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「人道的介入」について
― ピエール・サネ氏の論文から ―
井上 澄夫(戦争に協力しない!させない!練馬アクション)
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新年1月号の『世界』に掲載された、ピエール・サネ氏の「人権の名のもとの
軍事介入」は、深く検討されるべき論文である。私たちがいま直面している事
態、世界のあちこちで頻発している人権侵害への対応に関する重要な問題提起で
あるからだ。
氏は、セネガルの首都ダカール生まれで、アムネスティ・インターナショナル
の国際事務局事務総長である。氏は問題をこう提出する。
「外国の軍隊が、人権の名のもとに侵入や爆撃を行なうことは正当化できるの
だろうか? また、外部からの軍事介入は、人権の尊重を獲得することに成功し
てきたのだろうか? これらの問題は、人権コミュニティや国連において、大規
模な人権侵害に立ち向かうための外部からの武力行使に関する論争の核心をなす
ものである。私たちはこの論争を歓迎する」。
しかし「侵入か、あるいは何もしないかだけが選択肢とされるべきではない。
民族浄化か爆撃か―人権活動家が今までになさねばならなかった選択は、これだ
けではない。」とし、別の選択肢に触れる前に、アムネスティの立場をこうのべ
る。
「アムネスティは長年、人権の危機的状況に対して外国の軍隊が派遣されるべ
きか否かについて、立場を明言することを拒んできた。私たちは、そういった介
入について支持も反対もしない。その代わりに、人権の危機的状況は回避可能で
あり、また回避されるべきであると論じている。それは決して避けられないもの
ではないのである。」
そして介入を支持する各国政府の主張と、介入に反対する人びとの論拠を紹介
しつつ、こうのべる。「人道的介入に従事する個人及び非政府組織の動機に疑問
はない。しかしながら、各国政府の動機に関しては重大な疑念がある。そして結
局は、介入するか否かを決定するのは各国政府であり、軍隊を派遣しまたそれに
融資するのは各国政府なのである」。
氏は、介入が正義の探求とされるのなら、「なぜ、言葉に表せないほどの不公
正な状態にまで状況が悪化することを許してしまうのだろうか?」と指摘して、
その例を列挙し、普遍的な価値を守るという介入の大義と、あらわに「選択的な
行動」との乖離に疑問を呈する。以下重要な論点を挙げる。
○各国政府の動機が平和であるならば、それらの政府はなぜ、武器の供給によっ
て紛争をたきつけるのだろうか。国連安全保障理事会の常任理事国、米・ロ・
中・仏・英は、世界最大の武器輸出国である。果たしてこの5ヶ国には国連憲章
の客観的な保護者となり、またすべての人々の平和と安全への公約を実現させる
資格があるのだろうか?
○介入に反対する各国政府の動機も疑わしい。それらの政府は、他国における大
規模な人権侵害に対する武力の行使には反対するが、自国の市民に対して、自身
が違法に武力を行使することを躊躇しない。
○基本的な疑問のひとつは、人道的介入が、果たして犠牲者の利益にかなってい
るのかということである。NATOによるコソボ空爆は、人権侵害を阻止できな
かったし、国連による軍事介入から7年が経ったソマリアでは、いまだに政府及
び司法が機能していない。そして国連部隊自身が、深刻な人権侵害に手を染めて
いる。彼らはその任務の表向きの目的を外れ、子どもを含む数百人のソマリアの
一般市民を殺害し、恣意的に拘禁した。
○国際社会が介入を選択した場合、争いによって引き裂かれた社会を人権の尊重
を基盤として再建するには、長期的な関与が必要であるが、その努力を持続させ
ることを怠ったがために、国際社会はしばしば、(当初の)計画に言明された目
標を挫折させてきた。
○国連は、それぞれの利害によって行動する各国政府によって構成されている。
どのような説明がなされたとしても、すべての軍事的介入は軍隊の背後の各国政
府の戦略的利益と結びついている。国連の、あるいは地域(国家)による軍事介
入は、政治的また軍事的に力のある国家の利害を必然的に反映している。
大略こう指摘し、「私たちアムネスティの依って立つところはいつも、犠牲者
にとって何が最善であるかという問いである。そして、犠牲者にとって最善のこ
ととは、大規模な人権侵害を予防することなのだ」として、予防活動と「予防の
ための」介入の重要性を強調する。しかし氏のいう介入に、軍事的介入は含まれ
ない。内容の全部は紹介できないが、「予防活動は、各国政府が、敵国によるも
のであっても同盟国によるものであっても同様に人権侵害を非難することを要求
する。人権侵害を行う者への武器の販売を止めることを意味する。経済制裁が経
済的、社会的権利の侵害につながらないよう保障することを意味する。」という
部分などは、大いに検討に値する。
結語はこうだ。「介入と不作為の両方とも、国際社会の失敗を示している。問
題は、人権侵害についての早期警戒が足りないことではなく、早期の行動がない
ことである。あらゆる場所における人権を毎日保護することによってのみ、私た
ちは人道的介入についての論争を時代遅れのものと表現できるようになれるだろ
う。それこそが、21世紀の価値ある目標である」
論文は、はなはだ示唆に富んでいるが、氏の深い懊悩(おうのう)もまた、色
濃くにじんでいる。「今そこにある苦しみに直面しながら、軍事行動を強く求め
る声から離れたところに立つことは難しい。それは、自らの限界を認めることを
意味する」という言葉に、とりわけ氏の苦い思いが表出している。
しかし私は、「武力(軍事的)介入について支持も反対もしない」という氏の
立場には立たないし、「武力の行使を否定しない」という考え方に同調しない。
軍事的介入は、いかなる口実によろうとなされるべきではない。
武力による介入は、問題を解決しないだけではなく、次の紛争の種をまくだけ
だと思う。新旧のユーゴへのNATO(北大西洋条約機構)軍の介入は、失敗し
たばかりではなく、米・英軍による劣化ウラン弾の使用によって、介入した側に
も、介入された側にも、放射能被害を大量にまき散らした。それは、《人道的介
入の非人道性》を実証して余りある。
だが軍事的介入に反対することは、ひたすら不作為・無為に徹することと同義
ではない。私たちは声をあげ、世論を形成して、問題の解決に資することができ
る。非暴力の主体的活動は、決して無力ではない。
軍隊という暴力装置が、その力をフルに発揮するとき、それを阻止するのはむ
ずかしい。しかし米国政府がベトナムへの介入を断念するにあたって、国際的な
反戦世論の盛り上がりが、米軍内でのサボタージュや脱走の頻発、米国内での反
戦運動の発展とあいまって、大きな力となった。
たしかに私は、武力による衝突を直接止める力を持たない。その意味で私は、
「自らの限界」を率直に認める。しかし限界があるからこそ、できることを積極
的に探す。哲学者のJ・P・サルトルは、「アフリカの飢えた子どもたちを前に
して、文学に何ができるか」と自らに問いかけたと記憶する。彼もうまい答えが
出せたわけではないだろうが、答えを出そうと、最後まで努力し続けたと私は思
う。
力が足りないことを恥じる必要はない。力不足や無力を口実に無為を正当化す
ることこそ、恥ずべきなのだ。
〔非核市民宣言運動・ヨコスカ『たより』2001年1月号への寄稿〕