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Subject: [keystone 3180] 口頭弁論真栄城1
Date: Thu, 19 Oct 2000 00:15:34 +0900
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仲田です
 

米軍用地違憲訴訟
第17回口頭弁論(2000年9月19日)

真栄城さんの陳述書です。
 

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第17回口頭弁論(2000年9月19日)
陳 述 書
原 告   真栄城 玄 徳
一、私は米軍基地である嘉手納飛行場の中に土地を所有しております。私は1942年1月19日
 生れで現在58歳です。1970年から28年間、沖縄県教職員組合中頭支部の事務局に勤務し
 ておりましたが、1998年3月退職し、現在は自宅近くに開設しました「くすぬち平和文化館」
 (沖縄市安慶田1−29―10)を主宰しています。私の土地は米軍嘉手納飛行場の中にあり、
 沖縄市字森根石根原の361番2、362番、359番、385番の4筆の土地が私の土地です。
 この4筆の土地は所有者である私の了解を得ないまま、1972年5月15日から今日まで、実
 に28年間、不当にも日本政府によって軍用地として米軍に提供し続けられています。米軍占領
 下の27年を含めますと、55年間も米軍基地として使用され続けられているということになり
 ます。55年間は異常としかいいようのない長い年月です。私は1972年以来、土地所有者の
 意思を全く無視し、米軍基地のために土地を強制的に使用することは、財産権を侵害するもので
 あり、憲法に違反する行為でもあり、絶対に容認できないと機会あるたびごとに抗議をし、訴え
 てきました。しかしながら私のこの主張は1998年5月19日に却下裁決がだされた直近の沖
 縄県収用委員会における審理を除いては、一顧だにされることなく無視され続けてきました。
二、私は1971年に結成と同時に、反戦地主会(権利と財産を守る軍用地主会)に入り、現在に
 至っていますが、反戦地主としての私の想いを次に述べます。
  私の所有している4筆の土地は、1962年に79歳で死んだ私の祖母から相続をした、かけ
 がえのない大切なものです。祖母は生前、故郷の話を私によくしてくれました。サトウキビや芋
 を栽培し、家畜を飼育し、平和に暮らしていたこと、村アシビ(村遊び)の話や、嘉手納に続い
 ていた軽便鉄道のこと、那覇の街に子豚を頭に乗せて売りにいったこと。正月には豚を潰し、近
 所で分け合って、スーチキー(豚肉の塩漬)にして保存をし、カーミ(瓶)にはいつでも豚肉が
 あったことなど、本当に自慢げに故郷の話をしていました。
  祖母は1909年に結婚をし、1912年に祖父と死別をします。祖父と暮らしていた年月は
 わずか3年という短い期間でした。私の父と叔父の2人の子どもを抱え、必死になって働いたそ
 うです。家畜の世話や家事労働をするときは、2人の子供を柱にゆわえつけ、野良仕事をすると
 きには畑に杭を打ち、2人の子どもを帯で結んで仕事をしたと言います。このようにまさに骨身
 を削る思いをしながら子どもたちを育て、生活の糧を得ていたこの土地に対する祖母の思いは本
 当にすさまじいものがありました。
  1950年代の中頃だったと想いますが、祖母と一緒に土地に入ったことがあります。土地は
 すでに米軍の基地として金網で囲われており、自由に立ち入ることができませんでした。ゲート
 で立入許可証を発行してもらって、ようやく立ち入ることができました。目的は、基地の中にあ
 る墓に置き去りにされている祖父の骨を拾うためでした。祖母は燃えカスのわずかに残っている
 屋敷跡にたたずんで、ここに母屋があって、クワ畑とイトバショウの畑はあのあたりで、家畜の
 畜舎の角にはおいしいミカンの木があったこと、屋敷の周囲に植えられているクスの木で、タン
 スをつくるのが夢だったと、目を輝かしながら話していたことを今でも覚えております。
  そして生きているうちにここに帰ることができるだろうか、ぜひ帰りたい上祖父の骨を抱いて、
 しばら」絞り出すようにつぶやいていました。その祖母のつぶやきが今でも私の脳裏の中に焼き
 ついています。
  私は父の顔を知りません。父は55年前の戦争で死にました。戦争で死んだ多くの沖縄の人た
 ちがそうであるように、死んだ日にちも場所も全く分かりません。仕方がないので、米軍が沖縄
 に上陸した4月1日を父親の命日にしました。基の厨子瓶の中には骨に見立てた石っころが数
 個入っているだけです。沖縄戦における父の死と、それから祖母の土地への執着、そして故郷へ
 の限りない思いは、その後の私の生き方に大きなインパクトを与えたように思います。
  母は1913年の生まれですので、今年87歳になります。戦争で男たちは死んでしまい、生
 き残った女たちは厳しい米軍支配下の中で、家族や子どもたちのために、身を粉にして働きまし
 た。母もその例に漏れず、米軍基地の中に職を求めました。戦争の傷跡を引きずりながら生きて
 いた1950年のはじめの頃です。職場は知花弾薬庫の中です。今の嘉手納弾薬庫地区です。
  当時、弾薬は今のように屋内に保管されていたのではなく、屋外に野積みにされていて、風雨
 にさらされた弾薬は錆がひどく、錆をおとすのが毎日の日課であったと聞いています。砲弾が爆
 発することもたびたびあって、まさに死と隣り合わせの仕事であったと、母は話していました。
 朝鮮戦争のまっただ中であり、また新しい中国の誕生等もあって、沖縄の基地が前線の基地とし
 て強化されていたころです。地獄の戦場からやっとの思いで生き延びたのもつかの問、生活の糧
 を得るためとはいえ、どのような思いをしながら仕事をしていたのだろうかと、85歳を超えた
 母の顔を見てつくづく考えさせられます。
  このような子どもの頃の私の生活体験ですから、人類の生活とは全く無縁な、むしろそれを脅
 かす軍事基地に、自らの土地を提供しないという立場に立つのは、私にとっては当然のことであ
 ったし、特別なことでもなく私の日常生活の延長線上でしかないのです。またそのことは、祖母
 や父母の意思を引き継ぐための、大切な私自身の行為と思っています。
  このようなことから、私は一貫して米軍基地のために土地を提供することを拒否し続けてきた
 のです。
三、内閣総理大臣が大田前知事に対してなした職務執行命令訴訟の判決(19996年3月25日)
 の後、同月29日、強制使用の裁決申請が行われ、翌1997年2月21日、沖縄県収用委員会
 の審理が始まりました。第1回の公開審理は宜野湾市の沖縄コンベンションセンターで行われた
 のですが、この審理の冒頭、兼城賢二会長(当時)は
  「収用委員会は・公共の利益の増進と私有財産の調整を図るという土地収用法の基本理念の基
   に、その判断にあたっては、起業者及び土地所有者等いずれの立場にも偏ったものであって
   はならないことはもちろんのこと、独立した準司法的な行政委員会として、公正・中立な立
   場で実質審理を行ないます。」
 と宣言されました。そして実際にその後、翌1998年1月29日の第11回公開審理に至るま
 で、私たち地主の意見を十分に聞いていただいた充実した実質審理が行われたのです。
  私の土地に関しては、1997年10月22日、第1回目と同じ沖縄コンベンションセンター
 で行われた第8回公開審理の場で、私自身が意見陳述を行ないました。
  さて、私が収用委員会の公開審理の場で意見陳述を行った10月22日は、私の土地について
 の強制使用権がその年の5月14日の経過をもって終了しており、本来であれば私の4筆の土地
 は直ちに返還されるべきものであります。
  ところが国は5月15日以降も私の土地を占拠し続けるため駐留軍用地特措法を改悪し、収用
 委員会の判断がないにもかかわらず、暫定使用の名のもとに私の土地をさらに不法占拠し続ける
 暴挙に及んだのです。
  この特措法「改正」は法案の国会提出から成立まで、衆・参あわせてもわずか2週間程度のも
 のであり、とても実質的な審理が行われたと言えないものでした。しかも、国は右特措法「改正」
 において、沖縄県収用委員会が那覇防衛施設長の申請を却下する場合をも予め想定した上で、仮
 に却下裁決があっても、尚土地の使用を続けるようにしてしまったのです。その結果、私の4筆
 の土地は1998年5月19日の収用委員会による却下裁決にもかかわらず、判決後2年以上経
 過した今月も、尚国によって「暫定使用」され続けているのです。
  結局国は、自らの都合の良いように法律の規定を勝手にねじまげ、収用委員会の裁決がなくて
 も、又収用委員会が申請を却下しても、何が何でも土地を占拠し続けようとして、本件特措法の
 「改正」を行ったのです。
  これは多数決で「法律」の名の下に法「改正」をすれば、いくらでも自己の要求に合わせて軍
 用地を使用し続け得るとするものであり、「立法権」の濫用以外のなにものでもありません。
四、私たちは、法律に従って「強制使用」を争ってきました。私たちは1987年、1992年の
 強制使用裁決で1997年5月14日までの強制使用を認められましたが、それは一方で199
 7年5月14日までの「強制使用権」を付与するとともに、他方においては5月15日以降の返
 還義務を命ずるものであり、期間満了後には私たち反戦地主の土地返還請求権を保障するもので
 あったはずです。国の今回の米軍用地収用特措法「改正」は、国が自分の「権利」のみは行使し
 ながら、「返還義務」を否定して、これを免れようとするものであり、到底公平なものではありま
 せん。
  私たちは、復帰前から長い間自己の軍用地について返還を希望しており、そのため長い苦しみ、
 困難な闘いを行ってきたものです。私たちの長年の願いが実現しそうになったときに行った国の
 今回の米軍用地収用特措法「改正」は、私たちに大変な衝撃と精神的・経済的苦痛を与えました。
 それは、法の正義がいとも簡単に国会の多数決によりねじまげられるという怒りとともに、自己
 の土地の返還への期待と希望を打ち砕くという点で極めて重大なものです。
  私たちが求めている土地は通常の土地とは異なり、米軍基地に使用されている土地という特殊
 性を持つものです。それゆえに、私たちが本件軍用地にかける思い、歴史は深く長いものがあり
 ます。私たち反戦地主の土地は、米軍基地に使用されたのが終戦による武力による使用であるこ
 と、それも長期間の使用であること、更に長期間の使用が法的に瑕疵を持つ違法な繰り返しであ
 ったこと等の事情を踏まえると、反戦地主の土地返還への熱く深い思いは法的に保護されるもの
 だと思います。国の主張するように、軍用地料(使用の対価)を支払えば損害を治癒されるもの
 とは到底いえないものと考えます。
  私は、軍用地に対して何故に執着し、強く返還を求めるかについて裁判所が深い理解を示し、
 「立法権」に名を借りた国の横暴を真正面から司法の立場で裁いて下さるよう強く望んでいます。
五、本書面で言い足りない点は、法廷で直接お話したいと思いますので、よろしくお願い致します。
 

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仲田博康
nakada_h@jca.apc.org



 
  • 1998年     3月4月5月6月7月8月9月10月11月12月
  • 1999年     1月2月3月4月5月6月7月8月9月10月11月12月
  • 2000年     1月2月3月4月5月6月7月8月9月10月11月12月

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