第5回輸血拒否死亡者追悼式
私がものみの塔を脱会したのは8年前の10月22日です。家族の願いが働き、救出に関わる人たちのお導きと神様の憐れみによって、エホバの証人からイエス・キリストの証人に生まれ変わりました。被害者集会に式辞を述べるのにはとまどいを覚えました。それは私が被害者ではなく、家族が大変な思いをさせたからです。でも、今、信仰の世界に生きてますから、みなさんと一時を持てることを感謝して式辞を申し上げます。
エレミア書では神はこう言われました。「わたしがあなたがたにいだいている計画はわたしが知っている。それは災いを伝えようというのではなく、平安を与えようとするものである。あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである」。私たちは試練に会うとき、不安になったり、もうだめだと絶望視したりして、人生を投げ出したくなります。自分自身を生きることになんの価値も見いださなくなります。神様はわたあしたちがどんな者であっても大切に思ってくださり、常に人生を最善に導いていくよう計画していると約束されています。私たちが力強く与えられた人生を全うすることを望んでおられます。エホバの証人の輸血拒否の教理はこの神様の御心に反するものです。根底にある思想は、すべての命は血にある、命は神に従うのものであるから血もまたすべて神に帰さなければならないと言うものです。他人の血液を取り入れることは神様に対する反逆といいます。聖書は本当にそう言ってますか。ヨハネ3:16では、「神は、その独り子をお与えになったほどに世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである」とあります。イエス・キリストは、血を流して十字架上で死んでくださいました。イエスを救い主と信じる者が永遠の命を与えられます。これが聖書が語っているもっとも大切なことです。神様の目には、私たちの血が重要なのではなく、イエスが十字架上で流した血が重要なのです。神様の要求はイエスを救い主として信じることなのです。この神様の御心と違い、エホバ神に従おうとたくさんの証人が命を失ってきました。神様の深い痛みを覚えます。今もその選択をしようとする証人が絶えません。もしかしたら私も子どももそうなったかもしれません。
イエス・キリストにおける神様の愛を知り平安と希望の中に生かされています。神様の憐れみによるのです。彼らのために祈り、救い主イエス・キリストを証しするために生き続けていきたいと考えています。今日皆さんの話を聞きながら決意を新たにし、皆さんと神様に感謝して式辞といたします。