元二世の証し
二世の体験談といえば、生まれた時から話をしなければなりません。私は1973年の生まれです。難産だったそうです。母は1975年にエホバの証人になりました。ハルマゲドンを本気で信じていました。それが過ぎて「なんだ、こなかったんだ」と言われるときには新しい日付を作る戦略を採っていました。運動が過激だった頃、母がひっかかりました。後で母に尋ねたところ、「75年頃、ハルマゲドンが来るとは思っていなかった」そうです。組織に信仰を合わせて思いこんでいたのかもしれません。父は未信者です。姉は5歳上です。私は私立の幼稚園に通いました。厳しい会衆や厳しい時代には、世の影響が大きいからと、幼稚園には通わせないそうでしたが、私の頃は通えました。その頃は私は泣いてばかりいました。幼稚園に慣れてくると母は自分の都合に合わせて私を朝早く園に連れて行きました。ひとりぼっちで園の門をくぐりました。エホバの証人の集会にも出ました。集会は大嫌いでした。退屈で楽しいことは一つもありません。大人と同じ話を聞いていて何もわからない。おとなしくしないと懲らしめ、ムチが当然待ってました。集会の時に泣くと口をふさがれるし、トイレに連れて行かれ素手でたたかれました。ほかの会衆ではゴムホースやガスホースが使われました。家に帰るとスリッパ、革のベルトでたたかれた。泣き止むまでたたきます。私は泣くのはこらえるのですが、抑えれば抑えるほど苦しい、辛い思いをしました。ジャーナリストはこの辺が理解できていません。「身体への虐待は重大事」という単純なものではなく、それを前提にした精神的な虐待です。野外奉仕にも連れて行かれました。ぐづると懲らしめが待っていました。空き地でズボンを脱がされ裸にされました。その時、母は泣いているんだか怒っているんだか分からない顔をしていました。ですから奉仕も嫌いでした。
小学校低学年の時代は記憶は曖昧です。当時の経験を書こうとしましたが当時の先生(の名)も覚えてません。多重人格が関係しているかもしれません。三年生の学級写真がありますが当時の経験が思い出せません。六年の頃、集会奉仕がありました。仮病を使ってさぼりました。日曜日の昼は紅茶、目玉焼き、トーストが習慣になっていました。紅茶のにおいを嗅ぐたびに当時の思い出が浮かんできます。集会はよくさぼろうとしました。小学校当時は二世であることを必死に隠していました。二重生活でした。会衆では親とエホバに従順な二世、学校では優秀な子どもを通すのです。二世がばれるのは、家庭訪問のときとか、大会などの行事が土曜日に催されるときに休むときです。運動会の騎馬戦を拒否してばれます。五年生の時、担任に騎馬戦を拒否するとはなかなか言い出せないで直前に打ち明けました。下になればという答えでした。母に言うのが辛くて言えないでいると当然母にばれました。午前に集会に出て、午後に騎馬戦でしたから、ばれてしかられました。六年生の時は母が家庭訪問のときにくぎを差しました。クラスメートにはひた隠しに理由を隠しました。仲の悪いクラスメートとはけんかをしました。それがいじめをしていると見られてそれが担任に伝わりました。「神様を信じているのになぜいじめができるんだ」としかられましたが、神を信じているのは母だけだと内心は思いました。中学三年生の時、転入生がきました。彼は幼いころ同じ会衆にいたK兄弟でした。体育の授業は柔道でしたが、親に隠れて授業を受けていました。三年の時にはKがいましたからそれができなくなりました。八方ふさがりになってしまい、エホバに祈りました。冬には寒稽古があったからです。サッカーをやっていた先生が来ましたがそのとき足にギブスをしたので柔道をバスケットに変えると言われると「助かった、エホバの祈りが通じた」と本心から思いました。霊的成長を遂げました。神権宣教学校に入って伝道者になりました。そのころ部活を経験しました。三年の時合唱をやりました。先生から「コンクールがあるけど男子が足りないから」と入るように勧められたのでした。母からはOKが出ました。それは兄弟がブラバンで活躍しているのが影響していたのではないかと思います。合唱コンクールでは指揮をしました。卒業式では卒業者代表の指揮者となりました。式次第には「校歌斉唱の指揮者」と刷られていましたから式次第を母に見られる前に何とかしないといけませんでした。何とか削除をしてもらえました。
高校は公立の受験に失敗したのですがその公立の志望校の悪評判を耳にした母は「不合格はエホバのご意志」と言ってました。高校は苦しい勉強の毎日で、まともな教師はいませんでした。唯一の相談相手は図書館の司書でした。会衆では伝道者でしたが、バプテスマは受けてませんでした。マイクの調整役をさせられ、放送機材の面倒を見てました。音響部門は若い二世がやるというのがならいでした。中高生がやりました。その友だちづきあいができて(彼らと)つき合いがありました。割り当てがありましたし、勉強もありで、二重生活をしてました。
その当時は大学進学は緩和されていました。「ものみの塔」誌にある日、「ある地方では大学を出ていないと自活できないから……大学を出てもいいのでは……」という記事が出て解禁されました。姉は高卒です。大学に行くのには偏見がありました。浪人をしてまで行くものではない、どこでも入れる大学を目指し、北海道教育大(釧路)に入れました。親から離れて生活できました。母は「世の影響があるから」と言いましたので、寮ではなくアパートに住みました。釧路の会衆に変えました。研究司会者は会衆の長老でした。大学一年の頃はエホバの証人に積極的でした。月曜バイト、火木集会、金ゼミと集会と忙しい毎日でした。帰省で帰ると非常に雰囲気と表情の暗い会衆がありました。姉は暗いから帰らないほうがいいと言われました。会衆によってなぜ雰囲気が違うのでしょうか。母も姉もあまりにも釧路が明るいと言いました。
二年、三年になると集会とゼミが重なったし、サークルの女性とつきあうようになって集会にも出なくなりました。三年の時には教育実習があるのですがその時に私がエホバの証人の二世だとばれました。彼女の通っていた高校が若い開拓者の巣窟だったので知識を持っていたのでした。私は当時逃げ腰でした。証人としてバプテスマを受けようか、それとも辞めようか、はぐらかしていました。彼女の発する素朴な質問「エホバの証人とつき合いしてはいけないのか」に答えられませんでした。その頃はエホバの証人に疑問が吹き出していたが辞める決心はつきませんでした。大学四年のとき、彼女とは一年間、けんか、衝突、すれ違いを繰り返していました。その頃「エホバの証人の子どもたち」のホームページにたどり着きました。すごい衝撃でした。掲示板を見て自分と似たような立場の発言を見て、悩んでいるのは自分一人だと思っていたのが、エホバの証人の側からしか見てなかったんだと感じました。それから変わりました。関連サイト、背教文書を読みあさりました。パスカルさん主催の集会で中沢先生と会い、先生の著作を受け取りました。少しずつエホバの証人の側からの見方だけではなく客観的な見方ができました。信じていたものが崩れる瞬間は辛いものです。
当時、大学で教育心理学を取っていました。学生自身が心の底から持っているテーマでないと卒論を書けない状況でした。エホバの証人二世で育てられ、疑問を引きずりながら育てられた。辞めようかと悩んでいるときが問題意識でしたので、これで卒論を書こうと指導の先生に相談しました。卒論指導の話し合いでは、「あなたは母親との関係で何かありますね」と言われました。さすがに観察が鋭いのですね。「エホバの証人の子どもたち」の表紙を印刷して「私はこれです」と打ち明けました。先生はエホバの証人情報センタなどから情報を集めていました。それからはもやもやとしたものが整理されてきました……エホバの証人の教義や組織に対する疑問と矛盾がありました。会衆の人たちとの関係がありました。一世の人は元があって辞めます。二世は何もなくて当たり前で入ります。元の何かを求めてもありません。そういう苦しさがあり、何もかもぶちこわし、一から出直しです。過去を整理すると辛いのです。
指導の先生は父親と話すように言いました。父は未信者です。ただ一人話せる親族です。その後、先をのばすのが辛くて母と姉にもことの次第を打ち明けました。まずは教員試験合格の知らせから始めました。次いで、集会に行っていないこと、エホバの証人になる気はないと告げました。母は口を利きませんでした。姉と会いましたら、開拓者をしており、二世同士で結婚していました。姉は一世に近い感覚でした。疑問を感じたことはありましたが、納得いくまで個人研究をしていたそうです。自らマインドコントロールをしていたんですね。個人研究はものみの塔の出版物しか見ていません。
組織を離れる宣言は非常に辛いものでした。そのショックからうつ病を患っています。何とか卒論を書いて卒業しました。その論文の一部はホームページに載せています。
小学校教師をしてましたがうつ病が原因で辞めざるを得ませんでした。奪われたものがたくさんあります。時間を返して!健康を返して!職を返してくれ!いろいろ返して欲しい。二世は入っているときも辞めたときも大変です。