん。石田さんも「人びと
はニコニコ」と言います。うれしくもありますが、素直には喜べません。どうして東
ティモールの人びとは、殺され、奪われ続けなければならないのでしょう。事務所で
国連や国際NGOの動き、政治情勢を追っかけながら、すでに破壊がおきてしまった
東ティモールの現実に、ふと、無力感を感じます。(記:清水祐子)
 
東ティモール市民平和救援プロジェクト<parc@jca.apc.org>
101-0052 千代田区神田小川町2-1 檜ビル3F
アジア太平洋資料センター(PARC=パルク)内
tel 03-3291-5901 fax 03-3292-2437
           ≪ ≪お知らせ≫ ≫
金曜定例会議に参加しませんか           来て、来て、来てね!
とき:10月15日 夜7時〜
ところ:アジア太平洋資料センター(パルク)事務所
〜大規模な援助ではなく、現地の人びとの声を聞き、つながり続けられる活動にした
いと思っています。みなさんのプロジェクトへのご意見やご質問、大胆な発想もお待
ちしています。
そして、厳しい財政危機が押し寄せています。金曜日には出来たてほやほやリー
フレットをお渡しできそうです。これから、リーフレット配布とカンパ集め
にご協力をお願いします。〜
 
コンサートのご案内
             ==============================================
             ニノ・ペレイラが歌う東ティモール救援コンサート
                        5 November 1999 in TOKYO
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1999年11月5日(金)18:30〜20:00(開場18:00)
東京YWCAカフマン・ホール(JR御茶ノ水駅徒歩5分)
歌:ニノ・ペレイラ(東ティモール学生民族抵抗評議会)
報告:石田伸子(東ティモール市民平和救援プロジェクト)
予約1000円、当日1200円
 
電話、ファックス、電子メール、ホームページでもご予約いただけますが、なる
べく11月1日(月)までに「コンサート予約」と明記のうえ、代金をお振り込みく
ださい。
      郵便振替 00140-5-37561 インドネシア民主化支援ネットワーク
 
当日、予約していただいた方用の受付を出しますので、そちらにいらしてください。
 
主催:呉YWCA
共催:東ティモール市民平和救援プロジェクト
&東京YWCA国際社会ネットワーク委員会
 
                          お問い合わせ&予約先
                  東ティモール市民平和救援プロジェクト
         (コンサート担当:インドネシア民主化支援ネットワーク)
        〒160-0008 東京都新宿区三栄町12-6 ヒルズ三栄町101号室
     Tel/Fax: 03-3356-8364 携帯: 090-2942-9930 nindja@bigfoot.com
  http://www.bigfoot.com/~nindja/(ホームページでも予約いただけます)
 
                                                   YAMASAKI (SDI00872)



 
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