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Date: Tue, 27 Jul 1999 04:08:55 +0900
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From: "MARUYAMA K." <kaymaru@jca.apc.org>
Subject: [keystone 1722] 準備書面10−2:思いやり予算
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 「思いやり予算」違憲訴訟・東京 準備書面(10)のつづきです。

========================= つづき ここから=============================
 

四、被告国の機関が思いやり予算を決定し、支出した行為によって侵害された原
告らの法益

       1. 原告の有する憲法的権利

        本件訴訟によって原告らが主張する権利ないし法益は、国民の一員と
       して憲法上有する平和的生存権、担(納)税者基本権、幸福享受追求権
       であり、また、それらから発生する司法によって保護されるべき私法的
       権利ないし法益である。

        これらの諸権利ないし利益は日本国憲法の基盤をなす国民と国家の関
       係から生ずるものであって、それらは憲法の前文及び各条項によって具
       体化されているのである。

       2. 日本国憲法の国家原理と基本的人権

        日本国憲法が制定される前提として存在していたのは、人民は本源的
       に基本的人権を有するということである。憲法はこれを生命、自由及び
       幸福追求の権利として具体的に表現している(第13条)。このような基
       本的人権は、憲法が制定されることによってはじめて国民の権利として
       発生するものではないし、また国家権力から与えられることによって国
       民がこれを保有するものではない。憲法が「基本的人権は侵すことの出
       来ない永久の権利として、現在及び将来国民に与えられる」と規定し(
       第13条)、「立法その他の国政の上で最大の尊重を必要とする」とある
       (第13条)のは、基本的人権が人民の天賦の権利として国家成立の以前
       から存在していること及び人民がその権力によって設立した国家の権力
       が国民となった人民に対してこれを確認し、保障することを、その国家
       成立の契約文書である憲法典によって表明したものである。そのこと
       は、この憲法の由来、起源及び本質をあきらかにしている前文に「ここ
       に主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国
       政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来
       し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その権利は国民がこれを
       享受する。」とあるとおりである。「これは人権普遍の原理であり、こ
       の憲法はかかる原理に基づくものである。」

        日本国憲法前文が宣言する日本国家の存立の基礎、国民と国家との関
       係、人権の位置付けは、この憲法制定以前に存在していた大日本帝国憲
       法にみられるとおり、日本の歴史的経過とは必ずしも一致していないこ
       とは事実である。日本の人民が、明治維新に始まる日本の近代化への歩
       み以来の戦争と人権無視・抑圧の過程が敗戦の惨禍を招来した歴史を反
       省することにより、人類普遍の原則を発見し、確認し、それにもとづい
       て日本国憲法を制定するに至ったことを表明したのが憲法前文である。

        ここにおいては、国家の権力は、国民が主権者として国家機関に授与
       し信託した範囲に限定され、その行使の態様は国民に人権の享有せしめ
       るという目的に向けられるのであって、それに反する行使は国民によっ
       て否認され、その責任が問われることになるのである。明治憲法以来の
       国家は、萬能の権力をもっているが、その行為については憲法、法律に
       よって規制されると言うプロイセン=ドイツ国法学流の国家観及び人民
       の権利は国家が授与し承認し、憲法法律に規定することによって存在す
       るという人権についての制度的保障論は、日本国憲法の原理と相容れる
       ものではなく、一掃されなければならないのである。

       3. 平和的生存権

        日本国憲法が平和主義を、国民主権、基本的人権の尊重と並んで三つ
       の基本原理の一つとしていることを疑うものはいない。日本国憲法は、
       その前文に明らかなとおり国民の「政府の行為によって再び戦争の惨禍
       がおこることにないようにすること」の決意によって制定されたもので
       ある。平和主義の内容は前文2項に詳細されている。第9条の戦争の放
       棄、軍備及び交戦権の否認はその具体化条項化である。

        各国の憲法の内には、侵略戦争を否認するものもあるが、戦争全般を
       否認し、軍備を全廃し、国際法上主権国家の権能として認められている
       交戦権を自らの意思として放棄している憲法はこれを見出すことができ
       ない。

        憲法の平和原則には、日本の戦争行為が国の内外に惨禍を生じさせた
       経験にかんがみ、再びこのような道を歩むまいとする政策的選択の側面
       があることは事実であろう。しかし、世界の人々は19世紀後半以来こと
       に第一次世界大戦の教訓に学んで戦争を否認し、平和への道を探って国
       際連盟を結成して国策の遂行について戦争の手段にうったえることを抑
       止し、1928年には戦争放棄に関する条約を締結し大多数の国がこれに参
       加したにもかかわらず、自衛権行使の名目で戦争がおこなわれてきた。
       日本の戦争はそのような動きの最たるものであった、第二次世界大戦の
       結果にもとづいて結成された国際連合は、それまでの経験を取り入れて
       平和への道を一層確かなものにする試みであった。国連憲章は、国際の
       平和の維持をその第一の目的として国際紛争の解決については平和的方
       法をとることを各国に義務づけていながらも、戦争を全面的には否定し
       ていない。侵略に対する自衛、国連安全保障理事会による措置、地域的
       取り決めによる集団的安全保障において軍事力行使を認めている。この
       ような状態の中で、日本があえて全面的な戦争放棄の道をえらんだの
       は、それは歴史のすう勢が窮局的に至る地点であり、また人間の尊厳と
       基本的人権が確立されるためには、それ以外ないとの確信のもとに、そ
       の途上には幾多の困難が横たわっていることも認識しながらも、平和主
       義を憲法の三大原理の一つとしてあえて決定したのである。したがって
       平和主義は、単に国の施政の基本的方針であるにとどまらず、憲法がよ
       って立つところの基本的人権を内容的に明らかにしている第13条の個人
       の尊厳、生命、自由及び幸福追求の権利を、国及び国民の安全及び生存
       に関する面へ展開したものであり基本的人権の一部である。これが9条を
       中心的な柱となって「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、わ
       れらの安全と生存を保持しようと決意した」ところの日本国民の真の意
       味の安全保障の方法であり、またその実体である。憲法は、国民がこの
       ようにして生きていくことを保障しているのであって、その前文が「我
       らは全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存
       する権利を有することを確認する」と明言しているのは、それが基本的
       人権であることを確認しているのである。日本国民がここにいわれてい
       る「全世界の国民」の中に含まれていることはいうまでもないところで
       ある。

        憲法9条の存在は、戦後の世界においても戦争と武力による国際紛争の
       たえない中にあって、目本国と日本国民を直接これに関与することのな
       い状態においた。各国民が軍備拡大による国民生清の圧追になやまされ
       ている中で、第九条は防衛費のぼう張をおさえてきたばかりではなく、
       日本に対する米国のしつような軍事的負担の増強の要求への盾の役割を
       果たしてきた。その結果として国民の生命と安全は守られてきた。ま
       た、日本の経済は軍事的負担が少ないことによって他国に比していちじ
       るしい発展をとげ、国民の生清においても豊かさを増してきたのであ
       る。

        このように憲法の平和原則は、形式的には憲法上の条項とその前文に
       おいて平和的生存権として確認されているところであり、右に見たとお
       り実質的にも国民の生命、身体の安全及び生活の権利として存在してき
       ていたのである。これこそまさに憲法第13条の人権の内実化にほかなら
       ない。

        被告は平和的共存権は抽象的概念であるとか、実性のない理念にすぎ
       ないなど主張しているが、一体果たして何を目してこのような主張をし
       ているのであるのか。平和的生存権が国民の憲法上の権利として形式的
       にも、実質的にも存在していることは、被告のようにことさら右の事実
       をみまいとしている人々以外には、これを否定することができないので
       ある。

       4. 担(納)税者基本権

       (1)日本国は、主権者たる国民が社会契約によって国家を結成し、政府
       機関を設立し、その権利の一部を国家に信託し、国家は国民から受託し
       た権能を国民の基本的人権の確立、伸長のために行使し、国民がそこか
       らもたらされた福利を享受するという構成になっていることは前記のと
       おりである。この契約の内容は憲法が明らかにするところであって、国
       民の代表として位置づけられている国会といえどもこのような国家の機
       関の一部であって、その権能は国民から信託された権能以上のものをな
       しえないのである。

        租税はこのような国家の機構が機能するのに必要な費用を、国政の信
       託者たる国民が分担して拠出するものである。TaxPayerとは、このよう
       な国民の立場を言うのであって、この内容を性格に日本語に訳するなら
       ば、租税分担拠出者とすべきであろう。戦後の日本で実施されている所
       得税の本人申告制度はこのような租税思想の制度化である。

        憲法第30条には納税の義務とあるが、日本国憲法の構造からいうと適
       切な表現ではない。日本語で税を納めることの意味は、国民の上に国家
       という存在が既にあり、国民にそこに税を差し上げるということであ
       る。国家は統治の資金として国民に金員等を賦課し、国民はこれに応じ
       てこれを納入するのである。歴史的に見れば、国家と国民の関係、租税
       としての金員等の授受関係はこのとおりであった。立憲君主制国家でも
       税についてこのような説明がなされており、明治憲法下においてそのと
       おりであった。しかし、日本国憲法国家構造はこのようにはなっていな
       いのである。

       (2) 租税法律主義は、国民が国家から恣意的な賦課を受けないという
       ことであり、国会の承認を必要とすることである。また徴税手続におい
       て適正手続が要求せられてきたのは、明治憲法のような国家の制度とし
       てもありえたのである。したがって、これまでも、所得税等の賦課額が
       法律とたがい、徴収の手続が法定の手続と違っている場合においては、
       これを争訟事項としていたのである。租税法律主義及び租税の支払・受
       領の方式について適正手続が遵守されなければならないことは、現憲法
       下においても一層施行されなければならないのは当然のことである。し
       かし、国制が一変した事態において、旧制度における租税思想がそのま
       ま持ち込まれてよいかということは、別の問題である。租税の支払、受
       領面においてのみ憲法的規制が働き、その使用面には憲法的保障が及ば
       ないのかどうかは、明確にしておかなければならない問題である。

        被告の準備書面でこの問題を取り上げている次のくだりは、明治憲法
       下の租税法の教科書の引用としてでも通用できそうである。

        「納税者は、租税実体法の定める課税要件を充足する事実の発生によ
       り法律上当然に租税を納付する義務を負担することになる。そして、徴
       収された租税は、原則としてその使用目的を個別的に特定することな
       く、国家財政の一般財源となり、その支出について、憲法83条、85条、
       86条は、財政民主主義の原則に基づき、国費は毎会計年度の予算の国会
       における審議手続を経て、国会の議決に基づいて支出すべきものと定め
       ている。そして、予算の基礎となる国の歳入は、租税が租税法によって
       徴収されるように、法令の規定に基づいて徴収、収納されるのであって
       歳入予算によって初めて租税の徴収権が生ずるものではないことは明ら
       かである。したがって、憲法上、国民の納税義務と国費の支出とは形式
       的にも実質的にもその法的根拠を異にし、全く別異な者であって、両者
       は、直接的、具体的な関連性を有」しない。また「予算に基づく国費の
       支出の違法が租税の徴収の違法をもたらすものではない」ともいってい
       る。これは租税の分担面と使途面を法的に切断しようとする立場であ
       り、憲法的規制を問題としていないのである。

        現行の租税法関係法規の表面を形式的になぞろうとすれば、そのとお
       りであろうが、これらを憲法の国民主権、人梅尊重原則の立場に立って
       読みかえせばどのようになるのか。そこには国民の租税基本権の問題が
       生じるのである。

       (3)租税についての憲法的規制と保障

        原告らは訴状の請求原因7、において次のような主張をした。

              フランスの人権宣言(人間と市民の権利宣言)第13条で
              「課税は全て市民の間にその負担能力にしたがって、平等
              に分配されなければならない。」と宣言した上で、同第14
              条は「市民は市民自らもしくはその代表者を通じて、公的
              の租税の必要を調査し、使徒を監視し自由に同意し、税
              額、課税基礎や方法及び期間を決定する権利を有する」と
              宣言している。さらに同16上は、「社会は行政の全てにつ
              いて公務員に報告を求める権利を有する」とも宣言してい
              る(これらの規定は現在のフランス憲法でも継承されてい
              る)。

               またスウェーデン憲法第57条は「人民自ら人民に課税す
              るというスウェーデン人本来からの権利は国会だけが行使
              する」としている(宮沢俊義編『世界憲法集』岩波文
              庫)。

        憲法第30条の「国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負
       ふ」と言う規定は、日本国憲法の構造からすれば、右に引用したフラン
       ス人権宣言と同じく、主権者たる国民からその権力を信託された政府が
       国政をおこなうについて信託者たる国民がその費用を分担とするという
       意味である。この規定は明治憲法第21条の「日本臣民ハ法律ノ定ムル所
       二従ヒ納税ノ義務ヲ有ス」という規定とその表現は同一であるが、その
       法的意味は異なるのである。これを同一の趣旨と読むのが被告の立場で
       ある。

        政府は国民から信託された受任者の立場において国制をおこない、そ
       の結果である福利は国民が享受すべきものであるから、国民は国政の費
       用として分担拠出し、政府が支出した租税の用法とその効果がどのよう
       であるかについてこれを監視し、検査でき、そのような権利を本来的に
       もっていることは当然である。

        国会が予算を審議、決定し、また国会が財的支出について審議を行う
       のは、国民の代表としてこれを行うのである。その代表として選出した
       国会をして審議せしめるということは、その選出母体である国民に租税
       について本源的な憲法的権利が存在しているからにほかならない。

        この場合において、国会議員が国民から託された租税に関する権限の
       行使を適正に行使することを怠り、憲法、法律に反するとして租税が使
       われ、あるいは妥性を欠く支出が続けられた場合、どのようになるの
       か。被告は、それは政治的責任の問題であるから次の選挙によって批判
       がなされ、代表としての適任者が選出されることによてこれが是正され
       る、とでも言うのであろう。しかし現代の選挙での争点は、多岐にわた
       るものであるから、そこであらためて選出されたからといって個別的問
       題のすべてについての判断と行為が是認されたことにはならないのであ
       る。

        このような事態に対して地方自治においては納税者訴訟があり、地方
       自治における本来的主権者である住民自らがこれを是正する方法を講じ
       ている。この納税者訴訟については地方自治に関する憲法第9章において
       規定がない。従ってこれは地方自治の本旨即ち地方自治の主権者である
       住民の本来的権利にもとづいて設定されたものであると解されるのであ
       る。

        旧地方自治法第243条の2において住民訴訟制度が設けられた際、国会
       の審議過程において、政府委員は「納税負担者として、自分の出した金
       の使い方について異存があります場合、直接的に何らかの発言をする方
       法をもつということは、むしろこれは当然の要求ではないだろうかとい
       うところから、このような規定を設けた次第」であると説明し(第244国
       会・衆院冶安及び地方制度委員会での答弁、地方制度資科第5部63頁)、
       租税負担の利益を擁護するためにその負担者に発言権を与えるのが、こ
       の制度の趣旨であるとしている。

        このように地方自治段階ではあるが、国家とともに国民主権の分割的
       受託にかかる地方自治法の改正論議において、公費の支出に対し費用負
       担者としての住民の立場から直接その司法的統制を認めることはむしろ
       当然であるとされていたのである。国税についても同じく租税負担者と
       してこのような権利があることはあきらかであるので、国の租税の用途
       についてもこのような制度が設けられてよかったのであるが、現実の問
       題としては実現していないのである。したがって、違憲または不適切な
       国の租税の使用に対しては、国会による是正が行われていない事態、あ
       るいはその是正が期待しえない場合においては、国会の権限も源泉であ
       る国民の基本権者としての是正権の発動が許されなければならないとす
       るのが憲法構造論からの結論である。

       (4)租税基本権の負担面と使途面の一体性

        国家の主権が国民になく、主権者が別にあった時代においては、国民
       は施政の費用として賦課される金額について同意を与えることにおいて
       それを制約すればそれだけでもよしとしなければならなかった。この場
       合においても租税法律主義が成立つことは前記のとおりである。しか
       し、国政の運用が主権者である国民の信託に応えるためのものであり、
       そのために国民がその費用を分担拠出することになると、国民の租税に
       関する権利が、その使途の面に及ぶことは当然のこととなる。

        国民のその分担額の拠出は、国政についての支出が決まってから割り
       当てられ、拠出されるのでは、財政の運用上時間的制約があって技術的
       に不可能であろう。そこ財政技術としては負担、拠出面と使途面が一応
       分離し、負担面が先行されるのはやむを得ないところである。しかし、
       それは一応のことであって、国家財政の主たる面はその使途面にあり、
       この費用を国民が分担拠出するのが国民主権国家における租税の本質で
       ある。相当の期間を取ってみれば、その負担、拠出と使途は一体のもの
       として負担は使途にあわせることによって調和しなければならないもの
       である。同じ負担、拠出面と、使途面に分離が見られるといっても、主
       権が国民にある場合と他に主権がある場合とではその意義を異にするの
       である。したがって、負担、拠出面と使途面において分離がみられるか
       らといって、租税基本権の存在を否定する主張は、日本国憲法の国家構
       造における租税の本質を無視ないし看過するものであって、封建的国家
       あるいは絶対主義的国家における租税観にとらわれていると評されても
       仕方のないものである。

       5 国の違法行為について裁判によって保護されるべき原告らの権利・法
       益

       (1)不法行為における被害者側の権利・法益が民法・商法典等に規定さ
       れている類型的な権利でなくともよいことは、判例上それらが身体権、
       自由権、名誉権など法文上明文のない権利に及んでいることからしてこ
       れを疑う者はいない。さらにこのような権利の範囲は、人格権と言った
       抽象的でありかつ必ずしも範囲の明確でない権利に及び、さらにプライ
       ヴァシイの権利、静穏権といったようなこれまでは、保護の及ばなかっ
       たような権利に広がる傾向にあることも周知のとおりである。

        このようになるとそれは、権利というよりは他人の介入を許さない、
       あるいは介入された場合は何らかの補償を認めるのが相当と社会的に考
       えられるある人の利益ということになる。

       (2)原告らが本件訴訟で主張している権利である平和的生存権、租税基
       本権は、主権者である国民の一人として有している憲法上の権利として
       憲法典に明示されている明確な権利である。被告はこれらの権利を抽象
       的であるとか理念にすぎないといってその権利性を否定しようとしてい
       るが、それが具体的であり、又法文上の根拠を有することはすでに見て
       きたとおりてある。被告としてもこれらが公法上の権利であり、公法的
       事件として争われる場合においてまで、その存在を否定しようとしてい
       るのではないように見うけられる。仮りに被告がこれらの公法上の権利
       性をも否定しようとするのであれば、それこそ憲法第99条違反の行為と
       なるであろう。したがって、被告のいわんとするところは、それらが不
       法行為において裁判上救済の対象となるべき私法上の権利ないし利益に
       あたらないということであろう。

        しかしすでにみてきたとおり、憲法の平和的原則及び第9条にあること
       により、またそれが国制上において一定の機能をしていることによっ
       て、原告ら自らあるいはその近親者が戦争参加を強いられる機会もな
       く、一五年戦争下にみられたような自由の剥奪にあることもなく、それ
       ほど豊かというところまではいかないにしてのも一応の生活をすること
       ができ、幸福の追求が可能になってきていたのである。少なくともこの
       範囲においては、この存在によって憲法第12条に言う生命、自由及び幸
       福追求の権利を実現することが出来たのである。

        これに関する担税者としての租税基本権の実現についても、日本の防
       衛費が国民総生産の1%以内に長い間に抑えられてきた事実にみられる
       とおりその負担を軽くしてきた拠点は、憲法第9条の存在にあつた。

        被告が、原告のこれらの現実的具体的利益の存在が憲法第9条の存在と
       無関係であると主張して、その証明を試みようと思っても、それは不可
       能であろう。このような憲法上の権利がどうして抽象的であり、理念に
       すぎないといえるのであろうか。これらの国民の権利及び利益がすでに
       示してきた違憲違法である「思いやり予算」の継続、増大によって国家
       またはその機関によって侵され、またはさらに深刻に侵されようとして
       いる時、それは原告ら国民にとって憲法上の権利の侵害であるとともに
       私の権利、利益への侵害であり、それらは司法がこれを取り上げ、保講
       しなけれぱならない対象である。

        国及びその機関による原告らの平和的生存権及び担税者としての租税
       基本権への侵犯の具体的態様については上記三ほか既出の準備書面上に
       おいて詳細に述べたとおりである。これらによって戦争の危険がひきよ
       せられ、国民がいやおうのない戦争加担の可能性が高まり、他人を害す
       ることなく平和に生きていることがおびやかされることになって原告ら
       の右の法益が侵害され、さらにその強度が高まってきているのである。

        この侵犯はまた原告らの日本国憲法の制定者またはその継承者の一人
       として、世界の平和を愛する諸国民に対して日本国民がなした平和原則
       の遵守の誓約の履行を著しく困難におとしいれせしめ、原告らが憲法第
       11条によって現在及び将来の国民に負っている人権と平和擁護義務に対
       する良心を痛く傷つけ、また諸国民から平和的国民であるとの信頼とそ
       こにおいて有する名誉を著しく失墜せしめた。原告らは今日の事態を結
       果としてではあるが許したことになったことに対して次代の国民から、
       憲法第12条及び第97条の責務を怠ったものとして非難をうけるのではな
       いかとの恐れを禁じえない。

        裁判所が原告らのこれらの損害について救済の手をさしのばさないの
       ならば、裁判所もまた世界の人々及び後代の国民から批判をまぬがれる
       ことができないであろう。

========================= ここまで =============================
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 MARUYAMA K.  kaymaru@jca.apc.org
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