弔辞
新美さん、いつものようにこう呼ばせて下さい。私がこの場に立つということは夢にも思いませんでした。でもそれが現実になってしまいました。新美さんとの出会いは1983年のことで、指紋押捺拒否第1号の韓宗碩(ハンジュンソク)さんの指紋裁判のときだったと思います。外国人指紋の源流を求めて中国東北地区にも一緒に足を運びました。旧満州国時代を知る現地の古老に、同行の金敬得(キムキョンドク)弁護士が外国人登録証を見せると、過去の亡霊を見るようだと話してくれました。そこには金弁護士の顔写真の下に黒々と指紋が押された登録証がありました。
その金弁護士とコンビを組んだ裁判のひとつに、大島渚監督の名作「忘れられた皇軍」に登場する、石成基(ソクソンギ)さん陳石一(チンソギル)さんの戦後補償裁判があります。この国は天皇の赤子として戦争に駆り出し、怪我をした陳さんたちに戦後は何の補償もしなかったという世界にも例を見ない国でした。その訴訟は最高裁まで争いましたが、敗訴に終わりました。でも判決の付言がきっかけとなって、特別立法が生まれ400余人の石さん、陳さんがわずかの一時金でしたが手にすることができました。
金弁護士と組んだもう一つの事件に東京都の管理職受験拒否事件、鄭香均(チョンヒャンギュン)裁判があります。一審は敗訴でしたが、東京高裁では勝訴判決を手にし、大きな反響を呼びました。その後7年も経って最高裁は逆転敗訴を言い渡しましたが、地方公務員の門戸開放は着実に進み、判決はさしたる影響を与えませんでした。新美さんとご一緒したあの事件、この事件、結局のところはこの国の過去が今日に残している問題でありました。それと真正面向かい合ってきた新美さんだったと思います。
そうした中のもう一つが中国人強制連行事件でした。秋田の花岡、そして広島の西松、いずれも新美さんが全精力を傾注した事件でした。鹿島花岡訴訟は2000年11月に東京高裁の和解勧告、中国紅十字会の参加を得て和解が成立しました。花岡受難者全体を対象とする他に例を見ない画期的なものとなりました。広島西松訴訟では高裁段階から代理人となられ、これまた高裁レベルでは初の勝訴判決を手にしたのです。
花岡和解によって誕生した花岡平和友好基金、その運営委員でもご一緒でした。北京での第一回会議席上中国側から弁護団にお礼をしたいという申し出がありましたけれども、新美さんは固辞され、結局そのことを議事録に留めることにしました。新美さんは私心なし、無私を貫かれたのです。新美さんの真骨頂のもう一つは当事者の肉声にじっくり耳を傾かれたことでした。そのために独学で中国語を修得し、途中からは中国人受難者の方々と自由に意思疎通ができるまでになっていました。
新美さんが永眠された翌日、東京地裁の大法廷では枝川朝鮮学校裁判の口頭弁論が開かれ、学園理事長と学校長の意見陳述がありました。満席の傍聴席は静かに聞き入っていました。弁護団長である新美さんにもその光景が、その声が届いたのではないでしょうか。
新美さんとご一緒に、何度口にしたかと思うことが、故周恩来首相の「前事不忘、後事之師、過去を忘れなければ将来の戒めとなる」でしたね。私たちにとっても座右の銘であったのです。新美さんあなたの志は必ずここにいる私たちが引き継いでいくことをここにお誓いいたします。本当にありがとうございました。金敬得さんと二人でどうぞ私たちをお護り下さい。

2006年12月29日        葬儀委員長 龍谷大学教授 田中 宏