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反戦運動のありようについての問題提起
発信者=井上澄夫(戦争に協力しない!させない!練馬アクション)
発信時=2000年9月27日
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「有事」の空気と、周辺事態法第9条の「できる」規定の恐さについて
拙稿の引用から始めたい。「石原都知事と三宅島住民」(aml・18956)で、こう
書いた。
〈(9月1日に)「全島避難」の方針が出る以前のことだが、筆者は、石原都
知事の「次の一手」として、災害対策基本法第60条に基づく「避難指示」(発
令の権限者は村長)が、同法第63条を根拠とする「警戒区域の設定」に格上げ
され、全島が事実上の《戒厳令》下に置かれる危険に、インターネットを通じて
注意を喚起した。今回の「全島避難」は「全島の避難指示」であるから、筆者が
危惧した最悪のシナリオは回避された。
しかし有珠山噴火の際起きたのと同様の「法によらない強制」が、三宅島でも
すでに行なわれた。「猫を飼っているので家を離れられない。不慣れな東京には
行きたくない」と自宅に残っていた男性を、消防団員が見つけて、島の港に停泊
中の客船内に「保護」したというのである(9月7日付『朝日』朝刊)。9月1
日付『朝日』夕刊には、「石原知事は、災害対策要員を除く全島民に、強制的に
避難を指示する考えを表明した」とあるが、村長の発する「避難指示」は、いっ
さい強制力を持たないし、持ってはならないのだ。まして村長の「避難指示」
が、都知事の強制力を合法化することはないし、それもあってはならない。
住民の自主的残留が、法によることなく不法行為のごとく扱われ、強制的な
「保護」の対象とされる現実は、有事体制下のこの国のありようを先取りしてい
るのではないだろうか。〉
ここで触れた、三宅島で起きた「法によらない強制」について、いま少し考え
たい。
9月20日号の写真週刊誌『FOCUS』に「off limits(立入禁
止)・〈全島避難〉三宅島に残った猫好きオジサン」と題する記事が掲載され
た。そこに、こうある。
〈三宅島に「東京に行くくらいなら島に残りたい」とたった一人残っていた老
人がいた。五日の大雨で200メートルにわたって泥流が発生した阿古地区の一
軒家に隠れていたところ、6日午後3時半ころ、三宅島の消防団員が泥流の上に
残されていた新しい足跡を発見。不審に思った団員が足跡を辿って家を訪ねてみ
ると、Fさん(記事では実名)が居残っていた。
団員の説得に対してFさんは「猫を飼っているから離れたくない」と避難を拒
否したものの、結局、説得されて島に接岸された船に連れていかれ、一晩泊まっ
た。その際にも役場の職員が家に戻らないよう見張っていたという。写真は翌
日、定期船で竹芝桟橋についた時の様子だが、両脇を職員に固められ、何となく
《強制連行》という感じもしなくもない。
ともかく言い分をきいてみた。ちなみにFさんは、現在は無職で、一人暮ら
し。
「見つかった時は『みんな行ってるんだから、行かなきゃいけねえんだよ』と
言われたんだ。生まれた時から三宅島にいるんだから、離れたくなかったよ。み
んないなくなっちゃったけど、猫がいたから寂しくなかった。猫は11匹飼って
いて、出て来る時に見たら子猫が2、3匹生まれてたよ。残して来たのはそりゃ
心配だ。東京へ来たからって、行きたいところも、やりたいことも、何もねえな
あ。とにかく自分のウチへ早く帰りてえよ」〉
さらにこの件について、石原都知事はこうのべている。
〈(9月)6日(水曜日)にですね、天皇陛下が(三宅島の事態に)非常に強
い関心をお持ちになって、ねぎらいのお言葉も賜りましたが、状況についてご進
講しまして、その時点で全員、ライフラインの必要要員を除いて、全部島を出ま
したと言ったら、実は一人残っていたんだね、これ。65歳の男の人が、飼って
いる猫と一緒に隠れてね。見回りの要員が何かまたそこに何度目かに行ったら、
足跡が新しくついているんで、これはおかしいなと思ってたたいたら、中にいた
みたいで、気持ちはわからないではありませんがね。ということで、その人も説
得して、東京に移しました。〉(9月8日、都庁での記者会見)
石原都知事の発言の底に、「天皇陛下にウソをついてしまった。申し訳ないこ
とになった。自分の方針に従わない奴は、許せない。東京に連れてくるのは当然
のことだ」という心情を看て取るのは、私だけであろうか。それはさておき、F
さんは、文字通り、強制連行、拉致されたのである。そのまま島に居残っていた
ら、噴石、火山性ガス、火砕流などで死ぬ可能性があるのだから、消防団員の
「説得」も、村役場職員の「見張り」も正しい処置だったという意見もあるだろ
う。しかしFさんがあくまで残留を主張していたら、それをさえぎって船に連行
する権限は、誰にも与えられていなかった。冒頭の引用文でのべたように、避難
勧告や避難指示を出すことは、村長の権限に属する。「都道府県知事は、当該災
害の発生により市町村が事務を行うことができなくなったときは、実施すべき措
置を当該市町村長に代わって実施しなければならない」(災害対策基本法第60
条第5項)のであるから、村長が事務を執行できる状態である以上、都知事が
しゃしゃり出ることはできない。したがって、「その人も説得して、東京に移し
ました」などと、まるで自分の権限でFさんを「東京に移した」かのごとく言う
ことはできないし、言ってはならないのである。
都知事は公務員であるから、当然「憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」(日本
国憲法第99条)。だが石原氏は、現憲法の破棄・新憲法の制定を公言してはば
からない人物である。諸法規の基本法である憲法についてさえ、そういう姿勢だ
から、災害対策基本法を踏みにじる越権行為などものともしないのであろう。地
方公務員法第32条が「職員は、その職務を遂行するに当つて、法令、条例、地
方公共団体の規則及び地方公共団体の機関の定める規定に従わなければならな
い」と規定しているにもかかわらず、である。
肝心のことに戻る。Fさんには、危険を承知で、猫とともに島に留まる権利が
あった。それを踏みにじることは、村長も都知事もやってはならない。Fさん
が、あくまで自らの意志で島に残り、猫とともに死んだとしても、それは、Fさ
ん自身の責任に帰することであり、危険を覚悟の上で、わが道を行く権利は誰に
もある。Fさんを見つけた消防団員が、Fさんに「みんな行ってるんだから、行
かなきゃいけねえんだよ」と言ったことが事実なら、それは「法によらない強
制」で、明らかに不法行為である。消防団員が、村長から「全島避難」の指示が
出されたいきさつを説明したり、雄山(おやま)の火山活動についての情報を提
供することは、やってよいことである。だが消防団員は、「避難指示」は法律
上、強制力を伴うものではないことを説明し、「あなたが、あくまで島に残ると
言うなら、それはあなたの自由である」と言うことも同時になすべきだったの
だ。事情をよく説明するから、村役場まで来てくれませんかと誘うこともできた
だろう。だが、Fさんにはそれを拒否する権利もあった。
そんな悠長なことを言っている場合か、という反論が起きるだろう。だが、し
ばし私の考えに耳を傾けてもらいたい。三宅島では今、大噴火が起きる可能性が
ある。それは事実である。だが、ここからが肝心なのだが、だからといって「村
役場が何をしてもいい」ということにはならないのだ。雄山がいつ再び大規模な
噴火を起こすかわからないという、この事態は、一種の極限状態である。だが、
それを口実にすれば、行政には何でも許されるなら、私たちの人権、人間として
の権利は、容易に踏みにじられる。
極限状態といえば、戦争もまた、私たちの日常生活に突如飛び込む極限状態に
ほかならない。自然災害も戦争も、日常生活の対極に位置する事態である。周辺
事態法が発動され、自衛隊が米軍の後方支援態勢に入った、つまり参戦したとい
う場合、「ここは危ない、立ち退いて逃げろ」と言われたとき、私たちはどうす
るか。「いや、私はここに留まる。たとえどういうことが起きても、私はここを
動かない」とか「〈敵〉が来たら、降伏して捕虜になる覚悟だから、立ち退かな
い」と言う権利は、誰にもある。「みんな逃げてるんだから、逃げなきゃいけね
えんだよ」と言われても、それを拒否する権利が、私たちにはある。〈敵〉と呼
ばれるもの、言われるものを、本当に敵と考えるかどうかも含めて、私たちに
は、自分で状況を判断し、おのれの身の振り方を決断する権利がある。
極論を語っているのではない。周辺事態法というものが存在する以上、極限状
況が押しつけられ、この種の判断を迫られることはありうるのである。
ここでさらに考えたいことがある。災害対策基本法第60条はその第1項で、
こう定めている。「災害が発生し、又は発生するおそれがある場合において、人
の生命又は身体を災害から保護し、その他災害の拡大を防止するため特に必要が
あると認めるときは、市町村長は、必要と認める地域の居住者、滞在者その他の
者に対し、避難のための立退きを勧告し、及び急を要すると認めるときは、これ
らの者に対し、避難のための立退きを指示することができる」。避難勧告や避難
指示は、村長が「できる」ことであるが、「できる」に過ぎない以上、村民に強
制できない。だからFさんに対して、消防団員や村役場の職員が行なったこと
は、明白な不法行為である。問題は、法律上「できる」規定であるにもかかわら
ず、実際にFさんが強制的に立ち退かされたことだ。
ところで、周辺事態法の第9条も、「できる」規定で、その文言は、こうであ
る。
第1項 関係行政機関の長(後註1参照)は、法令および基本計画に従い、地
方公共団体の長に対し、その有する権限の行使について必要な協力を求めること
ができる。
第2項 前項に定めるもののほか、関係行政機関の長は、法令および基本計画
に従い、国以外の者(後註2参照)に対し、必要な協力を依頼することができ
る。
第3項 略
◎註1=主務大臣のこと 註2=地方自治体、民間企業、住民のこと
「できる」規定だから、第9条第1項、第2項に強制力はなく、地方自治体
が、国の「求め」や「依頼」を拒否できるのは、当然のことであるはずだ。とこ
ろがすでに見たように、有珠山周辺や三宅島で起きたことは、「できる」規定を
〈根拠〉に強制執行がなされうることを実証している。火山の噴火という危機に
直面して、こういう事態が起きた。
では、戦争が起きたらどうなるか。合法も不法も関係なく、やみくもな強制が
平気でなされるのではないだろうか。1960年の池田隼人内閣の国民所得倍増
計画に始まり、72年の田中角栄内閣の日本列島改造政策に至る、国是としての
経済成長路線が貫徹される際の特徴について、宮本憲一氏は「企業活動にたいし
法や条例にもとづかぬ行政指導や情報提供がなされることが多い」(『昭和の歴
史』第10巻、小学館)と指摘している。ここで言う「行政指導」は、企業に
とっては事実上「命令」に等しい。それに従わない自由も権利もあるのだが、目
に見えない強制力が働くのだ。従わないと、あれこれの許認可について、その後
不利な扱いをされるかもしれない、重要な情報を入手できなくなるかもしれな
い、などなどの懸念や危惧が、結局「行政指導」に屈服する道を選択させる。し
かも、このような事態は、地方自治体に対する政府、とりわけ自治省の姿勢にお
いても顕著に見られ、決して高度経済成長期に限られるものではない。それは、
この国において、現在進行している事態である。地方自治法が「改正」され、そ
れを基準に地方分権一括法が施行されたといっても、中央が地方を牛耳(ぎゅう
じ)る補助金の類がなくなったわけではない。国から地方自治体に税源が委譲さ
れて、地方自治を自治たらしめる自主財源が確立されたわけではないのである。
逆の立場で考えると、「法や条例にもとづかぬ行政指導や情報提供」を抵抗な
く受け入れる習性が、企業のみならず、地方自治体にも共有されているという問
題がある。有珠山周辺や三宅島で起きた人権蹂躙(じゅうりん)が、まさにそれ
を実証した。「法にもとづかない強制」は、誰もが吸っている〈空気〉のよう
に、受け入れられている。その〈空気〉を変えないことには、法の解釈を厳密に
し、法の遵守をいくら国(政府)に要求しても、国は〈空気〉に乗じて、国家の
意志を貫徹できる。まして「危機」や「非常時」が叫ばれ、それに対処するにあ
たって「みんな」が同じ方向に向かうとき、それをものともせず、自主的・主体
的な判断で行動する人びとが、どれだけいるだろうか。戦前・戦時中の経験は、
そういう人びとが〈九牛の一毛〉であったことを示している。
今とりあえず「平時」にある私たちは、有珠山周辺や三宅島で起きた実例か
ら、多くを学ぶ必要がある。政府と地方自治体が「危機」「非常時」「有事」に
際してどう動くか、そこに想像力をフルに駆使すべきである。とりわけまだ理解
されていないと思われるのは、周辺事態法が《有事・非常時に発動される法》で
あることだ。発動は、それまでの平穏な日々と切断され、しかも異様に高揚した
雰囲気の下でなされるから、「平時」の法の発動とは、まるで違った運用がなさ
れる危険がある。
意図的に「非常時」意識が扇動されている政治的・社会的条件の下で、周辺事
態法は発動される。その異常な〈空気〉の下で、最も力を発揮するのは、「非常
時なのだから」という脅迫的な「論理」である。そこでの至上命題は「戦争に勝
たねばならない」であり、異議を申し立てる者たちは、「この非常時に何を言う
か」という一喝によって粉砕される。「平時」の論理や感覚は踏みにじられ、戦
時の「常識」が支配する。だから、政府は、戦争の遂行を阻む者たちを容易に沈
黙させることができる。「非国民」に対するあれこれのやりすぎは問われない。
そのような〈空気〉の下で、政府は、戦争のためにあらゆるものを総動員する。
それは、戦後50数年余、1999年3月の「日本海事変」を例外とすれば、
この国が経験したことがない事態である。朝鮮戦争の時、米軍に抵抗を試みたの
は、主として在日朝鮮人であり、日本がエセ「国連軍」の最前線基地(出撃拠点
であるとともに兵站〔へいたん〕基地)であったにもかかわらず、ほとんどの日
本人にとって、隣国の戦火は「対岸の火事」だった。それのみか、この国は、特
需景気がもたらす果実を享受しつつ、戦後経済復興のきっかけとしたのである。
だが今後、実際に日本が参戦する戦争が勃発したとき、社会の〈空気〉がどのよ
うに一変するか、それは98年9月に起きた「テポドン騒ぎ」を想起するだけ
で、容易に想像できる。「光明星1号」なる発射体が頭上を通過しただけで、開
戦もやむなしと騒ぐ者たちがいたのである。
いや、あの騒ぎを想起するまでもなく、軍事介入を宣揚する者たちが輩出して
いる。明石康・前国連事務次長は、8月23日、国連軍縮秋田会議に関連して開
かれたシンポジウムで、秋田市内の中学生から寄せられた「平和維持活動」の内
容を問う質問に対し、「世界中で衝突があるが、日本人はかわいそうな人たちを
救済するために汗を流し、時には、血を流して平和のために貢献してもいい」と
答えたのである(2000・8・24付『朝日』秋田県版)。
周辺事態法阻止運動は高揚したとはいえないが、とりわけ昨年、一定の盛り上
がりを見せた。しかし法案が成立したあと、その波は一気に後退し、危機感も薄
らいでいる。こういう状態はアブナイと私は思う。自然災害を口実に、人権を踏
みにじることが「正当」化される現状を凝視するにつけ、それを強く実感する。
おかしいことは「おかしい」と言うべきである。さもないと激流に押し流され、
自分もその流れを加速する一員になってしまう。
私たちに求められているものが、周辺事態法を発動させない政治的なパワーで
あることはいうまでもないが、周辺事態法がどのようにアブナイのかを、ここで
再度、詳細に検討する必要があると思う。「すでに施行されている」この戦争法
への警戒は、常に必要だ。反戦市民運動内に「個別法の一つでたいしたことはな
い」という見解があることに、私は驚いているが、突如起きる戦争は、見えにく
いところで、日々準備されるものだ。アブナイ法をアブナイと認識する感覚が失
せれば、戦争を自らたぐり寄せることになる。