Date: Thu, 10 Dec 1998 02:43:52 +0900 (JST)
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To: keystone@jca.ax.apc.org
From: Hitotsubo Kantoh <hankach@jca.ax.apc.org>
Subject: [keystone 887] 沖縄知事選挙報告集会 講演全文
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 遅くなりましたが、12月1日に行われた「沖縄知事選挙報告 地位協定の見直し
を求め 新たな基地建設を許さないつどい」での新崎盛暉さんの講演記録を投稿しま
す。長文ですが、これからの反基地運動の参考にぜひお読みいただきたいと思います
。なお、文章化と校正の責任は「沖縄・一坪反戦地主会 関東ブロック」にあります

 ホームページにも掲載しました。ホームページ版は、関連資料にリンクが付けてあ
りますので、ホームページをご覧いただける方はそちらも合わせてご利用いただけま
したら幸いです。
http://www.jca.ax.apc.org/~sei-u/hitotsubo_kanto/Misc/arasaki981201.html

============================ ここから ================================
 

           沖縄知事選挙報告
         地位協定の見直しを求め、
       新たな基地建設を許さないつどい

          講演記録 1998年12月1日

  新崎盛暉(一坪反戦地主会代表世話人・沖縄大学教授)
        
 

 与えられた時間、私が感じていること、知っていることを皆さんの議論の材
料にしていただく形で、お話をさせていただきます。

 この選挙の結果をどう見るかということについては、15日に投開票があっ
て、開票の翌日の16日に二つほど文章を書きました。一つは共同通信社から
配信された記事です。あちらこちらの地方紙に載っていると思いますが、沖縄
では翌日の17日に琉球新報に、沖縄タイムスが二日ほどおいて19日に掲載
しました。それを資料に加えるようにお願いしてあったのですが、配付された
資料では、17日の琉球新報と27日の沖縄タイムスの記事が入れ違っている
ようです。27日の沖縄タイムスの記事も選挙と関係なくはないのですが、共
同配信の記事は入っていません。そのかわり、同じ日に書いた『週刊金曜日』
の記事が1ページに載っています。力点の置き方などに差はありますが、筋と
してはそう違わないので参考にしてください。

 今日は関東一坪主催の集会で、私も同じ一坪反戦地主ですから、いってみれ
ば身内です。そういう集会ですし、ここにお集まりのほとんどすべての方は大
田か稲嶺かという相対的選択の中では間違いなく大田という選択をされる方々
だと思います。また、私は今回の選挙においては大田昌秀の推薦者でした。今
回の選挙ではというのは、前の2回の選挙では私は推薦者ではなかったという
ことです。 推薦者になってっくれと依頼されたこともありませんでした。その
必要もないと思われていたのでしょうが、今回は沖教祖の委員長の石川元平さ
んからぜひ推薦人にと話があったので、「僕にまで声をかけてくるというのは
よっぽど追いつめられているんだなあ」と冗談を言いました。まあ、半分は冗
談でしたが、半分は実感でした。

 この集会が一坪主催の集会であるということ、参加者のほとんどの方は大田
支持の立場に立っているであろうということ、私自身が大田推薦者であったと
いう三つのことを前提にしながら、話をしたいと思います。それは共同通信社
をとおして一般的な新聞に原稿を書く場合とは違うし、また、『週刊金曜日』
というのは読者はある意味では限られていますから、一坪とそうは違わないか
も知れませんが、それとも違う形でざっくばらんに、系統的にではなくなるか
も知れませんが、私が考えていることをお話ししてみたいと思います。

 それから司会者からは裏話も含めてと言われましたが、私は裏話などはあま
り知っているわけではありません。

 資料の1ページにコピーがある『週刊金曜日』にも書いてありますが、この
選挙は日本政府と沖縄の闘いであったと考えています。そして選挙の結果は大
田知事の求心力が衰えていたことを如実に示しています。そこを巧みに日本政
府や稲嶺陣営につけ込まれたということになりますが、つけ込まれるにはつけ
込まれるだけの問題点があったわけです。私たちがきちっと確認して置かなけ
ればならないことは、求心力の欠如という問題は、大田知事または大田県政の
問題であったということです。

 大田県政は90年、湾岸戦争の時に成立するわけで、今回の選挙は3度目で
すが、総力戦になった選挙は今回が初めてだと思います。私自身すでに書いて
いることですが、第1回のときには自民党内部に反西銘感情というべきものが
充満していて、西銘知事の求心力が著しく落ちていたという、ある意味での敵
失みたいなものがあったのは間違いないわけです。2回目の選挙のときには、
いわゆる保守陣営に戦う意欲がほとんどなくて、当時の新生党すら自由投票と
いう選択をしていた。そして日本新党は大田支持の立場でした。そういう意味
では今回の選挙は日本政府としても負けられない選挙という認識があって、そ
の中で組み立てられものですから、相手陣営としても総力戦であったとことは
間違いありません。

 大田知事は選挙の最終段階では、非常にはっきりと基地問題を表に出してき
たし、沖縄人としての誇りだとか、わずかな金と引き替えに志を売ってはいけ
ないとかいうことを強調していました。それが8年間一貫してなされていた
ら、決して負けることはなかったし、圧倒的勝利は間違いなかったであろうと
私は思います。これはべつに過ぎ去ったことをどうこう言おうということでは
ありません。今日の資料の表紙の裏に関東ブロックの「選挙結果について」と
いう声明がありますが、この総括文書の中に「私たちは知事に導かれて運動し
てきたのではありません。逆に私たちの運動が時期を得て知事を前面に押し出
し、その後退を押しとどめた部分も相当あったと思います」と書かれています
が、まさにそういうことであっただろうと思います。

 大田県政をいくつかの時期に分けて考えてみると、その成立当初から95年
の秋までの段階、95年9月から96年9月までの段階、つまり代理署名拒否
から公告縦覧代行応諾までの時期、そして96年秋から98年の2月まで、つ
まり海上基地反対を明言するまでの段階、そしてそれ以後、と少なくとも4つ
の時期には分けられるわけです。

 大田知事が民衆とともにあった時期というのは、ある意味では95年の秋か
ら96年の秋の1年間であったといえるでしょう。もちろん98年の2月に、
名護市民投票の結果を得て、彼は海上基地反対という意思表示をするわけです
から、その段階ではあるべき立場に戻ったということが、かろうじて言えるわ
けです。

 しかし、大田知事を担いで一生懸命選挙をやった人たちにとっては、非常に
つらい闘いであったことは間違いないわけです。ある意味では、基本的姿勢の
中に問題点を抱えながら、いわゆる革新県政が運営されてきたのです。その革
新県政をどうやって、突き上げる、あるいは押し上げるかという形で民衆の運
動が形成されてきたと言うことができると思います。求心力がそういう原則的
なというか、基本的な問題の流れの中で主体的に欠如していたということとの
関連で、様々な、例えば人事政策の偏りとか、いろんな審議会の人選が偏りす
ぎることによって、人間関係がおかしくなって行くなどといった副次的要素も
いろいろあったと思います。例えば稲嶺陣営の後援会長、仲井真沖縄電力社長
は大田県政の初代の副知事ですし、女性副知事登用として脚光を浴びた尚弘子
さんもまた稲嶺陣営という配置でした。経済界総結集という立場上、仲井真氏
がそういう地位につかねばならなかったということもあるでしょうが、「あと
何日かすれば、さようなら大田さん、こんにちは稲嶺さんという日がやってく
る」 と叫んでいた仲井真氏などの熱の入れ方は、やはり尋常ではなかったとい
う感じがします。

 皆さんの資料の5ページに屋嘉比収と比嘉良彦の文章が対置される形で載っ
ています。屋嘉比収は私たちの『けーし風』の編集運営委員の重要なメンバー
のひとりですが、比嘉良彦氏は最初の大田知事担ぎだしのときにきわめて重要
な役割を担いました。確か当時、社会大衆党書記長でした。この文章はあとで
ゆっくり読んでいただければと思いますが、ここで彼は明確に、大田知事の言
っていることとやっていることが違うじゃないかと批判しています。これらの
人たちの主体性こそが第1の問題ではあ>りますが、人の使い方もあまりうまく
なかったとはいえそうです。

 それとはちょっとニュアンスが違いますが、知事選向けにと言ってもいいよ
うなタイミングで、3人の人たちが『沖縄の自己検証』という本を出しまし
た。それには「情念から論理へ」というサブタイトルが付いているんですが、
これは結構、朝日新聞などが「新しい現実主義的な思想潮流の台頭」「守旧派
的な反基地論とは違った新しい動き」みたいなニュアンスで取り上げたりした
ものです。これを私の周辺では「沖縄における自由主義史観の台頭だ」などと
言った人もいますが、私はそれほど過大評価はしていませんが、そちらに流れ
る危険性は非常に強いものだとは思います。その執筆者のひとりに直接私が言
ったことですが「大田を批判したいというあなた方の気持ちはよくわかる。大
田知事が主張している、例えば、沖縄の歴史は一貫して非武の思想に貫かれて
いたという歴史認識は僕もおかしいと思っている。しかし、ここにはあなたた
ちの具体的な事実に基づいた大田批判はなくて、ここから伝わってくるのは、
大田人事から疎外された者たちの情念だけであって、論理ではない」 という指
摘をしたことがあります。

 そういうごちゃごちゃしたものを、さき程の紆余曲折の中でたくさん生み出
したというのも事実でした。この本を書いた3人は、新聞記者などによると稲
嶺陣営のブレーンだそうですが、彼らが今後、立場を変えて与党として、どう
いう動きを示すか非常に注目されるところではあります。私はこれを沖縄にお
ける自由主義史観云々とまでは思いませんが、新しい同化主義の流れの台頭で
あるとは思っています。私の「居酒屋独立論」などという言葉にヒステリック
な反応をする人たちに、こういう同化主義的な思想傾向の台頭をどう感じてい
るか聞いてみたい気がしています。まあ、しかし、それはちょっと余計な話で
す。

 もうひとつ、今回の選挙で目立ったのは、マスコミにたいする攻撃という
か、締め付けというようなものです。それを反映して、新聞社などの神経過敏
な対応があったと私は思っています。11月12日の沖縄タイムスの夕刊の2
版だけに、「外国人兵士によるものと見られる強姦事件」という記事が小さく
載りました。2版に一回だけ載りました。琉球新報には載ったかどうか確認で
きていませんが、こういう記事が載ったときに、これは反基地陣営つまり革新
陣営を利するものだという抗議もあった様です。その事件がごく小さく取り上
げられたことだけで。とすると、沖縄では選挙ということになれば、基地が争
点になりますから、選挙期間中には私たちはもしかすると、基地問題に関する
的確な情報が得られなくなる可能性すら出てきます。従来は革新側から「おか
しいじゃないか」というのはたくさんあったみたいですが、その何倍かが今回
は稲嶺陣営から殺到して、中には不買運動とか、広告出稿の停止だとかいろい
ろなことをほのめかしたこともあったようです。そういうことがマスコミを非
常に神経過敏にしているところがあったと思います。

 この米兵犯罪の記事とは別ですけれども、新聞で両陣営のクロス討論みたい
なものがありました。お互いが相手陣営に質問をしてそれに答えさせるという
記事ですが、その中に普通に読んではわからない記事がありました。どういう
ことかというと、大田陣営から稲嶺陣営に対して、「県会議員18人があなた
に出した公開質問状をどう考えるか」ということに対して、「そんなものは事
実に反するから答える必要はない。中傷だ」というような答えが載っているわ
けです。ところが一体何が問題なってこういう応答がなされているかは、一切
事実関係が報道されていないので、普通に読んだ人にはわからない。それは
「赤旗」が大きく取り上げた問題ですが、その中味というのは、那覇にある小
さな自由貿易地域に稲嶺恵一を取締役とする会社があって、そこが県への家賃
を4000万円とか滞納していたということを18人の革新系県議が公開質問
状の形で稲嶺に突きつけたということです。もちろん記者会見をやっています
が、記事にはなっていない。つまりこういうことを取り上げることが 、選挙の
際の両陣営に中立的であるという立場上どうなるかという神経の使い方をして
いる。結局そういうことで、この問題は訳が分からなくなってしまいました。
ただし、そのことに関するビラはだいぶ出回りました。言うまでもなく、それ
は大田陣営が出したのですが、一方そういういわば戦術的レベルに関わりすぎ
て、最大の争点を見失ってはいなかったか、という内部からの自己批判的な声
もあがっているようです。

 稲嶺陣営のやり方というのは、明らかに一種のデマゴギーというか、様々な
デマを先制攻撃として仕掛けていた。その最大のものがいわゆる「県政不況」
などというキャッチコピーでした。それについては資料に載っている筑紫哲也
が書いた文章が参考になると思います。これはなかなか的確な記事であると私
は思っています。

 「県政不況」と言われたときに、大田陣営は、その弁明を一生懸命やってい
るようなところが目立ちました。当たり前の話ですが、県政不況などというこ
とはあり得ない話で、不況というのは全国的なものです。ところが、大田陣営
は、弁明にこれ努めて、これこれの政策をやっているとか、9.2%の失業率
と言うけれども、9月は8.7%に下がったとか、全国的に見て景気は下降し
先行きは暗いけれども、沖縄だけは観光が順調に推移したことに支えられて先
行きは明るいと経済企画庁が発表しているとか、そういういわば相手の土俵に
乗ってしまった面があったように思います。

 そのことによって、最大の政治的争点である基地問題があまり論議されなか
ったと言われています。どの程度基地問題を押し出していこうとしたのかは、
問われなければいけないところだろうと思います。さっきも言ったように、最
終段階になったところで、大田さんはかなり基地の問題を出して、不況がどう
したなどの弁解はなくなって、沖縄人としての誇りの問題であったり、志をわ
ずかな金と引き替えるのかという訴えであったりしましたが、最終段階でそう
なったというのは、何か追いつめられてそうなったような感じが出てくるわけ
です。そのこと自体を初めから一貫して言うべきであったと私は思っていま
す。そういう点では名護市長選挙と似ている点がありました。名護市長選挙で
も海上基地の問題というのは争点から意図的にはずされていったところがあり
ますし、今回もまさにそうでした。

 それでどうなのかということですが、私は今回の選挙それ自体が敗北したこ
とには、それほど落胆していません。ちょっと語弊があるかも知れませんが、
比較的さばさばした感じであるということです。つまり、運動としては敗北感
はないということです。そういうことを言ってしまっていいかどうかわかりま
せんが、先ほど3つの前提を置いていますから、身内の中でしゃべっているつ
もりです。よく「弱卒を率いて戦う」などという言葉がありますが、私は「沖
縄の闘いは弱将を担いで強兵が闘っている」のだという言い方をどこかでした
ことがありますが、ちょっと死者にむち打つようで気が引けますが、「弱将は
落馬しても強兵は残った」という感じが私はしています 。

 ということは、一つは33万票という得票です。選挙態勢が全くなっていな
いと言われました。烏合の衆の集まりであるとか、どこに司令塔があるかわか
らないとか、そのほかに相手側が非常に巧みな先制攻撃を広告代理店と組んで
仕掛けてきたとか、それでこっちは右往左往したとか、いろいろでしたが、そ
れでも33万票あったのです。実は参議院選挙で島袋宗康さんが勝つと思って
いた人は余りいなかったのに、島袋さんは勝ったわけです。その時に私は「愚
直な有権者が、愚直な候補者を選んだ」と言って、本人を苦笑いさせたことが
あります。最近は愚直という言葉がはやっていますが、これはもともとは私が
言ったのではなくて、沖縄の歴史家比嘉春潮さんが、「沖縄人の県民性とは何
か、それは愚直である」と言ったことから来ているのです。資料の中の屋嘉比
君の文章も愚直の大切さを説いています。結局、参議院選挙と知事選の違いは
どこにあったかというと、基礎票にはほとんど変わりがなくて、むしろ知事選
の方が増えているけれども、相手側の方がそれ以上に必死で、投票率が上がっ
た分、選挙に行かない連中を選挙に駆り出した部分で、負けている。これは名
護市長選挙と似たような部分がある、つまり、3万7千票という差のなかで2
万票をひっくり返せば、――オセロゲームではありませんけど――勝敗は変わ
ったわけです。そこのところを我々はやり切れなかったわけですけれど。

 しかし逆に、この選挙で勝ってどうなるかと言うことを稲嶺陣営から考えて
みると、稲嶺恵一新知事は、まともに公約を守ろうとすれば窮地に立たざるを
えない。絶対不可能な公約をしているからです。たとえば、基地問題で言え
ば、15年期限付き、北部に陸上の軍民共用施設を作ると公約した。とりあえ
ず、自分も海上基地には反対だったと言いだした。元から反対だったと。ある
新聞は、彼は大田知事とともに、10.21県民集会の壇上にいた人物だから、
大田の分身であると説明していますが、しかし、日本政府と大田知事の間で問
題になったのは、海上基地です。海上基地が新しい基地の象徴として存在して
いたわけです。象徴としての新しい基地を争点からはずさなければ選挙には勝
てないと言う認識は稲嶺氏あるいは稲嶺陣営の中にあった。それは裏返して言
えば、楽観的すぎるのかもしれないけれど、民衆の闘いの成果であったと私は
考えています。

 15年の期限付きなどと言うことは、ある意味では「基地返還アクションプ
ログラム」に縛られている。もともと、「基地返還アクションプログラム」は
そんなに詰めて提起されたものではなくて、県の思いつき的なこともあった
し、民衆の運動の側から積み上げられて出てきたものではない。きちんと練れ
た案ではありません。特にあれが出てきたときには、20年も基地を容認する
のかという意見もあった訳ですし……。ただはっきりしていることは、少なく
とも2015年までには基地をなくすという合意と、そこに向かってのプロセ
スとしての基地の整理・縮小という考え方は、今回の投票の上で、大田・稲嶺
陣営を越える広がりを持って存在していたとい>うことです。そのことを受け
て、15年と言い、海上基地を否定して県内と言うには陸上という他はない。
陸上と言って通用するわけがないから、軍民共用という。しかもその後で、民
に主体を置いた軍民共用と言っておりますけれど、これはもう不可能な公約と
いわざるをえない。ただ不可能でも、これをペテンで覆えば不可能ではない。
皆さんも気がついたかもしれませんが、1月16日の1面で稲嶺知事当選を報
道している朝日新聞の2面にいろいろ解説が載っている。そこに、防衛庁の高
官が次のようにいったという記事がありました。「15年ではなくて10年で
もいい。つくってしまえばこっちのもんだ」これならあり得る話ですね。延期
とか更新とかいうのは後でその時考えればいい。稲嶺県政が10年続くわけで
はない。日本政府も10年続くかどうかもわからないけれど……。まともにい
えば、ここで15年などと言う期限を付けることは絶対不可能なことである。
だが、今いったようなペテン的手法を使えばできるのかもしれない。

 しかし、この間、選挙の争点としてはぼやかされているけれども、日本政府
と沖縄の、いいかえれば安保体制の矛盾というものは、その本質が非常によく
が見えてきている。特に、いわゆる振興策と基地問題は別だというこれまでの
建前が、名護の市民投票の直前くらいからはっきりと崩れてきている。そして
海上基地に反対する大田知事に対する日本政府の対応、そして、稲嶺が当選す
るとすぐの日本政府の対応というものが、我々全体に、ここに集まった人を越
えた広がりで、認識させているのは何かというと、基地と振興策は抱き合わせ
であるという露骨な政策であろうと思います。そういうことをある意味では、
次々と暴露してきている側面、それはやはり、全体としての運動の前進ではな
いかと、私は思っています。ですから、稲嶺と日本政府の最初の接触の段階か
らを見ていますと、稲嶺は、普天間代替施設の問題をどうやって先送りにする
か、と言うことに力点をおいているということです。記者たちが、基地に質問
を持っていこうとすると、いやそれよりも、急がなければならないのは経済振
興だという。日本政府に対しても、新聞などを見ますと確かそういっている。
しかし、日本政府は必ずしも彼の言う県民党的立場を認めているとは思えな
い。これはやがて日本政府と稲嶺県政との、矛盾として出てくる可能性があ
る。完全に稲嶺が日本政府の走狗としての役割を自覚的に果たすということに
なれば、変わってきますけれど、彼が主観的にではあれ、自分は県民党の立場
に立つつもりであるとすれば 、これは日本政府と稲嶺県政の矛盾点として出て
くる大きな問題ではないかと思います。

 そういう状況を受けてなにをなすべきなのか。先ほど司会者は、これまでヤ
マトの運動が沖縄に励まされてきたけれど、これからは沖縄を励ます番だとお
っしゃったのですが、是非そうあってほしいのですが、やはり、基地問題・安
保問題をどのようにして全国化するのかということが、私は、基本的に大きな
課題であると思っています。これは知事選挙の前に書いた文書の中でも書いて
ありますが、安保とか基地問題といった国政上の問題が、国政選挙の争点にな
らないで、地方選挙、知事選挙の争点になるのはだいたいおかしな状況だとい
わなければなりません。そういう状況を当たり前のように感じられては困るの
です。

 どうやってそういう問題を全国化していくのか。最近関東一坪でも議論され
ているのに、本土移設を全面的に打ち出していこうという意見があります。9
6年の5月頃、山内徳信を中心とする中部市町村会が本土移設ということを初
めて公の立場でいったことがあります。まだ県民投票以前、太田がつっぱてい
る段階でしたが、そのときにぼくは、本土移設など不可能ではあるが、安保を
全国化する手段になりうるなら私は賛成だと、『ACT』という小さな新聞かな
んかに書いてだいぶ物議を醸しましたことがあります。その後、いろいろ推移
をみていると、本土移設といっても、本土の一地域の問題にしかなりそうもな
いなという感じがしてきている。それは王城寺原の問題になったり、矢臼別の
問題になったり、日出生台の問題になったりしてしまう。どうも沖縄からみる
と本土なのだけれど、こっちでは沖縄の問題ではなくなった代わりに、矢臼別
の問題になったり、王城寺原の問題になったりしてしまって、日本の問題で俺
たちが問われているという受け止め方はできないんではないか、という気がし
てきました。

 最近、わたしは、むしろそれよりも、安保・基地を国民投票に問うほうが、
ほんとに安保を認めるんですか、沖縄に75%の基地を集中させることを認め
るのですかという問いを発することの方が、よりやりやすい方法、あるいは、
より安保なり基地問題なりを全国的な問題として、日本の問題として考えさせ
るきっかけになるのではという気がしていま>す。まあ、そんなに確固とした信
念を持っていっているわけではありませんけれど、私はやはり、基地の問題
を、沖縄に閉じこめて置いて、そして、沖縄県民が振興策をとるのか、基地を
とるのかなどといった高みの見物をやるのをやめさせなければ問題の解決はい
つまでたってもできるわけはない、ということだけは間違いないと思ってい
る。

 ちょうど50分ぐらいですが、今回、特に稲嶺陣営は、自民党色というもの
を目立たないようにしただけではなくて、この筑紫哲也が書いているように、
電通の社員が50名から沖縄入りをしていて、いわばアメリカ型選挙、広告代
理店と金が支配する選挙、いままでも金は飛び交っていましたけれど、キャッ
チコピーの使い方とか、そういう面での世論操作の巧みさみたいなのをみる
と、そういう面からのものすごいてこ入れが始まっている気がする。

 もう一つだけ付け加えた資料のことをいっておきますと、6ページに沖縄タ
イムスの記事が載っています。沖縄タイムスが使っている資料のいわば原板を
こちらの事務局が入手して、左手に載せてあります。これはどういう選挙が行
われたかの実相を示す資料の一つだと思います。なぜ医師会がこれだけ懸命に
なったのかという背景は、たぶん、自由連合、徳州会が太田側に付いたという
ことが一つあるのかと思われます。そういう猛烈な利害が絡む選挙でもあった
わけですね。沖縄タイムスのこの記事も、沖縄タイムスが攻撃される大きな材
料になったわけです。その後がおもしろいので、おもしろいといっては何です
が、県の医師会の政治組織は、琉球新報に二回全面広告を載せます。普通、選
挙のために全面広告を載せるのなら、両紙に一回ずつ載せるはずだけれども、
まあ、一種の嫌がらせとも思えるような、そういうことをやって見せてもいま
す。そういう中で、今後の沖縄の新聞の立場もいろいろ問われてくる 。しか
し、繰り返しますけれど、33万票は、つまり半分弱の票は、そういう一時的
な幻惑にも惑わされないで、確固として存在し続けていることを私たちはきち
んと評価して、そこに依拠しながら、しかし、この問題を沖縄の問題にするこ
となく、沖縄の県知事選挙に関心を持ったすべての人たちが、もう一度この問
題を日本の問題として取り戻すきっかけにしていただかなくてはならないと思
います。

 とりあえず私の感じていることを、時間の許される範囲内で、みなさんの前
に、考えていただく、あるいは議論していただく材料として提供しました。何
か質疑があれば補足したいと思います。

============================= ここまで ===========================

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沖縄・一坪反戦地主会 関東ブロック
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