Date: Sun, 18 Feb 2001 14:49:59 +0900
From: "MAEDA,Akira" <maeda@zokei.ac.jp>
To: "hap@jca.apc.org" <hap@jca.apc.org>, keystone <keystone@jca.ax.apc.org>,"renko-ml@egroups.co.jp" <renko-ml@egroups.co.jp>
Subject: [keystone 3600] ICTY、セレビッチ事件控訴審、20日に判決
Sender: owner-keystone@jca.ax.apc.org
X-Sequence: keystone 3600
Reply-To: keystone@jca.ax.apc.org

前田 朗@歴史の事実を視つめる会、です。
2月18日

1) 昨日は「紀伊國屋サザンシアター」で、「オペラシアターこんにゃく座」
の公演『三人姉妹』(原作:アントン・チェーホフ、作曲:林光、演出:佐藤
信)でした。こんにゃく座公演は年に3回くらいは通っています。

2) さて、旧ユーゴスラヴィア国際法廷(ICTY)の2月16日付プレスリ
リース(JL/P.I.S/561-E)によると、2月20日午後3時30分に、ICTY控
訴部は、セレビッチ事件控訴審判決を言渡します。(以下の固有名の表記はいい
加減です)

3) 背景は次のように説明されています。1992年、ボスニア・ムスリム=
ボスニア・クロアチア軍は、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ中央のコンジッチ地域
およびその周辺で、主にボスニア・セルビア人が居住している村々を支配した。
この作戦中に拘禁された人々は、セレビッチ村の旧ユーゴスラヴィア国軍の施設
であるセレビッチ収容所に収容され、そこで殺害、拷問、性暴力、殴打その他の
残虐で非人間的な取扱いを受けた。1996年3月21日に提出された起訴状
は、4人をさまざまの罪状で起訴している。ゼジニル・デラリッチは、92年4
月から9月までコンジッチにおけるボスニア・ムスリム=ボスニア・クロアチア
軍の有力メンバーで、92年6月から11月までボスニア・ムスリム軍第一作戦
部隊長であった。彼は、セレビッチ収容所とその職員に対する指揮権を有してい
た。ズドラコ・ムチッチは、92年5月から11月までセレビッチ収容所長であ
った。ハジム・デリッチは。92年5月から11月までセレビッチ収容所長代理
であり、92年12月にはムチッチの後任の所長となった。エサド・ランゾは、
92年5月から12月まで、セレビッチ収容所の看守であった。

4) 審判は1997年3月10日に始まり、1998年11月16日にICT
Y第二裁判部は、判決を下しました。

5) デラリッチは、すべての訴因について無罪を言渡され、即座にICTY拘
禁施設から釈放されました。

6) ムチッチは、1949年ジュネーヴ諸条約の重大な違反(心身に重大な苦
痛・傷害を加えること、民間人の不法監禁)および戦争法規慣例違反(残虐な取
扱い)についての自己の刑事責任、並びに、1949年ジュネーヴ諸条約の重大
な違反(恣意的殺害、心身に重大な苦痛・傷害を加えること、拷問、非人間的な
取扱い)および戦争法規慣例違反(殺人、残虐な取扱い、拷問)についての上官
の刑事責任を問われ、7年の拘禁を言渡されました。

7) デリッチは、1949年ジュネーヴ諸条約の重大な違反(恣意的殺害、心
身に重大な苦痛・傷害を加えること、拷問、非人間的な取扱い)および戦争法規
慣例違反(殺人、残虐な取扱い、拷問)についての自己の刑事責任を問われ、2
0年の拘禁を言渡されました。

8) ランゾは、1949年ジュネーヴ諸条約の重大な違反(恣意的殺害、心身
に重大な苦痛・傷害を加えること、拷問)および戦争法規慣例違反(殺人、残虐
な取扱い、拷問)についての自己の刑事責任を問われ、15年の拘禁を言渡され
ました。

9) 1998年11月26日、検察官は、デラリッチの無罪判決およびムチッ
チの量刑に対して控訴しました。98年11月27日にムチッチが控訴、11月
23日にデリッチが控訴、12月1日にランゾが控訴。控訴審は2000年6月
5日から8日にかけて開かれました。



 
  • 1998年   3月4月5月6月7月8月9月10月11月12月
  • 1999年   1月2月3月4月5月6月7月8月9月10月11月12月
  • 2000年   1月2月3月4月5月6月7月8月9月10月11月12月
  • 2001年   1月2月3月4月5月6月7月8月9月10月11月12月

  • キーストーンメーリングリスト 目次