Date: Sun, 04 Feb 2001 11:12:59 +0900
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Subject: [keystone 3549] アルメニア・ジェノサイド(再)
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前田 朗@歴史の事実を視つめる会、です。
2月4日

1) トルコによるアルメニア人虐殺をフランスが「ジェノサイド」と認定する
法律を可決したことでトルコとフランスの関係がぎくしゃくしています。ラフサ
ンジャニ元大統領をベルギーが人道法違反処罰法容疑で調査したことでイランと
ベルギーの関係がぎくしゃくしているのと似ています。トルコやイランとして
は、植民地保有国であったフランスやベルギーが、アルジェリアやルワンダで何
をしたかを取り上げざるをえないでしょう。世界じゅうで歴史の見直し・再審が
ますます進むことになりそうです。朝鮮戦争におけるアメリカによる韓国人虐殺
が問題になっています。韓国人の間では、アメリカの責任を追及する動きととも
に、ベトナム戦争において韓国人が何をしたかを問いなおす動きも出ています。

2) 以下は2点。一つは、2月1日の朝日新聞記事の一部抜粋です。もう一つ
は、ウイリアム・シャバス『国際法におけるジェノサイド』(2000年)の中
のアルメニア・ジェノサイドに関連する記述の要約紹介です。シャバスは、アイ
ルランド国立大学主任、アイルランド人権センター事務局長です。以前はモント
リオールのケベック大学教授でした。専門は国際人権法と刑法。主要著書は、
『国際法における死刑廃止』(1997年)、『国際人権法とカナダ憲章』(1
996年)、『残虐な取扱い及び拷問としての死刑』(1996年)。アムネス
ティ・インターナショナル、国際人権連盟、人権と民主主義発展のための国際セ
ンターなどの国際NGOで活躍してきました。

3)朝日新聞2001年2月1日

仏、アルメニア人「民族虐殺認知法」を公布
トルコ反発、報復も/EU正式加盟に影

フランスのシラク大統領は三十日発行の政府広報で、一九一五年にオスマン・ト
ルコ帝国で起きたアルメニア人の大量殺害を「民族虐殺」と認知する法律を公布
した。すでに上下両院が可決していたが、トルコの反発が強く、最終的に公布を
決める大統領の出方が注目されていた。公布を受けてトルコのエジェビット首相
は同日、政治と経済の両面から対仏関係を見直す考えを示した。トルコが目指す
欧州連合(EU)正式加盟に、この問題が影を落とす可能性もある。

アルメニア人と「虐殺」
アルメニアは4世紀初め、世界で初めてキリスト教を国教化。長年、近隣の大国
の侵入、支配を受け、移民が多かった。第1次世界大戦時の1915年には、帝
政ロシアとの戦争に際し、オスマン・トルコが「領内のアルメニア人がロシア側
に傾斜している」とみなして強制移住などの措置をとった。この過程で大量の犠
牲者が出た。
世界各地に逃れたアルメニア人は現在のアルメニア国内人口(約380万人)を
上回る。米国では約70万人といわれる。

トルコ政府は、約150万人というアルメニア人の主張する犠牲者数は退けなが
らも、30万―50万人が死亡したことは認めている。
ただ、それは帝政ロシアとの戦争状態の中、アルメニア人の移住を余儀なくされ
たために起きた悲劇だと説明。多くの無実の市民が命を落としたが、トルコ人も
犠牲になっており、「民族虐殺」と見るのは埠頭だと主張する。

3) シャバス『国際法におけるジェノサイド』(2000年)16-17頁

オスマン帝国におけるアルメニア住民に対して行われた戦時虐殺について、一九
一五年五月二四日の仏英露共同宣言は、トルコによるこの新しい人道と文明に対
する犯罪について、虐殺にかかわったトルコ政府のすべての構成員に責任がある
と宣言した。国際法の文脈で「人道に対する罪」という用語が用いられたのはこ
れが最初であるとされてきた。この用語自体は、多年にわたり存在していた。フ
ランス革命における国民議会で、ロベスピエールは、ルイ十六世に対して「人道
に対する罪」と述べていたという。一八九〇年、アメリカ人のジョージ・ワシン
トン・ウイリアムズは、コンゴのレオポルド皇帝体制について「人道に対する
罪」であると書いていた。とはいえ、国際法の文脈ではアルメニア虐殺が最初で
ある。当時、アメリカ国務省のロバート・ランシングは、軍事作戦地域に居住し
ているアルメニア人を強制移送することはトルコ政府の正当な権限であるが、そ
の実行が恐るべき残虐さをもって行われたため、戦史における暗黒の一頁となっ
たので、不幸な人々のために介入することはまったく正当なことであるとした。

4) シャバス同書20-22頁

トルコについては、連合国は、ほとんどがイギリス人であった捕虜の虐待につい
ての訴追と、強制移送と虐殺、つまりアルメニア少数者への迫害を検討された。
イギリスのアドミラル・キャルソープ高等弁務官は、一九一九年一月一八日、ト
ルコ外務大臣に、アルメニア人虐殺に責任ある者に適切な刑罰が課されることで
解決したいと伝えた。キャルソープは本国への電報で、該当者が個人として責任
を負わされる文明世界を予見し、それを果たすことはイギリス政府の硬い意思で
あると伝えたと報告した。キャルソープは、後に、トルコ政府に、トルコ帝国民
でない者によるアルメニア人虐殺は裁判にかけられるべきであり、高官たちの刑
事裁判を一例として行うように提案した(トルコ政府を免責する妥協案)。

イギリス本国は、「戦争の共通の法規」「戦争慣例および国際法の支配」に基い
て訴追が為されるものと信じていた。裁判が、犯罪が行われた地で犯行者を訴追
するのは占領軍当局の権限であるという考え方で行われることになる。それゆ
え、管轄権は、普遍性概念に基礎をもつ広義の管轄権ではなくなった。

連合国軍の圧力によって、トルコ当局は多数の指導者を逮捕・拘禁したが、後に
民衆のデモ等の圧力によって多くを釈放した。一九一九年五月末、イギリスは六
七人のトルコ人捕虜を捕らえ、マルタその他へ連行した。しかし、ケマル主義の
増大などの政治的配慮により、訴追は維持できないと主張するようになった。一
九二〇年代半ば、在イスタンブールのイギリス高等弁務官法律顧問は、アルメニ
ア人虐殺についてトルコ人を訴追するための、証拠収集等の実際的困難を警告し
た。一九二一年末までに、イギリスはトルコと捕虜交換協定の外交交渉を行い、
マルタで拘禁されていたジェノサイド被疑者は釈放された。

虐殺責任者を国内裁判にかけることについては、トルコの法律家の試みは、幾分
は成功した。戦時内閣の数人の大臣が、国内刑法に基いて訴追されたが、一九一
九七月五日、軍事裁判所が、アルメニア人少数者に対する「虐殺の罪の組織と実
行」で有罪と判断した。犯罪者は欠席裁判で死刑や有期刑を宣告された。

一九二〇年八月一〇日のセヴレ条約によれば、トルコは、トルコの裁判所で訴追
や裁判を行う権限があるとされ、名義であれ地位であれ、トルコ当局のもとにあ
った公務員で戦争法規慣例違反行為を行ったと告発されたすべての者を裁判にか
ける義務があった。これは、ベルサイユ条約の戦争犯罪条項と同じである。しか
し、セヴレ条約には大きな革新もあって、人道に対する罪の定義に相当するもの
の訴追を考えていた。

しかし、セヴレ条約は批准されなかった。ケイ・ホロウェイが書いているよう
に、批准できなかったことが、多くのアルメニア人とギリシア人を、防護のない
まま、憤激した迫害者のもとに置き去りにすることになり、一九一五年のアルメ
ニア人虐殺を生き延びた生存者の再びの殺害を生じた。セヴレ条約に取って代わ
ったのは一九二三年七月二四日のローザンヌ条約で、これには一九一四年八月一
日から一九二二年一一月二〇日の間に行われたすべての犯罪に関する「恩赦宣
言」が含まれていた。



 
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