先日、「ニューヨークタイムスの記事に、名護現地のレポートが載っています」
と、おしらせしましたが、この記事を日本語訳してもらいましたので、少し長い
ですが送ります。
アメリカでも、名護への基地建設の問題が注目されているのでしょう。
原文は、さっき確認しましたが、どういうわけか、ニュヨークタイムスのHPで
まだ見れます。
http://www.nytimes.com/library/world/asia/012000japan-us-base.html
以下「試訳」(少し堅いです)
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名護ジャーナル
アメリカのヘリコプター?名護の裏庭にはノー、ノー、ノーだ
ハワード W フレンチ
ニューヨークタイムズ 2000年1月20日
日本・名護発
大きな手と日焼けした肌の東恩納琢磨は、沖縄本島のこのつつましい町の郊外
の海岸近くの土地で漁業と農業を営むような生活に特に似合っているように見え
る。
しかし、訪問者から見て、38歳の東恩納氏が本当の情熱を注いでいるのは、
疑いもなく彼が率いる名護へのアメリカのヘリコプター基地の移転に反対する多
数の運動のグループの一つである。
「私はここで生まれサンゴの中を泳いで育ちました。」と彼は近くの青く青緑
色の湾に手を差し出して言った。「以前は海亀が戻ってきたし、ちょうど腰の深
さの海に入っていくとサンゴの上を歩くことになりました。今はサンゴを見るに
は遠くまで行かねばなりませんが、もしも米軍基地がここに来たら、サンゴは確
実に全部なくなります。」
最近まで大部分の日本人は、人口5万5000人の名護市のことを聞いたこと
がなかった。しかし、この数ケ月間に日本政府は日本のもっとも遠方の県に位置
する名護にヘリコプター基地を受け入れさせるために巨額の補償金を提示した。
その甘い言葉の中には、日本で最も貧しい町の一つに、比較的未開発の状態か
らの振興のための10年以上にわたる10億ドルという天文学的な予算が入って
いる。名護はありそうもなかった7月の世界の指導的な工業諸国のG7のホスト
都市として世界的な舞台の立場を約束されてもいる。すでに、トラックがあらゆ
る方向に音をたてて走り回り、労働者が公共建築を小ぎれいにして道路を再舗装
し、会議にふさわしい会議センターを完成させている。
しかしまだ、基地移転に反対する多数の人々にとって、政府の惜し気もない勧
誘策は、突然の歓迎されない買い占めだというすさんだ気持ちになる。彼らによ
ると、もっと悪いことには、この問題が日本の本土の裏切りによって作られてき
たのが沖縄人の歴史だと沖縄人が語る苦い感情が吹き出す栓を開けてしまった、
というのである。
幸運を祝い名声が上がるのを楽しみにするのとは大きく違って、この静かな市
は今、ある最高に非日本的な率直さでもって基地の移転に抵抗する準備をしてい
る。町の静かな中心部に反基地のスローガンの旗がひるがえり、地域の諸団体が
サミットの会議中に大規模なデモンストレーションの開催を計画している。怒っ
た有権者たちが東京に降参したと指摘している市長の罷免のためにリコール運動
を開始した。
「名護市民は事態を非常に困難なものにし、おそらく基地建設を不可能にする
でしょう。」と基地に反対する市議会議員である宮城康博氏は語った。
沖縄中部の町の宜野湾から基地を移転しようという計画は、4年前の3人の米
軍兵士による12才の日本人少女レイプ事件から始まった。
この事件の後の緊張関係を緩和するために、クリントン大統領は、もしも代替
用地を見付けられるのなら、7年以内に基地の用地を地元に返還すると提案し
た。
47の他の都道府県でその中に騒音の激しい新たな海兵隊のヘリコプター基地
を受け入れる所はなかった。それで日本政府は日本と米国との間で40年間にわ
たって日米安保条約の中でよく行なってきた事を行なった。すなわち、日本政府
は日本国内のアメリカ軍の約75%がすでに基地としているちっぽけな沖縄にそ
の対象地を選んだのである。
沖縄が日本列島の主要な島々から遠いのと同様に、名護もまた沖縄本島の人口
中心部から遠い。沖縄も名護もわず3年前の住民投票でこれ以上のアメリカの基
地への土地提供に強力に反対した。
しかしこの合意指向の強い社会で日常的に実行されている種類の裏舞台での政
治的振る舞いにとらわれているために、東京はそれから重大な圧力をかけはじ
め、それは強大な刺激的提案によって一層効果的になった。毎週、政府高官と重
要な政治家が名護を訪問した。昨年の秋に名護市はサミットの会場に指名され
た。
最後には、政治家が不人気な決定をよく発表する伝統的な休暇中のニュースの
小康状態の時期であるクリスマスの2日後に、岸本建男市長はキャンプシュワブ
の隣接地の町はずれへの新たな海兵隊基地の建設を認めると発表した。
インタビューを断って、岸本氏は、基地建設は県の環境騒音基準の厳しい遵守
を条件にするという約束をして苦い薬を甘く包んだ。しかし、目論まれた決め手
は、基地の存在が15年間に限られる場合にのみ移設が進展するという発表であ
った。
しかしながら、1週間足らずで、日本の河原ツトム外務大臣がウイリアム・コ
ーヘン国防長官とワシントンで会談した際に、問題は起こり始めた。記者会見
で、河原氏は15年の期限は議題にならなかったことを認めた。「時期の期限を
設定するかどうかについての米国との会談は、この問題を検討して国内で総括さ
れた後にしなければならない」と彼は言った。
沖縄の琉球大学の歴史学者の川平ナイロウ氏は、「これは4度目の沖縄への大
きな裏切りと呼べるでしょう。それぞれの時に、決定は沖縄民衆を考慮しないで
行なわれてきました。」
1879年に東京は琉球国王を東京から任命した知事に取り替えた。米国との
戦争でほとんど敗北同然の1945年に、東京は沖縄で死力を尽くした戦闘を戦
ったが、沖縄は地上戦を経験した日本の唯一の国土で、20万人以上が殺された
のである。その後、1952年には、東京はワシントンがさらに20年間沖縄の
占領を延長することを認めた。
日本政府はサミットの会議の成功を国家的優先事項のレベルに引き上げ、小淵
恵三総理大臣が、重大な国政選挙をいつ行なうかについての政治的計算の核心に
まで設定しさえした。
まるで後から思いついたかのように、政府高官はここ数週間、サミットの会議
の場所は、夏の台風シーズンの予測しがたい天候のために、別の都市に突然変更
になるかもしれないと言っている。
この部分に関しては、沖縄人はすでに、もしも政府が基地反対のデモによる脅
威を受けて妨害されるかもしれないと恐れるならば小淵氏はサミットの会議場は
別の場所を選ぶだろうということを意味していると考えている。そして、自分の
所に新たなアメリカの基地の問題が起こることを避けたいと表明しているので、
多くの人がこれがより良い策だと言っている。
「民主主義とは沖縄人にとって、たとえ日米政府が何かを決定しても、人民は
政府に後戻りをさせることができるということを意味しています。」とヘリコプ
ター基地に反対する団体の統括グループの代表である中村ゼンコウ氏は言った。
「いずれにしても、私たちはこの計画との共存は絶対できないのです。」
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以上、ニューヨーク・タイムスの記事おわり。
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杉谷 伸夫 sugitani@fa2.so-net.ne.jp
全交(働く青年の全国交歓会)
zenko@mwc.biglobe.ne.jp
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