Date: Tue, 14 Mar 2000 17:02:46 +0900
From: 加賀谷いそみ<QZF01055@nifty.ne.jp>
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Subject: [keystone 2460] 国旗「日章旗」・国歌「君が代」
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 戦後、風呂敷やオシメなどに再利用された「いさましいにほんのはた」を、
学校に行くと「うつくしいにほんのはた」と歌わされ、うちに帰れば、NHK
テレビ・ラジオに毎日「君が代」のメロディを刷り込まれ、競争に勝った者を
強者とほめたたえるスポーツの場で「日の丸」の団旗をふりながら歓喜するう
ちに、「日の丸」に「親しみ」、「君が代」を脳裏に「定着」させていった私
たち世代が、ついに、政府をして「日章旗」を国旗に、「君が代」を国歌に
と、国家にとって昭和初期からの悲願でもあった法制化を成し遂げさせまし
た。
 強制が及ばない大衆は無視し、強制による「定着率」をベースにしながら
の、政府・マスコミあげての「世論調査」の売り込みも右ならえ志向が強いと
いわれるこの国では効をそうしたようです。

 天皇を仰ぐ「日の丸」「君が代」を子どもたちに強制され、人権侵害を受け
続けたにも関わらず、軍事同盟と天皇の再定義が表裏一体してくり返される中
で、私たちは自らの「良心の自由」を巨大な権力に翻弄されたまま、子どもの
権利を保障することができずにいます。

 50年代から、強権を行使できる文部省によって教育現場へ持ち込まれた
「日の丸」・「君が代」は、これからは国旗・国歌として「定着」してきてい
ます。指示する側であろうと、指示される側であろうと、歌おうが歌うまい
が、座ろうが座るまいが、良心の自由を侵害する暴力は参加者すべてが受ける
ものです。それは、無理矢理衣服をはぎ取られ、真っ裸にされて大衆の面前に
立たされるようなもの。ただ「日の丸」「君が代」に「礼」をもってこたえた
ものを、現政府が「いい子いい子」するので、その屈辱さえも国に「守られて
いる」と錯覚する人もいるようです。

 しかし同じ強制の被害を受ける立場には変わりないはずの市民の側から、互
いを区別しようとする動きが出るなら、国が狙う目的の一つをかなえてやるこ
とになります。
 その兆候は、「日の丸」「君が代」問題に関わらないところで、勤務時間を
めぐるなどで教師の私生活まで監視し、「通報」する市民の増加という形です
でに現れてきています。そして教育委員会は保身も加わって、「教育公務員」
あるいは「聖職者」としてふさわしくないと教師らを血祭りにあげています。
そうしているうちに子どもたち同士の差別にもつながっていくのでしょう。

 精神的自由の保障を訴えるなかで、しばしば取り上げられる「バーネット事
件」は半世紀も前の1943年に出された「違憲」判決です。
「いかなる役人も、政治、国家、宗教あるいは他の個人の意見に関する事柄で
何が正当であるかを決めることはできないし、また、強制的に市民に対してそ
れらに関しての信念を言葉や行動で表現させることはできない」
(国家への敬礼を強制され、自らの宗教信念にしたがって拒んだ公立中学校の
生徒が退学処分を受けた事件でのアメリカ連邦最高裁判決)

 そのアメリカからやってきて、途中から冷戦の防人としての日本を統治すべ
く役も担ったマッカーサーは、「日の丸」掲揚の禁止措置はとらず、降伏後の
国家主権行使制限として日の丸の掲揚はGHQの事前許可を要するとしまし
た。マッカーサーは、46年に天皇の戦争責任の免責の方針を固め、東京裁判
では不起訴と決めていたといわれますが、47年新憲法施行に際し、吉田首相
に宛てた書簡の中で「国民の象徴、国民統一の象徴たる天皇の宮城の上に、日
本国旗が無制限に掲揚されることは、この際特に適当である」として「日の
丸」の掲揚を特別許可し、49年1月1日のメッセージでは「平和の象徴」と
同時に「象徴天皇」のシンボルの国旗として「日の丸」を意義づけ、国内無制
限使用、掲揚を許可しました。
 また極東委員会では「君が代」の歌詞について問題提起したアジアの声をア
メリカは封鎖しました。
 その一方で直接支配下にあった沖縄には「日の丸」の掲揚を厳罰をもって禁
止します。しかし沖縄は後に日本政府に裏切られ続けながらも復帰運動の中で
「日の丸」を積極的に活用する歴史も持つことになります。

 占領下でアメリカからのお墨付きも獲得した「日の丸」を掲げて国体を護持
し「独立」した日本政府は、さっそくA級戦犯らを政界に迎え、児玉誉士夫や
笹川良一などの大物右翼に活気を取り戻させました。
神武景気のあとの1958年に、なべぞこ不況の中、教育課程審議会が道徳教
育特設などを盛り込んだ答申を提出し、改訂学習指導要領に「国旗を掲揚し、
君が代を斉唱させることが望ましい」と改訂し、文部省告示で法的拘束力を持
たせ、国家による「国民」づくりが開始され、「公害列島」となっていきま
す。

古くは1924年「国旗掲揚に関する件」を次官会議で決定・通達し「国旗は
国家の表章として最も敬意を表すべきものなり。国家的祝祭日に当たり官庁率
先して国旗を掲揚し民間各戸又之を揚ぐるに於いては国家的意識を闡明(せん
めい)し、国民精神統一の一助たらしむることを得ん」とする日本は、内外に
犠牲者を累々ときずいてきた「日の丸」「君が代」を今に至るまで脈々と「殺
しの道具」として受け継ぎ活用しています。

 そして今、ひ弱な日教組の足元を見透かして「日の丸」「君が代」問題を
「教育問題」にすり変えることで大衆の目からそらし、「対話と協調」路線に
懐柔したにも関わらず、現場からの根強い抵抗を押さえられない政府は、「教
育改革」で教師を隷属化することによって、息の根を止めようとしています。
 
 教育現場への強制の実績を足がかりに、もうすぐ大衆の「嫌なものはいや」
という素朴な意思の封殺にとりかかることでしょう。法制化という強力な武器
を政府が持ったということの重大さを考えると、改めて「日の丸」「君が代」
の強制がくり返された歴史を振り返る必要があるのではないかと思います。
 99年、校長の自殺から急遽、法制化に傾いた過程は、1974年に鹿児島
県の中学校校長の自殺をきっかけに、奥野誠亮文相(当時)らが騒ぎ出し、7
7年の改訂学習指導要領で、「国旗を掲揚し、国歌を斉唱させることが望まし
い」とし、公文書に初めて「国歌」という文字を明記させるのに成功させたと
きと全く同じです。

田中伸尚著「日の丸・君が代の戦後史」(岩波新書)は、この問題を整理する
のに便利な一冊です。

<カバーより>
掲揚と斉唱の定着化ををめざす政府によって、さまざまな軋轢が生み出さなが
ら、人びとの心に刺さり続けてきた日の丸・君が代。それに抗う人たちが訴え
るものは何か。占領期から国旗国歌法成立後にいたるまで、数々の事件やエピ
ソードをたどり、戦後社会が思想・良心の自由と歴史認識の問題にどう向き
合ってきたのかを浮かび上がらせる。



 
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