前田 朗@歴史の事実を視つめる会、です。
3月23日
朝鮮の被爆者
2001年3月17日
(1)パク・ムンスク(朴 文淑[福田文子]、57歳、1943年9月2日)
1945年8月9日、長崎で爆心地から4キロ内で原爆被害を受けた。長崎市
オクナ浦の三ツ山である。当時、家族と親戚合わせて9人が被害を受けた。
母親は95年1月に、兄は同じ年の9月に癌で亡くなった。母親は、被爆当
時、妊娠していたので、子どもは被爆で死んでしまった。母親は崩れかけた病院
で手術を受け、その後、7回手術を受けた。一生を被害の後遺症で胃、消化器、
関節の痛みに苦労して、最後はガンで亡くなった。兄も被爆後遺症のため胃腸の
潰瘍になり、食事もろくにできず、一生苦労して69歳で亡くなった。
私自身は2歳という幼い時に被爆して、現在も一日として心を慰めることもで
きず、若いときから胃、消化器、関節の痛みに苦しみ、年をとってからは心臓も
悪く、ずっと病魔と戦いつづけている。
私たちは一生このように病気にさいなまれているが、祖国では無料治療で治療
を受けることができる。入院することもできる。被爆者には特別な配慮が施され
ている。被爆者の生活や治療には配慮がある。被爆者を全国的規模で、国家機関
を動員して調べ、登録している。それを登録するばかりでなく、登録に基いて治
療ができるように被爆者証明書を発行し、どの病院でも治療を受けられるように
している。とくに問題になるのは被爆から56年たったので、被爆者が一人ずつ
なくなっている状態だ。生き残っている方々は高齢化している問題だ。被爆者た
ち同士で意見が集まっているのは、「日本政府はわれわれが全部死ぬまで待って
いるのではないか、われわれえ全員が死ねば補償する必要がないから、そういう
無責任な立場をとっているのではないか」というのが我々の見解である。被爆者
に対する謝罪と補償はこれ以上引き伸ばすことのできない問題であり、被爆者と
してはこれ以上待つことができないので、日本政府に対する恨みは天に達する状
態である。皆さんはわれわれのこのような状況を調査しているということをあり
がたく思っている。日本に、朝鮮の被爆者の状況、毎日毎日が厳しく辛い病魔と
の闘いの日々であることを知らせて欲しい。
私は、1992年、長崎に行ったときに被爆者手帳をもらった。60年に帰国
したが、被爆直後に母親が届をしていたので、その当時は被爆者手帳はなかった
が、市役所に記録があったので、92年8月に被爆者は手帳を受けられた。しか
し、これは日本に行けば使えるというだけで、使ったことはない。登録されてい
るという証明だけで、何の効果もない。
私たちの「平和のための被爆者協会」は95年2月に創立して、被爆者を調査
しはじめた。被爆者を私たちの協会で1300人ほど探し出したが、実際に証明
書を交付したのは500人ほどである。交付は96年4月から始めた。手続きは
今も進めている。しかし、登録していない人がいる。被爆者とわかっていても、
日本から補償もないし、登録しても仕方ないということで、登録しない。登録の
手続きの際に家族関係を登録するので、二世等も登録されることになっている。
二世・三世は手続き中である。日本の国家機関の資料には、被爆の遺伝的な影響
はないだろうとしているようですが、実際には二世は虚弱だし、病気にかかると
他の子どもより長引くし、後遺症が残るし、貧血を起こしやすい特徴がある。
協会の活動目的は、第一に日本政府から公式謝罪と補償をもらうこと、第二に
再び広島・長崎の悲惨なことが起きないように反核・平和を求めること、第三に
世界の人々と手を取り合って平和を求める活動をすることでるす。
今、日本政府が朝鮮に来ているが、私たちの状況を調査・研究するだけで、何
をするとも言っていない。彼らには権限がないとわかってはいるが、謝罪もなに
もなく、これからどうするのかも明らかでなく、とても悲しい思いをした。日本
政府は「被爆者の状態がわからない」とか言っているが、完全に調査できるわけ
ではない。調査は今から実行しなければならない問題だ。いまいる被爆者に早く
補償して謝罪することが重要だ。日本政府は、みなさんとは雰囲気が違う。日本
政府代表は、私たちが見ただけでも憤激を呼び起こすような雰囲気の代表だ。私
たちはこの問題を徹底的に一日も早く解決し、共和国と被害者に謝罪と補償をす
るよう要求している。私たち自身、治療・リハビリ等で国に非常にめんどうをか
けているが、これも本来は日本政府が責任を取るべきはずの問題だ。日本政府は
そういうことを認識して、早いうちにしっかり責任をとるべきである。
(2)リョ・イルスック(呂 一淑[松下富貴子]、66歳、1933年5月1
9日生れ)
生れは神戸の林田区(永田区)だが、当時、広島県安芸郡船越町花都の朝鮮人
部落に住んでいた。ハーモニカ長屋と命名していた。両親はその20年くらい前
に日本に渡っていた。ちょうど長屋のすぐ隣には広島から通じる国道があった。
当時、ピカドンと言ったが、ピカッと光って急に明るくなり、怖くて部屋に閉
じこもっていた。時間がたってから、大騒ぎしている声が聞こえたので外を見ま
した。外に飛び出してみたら、そこには頭の髪毛がこげたり、目が飛び出たり、
腕が胴体から離れたり、胴体がずたずたに裂かれた人がいた。地獄という言葉を
使うが、あれがまさに地獄であった。叔父さんが広島市内に住んでいた。私は一
人残されていたが、母親と、おじさんが心配で訪ねていった。道路には数千数万
の人で埋まっていた。その流れに逆らって広島にすすんだ。放射能に汚染された
人とすれ違って放射能に汚染された。家は爆心地から4キロのところにあった。
不安と恐怖が強くて気を失って、それ以後のことは思い出すことができない。当
時はあまりにも凄まじい光景を見た。服が脱げて素肌が見えるのは普通は恥ずか
しいが、あの時はそういう感じもなく、どうしても生きなければと言う一念であ
った。
2回目に汚染されたのは被爆者を収容していた収容所があり、死亡者があまり
多かったので焼き場での死体処理もろくにできなかったので、国道と海田川のと
ころに、朝鮮人部落があり、たしかちょうど家と海田川まで500メートルあっ
たが、そこで、一日24時間、およそ10日続けて死体処理をした。死体を焼い
ている青紫の煙が朝鮮人部落まで流れてきた。その匂いがものすごく特別なきな
臭い匂いでした。初めは市内に入ろうとして、次にきな臭い匂いにやられた。外
にもでれず、身動きもできない恐怖だった。あのときあのように凄まじいい光景
の印象だったので、今もありありと覚えていて、脳裏に刻まれている。
私は73年3月に帰国した。帰国するまで貧血で、増血剤をつかっていた。爆
心地から4キロだったので、当時は、自分では被爆者とは思っていなかった。治
療機関があったが、そうとは思っていなかった。61年に生れた長女も貧血がひ
どかった。長女はピョンヤン医科大学を出て内科医になったが、95年春、急に
倒れました。ヘモグロビンが、、、、医者が患者になってしまった。治療を受け
てヘモグロビンが48%になった。96年末に急にまた倒れて、ヘモグロビン2
2%、顔も真っ青で死にそうだった。今年正月を迎えることができないと涙ぐみ
ながら言っていた、どうか生かしてくれと胸が裂ける思いだった。生命はとりと
めたが完全の廃人状態になった。調子がよくても45%。家事はずっと私がみて
いるが、私も患者で苦痛が激しい。この50年の精神的苦痛と肉体的苦痛はとて
も言葉では表せない。娘はこの状態で、死ぬにも死に切れない。孫が10歳なの
で、私がまだまだ生きて頑張らなければならない。娘のことを考えると、私は死
ぬにも死ねない。二世は被爆者の対象にならないというけれども、二世について
も日本政府は考慮してほしい。
朝鮮人部落は海田川の広島寄りにあった。海田川に住んでいたのは朝鮮人だけ
だ。海田川は瀬戸内海に流れていた。河口から呉のほうに行けるが、海田川の向
こう側は呉工廠で、そこには徴用された朝鮮人が何百人と働かされていたよう
だ。徴用された朝鮮人は、大豆粕を食べさせられ、おなかを壊したりするので、
夜になるとひもじくて、海田川の橋をわたって、朝鮮人部落に毎晩のようにやっ
てきた。部落の方では、自分たちが少し我慢してでも彼らにご飯を食べさせてい
た。