真栄城さんの続きです。
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証 人 尋 問
証 人 眞柴城玄徳
原告 代理人 (西)
* 今お手もとに甲第91号証、陳述書があると思います。この陳述書は眞柴城さんがご記憶に基
づいて記載されて、末尾の署名部分、押印部分もすべて眞柴城さんのものですね。
はい。
* 原告の今の住所地はどちらですか。
沖縄市安慶田1の29の17です。
* 原告の家族構成を教えていただけますか。
私の母と、子供たち3名、そして祖母の6名です。
* 原告の現在のご職業は何でしょうか。
施設の建物なんですが、「くすぬち平和文化館」を主宰しております。
* これは、どういったものなのでしょうか。
これは、子供文化と平和を考えるための小さな施設です。
* いつから、その仕事をされておられるのでしょうか。
1998年9月に開館をいたしました。
* それ以前はどういうお仕事をされていましたか。
以前は、沖縄県教職員組合の中頭支部の事務局に勤務しておりました。
訴状別紙物件目録及び損害金目録を示す
* この目録の2、3、4、5、この4筆の土地が原告眞柴城さんの所有土地と、いうふうにお聞
きしてよろしいですね。
はい、結構です。
* 今、これらの土地は、すべて米軍基地である嘉手納基地の中にあるということでよろしいでし
ょうか。
はい。
* 今現在、具体的にどのような基地の用途に使われているか、大体お分かりになりますか。
基地内の道路であったり、住宅地であったり、米軍車両が置かれていたり、沖縄電力の変電
所というのですか、そういう形で使われていると。
* これらの今示した4筆の土地ですが、もともとはこの土地はだれの所有であったのでしょうか。
私の祖母、眞柴城カメの所有でした。
* 戦前からずっとそうですよね。
そうです。
* その土地は、今は基地の中ですが、戦前はどのような土地だったか、どういうふうに聞いてお
られますか。
祖母から、度々聞きましたけれども、純農村でサトウキビなどを主な作物として生産をして、
すごく緩やかにそして平和のうちに生活をしていたということを聞いております。
* 原告の所有になったのはいつですか。
私の所有になったのは、祖母が1962年に他界をいたしましたので、その後、私の所有に
変わりました。
甲第2号証ないし甲第5号証を示す
* この中で、あなたに1962年12月9日相続により取得、こうなっていますね。
はい、そうです。
* 陳述書の中で、1950年代の中頃ですが、この本件の4筆の土地の中にあなたの祖母と一緒
に入ったことがあるという記載があるのですが、そのことを覚えていらっしゃいますか。
覚えております。
* これはどういう経過の中で入ることができたのでしょうか。
入る理由は、基地の中に置き去りにされている、私の祖父の骨を拾うためだったのですが、
既にそこは米軍の基地として使われておりまして、自由に入ることはできませんでした。入
った後の現況を見ますと、ブルドーザーですべて引きならされていて、ほとんど更地の状態
でした。あっちこっちに戦争で焼けたのであろう私の家屋敷の炭化した木炭みたいなのが、
散らばっていたというのを記憶しております。
* 先程、眞柴城カメさんから戦前はこうだったという話をお聞かせいただいたんですが、そのと
きの状況は全く残っていなかったわけですね。
そうです。
* 眞柴城さん自身は、アメリカ軍に接収される以前の土地の状況というのはご記憶にはないわけ
ですね。
全く私の記憶にありません。
* 1972年に沖縄が本土復帰をいたしますけれども、その前くらいから基地として土地を提供
するということで、日本政府から契約締結の要望というのがあったと思うのですが、いかがで
すか。
はい、確かにございました。特に復帰を前にして未契約の軍用地をすべてなくするというの
が国の考えであっただろうと思います。昼と夜となく私のうちを訪ねて、契約の強要をして
いた事実がございます。
* それは、あなた自身も直接見聞きされていたわけですね。
そうです。直接私自身が対応いたしました。
* そのいわば要望の在り方というのですか、どういう形で契約締結のお願いに来るわけですか。
契約のお願いということがあったと思いますけれども、記憶の中では、「是非契約をしてほし
い、そうしないと隣の土地の返還も場合によってはあり得るかもしれない。」とかそういうお
詰もあったと思います。
* 事実上、強要に近い形というふうに理解してよろしいんでしょうか。
はい。
* それに対して原告は、一貫して基地提供のための契約締結を拒み続けたと、この陳述書にある
わけですけれども、その契約締結を拒み続けたという原告の思いの源というか、最も大きな根
拠になるものは一体何なのでしょうか。
沖縄戦における私の父の死、それから祖母のこの土地への限りない思い、それから私自身の
戦後体験が原点にあるだろうと思います。
* 父の死ということですが、お父さんはいつどこで亡くなられたのですか。
沖縄戦で死んでいった多くの死者が全く同じだと思いますけれども、私の父はいつ、どこで、
どのように死んだのかよく分かりません。1945年4月1日に米軍が西海岸の方から上陸
をするわけですけれども、私の家族は父と母と祖母の4名が地域の皆さんと一緒になって国
頭の方に避難をいたします。途中で家族のために食料を取りに帰るということで父は戻るの
ですが、それっきり帰ってきませんでした。
* それが最後ということですね。
そうです。
* お父さんのご命日は、4月1日ということになるわけでしょうか。
そうです、便宜上そうしてあります。
* それから、祖母の土地への思いということをおっしゃいましたね。
はい。
* これはやはり原告眞柴城さんの土地への思いにかなり影響を与えているのでしょうか。
そうです。大きなインパクトを与えていると思います。実は私の祖母は本当に一生懸命働い
て、祖父と一緒に持ち得た土地を守るということで働くわけですけれども、祖父は祖母と結
婚をして2年で他界をするんです。その後、祖母は残された子供たちと、そして借金を返す
ために本当に死にもの狂いで働いたという話を聞いております。それで、生前記憶に残って
おりますけれども、絶対に自分のふるさとに帰るんだということをずっと言い続けていまし
た。だけどもその願いもかなえず1962年に他界をいたしました。その祖母の影響という
のは確かに大きいものがあると思います。
* そういう思いのもとで、原告眞柴城さんは、契約の締結を一貫して今日まで拒み続けていると、
こういうことですね。
はい、そうです。
* 1972年の復帰から5年間は、いわゆる公用地法による5年間の使用がありましたね。
はい。
* その後5年間は、地籍明確化法の附則改正という形で附則が付いて、さらに5年間、それで1
982年までいくわけですね。
はい。
* それから以降は、原告の土地についてはどういう経過をたどりましたか。
1982年に駐留軍用地特措法の再改定が持ち上がって、20年の裁決申請がなされたと思
いますけれども、県の収用委員会は10年間の使用の裁決をいたしました。それで、199
7年まで駐留軍用地特措法を適用されて、ずっと使用され続けておりました。
* 1982年まで、公用地法、それから地籍明確化法というところまでいって、1982年から
5年間最初に駐留軍用地特措法の適用があったんじゃないですか。
そうですね、失礼しました。5年です。
* 1982年から5年間の特措法の適用があって、それで使用権限が認められたわけですね。
そうです。
* それから1987年から今あなたがおっしゃった10年間の使用権限が認められて、1997
年まで、こういうことですね。
はい。そのとおりでございます。
* ということは、駐留軍用地特措法は1997年までは2回にわたって5年、10年という形で
使用権限が認められてきたと、こういうことになるわけですね。
はい、そうです。
* ところで今、原告の方も少し言及されかかりましたが、この2度日の駐留軍用地特措法の適用
のときに、防衛施設局の方の申請は当初20年間だったわけですか。
そうです。
* 1987年から2007年までの申請ということでされたわけですね。
そういうことになります。
* それに対して、原告を含む反戦地主の方々はどういう運動を展開してきたのでしょうか。
これは、20年となると未来永劫に土地を基地として使うつもりなんだというふうなことで、
大きな反対の行動を起こしました。それも私たちの取り組みを大きく後押ししたと思ってお
ります。で、そのことが県の収用委員会を勇気づけたと思っております。
* 結論としては、どうなったのですか。
10年間の裁決がなされました。
* 20年の申請に対して、半分の期間の10年という裁決が出たわけですね。
そうです。
* それで、1997年5月14日までと、こういうことになったわけですね。
はい。
* 今、この裁判で問題となっている特措法の改正というのは、原告の土地との関係で言えば、3
度目の駐留軍用地特措法に基づく強制使用権限の適用の、その場面の中で起こった出来事です
よね。
はい、そういうことになります。
* 今、この裁判で問題となっている特措法の改正、この改正の法的評価はともかくとして、地主
である原告、あなたの目から見て一番問題になると思われる点はどういうところでしょうか。
この間、国が自ら作って適用したルールというのですか、それを身勝手に自分の都合のいい
ように変えていったというのが、まずあるだろうと思います。それから、私たち地権者は自
治体の意見を全く聞かないという国の姿勢が見えてきます。更にとても大事なことは、県の
収用委員会の審査を全く得ることなく収用ができるという、とても理不尽な内容になってい
るだろうと思っています。
* 駐留軍用地特措法それ自体にも、いろんな問題があるということで、それ以前からいろいろ反
対運動をやってこられたと思うのですが、その前回の20年の申請に対して、10年という期
限を収用委員会が区切ったことの持っている意味というのは、それは逆に10年たったら返っ
てくるものだというふうに思っていらっしゃったわけですね。
特に収用委員会が10年という裁決を下したわけですから、10年が経過したら使用の権限
がなくなるだろうと、私たちは期待をしておりました。
* 今回法改正がなされる中で、原告あるいは原告らを含む地主側の意見あるいは利益というもの
が、改正の中でその一部でも取り入れられたような事実があるでしょうか。
私の知る限りでは全くございません。
甲第84号証を示す
* 1997年の朝日新聞の記事ですが、1997年4月3日に改正特措法案が国会に上程されま
すね。
はい。
甲第87号証及び甲第88号証を示す
* このとき既に23日からの首相の訪米の成立前ということが、既に書かれていますが、その後
8月11日に衆議院で可決、参議院で4月17日に可決、成立と、こういう経過ですね。
はい。
* 原告もこの改正法の法案の審議の過程、あるいはその流れについては、この当時マスコミ等の
報道で注目しておられましたよね。
はい。
* 今、確認をしましたこの審議の流れ、これを見てあるいはその経過を見て、地主としてどのよ
うな感想を持ちましたでしょうか。
特に沖縄の広大な軍事基地の重圧に苦しんでいる沖縄への視点というのが全く国会議員の中
になかったというふうなことを感じました。特にびっくりしましたのは、衆議院で9割、参
議院でも8割以上の議員の皆さんが、論議らしい論議をしないで決定をしていったというこ
とに対して、本当に怒りを禁じ得ませんでした。
* その改正特措法が成立した1997年4月17日、施行は23日のようですが、このとき、ま
だ沖縄県の収用委員会の審理は審理の途中だったわけですよね。
そうです。
* 原告眞柴城さんも、収用委員会の審理で公開のもとで口頭意見陳述されましたよね。
やりました。
* 翌1998年5月19日に沖縄県収用委員会が原告眞柴城さんの土地に関して判断をされまし
た。それはどういう判断でしたか。
私の土地の使用については、却下をするという収用委員会の判断でした。
* 今回眞柴城さんだけでなく、本件訴訟の原告すべての土地について却下ですね。
そうです。
* この却下裁決について、原告眞柴城さんはどのようにこれを受け止めましたでしょうか。
私の主張がようやく収用委員会の中で認められたということを感じました。それから、収用
委員会の会長が、法と良心に従って裁決申請を却下をするという談話を、マスコミに発表な
さったと思いますけれども、その会長の発言を聞いてとても感動した記憶がございます。
* ただ、その却下裁決があったにもかかわらず、今土地はどうなっていますでしょうか。
土地はずっと暫定的に使用するということで、使用し続けているわけですが、この暫定とい
うのが一体いつまでなのか、よく私には分からないのですが。
* 結局、改正特措法によって、今でも原告の土地は暫定使用されていると、この特措法の効力に
よって使用は続いているとこういう状態ですね。
はい。
* その暫定というのは、結局いつまで続くのか原告にとっては判断ができないと、こういうこと
ですか。
そうです。
* そうすると結局原告の認識としては、今訴訟で問題になっている改正特措法ということの改正
の目的は何だったというふうに認識しておられますか。
私としては、国が米軍に対して基地を安定的に使用させるための、一つの条件作りであった
のではないかというのが一つあります。あと一つはやはり日本とアメリカの軍事的な同盟と
言った方がいいのでしょうか、それをより頑固なものにするためであったのではないかと思
っています。そのために私たち地権者の権利を一顧だにしなかったということです。
* 今、原告がおっしゃったような立法を行ったというのは、国会で行われているわけですけれど
も、そのような行為をした国会の在り方についてどのように思っていらっしゃいますか。
やはり、国会議員というのは憲法を守るべき立場にあるはずだと思います。しかし、地権者
の権利を顧みない、その国の一方的な行為というのは、本当に許せない行為だと思いました。
* 先程の話だと、現在原告の土地についてはいまだに暫定使用は続いていると、いうことでした
ね。
はい。
* ということは、国の方から改正特措法の要綱に基づいて暫定使用に対する補償といぅ形の供託、
これが現在も続いていると、こういうことになるわけですか。
そうです。
* これは、半年に1回ずつ供託されてきていると。
はい。
* 今でもそうですね。
はい、損害金の一部ということになっています。
* 原告としてはその供託の取扱いについてどのように理解をし、取扱っていらっしゃいますでし
ょうか。
これは、とても難しいことなんですが、実は国から補償金が下りてくるときに私はとても因
ってしまいます。一体補償金というものを自分の生活の中で使っていいものかどうかという
ことで、とても気になることがあります。というのは、確かに私の財産から出る補償金には
間違いありませんが、それが負の部分というのか、基地から発生する収入であるからです。
1972年にさかのぼるのですが、公用地法を適用されて、5カ年間の強制使用がされたと
きに、まとめて5カ年分に相当する補償金が下りてきたときに本当にとまどった経験がござ
います。そういう意味で、今も続いている補償金あるいは損害金であるわけですけれども、
その損害金をやはりどういう形で使っていいものかということで、とても苦労したというの
か、考えたことがございます。
甲第71号証の1を示す
* これは内容証明郵便ですが、この中で暫定使用、つまり改正特措法に基づく損失補償金、暫定
使用の補償金も含む損失補償金については、強制使用権の対価としてではなく、あくまでこれ
は原告の立場でですが、あくまで不法占拠に対する損害賠償金の一部として受領すると、この
ような通知を既に出されているわけですよね。
はい。
* そうすると、あなたが土地を侵害されて被った損害の内金、一部ということで今受領されてい
ると、こういうことですか。
そうです。
* 今、この裁判を審理している裁判所に対して、一言おっしゃりたいことがあるということです
ので、おっしゃっていただけますでしょうか。
裁判所が良心の府として、私たち地権者の権利の保障をしっかりと確認をしていただいてほ
しい。そして、法と良心に従った判断をしていただけたらと、こう思っております。
原告代理人 (新垣)
* 先程原告の供述の中に、補償金を受け取ることについて、迷ったことがあると言われましたね。
はい。
* 具体的に言うと、公用地法に基づく補償金の一括払があったことは覚えていますか。
覚えております。
* この補償金の一括払は、当初5年分まとめて支払があったのですね。
はい。
* さらに又、5年間地籍明確化法で使用期限が延びたときにも一括払がありましたね。
はい。
* 同じ反戦地主の中に、伊江島に、阿波根昌鴻さんという方がいらっしゃるのはご存じですか。
知っております。
* この阿波根昌鴻さんが、補償金を一括して受け取ったことによって、税法上の過重な課税をさ
れたという事件がありましたけれども、ご存じでしょうか。
知っております。
* 一括して補償金を受け取ったことによって、どのような事態が起きたので、阿波根昌鴻さんは
問題を訴えたのでしょうか。
特に重課税というのでしょうか、一括して受け取りをされたために、たくさんの所得税を課
されるということで、重課税裁判を起こしたと記憶しております。
* 実は私がこの阿波根昌鴻さんの重課税訴訟の原告代理人をしていたことがありますので、今お
尋ねをしているわけですけれども、分かりやすく言いますと、一括して5年分あるいは10年
分補償金を受け取ることによって税法上、一時所得とみなされて、高い累進率の課税を課せら
れて、本来毎年毎年受け取るときに比べて高い税金を納付せざるを得なくなったという問題で
したね。
はい。
* そういう問題があったことから、反戦地主の間では、補償金の支払が行われるときに一括して
受け取っていいのか、悪いのか、あるいは受け取ったら不利益を受けることになるのではない
のかと、そういう迷い、あるいは問題が起きたということでしょう。
そうです、そういうこともございます。
* そういう過去の事例があったことから、補償金の受け取りについては反戦地主の一人として受
け取っていいものなのか、それとも受け取りを拒絶した方がいいのか、いろいろ悩み事が起き
たということですね。
はい、そういうことと、あと一つはやはり私の意思に反して提供し続けられている、この基
地から派生する補償金は人々が一生懸命働いて労働で勝ち得たものではない。むしろ負の部
分から出た収入でしかないと思ったのもあと一つございます。
* 今、後者の部分は、要するに良心に反して使用されている基地の対価としてお金を受け取るこ
とが道義的に問題があると、こういう趣旨ですね。
そうです。とても気になったということです。
* しかし、最終的には相談の上、先程示された代理人を通じての内容証明書を国側に出して、不
法行為に基づく損害金として受領する意思を表明して、供託金を受領するようになったと、こ
ういうことですね。
はい。
原告代理人 (松島)
* 先程、西代理人の方の質問にも答えられているのですが、駐留軍用地特措法の手続によって1
982年から87年までの5年間、それから次が1987年から97年までの10年間、それ
ぞれ強制的に土地の使用をされているということでしたね。
はい。
* 1987年から10年間の強制使用に際して、これも公開審理という手続が取られたと思うの
ですが、公開審理があったということについては、覚えていらっしゃいますか。
はい、覚えています。
* その公開審理の手続に眞柴城さん自身は参加されましたでしょうか。
参加いたしました。
* これは、何回くらい行われたかご記憶ありますか。
前回の回数は、はっきり覚えておりません。
* おおよそで。
9回くらいですか。
* 全部ご参加されましたか。
いいえ、全部は参加できなかったと思います。仕事の関係があって。
* 同じ沖縄県の収用委員会の公開審理なのですが、そこには何らかの違いがあったか、なかった
か、あるいは違いがあると感じられたかどうか、その辺はいかがですか。
確かに違いを感じました。
* どういう点の違いが大きく感じられましたか。
今回の収用委員会はなるべく地権者の発言を多くしたいということで、実質的な論議がなさ
れたように思います。
* それに比べて前回の公開審理での収用委員会、あるいは収用委員長の対応というのはどういう
対応だったでしょうか。
確かに公正な中立機関であるべきはずの収用委員会が、時と場合によってはそういうのを逸
脱するような状況があったのではないかと、こう思っています。
* 何か、それを具体的に感じられるような、こういう点でやや公正を欠くというふうに感じられ
たのかというような話をしてください。
審議を途中で強行に打ち切るというふうな状況がありました。
* それに対して今回は、できるだけ地権者の意見を聞こうという姿勢が感じられたということで
すか。
そうです。
* 収用委員会でもいいですけれど、何か特徴的な発言とかで覚えていらっしゃることはあります
か。
特に収用委員会の会長の最初の公開審理の場での発言がとても印象に残っております。
* 最初というのは第1回目の。
そうです。
* そうすると当時は兼城さんですね。
はい。
* どういう?
要するに地権者の意見を十分に聞きたいというふうな趣旨の発言だったと思います。
* そういう意味で、今回の収用委員会での公開審理手続を始められるに際して、眞柴城さんを初
めとした地権者の方々は、今回の収用委員会はちょっと違うぞという感じを持たれたというふ
うに理解してよろしいですか。
はい、結構です。
* その結果として公開審理手続を始めて、1回目2回目という辺りの皆さん地権者の期待あるい
は気持ち、その辺はどういう感じだったでしょうか。
これまで私たちが主張してきたことはどういうことかと言いますと、地籍が不明確な土地に
ついては、米軍用地法は適用することができないんだということをずっと言い続けてきたわ
けですけれども、ひょっとしたらそのことが収用委員会の中でしっかりと論議をされるので
はないかという期待感がありました。
* それが結果としては、裁決申請を退ける、あるいは却下するという結論に至るといぅ可能性が
かなりあるというふうに判断されていましたか。
そうです。私自身は少なくともそう思っておりました。
* 今回の米軍用地特措法の改正がなかった場合、却下という結論をこちらが取って、そういう結
論に至る可能性が極めて大きいという予測を持っておられたわけですね。
そうです。
* ところが97年4月、先程は国の都合に合わせるみたいな証言がございましたけれども、その
眞柴城さんたちの持っていた期待が、いわば大きく結論的には裏切られたということになりま
すか。
そうです。
* その点は極めて今回の法律改正、米軍用地特措法の改正について眞柴城さんたちが不満に思っ
ている、あるいは許し難いと思っているところの根本的なところだというふうに理解してよろ
しいでしょうか。
結構です。
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仲田博康
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