前田 朗@歴史の事実を視つめる会、です。
3月23日
2001年3月15日から22日まで、日本によるアジア各地への植民地支配
と侵略戦争の被害者に対する謝罪と賠償を求める市民運動に取り組んできたグル
ープのメンバーが朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)を訪問し、戦争被害者の聞き
取り調査を行いました。また、<従軍慰安婦・太平洋戦争犠牲者補償要求対策委
員会(従対委)>と交流し、歴史学者・法律家と懇談しました。聞き取りをした
被害者は、徴用被害者、強制連行被害者、被爆者、「慰安婦」などです。
これまで「慰安婦」被害者からのヒアリングは92年、98年―2000年に
行われてきましたが、今回のような戦争被害者からのまとまったヒアリングは初
めてのことです。朝鮮の従対委は92年に結成され、アジアや国連での活動を行
ってきましたから、個別の協力関係はありましたが、日本で戦後補償を求めて運
動してきた市民団体が従対委と組織的な協力を行ったのは今回が初めてのことで
す。
日程は以下のようなものです。
15日 新潟―ウラジオストック―ピョンヤン
16日 徴用被害者からの聞き取り、従対委との協議、歴史学者との意見交換
17日 強制連行被害者からの聞き取り、被爆者からの聞き取り
18日 国際法学者との意見交換
19日 日朝交渉責任者である鄭太和大使への取材、訪朝団記者会見、「慰安
婦」被害者からの聞き取り
20日 観光
21日 従対委との意見交換
22日 ピョンヤン―ウラジオストック―新潟
共同通信記者が同行しましたので、15日以来何度か配信されているはずで
す。現地の「労働新聞」等にも数回報道記事がのっています。
また「週刊金曜日」「マスコミ市民」等には写真とともに報告が掲載される予
定です。
さらに、訪朝団としては、録画録音に基く正確な記録を「報告書」として作成
する予定です。
以下は、聞き取りの現場で即席で取られたメモの一部です。聞き取りの正確性
は十分とは言えず、通訳を介在していること、未確認情報が含まれていることな
どの限界を残したままですが、ご紹介します。
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日本軍に徴用された元軍属の被害者三人
2001年3月16日
(1)キム・チリン(金 到隣、77歳、1924年3月11日生れ)
私は1944年12月に徴集された。それまで平安南道のマーイ里に住んでい
た。ピョンヤン市の44連隊で予備訓練を受けた。1945年2月に貨物列車に
載せられ、釜山を経て、愛知県のノダチキに連れていかれた。一緒に連れていか
れた人に同じ村の人はいない。同じ軍で呼び訓練をさせられた人で一緒に行った
のは12人だった。ノダチキでは「農耕隊」――これはわれわれがそう呼んでい
た名称――で、ノダチキに連れていかれて、一つの家に3―4人わりあてられ、
農機具で田畑を開拓した。水田を起こしたり、竹林を切り倒して、そこに農作物
を植えたりの農作業をした。みんな軍服を着ていた。2000人を船に乗せて下
関についてから、日本人の上等兵2人がそれぞれ30人を引率して連れていっ
た。部隊名は教えてくれなかった。30人が一部隊とされ、豚小屋のような汚い
部屋にいれられ、朝から夜まで働かされた。馬牛のように扱われ、自由に話すこ
とも許されなかった。上等兵は学校のような建物にいた。日本人女性たちがわれ
われを監視していて、仕事ぶりを上等兵に報告していた。住民が我々を監視して
いた。我々は日本語もろくにしゃべれなかった。上等兵が巡回していて、仕事が
うまくいっていないと呼び出しては殴った。上等兵の山口は、靴でわれわれを殴
った。その傷がのこっている。つるはしで殴られて指を骨折し、いまも指が曲が
らない。
通常食べた食事は納豆のようなもの、大豆粕、そして副食はほとんどなし。せ
いぜい沢庵だった。それでも仕事はきつかった。仕事ができないと殴ったり、銃
殺した。仕事があまりにも辛かったので逃走して、捕まった三人が銃殺された。
野牛のように働かせた人間を、日本人は、逃げたといっては平気で殺した。
8月15日をすぎて朝鮮にもどろうとしたが、連絡船に載せて、島に運び、朝
鮮人をそこに置き去りにして逃げた。5隻の船で帰ろうとうとしたが、帰りつい
たのは2隻で、3隻は機雷で沈んでついに帰らなかった。
(2)キム・テーシク(金 恭植[金星栄一]、77歳、1924年7月10日
生れ)
1944年12月1日に徴発され、上海のウーシュン、揚子江のスミトという
島に、ソウルを経由していった。最初にソウルに集められ、それからウーシュン
に行ったが、12月7日か8日だった。8月15日までそこで勤務させられた。
部隊名は中支那派遣3851部隊で、隊長はハトウ・キタローだった。朝鮮人が
800人貨物列車に載せられた。トイレは一人5分だった。中隊には3人の朝鮮
人がいた。私は入隊早々から二等兵だった。歩哨は朝鮮人にはさせなかったが、
不寝番は朝鮮人もやらされた。5円くらいの給料があった。しかし、実際は給料
のかわりに煙草をくれた。その煙草を売って、お金にした。それでまた殴られ
た。貯金するなどということは全然考えられなかった。
一番忘れられないのはひもじさと殴られたことだ。一つの例はひもじくて食堂
に入って、釜のおこげを日本人と二人で食べたら、ばれて6人の日本人が私を殴
り、3人は私の背中に立ってのったのが辛かった。あのとき殴られた後遺症で、
2―3年は腰も足も不自由をした。今もものすごい不自由を覚えている。中隊に
は朝鮮人が3人いたが、平安北道の金山サンジと約束して、夜中に逃げようとし
たが、金山が約束を守らず一人で先に逃げて、捕まって、4日目に銃殺された。
当時の思い出といったら、とにかくひもじかったこと、殴られたことだ。8月1
5日で祖国に戻ったたが、46年3月だった。中国のウーシュンで、「慰安婦」
とされた女性2000人とわれわれ3000人が合流して、乗船し、軍艦で帰国
した。その船便にあわせるために半年近くウーシュンにいた。捕虜の生活は日本
人と朝鮮人は別だった。捕虜収容所では朝鮮人と日本人は別だった。「慰安婦」
も別で、船で初めて会った。彼女たちとは話しをしなかった。
(3)リュ・ドンウン(柳 東健[松村健治]、80歳、1920年7月26日
生れ)
コウカイ道のチョジョン里生まれ。当時、京城法学専門学校(ソウル大学法科
大学)に通っていて、借間をしていたのが、左翼文献を読んでいて退学にされた
北海道帝国大学の学生の家だった。そのことは知らなかったが、彼が日本のブラ
ックリストの載っていた。トンデモン警察の数一〇人の警察官が動員されて家宅
捜索をしたが、ぼくの部屋にもやってきて、全部調べられ、隠していた左翼の本
がみつかった。読んでいたのは「資本論」、「唯物論」、「マルクス主義と青
年」だったので、いいがかりをつけられて逮捕された。担当刑事はナガベだっ
た。ナガベはとても表現できない拷問を加えた。ぼくは五人の警察官の監視のも
とに戻され、ピョンヤンをへて、ソウルへ送られ、マツダ巡査部長に監禁生活を
させられた。1944年1月20日、キョンソンのヨンサンにあった20師団の
練兵場でシライ伍長に引き渡され、鹿児島県に連れていかれた。鹿児島歩兵45
連隊で、当時は西部18部隊と呼ばれていた。2大隊5中隊があり、連隊長はホ
カドノ・ススム大佐、大隊長は石川大尉、中隊長はシゲヤマ・トシオ中尉、担当
の小隊長はムカイ・ユウキチ少尉だった。1944年7月1日まで二等兵であっ
た。7月1日に一等兵になった。45年8月1日に上等兵になった。
この期間にも朝鮮人としての民族的差別をひどく受けた。やはりもともと軍隊
はひもじい思いをし、気合が強いということは理解できるが、とにかくひどかっ
た。資本主義の軍隊は気合と軍律を保つことでやっている。週番上等兵は食事、
整備、掃除を担当するが、私が週番上等兵だったとき、山口という上等兵が何の
理由もなしに私を殴った。自分にあてられたご飯の量が少ないというものだっ
た。日本帝国軍で一等兵が上等兵を殴るということはおよそ考えられないこと
だ。私も黙っていられず、殴り合いを始めた。まわりにいた兵士たちが「山口は
あんな人間だから我慢せよ」と言いながら私だけを制止したので、山口は私を殴
りたい放題殴った。軍靴で蹴られて右の耳が聞こえなくなった。頬の中に怪我を
し、奥歯は二つ抜けた。後遺症で耳はずっと聞こえない。山口は一対一なら問題
にならないような奴で、それなら簡単だが、まわりは山口に与して、私に制裁を
加えた。小隊長に抗議した。ムカイ少尉に報告すると表向きは「ああわかった」
といったので、山口には相当の処罰があると思った。ところが何日か経っても何
の処罰もなかったので、シゲヤマ中隊長に報告した。しかし、中隊長は何の措置
ももとらなかった。日本帝国の軍人が紀律を損ねたことよりも、朝鮮人を殴った
のは問題ないとして、そのように処理されたと思う。今も、日本人に朝鮮人と差
別され殴られた傷跡が、わだかまりとして残っていて、いつまでも忘れらない。
これは私が体験した一例にすぎない。