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反戦エッセイ39
戦争を回避する共同の努力について
井上澄夫(東京)
日本国憲法第9条は、日本国家の非武装を規定している。それが実現したと
き、仮に外国から攻撃されたらどうするか、という問いへの回答を、私は最
近、3篇のエッセイに記した。前号の「非武装と市民的不服従について」は、
その一つで、他に「あらためて非武装・非暴力の可能性について」(香川県高
松市の「『歴史は消せない!』みんなの会」の機関紙『きざむ』本年3月号)
と、「日本が攻撃・侵略されたらどうするか、という問いに答える」(非核市
民宣言運動・ヨコスカの機関紙『たより』本年3月号)がある。
この3篇への反応で、私が考え込まされたのは、賛意を表明したのが、圧倒
的に女性たちだったことである。男性では、沖縄の平良修牧師など、わずか数
名にすぎず、他の多くは、困惑を隠さなかった。「これは、どういうことなん
だろうね」と、沖縄・名護市在住の浦島悦子さんと、しばし電話で語り合った
ものである。実際それは、重要なテーマだと思うが、ここではおく。
前号で私は、こう記した。「攻撃に対する非武装の抵抗力を、いざというと
き発揮できるかどうかは、私たちの日々の(現在の)ありようにかかってい
る。自国の政府(日本政府のことだ)の専横に、日頃どれだけ抵抗でき、反撃
できているかという、私たち民衆の政治的力量によって、いざというときの抵
抗の強さが決まるのだから」。また前出の『きざむ』では、「私自身は、市民
的不服従を、〈攻撃してくる敵〉に対しても、日本政府に対しても貫く。どち
らに対する抵抗も、私にとっては同じことである。」と書き、『たより』で
は、「国の外からであろうと、内からであろうと、私(たち)を抑圧する者を
決して許さない。反戦・反軍とは、そういうことであると私は思っている。」
とのべた。 実際、問題の核心は、まさにそこにあるのだ。
憲法の役割は、国家が勝手なことをしないよう、「国家にシバリをかける」
ことである。だが、憲法がそういう役割を果たすためには、民衆が、常に厳し
く、政府の動向を監視し、民衆の利益を損ねる動きに対しては、抗議して撤回
させることが必要である。そういう日々の市民的活動の集積なしに、憲法は機
能しない。
私たちを抑圧し、人間らしく生きる権利を踏みにじるのは、外敵からの攻撃
だけではない。米・欧・日の多国籍資本の暴威に、もはや国境はないし、外敵
どころか、私たちは日常、自国政府による抑圧にさらされている。
その事実に鈍感なまま、「外国から攻められたらどうする」とおびえる人び
とは、そもそも人権を自分で守る強固な意志がないのだから、いざというとき
抵抗などできるはずがない。
ところで戦争体験を持つ高齢者たちが、若い自衛隊員を督励する姿は、醜悪
と言う外ない。その典型が、大勲位・中曽根康弘元首相だ。自分の戦争責任に
は口をぬぐったままの旧青年将校が、「国のために死ぬ」ことを称揚し、〈靖
国の英霊〉になれ、と呼号しているのである。
また、「戦争はいやだが、軍隊は好き。いざというときは自衛隊が頼り」と
表明してはばからない若者たちも、あまりに身勝手である。
そういう老若に共通するのは、〈傭兵(ようへい)の思想〉である。ありて
いに言えば、税金でメシを食わせているのだから、自衛隊員が戦って死ぬのは
アタリマエ、ということである。自衛官になる若者たちに「感謝する」だの、
彼らを「誇りに思う」だのという文句が、臆面もなく飛び出すのは、自分がや
りたくないことを、〈自分のために〉、他人にやらせて恥じない、卑劣な底意
が、そうさせるのである。
若者たちよ、そんな甘言にだまされるな、という外ないではないか。
国防が、それほど大事と言うなら、「老若ともども、自分で銃を持て」とい
う気は、私にはない。しかしそれは、これだけ武器がハイテク化した時代に、
あわてて銃の操作を習ったところで、役立つわけはないという、現実的な判断
に基づいて言うのではない。外敵に攻撃されるような状況を作り出してしまう
愚昧な政府を、なぜ自分たちの力で打ち倒さないのか、外敵に攻撃されるのが
いやなら、軍事的な対決を、知恵を振り絞って回避する政府を、なぜ選ぼうと
しないのか、と言いたいのだ。
丸腰の状態で攻撃されたらという問いに、私は、私なりにすでに答えた。だ
が、その前提には、破局に至る前の〈戦争回避の努力〉に、私たちが、それぞ
れ全面的に責任を負わねばならないという重い課題がある。
その意味では、〈戦時を準備する平時〉を、ではなく、〈戦時を無用とする
平時〉を私たちが生き抜くことが、なにより大事なのだ。政府が、戦争の発動
など思いつきもできぬほど、強力な反戦の世論を創造することが、私たちに問
われている。「攻撃されたら、どうするか」と心配する人びとは、戦争を避け
たいのだろう。そうなら、自分が抱える、その心配、不安を解消する働きを、
自らなすべきである。そこにこそ、私たちがともに進むことができる平和への
道がある。
◎『草の根通信』2001年5月号への寄稿(連載)