上原成信です。取りあえず5回目の岸本建男についての分だけ、このメールで送
ります。あとの分については、後日、新聞の現物かコピー(紙)を送ってあげま
す。
On Thu, 23 Mar 2000 15:25:00 +0900
"Satoshi Gotou" <fwgk4969@mb.infoweb.ne.jp> wrote:
> 沖縄の後藤です。
>
> お願いです。
> 沖縄で「全国紙」をみるのは至難の業です。
> 2000年2月20日ごろから、
> 「朝日新聞」で「沖縄の特集」があったようです。
> 内容も回数も、何もわかりません。
>
> この時期「本業」多忙のため図書館にも行けずにいます。
>
> どなたか、コピーしていただけると幸いです。
> ご連絡ください。
**************ここから新聞記事*************
描きかえられた未来図 理想掲げた市長(沖縄 名護の群像:5)
どうしても信じられない。
昨年暮れ、ニュースを見ながら渡具知(とぐち)裕徳さん(七〇)は思った。記
者会見で岸本建男市長(五六)が「普天間飛行場の代替施設受け入れ容認を表明し
ます」と述べた。
それは、かつて渡具知さんが岸本さんたちと描いた故郷の「未来図」とかけ離れ
ていた。
■■■
三十年近く前になる。革新系の名護市長だった渡具知さんを、地元出身の二十代
の青年が訪ねた。岸本さんだった。
東京の大学を出たあと世界を旅し、南米で出会った沖縄移民の近況を報告しに来
た。熱っぽい語り口から、異郷で農業や商売に打ち込む人々の生活が、手に取るよ
うに伝わった。
「おもしろい若者だ」と渡具知さんは岸本さんを市職員にし、総合計画の担当に
した。
高度成長期の日本に復帰した沖縄の人々は、低い所得や経済の遅れを引け目に感
じた。「格差是正」が叫ばれた。
岸本さんは当時、評判だった「象グループ」という若手の建築、都市計画家集団
にいた建築家の地井昭夫さん(五九)=広島大教授=らに「沖縄の良さを生かした
計画を」と依頼した。一年後にできたB4判、八十ページ余の「総合計画・基本構
想」にだれもが目を見張った。
冒頭で「経済格差という単純な価値基準の延長上にある開発の図式から、学ぶべ
きものはなにもない」と言いきった。
本土では公害が深刻さを増していた。しかし、物価が安く、温暖な沖縄には、数
字では計れないのびやかで豊かな生活がある。山原(やんばる)と呼ばれる北部の
自然を守りながら、農業や地場産業を育てられないか。そして、カネを落とす一方
で地域に深刻な問題をもたらす基地は、いずれなくすべきだ――この分析、主張は
「逆格差論」と名づけられた。
「はじめて読んだときの胸の響きを今も覚えています」
名護市史編さん室長の具志堅満昭さん(四九)は琉球大生だった。卒論のテーマ
にこの理論を選んで、そのまま就職した。ハワイ大出身者、都庁からの転職組。こ
うした若者たちが次々と市役所に入った。岸本さんは十数人の若手で「地域自治研
究会」を旗揚げした。
海洋博の投機ブームでブローカーが土地を買いあさっていたころ、研究会は県産
木を利用した地場産業を興そうと、割りばし工場の建設を買ってでた。夜、現場に
駆けつけ、みんなでスコップをふるった。
岸本さんらの提唱で、市役所の新庁舎は沖縄らしい独特の外観になった。市民の
意見も取り入れ、赤白のブロックを交互に組み合わせた。内部に風を取り入れる造
りで、冷房は一部にしかない。正面の壁には魔よけのシーサー(しし)が並んだ。
米軍の演習場では、銃弾や照明弾が飛び出す事故が相次いでいた。岸本さんは、
土地提供を拒む反戦地主を支援するため、所有地を共有する「一坪反戦地主」に名
を連ねた。
だが、理想は壁にあたる。自然を大切にした小規模の農地改良には補助金がおり
ない。整地で赤土が流れ、海を汚した。新しい試みは十分な成果をあげないまま、
基幹作物のサトウキビは農家の高齢化で次第に行き詰まった。
いつしか、研究会の集まりも立ち消えとなった。一九八六年、渡具知さんは落選
し、埋め立てによる臨海事業を掲げた比嘉鉄也市長が当選した。岸本さんは自然を
破壊する埋め立ては、「私の目の黒いうちはやらせない」とまでいった。
やがて、名護市はゴルフ場やリゾート開発に傾く。復帰後の特例で道路や港の建
設に高率の補助金が国からおりる。公共工事で土建業が栄えた。
「未来図」は描きかえられたが、岸本さんは行政マンとして助役にのぼりつめた
。
■■■
九六年に普天間の返還が合意され、名護市は移設候補地に浮上した。具志堅さん
たちは市役所で「基地を担保に国の支援を引き出すのは間違いだ」と訴えた。岸本
助役もうなずいた。
はじめは反対した市は、振興策を条件に国と駆け引きを始めた。市長の指示で訪
れた岸本さんから「移設に反対する近隣の首長を説得できないか」と打診されたと
いう有力者もいる。
地井さんは「もう一度、町づくり計画を作り直そう」と岸本さんに手紙を書いた
。だが、返事はなかった。
何が彼を変えたのか。かつての仲間たちにも、はっきりした理由は分からない。
九七年、名護市民投票で移設反対が過半数を占めたが、市長は受け入れを政府に
伝え、辞職した。岸本さんは、基地受け入れを図る商工関係者らに、市長選に担ぎ
出された。
反対派に身を置いた渡具知さんは、あいさつにきた岸本さんに「建男君、ヘリ基
地建設に反対してください」と言った。岸本さんは無言だった。
岸本さんは市長になり、次いで、県内移設を拒否した大田昌秀知事に
認派の稲嶺恵一知事が誕生する。名護でのサミット(主要国首脳会議)開催が決ま
り、名護に移設受け入れを迫る圧力は強まった。市長室には、反対派が何度もおし
かけた。
岸本さんは政府側に「表明は年明けに延ばしたい」と電話した。土壇場の市長の
ためらいにも、政府の描く「年内決着」のシナリオは変わらなかった。
大田知事が移設を拒否したとき、政府は潮が引くように経済支援を棚上げした。
岸本さんは「官房長官か総理が沖縄に来てくれますか」と持ち掛けた。青木官房長
官が訪沖し、手厚い支援策を約束した。受け入れ表明はその翌日である。
「県内移設が簡単ではないのは分かる。でも大田さんのように『ノー』と言った
ら政府との関係は終わりなんですよ」。沖縄の問題を担当する政府関係者は、後に
こう明かした。
■■■
岸本さんは最近、公式の取材にあまり応じない。自らが埋め立てに反対した海辺
のそばの市長宅を訪ねて、「逆格差論と基地受け入れはどう結びつくのでしょうか
」と聞いた。
「理念は今も正しいと思う。基地で繁栄しようとは言ってない。危険な普天間を
返還させるために名護市が引き受けた。ほかに選択肢があるのか」
基地を減らして独自の豊かさを求めるか、経済振興のために妥協するか。岸本さ
んの揺れは、沖縄を裂く二つの流れを、映し出している。(川端俊一)
=「名護の群像」終わり
<基地代償の振興策>
戦後27年間に及ぶ米国支配の後、1972年に沖縄は日本に復帰した。このと
き施行された「沖縄振興開発特別措置法」によって、道路や港湾の整備などが高率
の補助金で進められ、6兆円を超える国費が投入された。公共工事は沖縄経済を支
えたが、それは自立的な発展を阻害するという結果ももたらした。
95年に沖縄で基地縮小を求める声が高まると、政府は、基地を抱える市町村の
振興策として、7年間で1000億円規模の事業計画を打ち出した。
大田昌秀前知事が拒否していた軍用地強制使用の更新手続きを応諾した際、沖縄
全体の振興計画の調査費として50億円を予算化した。のちに大田知事が普天間飛
行場の県内移設を拒否したことによって、一時は立ち消えになったが、稲嶺知事が
当選すると再び100億円の振興費がつけられた。名護への普天間移設の見返りと
しては、候補地周辺と本島北部地域に向こう10年で1000億円が約束された。
振興策と基地は「アメとムチ」にたとえられるが、基地とカネが絡む構図が続く
限り、基地経済からの脱却は難しいとの指摘がある。
【写真説明】
今、名護の町にはサミット参加各国の旗があふれる。市役所屋上にもシーサーと
並ぶ/撮影・相場郁朗=沖縄県名護市で
******************新聞記事ここまで*************************
MARUYAMA K. kaymaru@jca.apc.org
2GO GREEN (JCA-NET)
http://www.jca.apc.org/~kaymaru/2GG_JCANET.html
このメールは、最後に署名のある丸山氏から上原宛に送られたものです。
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上原成信(sei-u@jca.apc.org)
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