Date: Wed, 21 Feb 2001 13:34:03 +0900
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Subject: [keystone 3608] 憲法調査会1年の検証
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衆院憲法調査会予定
2月22日  午前9時開会
(参考人)
〔午前〕
理化学研究所
ゲノム科学総合研究センター
遺伝子構造・機能研究グループ
プロジェクトディレクター        林?ア良英君
〔午後〕
日本大学人口研究所次長
日本大学経済学部教授       小川直宏君

以下転載
−−−−−−−−−−
憲法調査会の一年の検証
「改憲調査会」化した憲法調査会
          高田 健
 
 

 昨年一月二〇日、「日本国憲法について広範かつ総合的に調査する」ことを目
的として衆参両院の憲法調査会が発足してからちょうど一年が過ぎた。
 憲法が定める改憲の発議権のある国会に、現行憲法下で初めて設置された憲法
調査会、その一年の議論はどのような意味を持ったのか、衆参憲法調査会を毎回
傍聴してきた筆者が検証する。

[改憲議連について]

 一九九七年五月末、憲法制定五〇周年を契機に中山太郎元外相(現衆議院憲法
調査会会長)を会長とする「憲法調査委員会設置推進議員連盟」が中曽根康弘、
竹下登、海部俊樹、羽田孜などの首相経験者を含む自民・新進・太陽・民主・さ
きがけ(政党名は当時)などの政党所属の有志議員三百七十余人を結集して発足
した。同議連は国会に「憲法調査委員会」を設置するために「国会法および衆参
両院規則を改定する」ことを目的とした。その趣意書は「現行憲法との乖離現象
が多々生じてきている」と改憲を主張した。 湾岸戦争以来、「国際貢献」論が
しきりに語られ、日米首脳会談では「安保再定義」が確認され、日米安保の新ガ
イドラインが策定されるなど安保体制は事実上のグローバル安保化されつつあっ
た。これらの路線を推進する勢力にとって、平和憲法を変えることはもはや不可
欠の課題となっていた。
 この「議連」の動きにたいして、市民運動側からは「事実上の改憲議連だ」と
その危険性が指摘され、「国会法改定反対」の署名運動なども提起された(署名
は一年半に十七万余が集まり、国会に数次にわたって提出された)。
 だが、当時の「議連」幹部はこれらの批判に対して「改憲のための議連ではな
い。論憲が目的だ。改憲議連などというのはいいがかりだ」(週刊金曜日二三八
号・一九九八年一〇月九日号の『「憲法議連」事務局からの反論』参照)と反論
した。
 その後、憲法調査委員会設置推進派は必ずしも世論の支持がえられないと見る
や、「論憲が目的だから改憲の議案をだせる常任委員会でなくともよい」とする
迂回作戦をとった。常任調査会の設置には消極的だった公明党、民主党がこの作
戦に乗せられ、「調査が目的」との申し合わせを確認して賛成。「議連」発足か
ら二年余を経た一九九九年夏、「憲法調査会」を設置するための国会法の改定案
が第一四五国会で採択された。新ガイドライン関連法案などが強行され、日本が
「戦争のできる国」へと大きく歩みをすすめた歴史的国会でのことだった。

[約束を破った改憲派]

 憲法調査会の昨年一年の動きは、発足の際の「改憲のための機関ではない」と
いう改憲派による説明がまったくのまやかしであったことをはっきりと示した。
当初の与野党の約束は反古にされ、多くが改憲のための議論に終始し、憲法調査
会は事実上「憲法改正調査会」としての性格を発足早々からあらわにした。
 自民党委員には中曽根康弘氏、奥野誠亮氏など超タカ派の議員が多く名を連
ね、与党の委員からは「論憲だとかいろいろ言われているが、この憲法調査会の
目的は本当の独立を達成するけじめとして、我々の手に成る新しい憲法をつく
る。このことは当然だ」(衆議院二〇〇〇年四月二七日、平沼赳夫・自民)、
「五年は長過ぎる。二年で議論は終わる。三年目ぐらいから各党が改正試案を出
す」(同前、中曽根康弘・自民)などという発言がたびたび繰り返された。福島
瑞穂委員(社民党)などが、「これらの発言は調査会の主旨に反している」と指
摘したが、聞き流された。
 委員会の構成も発言時間も議席数に準ずるとされており、招請される参考人も
それに比例して決められることから、改憲派の発言が大勢をしめることになっ
た。
 発足にあたっての「原則公開の国民に開かれた憲法調査会」といううたい文句
も偽りだった。傍聴するためには事前に委員の紹介による会長の許可が必要で、
空港並みのものものしい身体検査を経て、衛視の監視のもとで傍聴席に座る。傍
聴席は狭く二〇〜三〇席程度にすぎない。十一月末の石原慎太郎都知事が参考人
に招かれた日は市民三百七十人が傍聴を希望したが、二十分入れ替え制にされ
た。手紙やメールでの意見も求めているというが、告知が不十分なため、寄せら
れた意見は一年で六〇〇通程で、とても開かれているとは言えない。

[真剣な「調査」が目的とは思えない実態]

 すでに本誌や他のメディアでも指摘されているように、憲法調査会での委員た
ちの議論は必ずしも真剣ではないし、招請された参考人の発言も玉石混淆であ
り、参考にすらならないようなお粗末なものが少なくなかった。
 委員の欠席、途中退席、私語、居眠りなど、議論はほとんど「学級崩壊」状況
の中で行なわれる。あきれた市民たちが調査会事務局やさまざまなメディアなど
を通じて抗議した。十一月十五日、参議院の村上会長が「各委員は国会で
兼任が多いので空席や移動が多くなる。ご了承を」などと弁明せざるをえなかっ
たほどだ。
 衆議院では定数五〇人のうち、開会時にはたいてい三五人程度の出席で、それ
が昼近くなると二〇人ほどになり、午後には十数人になることさえある。このう
ち何割かは前述のとおり、居眠りをしているし、席を渡り歩いて私語をしている
者もいる。これらの多くが憲法調査会を設置すべきだと叫んでいた党派の委員で
ある。
 参考人の議論では、たとえば四月六日の衆議院憲法調査会に出席した進藤栄一
氏(筑波大学教授)が、二月に出席した青山武憲氏(日本大学教授)を名指しし
て「議論の質が低すぎる。憲法学者が(制定当時の)日本自由党、日本進歩党の
憲法草案を見ていないというのですから。大変ショックです」と述べたことがあ
った。当日の青山氏は「戦争が終わったばかりで戦争を嫌がるのは、二日酔いを
やって頭が痛い時に酒を飲まないというのと一緒」という発言に見られるよう
に、論理性に欠け、平和憲法への感情的な反発に終始した。

 改憲派の委員はこれら自ら推薦した学者の発言を聞いて、己れの改憲論と同様
だという自己満足的な確認をしているにすぎない。
 しかし「学級崩壊」状況でも、議論の水準が低くても、憲法調査会の運営は進
められていく。改憲派にとって、調査会での議論はその中身が問題なのではな
い。「議論した」という実績さえつくられれば、あとは国会手続きにしたがっ
て、「粛々と」改憲の作業に入ればよいことになる。
 これでは議会制民主主義の形骸化であり、国の基本法である憲法の議論にはま
ったくふさわしくない。

[「押しつけ憲法」論は破綻した]

 この間の議論のテーマ、「日本国憲法制定経緯」「二一世紀日本のあるべき
姿」(衆議院)「この国のかたち」(参議院)は、委員の合意の体裁をとりつつ
も、いずれも圧倒的多数の与党を背景とする中山太郎・村上正邦両会長の強力な
指導権のもとで設定されたものだ。このテーマ設定自体が「改憲」の必要性を前
提としており、きわめて恣意的なものである。
 しかし、衆議院で議論された「憲法制定経緯の検討」(参議院でもGHQ・連
合国軍総指令部関係者を招いて議論した)では、押しつけの度合いを強調するか
どうかは別としても、与党の自民党や公明党の委員からも「押しつけ憲法だから
改憲が必要だという論理は成り立たない」という発言が相次ぎ、改憲論のために
活用しようとしたねらいは事実上、破綻した。
 また「二一世紀日本の在り方」
というテーマは、「憲法がこれからの時代からみていかに古くなったか」を証明
するための設定だったが、その目的も必ずしも達成されなかった。外国では憲法
が何回も変えられたなどという論理は、憲法の原理が古くなったのかどうかの反
論の前には有効ではなかったのだ。
 さらに「環境権、プライバシー権、知る権利など新しい人権が盛り込まれてい
ない」「政治に国民の信頼を取り戻すために首相公選制を」などという九条改憲
という本音を隠すための主張は、従来、だれが人権や民主主義の実現のための市
民運動の前に立ちはだかってきたのかを考えれば、天にツバする者の図そのもの
だった。
  
[「論憲」論のブラックホールと改憲翼賛国会化]

 しかし、憲法調査会が看板にした「論憲」は、公明や民主などの中間派を改憲
の渦にのみ込んでしまうブラックホールの役割を果たした点で、改憲派にとって
は大きな成功だった。この一年の調査会の内外での憲法論議の過程で、民主党や
公明党が「論憲」から「改憲」にスタンスを移行させつつあることが顕著になっ
た。
 それは中曽根元首相から「(改憲を唱えた)祖父の鳩山一郎のDNAを受け継
いでいる」などと礼賛された鳩山由紀夫民主党代表の改憲発言が、国会内外で突
出したことを見ればわかる。
 「自衛隊は海外から見れば軍隊で、憲法解釈はあいまいだ、そこに自尊心の喪
失がある」(九月九日、代表選出直後の発言)「憲法の中で、集団的でも個別的
でも本来あるものなら(自衛権の行使を)明記すべきだ」(一〇月一六日 のテ
レビ発言)などの見解は同党の横路孝弘副代表らの厳しい反発をうけたが、その
後もつづいている。いま鳩山氏は自らの代表任期の二年以内に党の改憲案の基本
を作る方針でのぞんでいる。
 一方、八月三日、衆議院憲法調査会の自由討議で発言した公明党の赤松正雄委
員は、憲法問題についての同党の「将来にわたる護憲を明確にした昭和四十九年
(一九七四)の見解」、「最小必要限度の個別的自衛権は合憲とした昭和五十六
年(一九八一)の見解」などの歴史的経過についてふれ、「いまは第三段階の論
憲に至っている」と述べた。そして「論じて変えないのは論憲ではない」「最大
の論点は安保問題であり、やっかいでもここから手をつけよ」と、事実上の九条
改憲の立場を明らかにした。まさに公明党の憲法論の大きな転換だった。
 自民党はすでに山崎派や橋本派、亀井派などが改憲草案づくりをすすめてお
り、自由党はさきごろ「新しい憲法を創る基本方針草案」を発表した。また一〇
月一〇日には保岡興治法相(当時)が国会答弁の中で改憲に言及し、第二次森改
造内閣の高村正彦法相も「必要があれば改憲もありうる」などと憲法遵守義務に
反する異例の発言をした。こうして永田町の議論は、この一年、「改憲翼賛」的
な色彩をいっそう濃くしてきた。

[永田町の論理と世論の乖離]

 憲法調査会での論点は多岐にわたってはいるものの、改憲派の多くはターゲッ
トを次第に憲法第九条に絞ってきている。
 たとえば三月二二日の参議院憲法調査会で発言した西尾幹二電気通信大学教授
は「自衛隊が憲法違反になっている、そこだけでもいいですから、本当に半年、
一年の間に変えてもらいたい。それ以外は急がないほうがいい」と述べている
し、中曽根元首相や自由党の小沢一郎党首らのマスコミでの発言も、事実上、九
条問題、とくにその第二項(戦力および交戦権の否定)が焦点となっている。
 しかし「世論」はどうか。このところ世論調査が発表されるたびに改憲派が多
数だと言われる。たとえば昨年九月に『毎日新聞』が実施した世論調査では、た
しかに「改憲派」が四三%、改憲反対派が一三%という結果だった。だが、改憲
要求の具体的な中身では、第一位は「首相公選」であり、第二位は「重要政策で
の国民投票」で、「自衛隊の位置付けを明確にする」は第五位だった。
 さらに「戦争放棄と戦力不保持の憲法九条について」の質問では、「削除」が
五%、「自衛戦力明記」が三六%で計四一%、「現在のまま」が二〇%、「非武
装中立をより明確に」が二六%で、計四六%だった。このように世論の中では第
九条改憲派は依然として少数派なのだ。九条改憲を進めようとする永田町と、こ
の民意のありかの間には大きな乖離がある。
 新たな一年、この流れを変えるために、市民運動が憲法調査会の外で多くの人
びとへの働きかけを強め、憲法の三原則を生かし、戦争と人権の抑圧に反対する
世界の人びととの連帯・共生の時代の流れを促進することができるかどうか。永
田町をゆさぶる力はここにある。いまこそ、さまざまに試みられている憲法改悪
阻止の大小の運動が思想・信条の違いを超えてネットワークを組み、全国各地に

市民を網の目につなぐ運動を作り出さなくてはならない。
 十一月三〇日、衆議院憲法調査会に石原慎太郎都知事らが招かれ、持論の「憲
法否定」発言を展開したのに対して、三百名ほどの市民が国会前につめかけ、終
日、抗議行動を行った。これは憲法調査会が「憲法改正調査会」化しつつあるこ
とへの市民の怒りと抗議の意志表明だった。そして、今年の憲法記念日にあたる
五月三日に向けては、東京では初めての試みとして、さまざまな市民団体などが
集まり、超党派の共同集会が準備されている。市民たちの運動はいま力強く動き
はじめた。

(これは「週刊金曜日」一月十九日号に掲載されたものに若干、加筆したもの)



 
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