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Subject: [keystone 1653] 沖縄・公聴会
Date: Wed, 7 Jul 1999 23:16:21 +0900
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沖縄の後藤です。

「日の君」沖縄公聴会の
社民党推薦、平良修氏の意見陳述の原稿です。
国旗国歌法案についての沖縄地方公聴会における意見陳述

1999.7.6
平良 修
1、国旗国歌がなくても国は存在し得る。国旗国歌は国の印に過ぎない。しかし一
般論として国が国旗国歌を持つことも、場合によっては、それらを法制化すること
も容認できる。しかし日の丸君が代を国旗国歌とすることには反対する。ましてや
それらを法制化することはまったく容認できない。国旗国歌法案は廃案にすべきで
ある。

2、日の丸について-反対の理由
 日の丸は単なる自然現象としての太陽を意味するものではない。単にそれだけな
ら、天高く昇り輝く太陽のデザインは、他の国の国旗にもなり得るデザインである
と思う。しかし日の丸には日本独自の意味づけがある。それは日本国を「火の本」
「日出づる国」とする太陽神・天照大神による肇国神話と、太陽神の神霊を継承す
る天皇によって支配されるべき特別な国体であるとの思想を表している。そこから
外国を「日没する国」と蔑称する発想も生まれてきた。戦時中の国民学校の教師用
手引書は次のように記述している。「我が日本は日の本であり、日の神直径の御子
孫のしろしめす国であり、日本人は日の神の末裔であると、みずからを任じきった。
このようにして、肇国以来揺るぎなき国体とともに国民精神の反映が日の丸の旗の
うちに鮮やかに看取らせられるのである。随って、日の丸の旗の由来について説こ
うとすれば、皇統連綿たる国史と国土国勢とそうして国民性とのすべてにわたって
触れていかざるを得ない。」
 しかし第二次世界大戦を経て、日本はこのような特別な国ではなく、普通の国家
のひとつになった。現人神の主権によってではなく、国民の主権によって営まれる
国家になった。その意味において、日の丸は国旗としてまったく不適当である。
 さらに、日の丸は日本の侵略戦争の第一級軍旗としての汚点を持つ旗である。
「日本の日の丸なだて赤い、おらが息子の血で赤い」と歌った母親がいた。日の丸
はそういう脛に傷持つ旗である。日本の侵略を受けた国々の中には、日の丸を見た
ら今でも憎悪を感じる人は大勢いる。そういう旗は日本の平和主義にふさわしくな
い。日の丸は日本の国旗としてまったく不適当である。

3、君が代について-反対の理由
 君が代は明らかに天皇が支配する国家の永遠の繁栄を祈り歌った歌である。「我
が天皇陛下のお治めになる御代は千年も万年もいやいつまでもいつまでも続いてお
栄えになるようにとの意味で、まことにめでたい歌です。」(修身教科書)。天皇
が主権者であった過去においては、国歌としてまったくふさわしい歌であった。し
かし現在主権者は国民である。国民の大多数が希望すれば憲法を改正して、象徴天
皇制を廃止することもできる権能を、国民が持っている。したがって君が代が国歌
にふさわしくないことは論をまたない。ただ国民主権が敗戦によって棚ぼた式に与
えられた、いわば不労所得であったため、国民はそれを本当には理解せず、君が代
を廃しして国民主権の新しい国歌を作り出すことが出来なかったに過ぎない。
 それを「君が代の歌詞は天皇を象徴とする日本の末永い繁栄と平和を祈念したも
のと理解するのが適当」との政府の新解釈は、何としてでも天皇を軸とした体制を
維持せんがための苦肉の策にすぎない。時代が変わったから歌詞はそのままで意味
の解釈を変えるということは、許されることではない。政府は日の丸君が代は慣習
法的に定着していると繰り返して言うが、政府自体が君が代の歌詞について新解釈
を出さざるを得ないような状況で、果たして定着していると言えるのか、極めて疑
問である。

4、主権在民、平和主義国家にふさわしいあたらしい国旗国歌を制定することが望
ましい。それまでは現行のものを慣習的に用いる。そして将来新国旗国歌が制定さ
れても、法制化されても、国民の思想信条表現の自由の立場から、使用を強制しな
ことが肝要である。それの出来る国のシンボルとしてのみ国旗国歌は意義を有する。
 文部大臣は「口をこじ開けてまで強制的に歌わせることはしない」と言ったそう
だが、このような物理的実力行使に至るまでは「強制」にならないという認識であ
れば事は重大である。内心の自由との関係で、強制とは人間の自由意志の働きへの
圧力となるすべての行動を指すものではないのか。国旗国歌は国民の国旗国歌であ
って、政府のものではない。その使用については国民の自由意志がもっとも尊重さ
れるべきである。国民の自由意志を圧迫して、国旗をっかの使用を強制しようとす
る国は、国旗国歌を持つ資格はない。
 政府はこれまで日の丸君が代は国旗国歌として定着しているので法制化はしない
と言ってきた。にもかかわらずその方針を急変させたのは、日の丸掲揚と君が代斉
唱を強要する政府の罰則付き指導と、それに反対する教師たちとの板ばさみにあい、
苦悩の末自殺した広島の高校長の悲劇が直接の契機になっている。したがって法制
化によって日の丸君が代に、より明確な根拠を与え、このような悲劇の再発を未然
に防ぐのだという言う。
 これはあまりにも短絡した発想ではないか。あの悲劇がおこったのは、文部省が
日の丸君が代を教育指導要領によって事実上強制したことによるのである。それさ
えなければ、教師たちの抵抗も校長の苦悩もなかったのである。その強制にさらに
法的な力を加えることによって事を片付けようとする政府の発想は、粗雑かつ強権
的である。法制化によって国民が国旗国歌に誇りを持ち、国を愛する心が養われる
ことを期待している政府の期待に反して、日の丸君が代はこれまで以上に国民に冷
遇されることにならないか。あの校長の悲劇はなくなるどころか、もっと多発する
ことになりかねない。

6、国旗国歌の制定は賛成過半数で機械的に決めるようなものであってはならない。
国民の心がそこになければ、仮に形式的には国旗国歌になったとしても、真の国の
旗、国の歌にはなり得ない。時間をかけた幅広い全国民的討議が絶対不可欠である。
場合によっては国民投票も必要ではないか。報道によると自民党は7月21日の内
閣委員会で可決し、22日の衆議院本会議で採決する方針であると言う。私は強く
要求する。本公聴会を単なる通過儀礼にしてはならない。日の丸君が代を法制化す
るにはあまりにも問題が多い。1879年琉球王国が日本に併合されて以来120
年、沖縄は日の丸君が代によって苦労させられ続けてきた。沖縄に生を受けた者と
して、日の丸君が代に対する想いは極めて複雑、かつ否定的である。私はとくに沖
縄県民としてその廃案を求める。少なくとも継続議案とすることを強く要望する。
 
 
 

SATOSHI  GOTOU
沖縄

fwgk4969@mb.infoweb.ne.jp



 
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