仲田です。
今日(7月4日)、開かれた米軍用地特措法違憲訴訟公判の陳述書です。
証人尋問は、反戦地主会の事務局長池原秀明と知花昌一さんです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
陳 述 書(2000年7月4日)
池 原 秀 明
一 私は、嘉手納飛行場の中に土地を所有しています。
その土地は、嘉手納町字東野理原351、畑、138平方メートルです。
その土地は、19名の共有で私の持分は138分の4です。
私は、右の土地の外にも嘉手納弾薬庫の中に土地を所有しています。
これは沖縄市字大工廻安麻利原685番地の土地で約17000平方メートルの土地です。
この土地は1982年5月15日まで米軍の弾薬庫の保安用地として強制使用されていました
が、右の日をもって返還されまています。以下先ずはこの嘉手納弾薬庫の土地について説明をし、
ついで嘉手納飛行場の中にある共有地に関して説明いたします。
二 沖縄市字大工廻安麻利原685番の土地は、私の父親の所有で戦前この土地には2軒の農家と
畑と松林が連なっていました。
父が、1971年12月21日に死亡し私が相続により取得しました。
この土地は、今次大戦中米軍に接収され、その後米軍弾薬庫地区として使用されています。父
の所有であった時は、この土地について賃貸借契約が作成されていましたが、父としては米軍に
貸したとの意識はありませんでした。父の説明では区長さんに英字で書かれた書面に印鑑を押す
ようにいわれ、訳のわからないまま押印したところ、後でこれが米軍への賃貸借契約が締結され
たということがわかったとのことでした。父としても米軍に土地を貸すことには反対でしたが
「字」の人達と一緒に行動するしかないと思い軍用地地主会に参加して軍用地料を受領していた
とのことです。
三 1971年の頃から父のところに防衛施設庁の職員が訪ねてきて、復帰後も土地を米軍に貸し
てほしいと頼み、賃貸借契約の勧誘が何回かありました。当時私はその土地に豚小屋を建てて
養豚をしていましたので、父も私の考えを理解し契約には応じませんでした。私が、その土地を
相続した後も、防衛施設庁や地主会の役員が契約勧誘に訪れておりますが私は、断固として契約
に応じないことを伝えました。
結局この土地については1972年5月15日以後は「公用地法」によって一方的に強制使用
されました。
「公用地法」による使用期限は当初5年間となっておりましたので、この土地の使用権原は1
977年5月14日までに終了しましたが、その後1977年5月18日にいわゆる「地籍明確
化法」が成立しこれによって1982年5月14日まで強制使用されることになりました。
1982年5月14日に「公用地法」に基づく10年間の使用期限が終了してこの土地は返還
されました。
四 ところで、この土地は返還される前から実際は私が使用していました。
即ち、私は復帰前の1970年頃からこの土地に立入を強行し、夜間の内にセメントブロックを
積み上げる等をして豚小屋を建築し、養豚を開始しました。当時米軍支配の下でしたので、米兵
による銃殺の危険すらあったのですが、その危険をおかしてでもこの土地を取り返す決意だった
のです。
ところで、1980年2月「米軍用地特措法」に基づく新たな強制使用の手続きが開始されま
したが、私の土地はその対象からはずされておりました。
私は、沖縄県庁に勤めておりましたが、1980年8月に退職しました。退職した理由はこの
土地に牛舎を建築し、これを軍用地の跡地利用の実験農場として使用しようと計画を建てていた
ためです。私は、幾多の困難の中で、牛舎建築のために必要な手続きを済ませ、牛舎を建て肉用
牛を導入し本格的な肉用牛経営を始めました。
私の土地は、1982年5月14日までは、嘉手納弾薬庫地区のいわゆる保安用地として強制
使用されてましたが、右のようにその土地での肉牛経営が本格化するなかで国もこの土地の接収
を断念せざるをえなかったのです。
五 1982年5月14日限りで私の土地と一緒に隣接する3筆の土地も返還されました。ところ
で、この時返還された4筆の土地は嘉手納弾薬庫の中心部からはずれていますが、施設の遠隔部
に位置しているわけではありません。これらの4筆の土地よりもはるかに遠隔部に位置する土地
も嘉手納弾薬庫の保安用地にとりこまれています。例えば比嘉良子さんの所有する土地は、県道
74号線にそったところにありますがここも強制収用されましたし、平安さんの所有する土地も
国道58号線の近くにありますが強制使用されています。
那覇防衛施設庁の説明ではこれらの土地は保安用地として他の土地と有機的一体として機能し
ているとのことですが、私の土地がその有機的一体を欠くのであれば比嘉さんや平安さんの土地
やその他の土地についても有機的一体性はないはずです。彼らの言う「有機的一体性」が何の基
準もないものであることは明らかです。
六 ところで軍用地地主の組織として、復帰前関係各市町村に軍用地地主会があり、私の父も地主
会に入っておりました。1971年秋頃から復帰後米軍への土地提供するための契約の動きがあ
り、契約に応じなければ大変な不利益を蒙るとのデマが流されていました。そこで米軍に土地を
提供することに反対する地主が集まって、契約反対地主の組織を作る動きがありました。197
1年12月9日に那覇市内において「権利と財産を守る軍用地主会」(通称 反戦地主会)の結
成 総会が開かれ同日正式に発足しました。結成総会に参加した地主は地域別にいうと那覇市、
豊見 城村、北谷村、沖縄市、具志川市、浦添市、嘉手納村、読谷村、宜野湾市、伊江村等でし
た。
右地主会は、「戦争につながる一切の国の政策に反対し、真に日本国憲法を守り反戦平和を堅
持 すると同時に地主の権利と財産を守る」ことを組織の目的としていました。1975年7月
13 日に第2回総会が開かれ、組織の態勢が確立されましたが、その間においても契約を拒否
するの は勿論「公用地法」に基づく損失補償金を適正交付させるための斗い等地主の権利と財
産を守る ための活動を展開しました。
即ち右地主会は、1972年7月21日に「補償金請求事務所」を開設し、「公用地法」に基
づ く損失補償金請求の事務を開始し、契約地主と反戦地主を差別した「公用地法」の補償金を
適正 なものにさせるために収用委員会に裁決申請をなし、反戦地主勝利の裁決を獲得した。
私は、反戦地主会の結成に参加するにとどまらず地主会の教宣部長や事務局長の役割を果たし
てきました。
七 私が反戦地主運動の中で体験した防衛施設局や軍用地主による契約強要の実態について説明し
ます。
復帰前における契約強要は各地域の軍用地主会の幹部によるものが主でした。地主会の役員は、
高齢な軍用地主をターゲットにして、契約に応じない地主には地料は支払われないとか、地料の
支払が遅れるとか、補償金の額が少なくなるとか事実とは違うデマを流し、契約に追い込んでい
ました。このような事例は枚挙にいとまがないくらいでどの地域でもなされていたものです。中
には甲第93号証の通知書のように地主会の会長自ら特定の反戦地主に「貴方一人が虚勢を張っ
て意固地に契約に反対するために他の契約地主の土地まで巻き添えを食い返還され大きな経済的
損失を被り混乱を巻き起こすことになります」とか「貴方一人の意固地な反対行動が他の多くの
契約地主の利益を阻害し種種の悪影響を及ぼすことになれば貴方に対し基の損害補償を求めるこ
とは当然である」とか、まさに常軌を逸したものとしか考えられないものも何通か送られたこと
がありました。(甲第94号証も同種の数々の悪質な嫌がらせを立証する文書です。)
このような悪質な嫌がらせは軍用地主会の幹部だけではなく那覇防衛施設局の職員もかかわっ
てなされたケースが多かったことも明らかにする必要があります。
八 嘉手納町字東野理原351番の土地は平安常次さんの所有していた土地ですが、1983年8
月4日私たちが共有で買い受けた土地です。この土地は、嘉手納飛行場の滑走路の中に位置して
いるようですが、私は現地まで行って確かめたことはありません。私は1975年頃、平安さん
と一緒にこの土地の位置を確認するため嘉手納町飛行場に入りましたが、私達に立ち入りを許さ
れたのは滑走路から約7、800メートルも離れたところまででそれより内側には入れませんで
した。したがってこの土地の大体の位置は分かっているつもりですが、その境界とか土地の状況
とかは分かりません。
九 この土地については前地主の平安さんも契約拒否をしていました。したがってこの土地につい
ても「公用地法」によって10年間の強制使用があり、その後「米軍用地収用特措法」による強
制使用の手続きが踏まれております。
私は、強制使用手続きにおいて、この土地への現地への立入りを求めましたが、地主立会での
現地立入調査が実施されたことは一度もありません。
この土地については1982年と1987年に強制使用を認容する裁決がなされましたが前回
の強制使用の申請については、1998年5月19日強制使用は認めないとする却下裁決が下さ
れています。
十 ところで1987年の強制使用認容裁決による使用の期限は1987年5月15日から10年
であり、1997年5月14日に終了することになっていました。
しかし、国は1997年4月17日に「米軍用地特措法」を改悪し、いわゆる「認定土地」につ
いては、使用期限期間中に申請をすれば使用期限後もこれを使用することができるように法律を
ねじ曲げました。これはまさに憲法違反の暴挙という外ありません。
日本国憲法はその29条で私有財産制の尊重をうたい、その中で私有財産を公共に用いる場合は
適正補償を定めています。また憲法31条は国民の権利に制限を加える場合における適正な手続
を規定しています。
私は、この土地を強制使用するに際しては土地収用法や、米軍用地特措法に定める手続が厳正
に履践されるものと信じていました。
しかるに、国はこの土地の強制使用の手続の中で法律をねじ曲げ、期限が到来してもほとんど
自動的に使用期限が無限に延長されると云う底無し沼のような法律を強行成立させさせたのです。
私は、この法律を絶対に認めることはできません。
私が、この土地を取得したのは、土地のあるべき姿を本来の状態に回復するためであります。
戦火を蒙った沖縄の土地を再び人殺しのための軍用地として使用されることには耐えられません。
この改悪された米軍用地特措法を成立させた国会議員を許すことはできません。
2000年7月4日
陳 述 書
知 花 昌 一
私は、楚辺通信所、通称「象の檻」読谷村字波平前原567番地に土地を所有しています。
土地取得の経過
「象の檻」の場所は前島=メージマといいます。私の住むウチジマ(内島)から南=前の方に有
ります。二男、三男が分家するとき、家を建てたところです。
私の土地も、戦前、私の大おじいさんである、知花平次郎が住んでいた宅地であります。平次郎
じいさんは1945年4月1日、米軍が読谷から上陸したとき、娘を逃がす為に竹ヤリで戦い、米
軍に撃ち殺きれ、その場に埋められました。遺骨は戦後まもなく収集され、墓に収められたようで
す。上陸した米軍は読谷村一帯を占拠し、1946年ごろから徐々に波平への帰還が許されるので
すが、「象の檻」の地域はそのまま米軍基地に取られてしまいました。フィリピンから捕虜として
引き上げてきた私の父、知花昌助が土地を引き継いだときにはすでに米軍基地として占領され、黙
認耕作地としてのみ使用されていました。結婚した私の両親は「象の檻」にしか宅地が無かつたの
で、仕方なく、移民で土地を処分する方から購入して今の住所、波平174番地に住むようになっ
たのです。
1957年ごろから「象の檻」が建設されたようです。それ以来私達は自分の土地に一歩も入れ
ない状態が続いてきました。
1972年沖縄が日本になる直前、私の父親は国が賃貸借契約を求めてきたにもかかわらず「象
の檻」の地主80人と共に契約を拒否し反戦地主になりました。
ところが日本政府は沖縄にだけ適用する憲法違反の公用地暫定使用法を1971年に作り、19
72年に適用し、土地の強制使用を続けながら、反戦地主への細切れ返還、契約地主との共連れ返
還をちらつかせ、地主間の反目を煽り、契約を強要してきました。80人いた反戦地主も切り崩さ
れ、60人になった段階で、1976年契約地主と反戦地主との反目が地域共同体に良くないとし
て、私の父達は不本意ながら契約に応じてしまいました。
それから20年後の契約が切れる直前に、親父から私に、契約するか、拒否するか相談がありま
した。父親も20年前に契約に応じた無念さが有りましたので、契約拒否をする事で一致し、「象
の檻」の土地を1994年に私に生前贈与することになりました。
国=那覇防衛施設庁は執拗に契約を求めてきましたが、現在まで契約拒否を続けています。
その理由は、
一つには、「象の檻」は米軍基地でありこれまでも戦争に使われてきたし、これ心らも戦争に使
われる軍事基地であるということです。
二つには、「象の檻」が有ることで波平地域が分断され、地域活動が阻害されている。
三つには、大おじいさんの住宅が有った所であり、おじいさんが米軍に殺され、埋められた大切
な土地であること。
四つには、「象の檻」の私の土地は宅地であり、子供達に住んでほしいと思う。
契約拒否後の国の対応
契約を拒否すると国=那覇防衛施設庁は執拗に契約を求めながら、一方では「売ってくれ」「値
段はいくらでもいい」「色をつけるから」と言ってきましたが、お金の問題ではないと断りました。
1996年3月26日、私達反戦地主の土地の強制使用にかかわる代理署名を拒否した大田沖縄
県知事を被告とした代理署名裁判最高裁判決がでた翌日、「象の檻」の周囲をフェンスで取り囲む
工事が早朝から始まり、1000mの工事が恐ろしいほどの速さで夕方には工事が完了していまし
た。これは国が「安保条約は国の根幹を成すもの」として、憲法を侵しても米軍基地を守る為、何
が何でも私の土地を強奪をする事を示したものでした。
期限切れを迎えた1996年4月1日、私は家族と共に自分の土地に入ることを国に要求し、
「象の檻」の前まできたのですが、何の根拠も示さず拒否され、警察によって立ち入りを阻止され
ました。直ちに仮処分申請を行いました。
4月1日以来、国は1日676円を借地料相当分として、毎日2〜3人で現金を持参してきたん
ですが貸しても無いのに借地料とはおかしい、違法行為ゆえの損失補償金として持ってくるように
要求したのですが損失補償金ではない、悪まで借地料なんだと言っていました。
ところが、1997年の4月24日に米軍用地特別措置法の暫定使用適用で、389日の不法占
拠分26万円余は損失補償金として持ってきました。国は不法占拠を認めたのです。
仮処分申請と基地内立ち入り
4月1日、「自分の土地になんの法的根拠も無く立ち入りを拒否されたこは心外であり、立ち入
りを直ちに認めよ」と仮処分の申請をしました。
国が「象の檻」への立ち入りを拒否する理由として
1、デリケートな通信施設だから1箇所に多くの人がたむろすると電波障害がおきる。
2、芝生の下にはアースマットが敷かれているので、踏むと切れる恐れがある。
3、電波障害が起こるので電気器具や草刈機の持ち込みを禁止している。
と言うことでした。
4月18日、収用委員会の委員が現場検証のときは、一人一人の体重を申告させ、ベニヤ板を敷
いて立ち入りを認めたにもかかわらず、4日後、1トンも有る草刈機が走り回っている写真、12
名以上の人がたむろしている写真が見つかり、国の立ち入りを拒否する理由は全てうそだというこ
とが明白になった。国は収用委員会さえだまそうとしたのです。収用委員会は国の緊急使用申請を
却下し、仮処分裁判でも裁判所は国の嘘を確認し、5月14日、6月22日の2回の立ち入りを決
定したのです。
使用期限が過ぎ、使用権原を失った国に対して、地主が自分の土地に立ち入り、確認すると言う
当然なことが、こんなに困難を伴うとは異常なことであります。
戦後50年、沖縄の歴史の中で、自らの権利として、堂々と米軍基地の正面から立ち入ることは
始めてであり、そのうれしさは格別でした。以前だったら米軍に撃ち殺されていたでしょう。私の
妻の伯父さんは基地の中に薬莢を拾いにいって米軍に見つかり、銃で撃ち殺されているのです。
不法占拠しておきながら、米軍用地特別措置法の改悪
1996年4月1日から不法占拠をした国は、世間の避難をかわす為と反戦地主と沖縄側の抵抗
を封じる為、米軍用地特別措置法を改悪することを企んだのです。
この法律は
1、 総理大臣が使用申請をし、収用委員会が審議をしている間は使用期限が切れても暫定使用が
できる。
2、期限が切れた土地(私の土地)も遡って暫定使用できる。
というものでした。
これは審議の途中でルール(法律)を変えるという卑怯どころか、不遡及の大原則を踏みにじる
ことである。「泥棒が人のものを盗んでおきながら、盗んだ物を使わせろ」ということであり、盗
人猛々しいとはこのことである。
米軍用地特措法が1997年4月17日に国会で成立するとき、傍聴しました。世論調査では6
5%がこの法律に反対の結果が出たのですが、参議院では80%が賛成し、成立してしまいました。
私は悔しさに、いたたまれず「土地泥棒」と叫んだだけですが身柄を拘束されてしまいました。と
ころが検事側も起訴できる状態ではないとして、たいした取調べも無く釈放されました。
数の力によって私達反戦地主の平和を願い、土地を生活と生産の場への願いがふみにじられた思
いでした。
使用裁決について
沖縄県収用委員会は1998年9月3日に、私の土地に2001年3月末日までの使用裁決を行
いました。これは沖縄に関する特別行動委員会(SACO)の最終報告での「象の檻」の返還時期
に合わせたものでしたが、それはまた、憲法違反の米軍用地特別措置法を追認するものであり、残
念でなりません。
新たな強制使用申請手続きの始まり
国は2000年4月に入り、私に新たに賃貸借契約を結ぶよう、意思確認にやってきました。
SACOも、収用委員会も2001年3月末日を返還約束し、裁決しているのになぜ契約を求める
か問いただすと、移設先の準備がまだであるとの事でした。契約を拒否すると、早速強制使用手続
きに入ることを発表しました。5月2日意見書を提出してあります。
結語
1999年4月24日に楚辺通信所返還跡地利用地主会を441人で結成し、返還後の跡地利用
の策定に入っています。1997年4月に米海軍省から「象の檻」の解隊命令書が発せられ、19
98年6月海軍の活動が停止されました。今は維持管理を米民間会社が受けおっているのみです。
もはや私の土地を強制的に使用する必要性はありません。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
仲田博康
nakada_h@jca.apc.org