前田 朗@歴史の事実を視つめる会、です。
3月23日
朝鮮の強制連行被害者
2001年3月17日
(1)ベク・チェイン(白 ?寅[白川寅生]、1927年2月1日生れ)(左
の?は、衣へんに是という字)
故郷は慶尚南道居昌郡主尚面道坪里である。徴用されたのは1943年4月、
数えで17歳のときだった。一緒に連行された人がどのくらいいたかはわからな
い。同じ世代の者、どんぐり背比べのような者がたくさんいて、中には少し年長
の人もいた。釜山から連絡先に乗せられ、下関について、そこからいろんなとこ
ろに送られた。皆がアキノベに送られたわけではない。私は兵庫県あきぐんのあ
きのべ鉱山(銅山)だった。
待遇は、それこそ人間扱いではなかった。鉱山に着いて、宿舎に入ったが、ま
わりには鉄条網が二重三重に張られていた。宿舎から坑道口まで、歩いて20分
の距離だった。作業場まで行くときは、前と後ろに憲兵が立っていた。憲兵は入
り口まで引率して、われわれを炭坑の役員に引き渡した。帰りも憲兵がついてき
た。まるで奴隷の引渡しであった。そこでは被徴用者二人が日本人二人に連れら
れて中に入る。中は垂直坑、平面坑、かばち(斜め坑)などがあり、まるで蜂の
巣のような状態であった。削岩機を使ったり、爆破するのは日本人の仕事だっ
た。発破の後に落ちている岩を運び出すのがわれわれ朝鮮人だった。
食事は、ご飯は玄米100グラム、おかずは竹輪を半分だけだった。連行され
たのはほとんどが若い育ち盛りの者だったので、これで足りるわけがない。名ば
かりの、取るに足りないものだった。入り口まで行くとき、道の草を摘んできて
は食べて、やっとひもじさをしのいでいた。
鉱山内の労働者には、1)徴用・強制連行された者、2)徴用ではない者・自
由労働者――日本政府の証明をもらって勉強するためとか生活・仕事のために日
本に渡った人たち、3)そして日本人がいたが、賃金はそれぞれ差別があった。
そこでどのくらいの人が働いていたかはわからない。(日本の資料には連行され
たのは800人とあるが)私にはわからない。とにかくでっかい鉱山だった。中
に入ればエレベータがあった。エレベータには枠はなく、骨組みだけあって、ワ
イヤロープで引き上げるエレベータだった。高さは説明できない。かばちは斜め
坑で、足場もしっかりしていなくて、命がけだった。私が入ったのは中間あたり
だが、全体の高さは見当がつかない。一度、落盤事故が起きたことがあり、その
ときは日本人一人が亡くなったのを見た。隔離された作業場なので、他の事故の
ことはわからない。
2か月ほど働かされて、その年のうちに、逃げた。徴用者の待遇は、奴隷労働
で、ものすごく惨めで話にならない。一日仕事に出て、夜に無事戻ってくれば
「神様が助けてくれて生きて戻れた」と思うぐらいだった。屈辱の中で強制労働
させられるのはあまりにもひどいので、脱出した。いったん捕まって引き戻され
そうになったが、戻される途中でまた逃げて、うまく逃げることができた。
逃げた後、いつ捕まるかという危険にさらされていたので、朝鮮人がたくさん
住んでいるところを訪ねまわった。大阪区北河内郡四条なわて、楠公のあるとこ
ろに数ヶ月、それから大阪府泉南郡佐野町に行った。そこには日本軍の飛行場が
あった。それから兵庫県相生市の播磨造船、島になっているところで、朝鮮人が
住んでいたところで数ヶ月働いた。土を掘るなどの作業をしていた。ここには中
国人もいた。連合軍の捕虜もいた。私は故郷の大邸の人の家に泊まっていた。1
945年8月15日、当時アメリカの爆撃が凄かったので、危ないから田舎に疎
開しようということで、その人の荷馬車に家財道具を積んで行くときに、敗戦の
放送を聞いた。目的地に行ったが、避病院にいった。その後は自由だった。戦後
は川崎の入江崎に住んでいて、1972年に家族と一緒に帰国した。
(2)アン・ソンドゥク(安 成得[安永成得]、70歳、1929年7月28
日)
15歳のときに日帝により強制連行された。江原道チョルオン郡トンソン面ハ
ンウ里出身である(故郷は今は中立地帯に入っていて誰も入れない)。藁葺きの
小屋に、5人家族で住んでいた。父親は死んでいた。1944年8月当時だが、
学校にも行くことができなかった。ある日、母親の手伝いで山に薪採りに行って
帰ったら、母親と弟がとてもしょげていた。「明日9時までに警察にくるよう
に」と日本の警察官二人が言った。翌日9時に警察に行った。警察署に入ったら
10人くらいの子どもたちがいた。署長が「おまえたちは天皇のために素晴らし
い仕事をすることになる、技術を学び、お金をもうけるために行く」といった。
巡査が私たちを見張っていた。私たちは「日本には行きたくない。行かない。親
や弟と一緒にいたい」と、泣き始めた。巡査は「一歩も外に出てはいけない。泣
いていると留置場にぶちこむぞ」と言った。そうして昼食の時間がすぎたが、子
どもたちは朝も食べていないので、ひもじくて泣いた。巡査は「おまえたちはこ
れからご飯もたくさん食べれるし、靴も新しいものにしてやる。泣くやつはぶん
殴るぞ」と言った。午後4時頃、トラックが来て、私たちを載せて駅に運び、貨
物列車に乗せられた。私たちは、貨物列車に乗れなかった、肩を貸したり押した
り泣き喚いたりごたごたしていたら、警察官が日本刀を持ち出し「乗らないとぶ
つぞ」といって殴り始めた。大騒ぎになった。列車にのったら、すでに10人あ
まりの子どもたちがいた。ドアを閉めると中は真っ暗だった。西に向かうのか東
に向かうのかもわからなかった。外は見えなかった。普通、京畿道の仁川までは
1時間半でつくが、私たちの列車が何時間かかったのかわからないが、真夜中に
降ろされた。初めはどこかわからなかったが、仁川のフッピョン町だった。夜は
ご飯をくれなかった。大きな部屋に入ったが、倉庫みたいだった、下にはかます
が敷かれていて、子どもたちはそこに寝ろといわれ、そこに寝た。今も記憶がか
すんでいるが、朝になって日本の伍長、軍属、監督数十人がわれわれを集めたの
で、全部で200人くらいいることがわかった。14歳から16歳だった。どの
ように集められたか詳しいことはわからないが、何かの命令で、子どもたちを9
時までに集めていた。家族にも知らせていないようだった。日本人が、芝浦通信
機組立工場と言っていた。家族の人にも連絡できず、殴られながら、ご飯もたべ
られず、引っ張られてきた。これこそが強制連行である。
そこは新設の工場で、建設中であり、だいたいさせられたのは土木、土掘り、
防空壕掘り、荷物運びなどの作業で、朝は夜明けから夜中の12時ころまでさせ
られた。1日15ー16時間くらい働かされた。土木作業は、1日にトラック一
台分の土を掘って終わることになっていたが、午前中の作業を終えたら昼食の伝
票をくれて、午後の作業を終えたら食事の伝票をくれた。仕事が終わらないと食
事はできなかった。子どもたちがくたくたになって、土掘りの場所に倒れるか、
しんどくて泣いたり泣き喚くと竹刀でぶん殴られた。労働させられた作業は本当
に話にならない。子どもたちが病気になって倒れた。まず泊まっていた部屋は大
きな倉庫で、床にはかますが敷いてあり、湿気があり、蚊が多かった、枕は朝鮮
式のものではなく、日本式の枕で、角木を並べていた。角木は髪の毛から出た油
などでつるつるしていた。夏だったので布団はない。食事はまるで獣が食べるよ
うなものだった。食べていたのは大豆粕に麦をまぜたもので、量は5人分を食べ
れば満足する程度のものでしかなく、おかずは沢庵、野菜と塩の汁だった。担っ
ている各所に軍犬がいたが、その犬のご飯その他は私たちよりずっとよいものだ
った。
辛い労働をさせられ、物足りない食事のため、ほとんどの子どもたちは栄養失
調になった。その結果、病名はわからないが、病気になり、咳が出たり、熱が出
たり、痰に血が混じっていた。30人くらいが倒れた。病気にかかった中にファ
ン・キチョル、14歳がいて、わたしを兄さんと呼んでくれた。カンウオン道、
ピョンガン郡の出身だった。ある日、急に集合させられたが、病気の子は宿舎か
ら出て来れなかった。見張りは軍人も軍属も監督もいた。名前は覚えていない
が、35歳くらいの日本人を覚えている。日本人の監督が倉庫に入って、中で殴
ったり、子どもたちが泣いたりしているのがわかった。その音を聞いて倉庫に入
ったが、監督が「おまえは関係ない。戻れ」といった。キチョルは私の弟のつも
りでいた子どもだったので、近寄ってみたら、かあちゃんを呼んでいた。鼻血が
散らばっていた。私は悲しくて震えていた。抱き上げた。キチョルの頭を支えた
が、「にいちゃん、かあちゃん」と呼んでいたが、目を見つめているうちにキチ
ョルは急に動かなくなった。手をつけるままに頭が左右に動いた。目はあいてい
て、私はキチョルが死んでいることに気づいていなかった。幼かったので、人が
死んだら目を閉じてあげなければならないと言うことも知らず、ずっと見つめて
いた。日本人は幼い子どもたちにまで筆舌に尽くしがたい野蛮な行為を何のため
らいもなく行った。キチョルが死んだ後、かますに包んでどこかに持って行った
が、どうなったかはわからない。そこでは5ー6人が死んだのを直接知っている
が、他にどれだけ死んだかはわからない。腕が折れて障害を負った子もいた。
私も病気にかかって、二日おきに倒れたりした。日本人は私に「臆病者」とい
っては、殴った。そのため指が折れた。咳が出て、痰が出たが、痰に血が混じっ
ていた。発熱した。1945年6月初旬、大検診が行われた。仁川の病院で検診
を受けた。検診の札があり、検診を受けているうちに咳が出て、痰を吐いたら、
痰と血が医者の服とマスクについた。医者は怒って、「畜生、馬鹿野郎」といっ
た。検診のふだに赤鉛筆で何かかいて、検診なしに終わらされた。宿舎に帰って
寝ていたが、急に「家に帰れ」といわれた。理由は肺病にかかったということだ
った。帰ろうとすれば旅費もいるので「お金をくれ」といったが、「お金はな
い」と言われた。労働している期間も、お金を見たことも触ったこともない。夜
中に追い出されて、ずっと歩いて三日かかって家に帰った。途中ものすごく雨に
降られたり、駅の待合室で寝たり、物乞いをしたりして、やっとの思いで家につ
いた。肺浸潤は直るのに2ヶ月かかった。仁川の病院では結核と言われたが、肺
病だった。私は長男だったので、私がいない間、家族も大変な苦労をしていた。
弟たちは4歳、8歳、11歳で、文字通り「乞食」の状態だった。