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三宅島・「ビッグレスキュー」関連情報
発信者=「やめて!東京都による〈防災〉に名を借りた自衛隊演習」
実行委員会
発信時=2000年9月8日
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石原都知事による、防災関係者の「殉職の強要」
「全島避難」したはずの三宅島に、およそ470人が残留している。9月5日
付『朝日』によれば、「島内には村や都の職員、警察官、消防団員、建設作業
員、医療関係者ら計約420人のほか報道関係者約50人が残った」という。
報道関係者は、社の命令であるにせよ、とりあえず「自主残留」であろう。だ
が、防災関係者はどうか。その点を都総務局災害対策部に、9月8日、電話で問
い合わせてみた。その結果はこうである。
〈「全島避難」と報道されているが、そうではない。村長が出した指示は、一
般の住民に対してのもので、ライフラインの維持などにかかわる者には出してい
ない。それは都知事と村長の協議の結果である。村役場の職員は、村長の指揮に
従って残っているが、村長の許可が得られれば離島できるはず。建設作業員や通
信関係者など民間の人びとは、会社の方針で残っているが、社が許可すれば離島
できるはず。したがって残留にかかわる法的根拠は、村長が避難指示の対象にし
ていないということである。〉
三宅村役場の職員は、地方公務員法第32条「法令等及び上司の職務上の命令
に従う義務」などに拘束されるのだろうが、都知事と村長の関係に上下はない。
防災関係者の残留について、都知事が村長に希望をのべることはできるだろう。
しかしあれこれ命令する(義務づける)ことはできない。だから村長は、その気
になれば、自分を含む全職員を、島から一斉退避させることができる。地方公務
員法に基づき「上司の職務上の命令」を発すればいいのである。
今日昼のNHKのテレビニュースによると、NTTの職員が残留しているの
は、式根島などへの電話回線の確保のためという。しかし、それぞれの島の電力
確保については、都が自家発電装置をすぐさま運び、電話については携帯電話を
配布すればいいのではないか。
降り続く雨が泥流を生み、道路が埋まり寸断されている。泥の深さが1.5
メートルに達しているところもあるという。そういう現場に建設作業員を送り込
んで、どうしようというのであろうか。8月31日、火山噴火予知連絡会は、
「噴火を予測できない可能性が高い」ことを認めた。石原都知事が判断の根拠と
してきた予知連が頼りにならないことが明らかになり、さらなる火砕流の発生さ
え予知連は、警告した。となれば、すべての人が島を離れる以外に安全を確保す
る方途はない。それでも石原都知事は、防災要員の残留にこだわっている。それ
は何故か。
最近出たばかりの産経新聞社発行の『正論』10月号で、石原都知事はこう
語っている。重要な発言であるから、少し長いがあえて引用する。(「緊急鼎
談・誰が国民を守るのか! 危機に臨む政治家の決断」―石原慎太郎・志方俊
之・金美齢―)
〈わが国において「非常時の決断」で思い出すのは、昭和(ママ)61年(1
986年)に起きた伊豆大島・三原山の噴火で、当時の中曽根首相が全島民に避
難命令を出したことです。実際に艦船を派遣して都区内に避難させたわけです
が、間に合わないことがあってはならないと閣議にもかけず一人で決断した。厳
密には内閣法違反、憲法違反だけれども、最高責任者としてはよくその孤独な決
断に耐え得たと私は思っている。
ここでもう一つ考えなければならない問題があって、そのとき中曽根さんは島
民の避難が完了するまで残れと言って、町長や警察署長ら数人を島に残してい
る。都民、国民の生命を守るのが努めであるけれども、それがすべてではない。
命を守るためだけに国政があるとするなら、命を捨てても任務をやり遂げなけれ
ばならない自衛官や警察官、消防士といった同じ国民の存在とは矛盾する。命さ
え助けられれば国政は目的を果たし、それでいいとする論理と矛盾が生じる。
国政の目的は、確かに国民の生命財産を守ることにあるけれども、そこにはよ
り高次の概念があるべきです。それは命を捨てても守るべき国家の価値、われわ
れ一人一人の歴史に連なる国家の存続を確保することであり、政治家は常にそれ
を意識していなければならない。実際に誰かに対して死地に飛び込むことを命じ
るわけですから、自らもその決断に責任を負う覚悟が求められるのは当然で
す。〉
この鼎談はその内容から判断して、三宅島の雄山(おやま)が大噴火した8月
18日以降に行なわれたと思われるが、してみると石原都知事は、その時点です
でに、三宅村長、警察官、自衛官、消防士などに「命を捨てても任務をやり遂げ
ること」「死地に飛び込むこと」を命じるつもりだったのである。
これは、権力者による《殉死(殉職)強要の思想》である。三宅島に残留して
いる防災要員は、石原都知事の命令に従って「殉職」せよというのである。「殉
職」とは、「職務遂行のために死ぬこと」であるが、先述のように、石原都知事
は、防災関係者、防災要員にそれを求めている。いや彼の主観においては、命令
しているのである。戦前・戦中風にいえば、「散華(さんげ)」を命じているの
である。
しかし警察法にも自衛隊法にも地方公務員法にも、「殉職の義務」は見当たら
ない。「上司の職務上の命令に忠実に従う」(地方公務員法)とか「事に臨んで
は危険を顧みず、身をもって責務の完遂に努め」(自衛隊法)、あるいは「上官
の指揮監督を受け、事務を執行する」(警察法)という規定は、「殉職」を義務
づけるものではない。実際に職務中に死ぬことはある。その例は枚挙にいとまが
ない。さらに周辺事態法はすでに施行されているから、今後は、あってはならな
いこととはいえ、戦死もありうる。だがそれらの死は、あくまで結果であって、
「殉職の義務」によって起きた、あるいは起きるのではない。それらは、いずれ
も不慮の死にほかならない。
まして、石原都知事の頭の中にある「国家の価値」とか「国家の存続」という
「より高次の概念」のために、都知事の手足となって死地に飛び込むことなど、
誰にとってもゴメンだろう。職務中の死を「殉職」と美化して呼ぶのは、生きて
(生き残って)いる者たちであって、死者は何も語らないのだ。「殉職」を自ら
求めたり、それを義務づけられて喜ぶ人は、まずいないだろう。
「誰かに対して死地に飛び込むことを命じるわけだから、政治家は自らもその
決断に責任を負う」と石原都知事は言う。かつて大日本帝国海軍の艦長は、艦が
沈むとき自らも艦と運命をともにした。石原都知事は、そういう事実を想起しつ
つ、ナルシスト的な悲壮感に酔っているのだろうが、この艦長が艦と運命をとも
にすることなど、100%ありえない。彼の脳裏にひらめいているのは、いざ
「殉職者」が出たら、都主催で盛大に追悼式典をやろうということぐらいだろ
う。自衛官の死者については、靖国神社に合祀(ごうし)すべしと言い出すかも
しれない。
石原都知事の国家主義のために、三宅島で死者が出てはならない。大噴火の危
険が予知されている今、すべての防災要員が即時、島外に避難すべきである。
「殉職」を公然と求める都知事がいる以上、三宅村長を初め当事者は、声をあげ
にくいかもしれない。だったら、私たちが声を大にして、それを主張しようでは
ないか。