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〈提言〉石原都知事を辞任させる運動の発展のために
罵倒に報いるに罵倒をもってするは、上策にあらず
執筆者=井上澄夫(戦争に協力しない!させない!練馬アクション)
執筆時=2000年10月7日
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鳥取県西部大地震の被災者のみなさんに、心からお見舞い申し上げます。
〔本文、ここから〕
市民運動の大先輩である高齢の女性が、ごく最近、「石原都知事の暴言に触れ
る度に、血圧が上がって困る」と述懐されていた。それは、よくわかる。私の友
人や知人たちも、似たような思いをもっているのではないか。
反省とか、反省を教訓化して自己の内面に定着させることを知らない石原は、
あきれるほど次々に暴言を吐く。彼の暴言に触れると、私も実に不愉快になる。
反戦市民運動の活動の一環として、次々に飛び出す暴言を批判する作業をつづけ
ているが、むろんそれは、決して楽しい作業ではない。
暴言批判の文章を書き終えると、精神のバランスを回復するために、なにかし
なくてはならない。私と同年輩の友人の女性は、彼女の友人が主宰するホーム
ページに、ときどき、石原批判の意見を寄せているが、その作業を終えたあと
は、「思いっきり、好きな音楽を聞くことにしている」という。それが気分転換
になるというのである。
さて私は、どうするか。私は、本を読む。あれこれの哲学書のように、まぎれ
のない抽象性と緻密な論理性をもって構成されているもの、あるいは、原理的な
思考を私に要求せずにはおかない、もろもろの先達の書などを引っ張り出して、
それに没入する。それが、けっこういい気分転換になる。少なくとも、石原の発
する毒を散じ、彼の言動に漂う血のにおいや死臭をはらいのける効果がある。
石原慎太郎という人物の発言が、私にとって不快であるのは、まずその内容に
よる。しかし、発言内容それ自体より、発言者たる彼自身の人間としてのインチ
キさ、いい加減さによるところが大きいことも、しばしばである。彼の言動につ
いての書籍が、すでに何冊も刊行され、私も調査・分析を繰り返しているから、
石原に関するデータが、私の脳裏にかなり蓄積している。その蓄積の濃度が高ま
れば高まるほど、どの発言も、彼のインチキさ、いい加減さの証拠になってく
る。なぜなら、石原の数々の暴言は、その時々の状況の変化に対応して、いくら
か味付けが変わってはいても、実は、同じことの繰り返しが多いからである。
石原には、かつて参議院選挙の全国区でトップ当選して政界に登場した頃以
来、思想の深化がない。彼の脳裏を占めているのは、固定観念の束であり、ある
事態や現象に対処するときの発想は、その固定観念にすがってなされる。そうい
うわけだから、なにか「進歩」があるとすれば、使用される言語や表現の暴走的
なエスカレーションでしかない。彼の言動をいささかでも凝視していると、それ
は誰にも、いやでもわかるところだろう。
彼は、自分の発言に、決して責任をとらない。さまざまな発言に潜在ないし顕
在する、不整合性や論理矛盾、論理の飛躍、言い替えやすり替えによるごまかし
などを、まったく意に介さない。いや、より正確にいうと、意に介さないふりを
する。突っ込まれると、逃げるか、開き直る。そのあげく「論理」は、いよいよ
無惨に破綻していき、収拾がつかなくなる。ところが、人が人であるために、誰
でも持つべき「謝罪する勇気」を、彼は持たない。謝罪は彼にとって、単純に敗
北であり、恥なのであろう。
東京都国立(くにたち)市の市立国立第二小学校の授業で、教師が児童たち
に、米軍機墜落事故や自衛隊を題材にしたアニメを見せたことについて、石原知
事は、9月27日、都議会で、「教育を手だてにした子どもに対するテロ、国民
に対するテロとしか言いようがない」とのべた(2000年9月28日付『朝
日』)。
手元の『大辞泉』によると、テロとはテロル、テロリズムの略で、テロルと
は、ドイツ語で恐怖の意、「暴力行為あるいはその脅威によって敵対者を威嚇
(いかく)すること、恐怖政治」のことである。ついでに記しておくと、「テロ
リズムとは、政治的目的を達成するために、暗殺・暴行・粛正・破壊活動など直
接的な暴力や、その脅威に訴える政治」のことである。
さて、子どもたちに教材として、いろいろなアニメを見せることが、どうして
「暴力行為あるいはその脅威によって敵対者を威嚇すること」であるか。教師が
アニメを見せて、子どもたちとともに平和について考えることは、教師が子ども
たちを「敵対者として威嚇すること」であるか。「教育を手だてにした子どもに
対するテロ、国民に対するテロ」という表現は、それ自体、没論理的であり、扇
動のために案出された言いがかり、イチャモンの類である。
こういう物言いに表われているのは、石原が平和教育に敵意を抱いているとい
う事実であり、それだけのことである。だが、「テロ」という言葉は、一人歩き
して、人の心に刻みつけられる。国立市のある小学校で、とほうもないことが起
きているという印象だけが強く残される。
先の都議会での発言で、石原は、「テロ」という言葉を否定的に使用してい
る。だから、その限りでは、石原はテロ否定論者であるかのようだ。しかし実際
は、まったくそうではない。
1971年に書いた『男の世界』で、彼はこう記した。「もし社会の秩序がな
いとして、俺自身の好みだけで判断し行動することが許されるなら、すぐにでも
刺し殺してやりたい人間が、百人はいる」(ただしこの引用は、本年6月1日号
『週刊宝石』からの孫引きである)。これは、仮定に基づく「文学的な」表現で
あるから、石原がテロ肯定論者であることの証拠にはならないという反論もある
だろう。そこで、問題をもっとはっきりさせるため、政治状況の現実に即して、
彼が語った言葉を紹介しよう。
「梶山(静六)が官房長官のときも、橋本(龍太郎)が総理大臣のときも、こ
れだけ(銀行に)不良債権があると知らなかったことが問題だ。そういう情報を
正確に総理や官房長官に伝えない役人というのは、殺せばいい。民間の誰かが天
罰でね。昔の本当の日本の右翼がいたときだったら私欲に走った住友銀行の磯田
(一郎)なんて殺されてるよ。厚生省の岡光(序治)にしても、あんな次官なん
てとっくに殺されているよ。」(1999年3月号『Themis〔テーミ
ス〕』)
ここにも「昔の本当の日本の右翼がいたときだったら」という仮定が見られる
が、それは、最も言いたいことを、まずバンと突き出してから、あわてて少し内
容を緩和する、いつもの手口にすぎない。ここで彼が言いたいことは、まことに
鮮明で、取り繕いようがない。「(大事な)情報を正確に総理や官房長官に伝え
ない役人」は、〈殺してもいい〉のである。自分はやらないが、民間の右翼にや
らせるという姿勢も、ひたすら卑劣であるが、これはテロの教唆・扇動であるか
ら、この発言をもって、石原をテロ肯定論者と断定することに、なんの不都合も
あるまい。
すでに明らかなように、石原は、一方で、テロの発動を教唆・扇動しつつ、他
方で、小学校の教諭による平和教育に「テロ」のレッテルを貼って、非難・弾劾
しているのである。さらに指摘せねばならないのは、テロを肯定し扇動する人物
が、都行政の最高責任者として「心の東京革命」を主導し、声高に唱道している
という、おぞましい事実である。平和教育を踏みにじりながら、「心の東京革
命」によって、「本当の右翼」を育てようというのだろうか。
このような事実を、繰り返し、丁寧に指摘しつづける必要がある。石原都知事
をなんとなくカッコイイと思い、彼が都知事であることを支持している人びと
に、この種の事実を、うまずたゆまず提供しつづけること。それは、非常に大事
だ。 幹部の指導に唯唯諾諾(いいだくだく)として従う宗教団体のメンバー
や、確信犯である右翼勢力を除けば、〈なんとなく〉石原を支持している人びと
は、自分でもよくわからない不確かな心情、情念に振り回されているのだから、
彼女ら・彼らを〈テキ〉と考えるべきではない。
したがって、石原都知事を批判する際、彼の発する罵倒に罵倒をもって対抗す
るのは、とうてい上策とは言えない。たとえば彼は、ことあるごとに、人を「バ
カ」呼ばわりをするが、それに対して「バカはどっちだ」などと言い返すのは、
幼稚である。「バカ」の応酬では、「売り言葉に買い言葉」のレベルでしかな
い。しかも、そういう反応は、石原批判への共感を呼ばないどころか、石原支持
の心情にとらわれている人びとの感情的な反発を誘発するだけである。
石原が吐く暴言をとらえて、どのようにうまく、説得力をもって批判し、石原
支持者たちの気持ちを、石原から引きはがすことができるか。そこが、問題なの
だ。石原都知事の「(東京・新宿の)歌舞伎町はヤクザも歩けない」という発言
に、私の仲間は「ヤクザの心配だけはしてくれるんですね」と切り返した。これ
は、うまいと、私は感心した。この切り返しには、なによりユーモアがある。皮
肉が込められているが、聞く者に笑いを誘発する。
こういう工夫が必要なのだ。その意味で、反石原勢力は、総じて、まだ自己満
足的な反発のレベルを脱していないのではないか。石原都知事を「ファシスト」
だの「ネオ・ファシスト」だのと決めつけるのは、社会科学の観点から疑問があ
るだけでなく、反石原派が勢力を伸張させることにはつながらないと私は思う。
ファシストの要素を持っていることと、本質的にファシストであることとは違
う。石原と同質の人種差別主義、民族排外主義、国粋主義、国家主義、国権主
義、膨張主義などは、この国の保守政治家群像のだれかれに、いくらでも見いだ
しうる。しかも、「ファシスト」とか「ネオ・ファシスト」と決めつけても、歴
史的な知識に乏しい多くの人、とりわけ若者にとって、それはせいぜい「極悪
人」の代名詞でしかありえまい。ヒトラーやムッソリーニを知っている人は、そ
うかなと首をかしげるだろう。だから、そういう表現を用いずに、彼の正体を明
らかにできるとき、反石原勢力は展望を見いだしうる、と私は思う。
〈もうすぐ21世紀になろうというのに、この国は一体どうなっていくのだろ
うか、このままでは、先行きが不透明なまま、不安定で混乱した状況に、自分も
投げ込まれてしまうのではないだろうか、これから本当にどうなっていくのだろ
う〉という不安は、今、ほとんどすべての人びとをとらえている。しかもその不
安は、解消の出口を見いだせないでいる。状況打開の手がかりであるはずの「政
治」には、まるで期待できない。だから、いわゆる「既成政治への不信」は、慢
性化し、いよいよ深まりつつあるが、世界の中で揺さぶられて、自分がどうなっ
ていくのかわからないという、実存的な不安のマグマが、どこかに噴出口を求め
ていることは間違いなかろう。
石原への期待は、このような息苦しい閉塞状況にさいなまれている人びとが、
事態の自力打開に自信を失い、他力依存に傾斜していることから生まれている。
自分ではどうしようもないが、〈はっきりものを言い、果敢に行動する〉石原都
知事が、この窒息しそうな状況を「一気になんとかしてくれそうだ」と感じ、石
原支持に身を委ねることによって、安心を得ようとするのである。
だから、石原が首相になる目(メ)がまったくない、とは断言できない。自民
党は、もともと「ナンデモアリ」の政党である。自分たちの権益の擁護・維持の
ためには、冥府の王とでも提携する。石原が、自民党を使うつもりで、使われ
て、ポイ捨てにされたとき、世の中はすでに、今よりはるかにムチャクチャに
なっているにちがいない。
しかし私たちも、そう明確な展望を、私たちの前途に持ち得ているわけではな
い。私たちは、重苦しい閉塞感を、石原支持に傾きがちな人びとと共有してい
る。それが現実である。どこにもうまい解答はないのだ。
だから私たちは、そういう〈しんどさ、苦しさ〉を共有しているという意味
で、石原を支持する人びとと、同じ地平に立っている。私たちが石原支持派に向
き合うべきは、まさにその場である。〈共苦・共悩の姿勢〉を堅持しつつ、石原
支持派に、石原の問題性を具体的に指摘し、投げかけていく。それが基本だろ
う。
「無党派層」と呼ばれる人びとの「政治不信」には、私たち、反石原勢力にも
責任がある。諸政党・諸党派のみならず、反戦市民運動にも、地域の住民運動に
も、これほど政治状況を暗転・悪化させた責任があり、私たちは、自らの力でこ
の「政治不信」を解消しなければならないのだ。
そこをしっかり踏まえて、さらにもう一歩踏み込んでみたい。「民衆のパワー
が歴史を変える」ということに、人びとが自信を持つことができるような運動、
活動を、粘り強く展開することが、迂遠なようでも、最も確実な近道なのだ、と
私はあえて言いたい。私たちを遠巻きにしている人びと、ちょっと気にしながら
横目で見ている人びとが、私たちの日々の活動のありように、望ましい未来社会
の萌芽を見いだすことができるなら、あるいは、そういう雰囲気や、明るい予兆
を感じ取ることができるなら、反石原勢力は成長する。逆に、旧態依然の動きに
留まるなら、反石原の主張が、どれほど「正しく」ても、人びとの心は離れる。
あの動きは、一人ひとりを大切にする民主主義を実現しているようだ、人権と
いうものを本当に大事にする運動らしい、しかも一人よがりでない普遍性に依拠
して、自分たちを世界に向けて開いている人びとだ、と受け取られるような活動
は、できないものか。
焦って、石原を罵倒するだけでは、何も招来しない。「ビッグレスキュー」が
終わった今、顎(あご)を上げて、深く息を吸い、秋の高い空を見上げながら、
そのあたりをじっくり考えてみようではないか。