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未来の戦争被害者たちのマナザシ
井上 澄夫(東京)
本年8月23日、明石康・前国連事務次長は、国連のPKO(平和維持活動)
についての中学生の質問に「日本人は、血を流して平和のために貢献してもい
い」と答えた。
『西日本新聞』しか報道していないかも知れないが、10月29日、長崎県大
村市で行なわれた陸上自衛隊創隊50周年記念行事で、戦車2両と地対空ミサイ
ルを積んだ車両などが、市中を(!)行進した。
11月2日から17日間の予定で始まった日米共同統合演習(米軍側の名は
「キーン・ソード〔鋭い剣〕2001」と呼ぶ)は、新ガイドライン関連法が昨
夏施行されて以来、初めての総合的な実動演習で、西日本を中心に、日米両軍か
ら約21000人と、艦艇約20隻、航空機約310機が参加する。これは、
「日本有事」の想定に、「周辺事態有事」を織り込んだという意味でも、初めて
の大規模な演習である。
・・・やはり戦間期に生きているのか、と思わざるを得ない。半世紀ちょっと
前に終わった戦争と、近づく戦争との間の時期が〈今〉である・・・。
だがもっと正確に表現すれば、戦争というものをひと続きのプロセスとして理
解するなら、戦争はすでに始まっていると私は思う。いわゆる「満州事変」から
アジア太平洋戦争の終結までが〈15年戦争〉であるが、「満州事変」にも、先
行する準備期があった。
大戦争は、ある日、突然勃発するようにみえる。しかしそれに至るまでに、小
規模の軍事行動、意味を把握しにくい「事変」などが断続的ないし連続的に繰り
返される。「明治」期から1945年の敗戦に至る歴史は、それを証明してい
る。
昨年の3月24日、「防衛庁長官は、午前0時50分に海上自衛隊に対し自衛
隊創設以来初めての海上警備行動を発令した」(『平成12年版・防衛白
書』)。「周辺事態法」など新ガイドライン関連法案の国会審議が本格化しよう
とした矢先、突如、謀(はか)られたこの軍事行動を、防衛庁は「能登半島沖の
不審船事案」という。
しかし私は「日本海事変」と呼んでいる。政府による経過説明が疑わしく、し
かも実弾射撃や爆弾の投下がなされた軍事行動は、そう命名するしかないからで
ある。この「日本海事変」は、今後日本が始めるかも知れない〈プロセスとして
の戦争〉の「そもそもの始まり」とされるだろうというのが、私の考えである。
新ガイドライン関連三法の成立を促す狙いもあって企まれた、この「事変」に
対する憤激・批判・反撃は、信じがたいほど弱かった。首相官邸に抗議に訪れた
市民グループに私も加わっていたが、その数はわずか数十名で、そのとき私は、
〈15年戦争〉の経験によって獲得された日本民衆の反戦意識が、もうほとんど
解体されていることを実感した。
今後どのようなプロセスを経て、この国が戦争に突入するのか、それを予測す
るのは困難だが、戦争への道筋はすでにつけられている。自衛隊が現在もシリア
のゴラン高原に駐留を続けているのは、PKO協力法による。しかし自衛隊がP
KF(平和維持軍)に参加することは、これまで凍結されてきた。ところが最
近、凍結解除への動きが強まっており、それが実現すれば、ゴラン高原で自衛隊
員の血が流されるかもしれない。
朝鮮半島の南北と朝米間の緊張緩和は、東アジアに平和を創造する重要な契機
として喜ばしいことだ。だが「軍にとって最大の敵は、敵の不在である」。敵が
消滅しかければ、軍はあえて敵を創る。冒頭紹介した「キーン・ソード」は、そ
の実例である。
米国防総省は「二正面(朝鮮半島とペルシャ湾岸)同時対応戦略」をすでに放
棄し、戦略を転換して、21世紀の序盤に「対中国包囲網」を形成しようとして
いる(「21世紀国家安全保障委員会」の第二次中間報告、今後20年の米軍運
用計画「統合ビジョン2020」)。構想されている「対中国包囲網」は、中台
間の紛争の激化のみを想定したものではなく、「東京からテヘランへ至るアジア
の弧」である。「周辺事態法」に「日本周辺」の明確な定義がないことを、改め
て想起すべきであろう。「日本周辺」とは、日本以外の全世界である。
去る7月の沖縄サミットの少し前、私は「北限のジュゴンを見守る会」の一員
として、沖縄のジュゴンの保護に関係する会合に参加した。話題はたまたまサ
ミットの警備に及び、私が、サミット会場近くの珊瑚礁の割れ目まで「怪しい
者」の侵入路として調査され、沖合いには海上自衛隊の艦船(軍艦)が待機する
とのべて、言葉を継ごうとしたそのとき、突如、若い女性が叫んだ。「そういう
話ってワクワクするう。興奮しちゃうー。私、そういう話、大好きなんで
す・・・」。
そこには戦争体験を持つ高齢の人びともいて、一瞬、沈黙が支配した。私はこ
う言いかけたのだ。「自衛艦隊が沖縄を包囲することが、沖縄戦で友軍に虐殺さ
れた経験を持つウチナーンチュに、どう受け止められるだろうか」。
「戦争はひたすら惨禍をもたらすものではない」というと、誤解を招きがちだ
が、それは事実である。『戦艦大和ノ最後』を書いたのは、撃沈された「大和」
から生還した学徒兵、故吉田満氏であるが(本メディアの読者には、熟読をすす
めたい)、彼はこうのべた(『散華の世代から』、北洋社)。
〈戦争を構成する個々の接点には、人間性の昂(たかぶ)りがある。あえていえ
ば、生命の充実感がある。人間が自分の生に執着するかぎり、そこに必ず生れて
くるような、気力の燃焼がある。このような昂りを、そのまま肯定するというの
ではない。このような昂りを含むからこそ、戦争はいっそう悲惨だといいたいの
である。〉
〈戦争の一瞬一瞬に賭けたこの充実感は、紙一重で、それにそのまま陶酔しや
すい危険につながっている。もともと、戦争と人間とは、密接に結ばれすぎてい
る。闘争、組織、協力、任務の遂行、至上目的のために他のいっさいを無視する
決断―戦争を形作るこれらの行動原理は、いずれも人間の本性をとりこにする魅
力に満ちている。〉
〈こうして戦争の中の個別の生命が持つ充実感は、戦争の悲劇をいっそう過酷な
ものとしてきた。それが戦争目的のためではなく、平和のために捧げられたなら
ば、どれほど多くの実を結んだであろうような勇気と忍耐とが、巨大な虚無のた
めに浪費されたのだ。戦争の悲惨さを強調するためには、まずこれを構成する
個々の生甲斐の純粋さをあかししなければならない。しかし同時に、その生甲斐
に陶酔する誘惑を、断乎としてしりぞけなければならないのだ。ここに、戦争経
験の伝承の難しさの鍵がある。戦争がいかに悲惨なものであるかの事実は、くり
返しくり返し確かめられなければならないが、その必要がもっとも大きいのは、
あるいはわれわれ戦中派自身にとってであるかもしれない。〉
だが今や、たとえ困難であろうとも、故吉田氏の思いを継承すべきは、私たち
非戦争体験者であり、そこで求められるのは、未来の戦争被害者たちのマナザシ
を強く意識して生きることだろう。戦争の接近を拒否しないなら、戦争を自らた
ぐり寄せることになる。
(2000年11月3日、脱稿)
〔高松市の「『歴史は消せない!』みんなの会」の機関紙『きざむ』2000年11月
号への寄稿〕