被害者家族からの報告
家内がエホバの証人になった経緯はただいま説明したとおりです。家内が研究を始めた頃は、当たり前ですが当然反対でした。私が一年生を受け持ったとき、子どもの中にエホバの証人の子どもがいました。その子の家庭関係調査票の中には、鯨の肉を食べさせないように、「いただきます」を言わせないようにとか、七夕をやらせないよう、別室で過ごさせるようになどと書かれていました。親には、子どもに押しつけるのはいかがなものかと言うと、理解するそぶりはなく、「親の責任で子どもに教え、やっている」と答えていました。帰宅して家内に「おかしな宗教だね」と言いますと、家内も頷いていました。
それから数年後、家内が研究を始めてしばらくして、そのことを聞かされました。当然反対でしたが家内がそう言うんだから何かいいことがあるんだろうとか、信教は個人の自由だから反対しなだらも辞めるようにとは積極的には言いませんでした。
そういう基本的なスタンスはしばらく変わらなかったが、手話会衆のころから変わりました。会衆まで車で片道一時間かかります。それから生活が変わりました。昼は疲れて家事ができません。集会の時間になると集会に出るのです。帰宅するとすぐに寝ます。そんなにしんどいなら休んだらと言ってもまったく聞く耳を持たない感じで、集会に出るのはエホバの命令という強い意志で出かけます。ですから毎日、口論が続きました。海老名はもちろん、たびたび飛行機で北海道などの大会に日帰りで出かけて行きました。結局、やっぱりおかしいと気付くまで10年もかかりました。インターネットを見て調べてはっきり分かるようになると血の気が引く思いがしました。それ以来、一日中、頭から離れませんでした。家内はだまされていると分かりましたから、私までだまされるのではないかと、不安にもなりました。自分のいらいらを何とかしたいという中でJWTCなどとのつながりができました。JWTCのテープを受講して励ましを受けましたし、草刈牧師に電話で相談させていただきました。聖書を通して話すことが大切だとおしえられ、火曜日の食後に家内と聖書を読む時間を取りました。始めた動機は、妻に気づかれてもらいたい思いですから聖書解釈でたいてい口論に至り、それは半年も続きませんでした。しかし聖書は毎日読み続けました。
四日市市に住む元研究生を紹介してもらいました。集会で家を留守にしたとき、教会に行って会っていました。その時間と言えば、教会の正しい教えを聞く機会でしたが、つい妻の愚痴を聞いてもらう時間になりました。それは慰めと励ましの時間となりました。エホバの証人か教会か、どちらか正しい方を選ぶからと家内と話をして、月に一回ずつ、エホバの証人の集会にも出るようになりました。長い間出なかった主の祈念式にも二、三回出ました。
名古屋のタンポポの会では講師を招いて講演をしていますが、そこで日頃から家族で過ごす時間が大切だと聞きましたので土曜日は夫婦で外出するようにしました。できることは少しずつしていましたが家内が間違いに気づく気配はありませんでした。
家内は精神科にかかるようになりましたし、長女は中三の受験期にものみの塔を辞めていましたがその後遺症で長女も精神科にかかっていました。その上、
次女はろう者です。暗い闇の中を歩いているような気分でした。終わりのない日々。鉛にような重いものがいつも抜けないといった気持ちでした。何ができるかというと何もできない、家内に間違いだと告げられなくて家内に当たり散らしてしまうことがしばしばで、家内にも何で怒っているか怒る理由も言えないもどかしさ。
一人で祈るようになってました。「人にはできなくても神にできないことはない」とは聞かされていましたができることと言えば祈ることしかありませんでした。
4月5日、家内は草刈牧師との話の中で間違いに気づきました。今年の三月まではこうした席に出られるなんて思いも及びませんでした。自分の努力はなかったに等しいのですが、多くの人たちに支えられていただきこの日、この席に出られます。次女はまだものみの塔にいます。これからは家族三人で次女を愛していこうと思っています。