堂本あき子のトップページ 県民の会のトップページ 勝手連のトップページ

2001千葉県知事選挙
勝手連を勝手に応援するページ

堂本あき子通信
メール購読のお申込みはここをクリック

(奮戦記は、原則毎日発行で回数が多いため、配信されません)


堂本あき子ネットワーク
堂本暁子>コソヴォから見る21世紀
日付  : 1999/09/22


 堂本暁子ネットワークからテキストの提供を受けて掲載しています。 ===== 堂本暁子の永田町レポート9月22日号 コソヴォから見る21世紀 9月22日 北欧・ストックホルムより  北欧諸国は平和の構築、そして予防外交に熱心に取り組んでいます。最近、 スウェーデンの首相から「コソヴォに関する独立した国際委員会をつくるので、 参加してほしい」との要請を受けました。GLOBE、IUCNの仕事で手一 杯と思う一方で、予防外交の視点から北朝鮮問題に取り組んでいる私としては、 ユーゴスラビアのコソヴォ紛争にも強い関心を抱いていたので、悩んだ末、清 水(きよみず)の舞台から飛び降りるような思いで12人の委員の1人になる ことを引き受けてしまいました。  9月20日、17世紀に建ったという、ストックホルムの古く、美しいレス トランに委員12人が勢揃いしました。私の前の席は、カナダ人のマイケル・ イグナティエフ氏。子どもの頃に外交官の息子としてユーゴスラビアに住んだ 経験があり、民族虐殺、民族浄化の本質をついた「民族はなぜ殺しあうのか」 という本の著者です。日本のジャーナリズムの多くは、「バルカンにおけるボ スニア・ヘルツェゴビナからコソヴォにかけての紛争は、民族対立の歴史的必 然に基づいた出来事である」との論調が強いのですが、彼は、「外国人はセル ビア人とクロアチア人の見分けがつかないほど両者は似ており、何世紀もの共 生関係を切り崩したのは、双方の一握りの民族主義的政治家であり、隣人が無 理やりに敵同士に変えられ、殺戮が始まったのだ」と主張しています。  21日は、ストックホルム市を一望に見渡す明るい会議室で委員会を行いま した。コソヴォの紛争は避け得たのか? NATOの空爆と国連安保理の関係 は? 今後どのように作業を進めて行くべきか? 1年後にどのようなレポー トを出すべきか? まさに百家争鳴。選りすぐって集めた専門家たちだけあっ て、今後の調査計画、資料収集、まとめ方の視点などについての対立など、委 員会の議論がすでに国際社会の縮図の体をなしていました。コーヒーブレイク の時に、プリンストン大学のリチャード・フォーク博士に「コソヴォ紛争は遠 い日本から見ると、歴史的な経緯が主因かと思っていました」と言うと、「マ イケルの指摘も事実だが、歴史に根ざした下地があってのこと」と彼は分析し ていました。根が深く、複雑なのは、古くからこの地域が異なった宗教や民族、 文化の接点になっているからだということが、アジアからの唯一の参加者であ る私も、少しづつ肌でわかってきたようです。  ロンドン経済大学のメアリー・カルドール教授は、ユーゴの専門家。長い間 ユーゴに通い詰め、最近現地から帰ったばかりとのこと。私がジェンダーの視 点を主張すると、彼女は「プリシュティナ(コソヴォの首都)にレイプ・キャ ンプが3カ所あって、ワインと食べ物をもったセルビア人が円形に並べた椅子 に腰掛け、アルバニア人女性がレイプされるのを見物していたのです」と発言。 彼女は、集団殺害罪の防止及び処罰に関する条約(1948年)がある以上、空爆 だけではなくNATOは地上部隊も出撃させるべきだった、との主張を持って います。まさにイギリス政府がとった立場です。  「宣戦布告」なきNATOの空爆は「人道的干渉」として展開されました。 国連安保理の決議抜きに行われた「人道的干渉」は20世紀の終わりに、どの ような影響を国際社会に及ぼすのでしょうか。国際社会は人道的援助をどこへ、 どのようにして行い、紛争を終息させるべきなのでしょうか。そして日本はど のようなスタンスをとるべきなのでしょうか。ストックホルムで、私は山のよ うな宿題を抱え込んでしまいました。 プライベート・ライフ 〜山友達との語らい(9月17日)〜 「まあしばらく。と言ってもお会いするのは45、6年ぶりかしら。電車のな かで会ってもわからないわね」と私。相手は白髪の混じった山友達。スウェー デンに出発する前々日の夜、11大学の山岳部OB・OGが集った席でのこと です。懐かしい顔、顔、顔。もう定年を迎える歳なのに、たちまち10代、2 0代の頃に戻ったように話し合えるから楽しいものです。  敗戦後、希望を失っていた日本人に大きな夢を与えたもののひとつにヒマラ ヤの8000メートル峰マナスルへの初登頂がありました。ちょうどそうした 時期に私は大学に入り、山登りを始め、無我夢中になりました。1950年代 のことです。北アルプスの高山植物のお花畑やイワナが群れていた黒部の渓谷、 野生のウサギやオコジョと出会った涸沢の雪渓など、当時の思い出は尽きるこ とがありません。その頃、まだ登山者の少ない山は大学山岳部の独壇場でした。 横の連絡も強く、当時はお茶の水にあった岸体育館で日本山岳会学生部の集ま りが月に1回開かれていて、私が所属していた東京女子大山岳部は「紅一点」 の存在でした。  そして、ほぼ半世紀、それぞれの仕事人生、家庭人生を経て、最近はまた年 に1回集まるようになりました。「ドーモッチャンとさあー、初冬の穂高に行 ったよね」「そうそうあの時は途中から吹雪になって大変だったわね」とか、 「秋山で西穂から北穂へ縦走した時、堂本さんに会って・・・・」と夜が更け るまで話は尽きません。  今年は立教大学が幹事役でした。アルファベット順なので、来年が東大、そ の次が東京女子大と続くのですが、「一緒にやろうよ」と東大からプロポーズ を受けました。若い頃は「私たちは女性のイニシアティブで」と強気に誘いを 断ったものですが、今は喜んで誘いに応じます。もっとも「他の学校がやきも ちを焼くかもよ」と私。案の定、「大変だったよ」とうれしそうに東大OB。 「今頃やきもちを焼かれるのも悪くない」と私は苦笑い。「とにかく、来年は 若返るような、面白い会にしたいと思います」と挨拶すると、「今も若いよ」 とヤジが飛びました。国会でのヤジと違って心地よいものです。さてこれから 1年、アベック幹事をどのように楽しもうか、とつらつら考えながら機上の人 となりました。 (ストックホルムにて) ♪♪永田町レポートのFAX・Eメールでの購読をご希望の方は、 堂本暁子ネットワーク 〒100-0014参議院議員会館422  Email:GGH01130@nifty.ne.jp 電話:03-3508-8422、FAX:3506-8085 までお気軽にお問い合わせ下さい。♪♪♪

copyright 2001 by 堂本あき子ネットワーク