前田 朗@歴史の事実を視つめる会、です。
3月23日
朝鮮の「慰安婦」被害者
2001年3月19日
(1) リ・ゲウォル(李 桂月[松子]、1922年9月5日生れ)
地主の小作暮らしの家で貧しい生活でした。5月のある日、父は牛に草を食べ
させようとしたが、牛によって傷つけられて、それが原因で亡くなりました。そ
れで地主は、私たちを追い払いました。当時、5人家族、母と兄と妹は各地を放
浪して乞食暮らしをしました。それで流れついた先は日本人経営の金鉱でした。
兄はそこで働きましたが、体を壊しました。家計を営んでいた兄が体を壊したた
め、家族はばらばらになりました。それで私はオウという書記の家に8-13歳ま
で下女奉公し、13歳の後は行くところがなく、ペクタンの旅館で2年間下女奉公
をしました。私が旅館に行ってから3年目、15歳でした。
ある日、旅館に尋ねてきた人が主人と何か話していました。翌日、ドウチョウ
が来て私を呼び出し、「良く食べてきれいな服を着るところがあるから一緒にい
こう、金儲けをしよう」といいました。私は「いやだ」と言いましたが、ドウチ
ョウは手首をとって引っ張り出しました。ドウチョウに連れられて、旅館の前の
駅に行くと、赤い色を来て腰に刀をつけた軍人、星のついた軍人にドウチョウが
話して、軍人が貨車に私を押し入れました。閉じ込められてみると、そこには少
女が二人いて、一人はオンチョルで子守りをしていた娘でした。私たちは泣きな
がら、出してくれるように泣いていました。どこへ行くのかも知りませんでし
た。食事は小さな穴から握り飯を入れてくれました。それでどこに行くかも知ら
ず、数日間過ぎましたが、中は暗かったのでよくわかりません。ハルビンかどこ
かで一泊することになりました。汽車から降ろされて旅館に連れていかれました
が、逃げないように手を縛られていました。一晩過ぎて、今度は船に乗れといわ
れ、ハルビン丸に乗りました。中国のショウカコウを渡るものでした。中国人が
同乗していました。船に乗って、また夕方、モクランキンというところに行きま
した。板の家もありましたが、テントが多かったです。木の家も下にはむしろが
敷かれていました。連れていったのは高田という将校で、高田は私たちを家に閉
じ込めて、その晩から私を犯してきたのです。高田は、ユンザとイプンと私に、
それぞれエイコ、アイコ、マツコという名前をつけました。別々の家に移そうと
しましたが、私たちは抵抗して一緒にいたいといいました。蹴られたり殴られた
りしながら泣いていましたが、軍人は命令しました。「守備隊に朝8時から夜12
時まで奉仕せよ、天皇陛下の命令だ、逆らえば殺しても構わない」といいまし
た。毎朝、朝礼で「皇国臣民の誓い」をいわされ、「勝ってくるぞと勇ましく」
などと言わされましたが、うまくいえないと殴られました。
ユンザは14歳で、あまりにも幼かったので、病気になりお腹が大きく膨らん
だことがありました。ユンザ(エイコ)は病気でしたが、軍人たちはエイコにの
しかかって犯そうとしたら、エイコは気を失いました。軍人は妊娠している「慰
安婦」はいらないと、軍刀でお腹を切りました、しかし、胎児はありませんでし
た。妊娠ではなく腹水でした。エイコは死んでしまいました。軍人たちはエイコ
をかますにまいて捨ててしまいました。私は気を失ってしまいました。
そういうことを指揮していたのは高田でしたが、何十人でも奉仕せよといって
いました。日曜日には将校たちが来て、酒を飲んでは蹴ったり性行為をしまし
た。気を失ったまま犯されました。気を失っているうちに、高田はまた性行為を
して、私の腹に火のついたタバコを押し付けました。熱くて体を締めると、「ま
だ生きている」と快楽に喜びながら、煙草に火をつけては押し付けて、犯しまし
た。高田はお腹の数カ所に煙草を押し付けたので、私のお腹は傷だらけで皮膚が
膨れ上がりました。昨年、日本からきた女性にはおなかの傷を見てもらいまし
た。
18歳の3月、軍人たちが朝から、喜び、酒を飲んでいました。高田の誕生日と
いうことでした。高田が私の部屋に入って「マツコ」と呼びかけてきました。私
は愛想を帯びて「いらっしゃい」と迎えました、高田は自分も喜んでいたので、
理由を聞くと「誕生日だ」といいました。私は「天気もいいから船遊びに行きま
せんか」と高田を誘いました。高田はすぐ馬車を呼んで、酒やつまみを一杯載せ
ました。高田、私、もう一人の兵士が馬車に乗りました。鉄条網に囲まれた慰安
所から外へ出ました。扉を出て少し行くと、高田はもう一人の兵士を帰しまし
た。二人は小学校の川辺に行きました。そこにはハルビン丸がいました。川辺で
馬車から下りて、ピクニックとなりました。高田にお酒を飲ませました。高田は
日本のお酒を飲み干しました。高田は酔って、寝ていました。蹴っても起きませ
んでした。私は下駄を脱いで川辺に向かって走りました。周りには人がいません
でした。モクランケンまで走っていきましたが、川辺で釣りをしている青年がい
ました。朝鮮人でした。その人に「助けてください」といいました。周辺の人た
ちは、「慰安婦」のことを噂で聞いて知っていました。「慰安婦」と言うことが
わかったようで、私を連れて家に連れていってくれました。ハルビン丸は夕方7
時ころ出発ということでした。夕方、守備隊が駆けまわっていたので、その人は
私を病気の患者に見せかけて、船に乗せてくれました。
「慰安婦」生活をさせられたため、下半身が自由ではありませんでした。結婚
していましたが、お金がないので治療を受けることはできませんでした。解放後
は国の無料治療があって、自由に歩けるようになったし、20年ほど結婚生活を
しました。その後、夫は癌でなくなりました。一人では暮らせないので、5歳と
9歳の子を連れて、共同農場に入って仕事をしました。病気だったのでたいした
仕事はできませんでしたが、国から補助が出て生活できました。
(2) キム・ヨンスク(金 英淑[オタカ]、1927年1月24日生れ)
1939年に連行されて1945年に逃げるまで、被害を受けました。平安北
道ヘッチョン郡ハッピョン里生れです。父親は鉱山で働いていましたが、日本人
の監督にひどく殴られて半身不随になりました。そのため母はどこかへ行ってし
まい、3年後に父親は看病の甲斐なく死にました。それで私は地主の3番目の妾の
家に下女奉公に入りました。毎日殴られたり、朝から晩まで仕事をさせられてい
ました。
ある日、巡査が訪ねてきて、その妾と話していました。翌日、巡査が来て「こ
こで苦労しないで、いいところがあるからそこで金儲けをしてはどうか」と言い
いました。私は12歳でした。巡査の言葉に心が動いて一緒について行きました。
駅へ行って汽車に乗り、数日間走り、馬車で数日間たって辿りついたところが瀋
陽(シンヨウ)というところでした。シンヨウの軍の兵営のようなところで、周
りはレンガの垣根と鉄条網がありました。慰安婦はほとんど朝鮮人で、中国人も
いました。鼻の高い女性もいました。ある部屋に入ると日本の将校がいて、巡査
は私を将校に引き渡しました。長屋の隅の部屋に入れられました。巡査は「私は
帰る」といいました。私も帰りたかったのですが、軍犬が多く、怖くてそこに残
されました。その部屋で3?4日は何もなく過ごしました。彼らは私のチョゴリ
を脱がせて、日本の服を着せました。髪を結うということはありませんでした。
将校が私に「オタカ」(名前はきちんと記憶していません)と言う日本名をつけ
ました。翌日の夜、将校が部屋に入ってきて、「朝鮮の女の子はきれいだな、一
緒に遊ぼう」といいました。「遊ぼう」の意味も知りませんでした。将校は私の
服を無理矢理脱がせて性行為をしました。余りにも幼かったので、私は将校を受
け入れられませんでした。そこで将校はポケットからナイフを取り出して、私の
下のところにナイフを刺しこんで切り裂きました。切り裂いたのは中村でした。
それで中村は性行為を始めましたが、私はひどい苦痛に気を失いました。最初の
日はこうして過ごしました。
金村も私の部屋に入ってきました。私がまともに答えないと、「いうことを聞
かないと、***(?)を取って食ってしまう」といって、軍刀でお腹を切りま
した。お腹から腸が出てきました。悲鳴をあげると、隣の部屋にいた「慰安婦」
たちが駆けよって、涙を出しながら、お腹を針で縫ってくれました。そのときは
死ぬすぐまえでした。女性たちが助けてくれなかったら死んでいました。ある
日、軍人が私がいうことを聞かないといって足を踏みにじっては足の骨まで折り
ました。そのせいで今も足を自由に使えません。
こうして性奴隷生活をしましたが。毎日、気を失ったままで性行為をさせられ
ました。何人が入ったかもわかりません。毎日20人か30人と思います。軍人
は小さな紙切れを持ってきていました。それで何人かがわかるはずです。体も性
器も悪くなり、足も悪くなり、2時間も同じ所に座っていることができません。
夜もまともに睡眠を取ることができません。性器が破れてしまったのでしょっち
ゅうトイレに行かなくてはなりません。今はいろんな治療を受けていますが、な
かなか良くなりません。日本政府からの謝罪と補償を求めている私たちのために
努力してくれる人がいるので嬉しいです。「女性国際戦犯法廷」にも参加しまし
たが、正義を守る人たちが活動しているのはありがたいです。
ポンニョは妊娠していました。彼女が軍人の言うことを良く聞かなかったの
で、軍人は庭に出して、電信柱に吊るして、他の「慰安婦」を全部庭に集めまし
た。電信柱に縛られている女性に「皇軍の言うことを聞くか」といいましたが、
彼女が「絶対聞かない」というと、軍人はお腹を切り裂きました、お腹から腸が
飛び出ました。胎児まで滅多切りにして、私たちの首にかけました。ポンニョを
見て気を失った人が多かったです。
1945年3月までに、25名の慰安婦のうち20名が殺されました。いろん
な方法で殺されました。私もこの地獄のようなところで死んでしまうと思いまし
た。何とか逃げようと思いました。最後に軍属の朝鮮人に助けられて逃げること
ができました。