「warranの秘境探訪」写真を参照


■初めての沖縄

 私の辺野古現地闘争への参加はこれで二度目になる。一回目は四月の末、那覇防衛施設局が作業規則違反の夜間作業を強行し始めた二六日の二日後に私は現地に到着した。しかし、まだその頃の私は、辺野古問題の概要がよく理解できないまま、知人の紹介で沖縄まで来ていた。ところが、いざ名護市に入り、ヘリ基地反対協の方々と話をするうちに、いかに日本政府が己の面子のためだけで米軍基地の土地提供を地域住民の意思すら金で踏みにじり、ゴリ押しに進めてきたかを聞かされた。また、辺野古でも防衛施設局による本土業者を使った容赦ないボーリング調査準備の強行に怒りを感じたからでもある。そんな折に、現地では海上監視も二四時間体制になったばかりで座込み参加者も「体力の限界に来ている」と聞いた。そのような状況を聞くと、自分としても海上行動に参加するべきであると思ったのだ。それは、たとえ今、問題の進展具合が分からなくても、「言葉で聞くよりもまず現場に、最前線に出なければ分からない」という自分の性分もあったからだろう。人から聞いた話や文章を読んだだけでは納得できないという私のいつもの癖である。
 あっという間に、三日の滞在が過ぎて私は一回目の辺野古をあとにした。それから1カ月後、本土に戻った私は改めて沖縄の米軍基地移設問題を調べてみた。それまでは、イラクの現地情勢や、自衛隊派兵に伴う憲法論議に夢中だった私にとって新しい分野だった。ましてや最近まで本の執筆などという、いわゆる「ひきこもり」生活が続いたために体も精神もかなり鈍ってしまっていた。この頃には、講演活動も停止状態にしていたので新たな準備のために体調も整えておかねばならなかった。
 だが、知り合いである東京在住の学生も五月初旬には辺野古の現場から帰京して来て、現地の様子を聞くと居ても立ってもいられなくなった。私はすぐに周囲の友人知人に辺野古への座込み行動参加を誘ってみた。しかし、残念ながら意外にも東京在住の仲間は皆それぞれ職場の休みを取って沖縄に何日も行くことは出来ない。ジャーナリストの友人らがかろうじて辺野古取材を考えてくれたのだった。そんな東京でも、毎週月曜日には防衛庁前での抗議が行われ、新宿駅西口地下道では「ジュゴンの海をまもれ」という情宣活動が行われている。皆がそれぞれの場所でそれぞれのやり方でヘリ基地建設反対の行動を行っているのだ。
 そうは分かっていたが、私はどうしてもまた辺野古の現地闘争に参加したくなっていた。前回のときは、何か中途半端に抜けて来たような感じだったからだ。これでは納得が出来ない。そう思っていた。


■再び辺野古へ

 そして5月30日、私は再び辺野古の座り込みテントに来ていた。テントに到着すると、私はまずヘリ基地反対協の人に挨拶すると奥に座っているおばあたちにも、「今日、東京から来ました。よろしくお願いします」と言う。すると逆に「こちらこそよろしくね。ありがとう」と言われた。皆から好かれている謙虚な方だと思った。おばあは、平日ほとんど毎度のようにテントに通って、座り込みに参加する人たちと話し合っている。そして若い者たちは、おばあからいろいろなことを教わっているようだ。この辺野古のテントでは、男よりも女のほうが大黒柱のようにしっかりしているように思える。
 五時前になると、海上に出ていた仲間たちが戻ってきた。全員が引き上げてきたところを見ると夜間の座込みは無いようだ。この日は、さっそく全体ミーティングがテント内で行われた。

 昼間、辺野古の新基地建設を許さない市民共同行動の交渉メンバーが那覇防衛施設局に、「30日夜から夜間の阻止行動をとらないので、双方の信頼関係に基づいて施設局も夜間作業をしないでほしい」と迫り、施設局も「ボーリング調査自体は継続しつつ、夜間作業については安全面、環境面から現状では困難」との認識を示し、当面実施しない姿勢を示したという。しかし、施設局からは具体的な回答は無かった。反対協側の粘り強い座込み現場闘争と地方議会における議員たちへの説得工作や本土の国会議員への働きかけ。さらには、地方メディアの問題の取り上げ方も追い風になっている。沖縄県民世論80パーセントが辺野古への米軍ヘリ基地移設・基地建設反対に動いている今、与党政府内にまで顕在化する「辺野古移設見直し」に動揺したであろう施設局は、「台風四号の接近により、暴風を受ける危険性から金網は撤去は安全対策として検討する余地あり……」との前置きを述べた上で、「ボーリング調査自体は継続しつつ、夜間作業については安全面、環境面から現状では困難」との認識を示し、夜間作業は、「『反対派』が夜間の海上に出なければ、施設局も当面実施しない」との意向を暗示させたとのことだった。
 夜になると私は、地元の人に辺野古の浜が昔どのようなところだったかを聞かされた。「今でこそ、護岸工事によって浜辺は埋められ広い空き地になってしまったが、10年ほど前は白い砂浜の綺麗な浜辺だった」と語る50代の男性。彼は、辺野古の部落出身で「本土復帰」前に海上自衛隊に入隊して二等海曹まで務め依願退職した。その後、別の職につき数年前に故郷の辺野古に戻ってきたという。今は反対協で活動しているひとである。
 浜に流れる川の上流では、米軍の弾薬処理用の射撃場があり、山から崩された土砂が赤土になって川に流される。そのせいで昔は白い砂浜も今では赤土の混じった砂に変わった。干潟に棲息する“ヘイタイガニ”も種類が変わった。岩山の樹木もヤシ科のような植物から、赤松の針葉樹になってしまい「生態系まで変化している」と嘆いていた。
 翌早朝、私は5時30分頃には既に海上のやぐらに監視行動に出ていた。この時間に、先発隊として海上に出た座り込みは10数名。それぞれ単管やぐらに配置される。私の入った第3やぐらは、まだこのとき金網で覆われ、ボーリング調査用の資材もそのまま積み上げられてあった。やぐら付近の海上は、警備会社のゴムボートが夜間監視の任務についていたのだろう。我々が到着する前からずっと停泊していた。
 第3に後発の仲間たちを乗せた船が近づいてきた。3人がやぐらに乗り移った。乗せてきた船は、隣町の漁師が安いチャーター代にもかかわらず反対派に協力してくれている。阻止行動に参加する私たちにとっては本当に力強い味方だ。
 やぐらの仲間たちは、恒例の「セレモニー」として新参者が加わると決ってミーティングついでに全員でそれぞれ自己紹介をすることになる。ウチナンチューや本土各地からの参加者は、労組や学生サークル、平和団体、宗教関係と参加者は多種多様だ。個人参加の私は稀な方だった。簡単な注意事項も交えたミーティングを済ませると、業者が出向すると予測される時間まで朝の「ティータイム」となる。港を出る前に準備してきたお茶やコーヒーを保温ポットからカップに注いでみんなでくつろぐのだ。地元の漁師さんの中には親切な人がいてわざわざ海上やぐらで座り込みをする仲間たちのためにコーヒーを作ってくれる人がいる。これが、なんと黒砂糖を使った甘いインスタントコーヒーなのだが、味に慣れてくると好んで飲む仲間までいる。そんな暇な時間を利用して、私は反対協がコピーした防衛施設局のボーリング調査予定図を見せてもらった。そこには、辺野古沿岸のリーフ内に各業者の作業ポイントが記されている。


■海上での阻止行動

 このボーリング調査とは、米軍基地建設のために地質の状態を調べる目的で予定区域に63カ所の海底に杭を打ち込むものなのだ。概要は、単管足場30カ所。スパット台船20カ所。固定ブイ13カ所だ。これらの海底掘削調査は、さんご礁やジュゴンの餌場となる環境に多大な影響を及ぼすことは明白である。にもかかわらず、施設局は「環境アセスメントとは無関係」などと言っている。しかし、辺野古に米軍の新基地が建設されると辺野古沖と大浦湾は241ヘクタールもの海域が消滅し、滑走路も兼ね備えた巨大な軍事施設となる。つまり、地元の住民にとっては、環境破壊により漁業によって自活道を閉ざされ、基地労働者としての「奴隷」労働を余儀なくさせてしまうのだ。

 なぜなら、基礎作業であるボーリング調査に9億円も費用がかかり、本体工事には1兆円以上もの巨費が投じられる。これら米軍のための基地建設の費用負担は、すべて私たち民衆の税金で支払われ、工事の落札は東京に本社のある企業に落ちる。ところが、肝心の地元には「基地被害」のリスクを負わされ、漁業壊滅によって失業問題も出てくると思われる。常に負担のしわ寄せを食らうのは、税金を取られ、仕事も奪われる私たち民衆なのだ。
 さて、そうこうするうちに8時半頃になると、「キャンプ・シュアブ」の浜辺に施設局と業者作業員たちが集まってきます」という無線連
絡が入った。シュアブの基地を監視しやすい海上に位置する第1やぐらからの連絡で穏やかな空気も消し飛んだ。それまで付近に停泊していた警備のゴムボートは、施設局の行動開始を合図にしてか、その場から撤収しはじめた。
 私も、双眼鏡でシュアブの浜を覗いてみたら、「作業開始」の赤い旗が立っている。これは、海上保安庁などに分かりやすいように施設局が作業中に立てる表示旗のひとつである。私たちにとっては、闘いにおける「状況開始」の合図になっていた。第1と第2やぐらには既に「作業船」や「監視船」という文字の入った表記板を掲げた漁船が取り囲んでいる。これら漁船は施設局に高額でチャーターされた、辺野古の漁師たちの船である。地元の反対派の人が言う。
 「いくら金のためとは言っても、自分たちの漁場をつぶす基地建設に味方する推進派の連中は情けない」と嘆く。しかし、漁民のほとんどが基地に土地を貸したり、施設で働いたりしながら「隷属」収入を得ている。そういう人々にとって、もはや漁業は兼業のひとつになってしまっているのだ。
 やがて、第3にも漁船が近づいてきた。「みんな、配置について!」と、やぐら責任者が指示を出す。業者の折衝も責任者が代表で受けることになっている。主には、反対協のミーティングで確認された方針で業者との対応を行うので、それぞれのやぐらの対応には大きなブレは無いが各状況によって多少の違いはある。第3は、周囲を金網で囲われボーリングのエンジンやパイプ資材などが運び込まれたままの状態になっている。もはや、これ以上の「侵攻」は許さないとの意思表示をしていた。
 このときの業者は「パシフィック」という会社で、『関係者立ち入り禁止』の看板を取り付けたいと申し入れてきた。しかし、私たちの仲間は相手からいっさいの要求もはね退け、毅然とした態度で対応すると業者も付け入る隙をくじかれたのか、あきらめてすごすごとひき帰るしかなかった。すると「作業船」と入れ替わりに、今度は施設局の下級役人を乗せた「監視船」が近づいてきて拡声器を使った警告を行なってくる。やぐらの周りを何回か周りながら、「退去勧告」の台詞をメモを見ながら棒読みで語るその様子は他人事ながらいささか滑稽である。しばらくして彼らも引き上げていった。
 午後になると、彼らはまた彼らは海上に出てきてやぐらの仲間たちに向かって看板取り付けの作業をさせるように要求するが、それに対して一切応じなかった。幾度かの言葉のやり取りはあったが、以前、業者の言葉を信じて「ちょっとした資材の点検」という理由でやぐらに登らせたことがあった。そのときは、だまし討ちのようにして他の資材搬入や金網の取り付け補強を行ってきたので、もはや彼らの言うことをそのまま信用しなくなっていたのである。
 私たちは午前中と同じようなやり取りをす
ると業者も施設局もあきらめたのか、「また、明日も来ますよー」と、捨て台詞を残して立ち去って行った。施設局の船からは相変わらず写真やビデオでやぐらの仲間たちの顔を撮影していた。私たちはもうそんなものなど相手にしなくなっていた。しかし、だいぶ以前に本土から来た警察に、基地反対闘争とは別件の容疑で逮捕されたしまった仲間もいたらしい。私たちは施設局や業者に対しては、あくまで非暴力主義で抵抗するように心がけ、相手に対して団結して立ち向かっている。
 それぞれの出自は異なっても、やぐらの上、テントの座込み闘争の中では、基地建設反対の心はひとつになって闘っている。仲間の団結こそが何者にも負けない武器になりうるのだ。


■闘いは勝利の道へ

 昨日の反対協ミーティングで話し合ったとおり、夜間の海上座込みを行わないことになった。施設局の牽制も抑えるという意味もあってだろうか、この日から「当面、夜間作業をしない」という申し合わせ信用して、朝の6時半から夕方4時半まで相手側の作業規定時間内を目処にこちらも引き上げるように転換した。5月31日時点で既に台風が接近しているとの情報が入っていたのでその対応もかねていたとも考えられる。
 私たちが漁港に引き上げてくると、陸で待っていた大城敬人名護市議が得意げに何か言いたそうにウズウズしていたので、みんな彼の周りに寄って話しを聞いた。彼は持って来たやぐらの模型の2点を示して、「これを使って市議会で単管足場がいかに危険で不安定なものか、作業に適していないかを説明してきた」と言う。さらに、「この足場に金網を張り巡らせていることが万が一にも倒壊したときも含めて人の脱出の困難さを含め危険であるから撤去が必要である旨」を述べてきたようであった。彼は、模型の他にも単管足場ジョイント部分の腐食状態を示す水中写真なども使って議会で説明したこととほぼ同じように、陸に上がったばかりの私たちにまで説明しはじめるのだった。
 「いやあ、これを作るのに弁当の割り箸を集めておいて良かった。徹夜して何とか完成させた」と言っていたが、何よりも彼が喜んでいたのはこれを使って説明した際に推進派の議員たちが「グウの音も出なかった」ことだったのだそうだ。そして、凄いことに次の朝からは施設局が金網の張られているすべての単管から「金網撤去を実施する」という行動に出たからである。施設局は、「台風による資材の被害を受ける危険性」を示唆していたが、この模型を使った説明が効いたのだろう。名護市議会でも、反基地の動きが県民世論の影響を受けると共に地元議員らの粘り強い働きかけによって「辺野古ボーリング調査」を押し返しつつあるようだ。