元証人からの一言
私も元証人なので分かるのですが、エホバの証人を説得することは難しい。妻とは話の糸口さえつかめないのですが、自分の思いをどう伝えるかというと、イエスです。イエスは教会の頭(かしら)です。とこを通さなくとも、その人とはイエスの話ができます。それは聖書が保証しています。輸血拒否については聖書的に訴えられるのではありませんか。輸血拒否で亡くなる人が出てきます。エホバの証人はそれを殉教と言います。黙示録には「大いなるバビロン(娼婦)は血に酔って」という箇所があります。エホバの証人は輸血拒否をして血に酔っている状態です。エホバの証人の存在は聖書的です。なぜなら大いなるバビロン(娼婦)として現れなければならない存在だからです。偽りの信徒として活動している。悲しい限りです。私の家族が教義を広めていくのは悔しいけど気づくまでそれはしかたがない。本人と神との関係なので仕方がない。気付けば戻るでしょうが気が付かなければしかたがない。神のご意志です。エホバの証人は耳を開きません。断絶した人とは絶対に話をしません。
エホバという神は呼び方としては存在しません。「エホバ」は聖書的ではありません。誰も呼べないのです。「エホバ」と呼んでいることは偶像崇拝です。他人の話を聞かない、自分の言いたいことだけを言うのはエホバ崇拝の形の現れと思います。