【先入観】

 「やっ、随分小さいな!ずんぐりしてる。」初めて渡邉修孝氏にあったときの印象だ。自衛隊経験者といえば長身でがっしりした闘士体型と私はいつの間にか決め込んでいたようだ。これは私の偏見であり、先入観なのだ。これまで会った自衛隊経験者には大柄な人も小柄な人もいたのだが。私たちはいつしか、タイプ分けして一人の人間を見ていることがあまりに多すぎないだろうか。
 介護の現場に出る前に私たちは、「年をとっても、障害を持っても、その人らしく、尊厳を持って、地域生活ができるようにすること。」という自立の原則を教えられるのだが、それこそ戦場のような介護現場に慣れてくると、何か符丁でもついているかのように、個性的な生身の人間ではなく、パターン化した部分でその人を判断してしまう誤りを起こす。そんな気持ちで、もう一度本書を読み返してみる。

【個性的ではあるが…】

 渡邉氏は美しい緑色の鉄橋が架かる渡瀬川の渓谷の街、足利市で、勉強嫌いだが、「自分に興味のあることに関しては、積極的な」少年時代を送っていた。
 松本零士氏の作品は全部見たという氏はアニメーターが将来の夢だった。個性的ではあるが、特に変わっているとは思えない。一カ所だけ気になった記述は、度重なる友人達のバイク事故について、「人間の人生なんてあっけないものだ」と感じ、「一生に一度の人生で、一瞬でもいいから何か自分が生きている実感を持ちたい」と感じていたことだ。この死についてさほど悩まず、一瞬の生の充足へと飛翔したい願望は、現れかたは様々だが、閉塞感の中で日々を生きるこんにちの10代の共通した願望ではないだろうかと私は思う。前の週に馬鹿話をして別れた相手がバイク事故で、翌週には机の上の小さな花瓶となっている。医療の発達によって看取りを経験する機会が少なくなった私たちに「死」はプロセスなく、突然の結果として現れる。
 ともあれ、渡邉氏の自衛隊生活は「みんなが団結すれば不可能なことはない!」とする自衛隊の連帯責任の原則を「みんなで協力して誤魔化せば通用するもの」と読み換えるバイト感覚で始まった。こういうドライな読み換えはむしろ現代青年らしい感覚だなと納得できる。

【見よ!落下傘空を飛ぶ!】

 一瞬のうちに一生を生きるような生の充実を望む者にとって、「自主性を削りとられ」、「自分で納得できないもの」の多い自衛隊は訓練はキツいが退屈なものだったようだ。
 しかし、人間が一番恐怖を感じる高さに設定された跳びだし塔からの初めてのパラシュート降下訓練が渡邉氏を変える。「私のなかで何かがふっ切れたような気がする。もしあのまま、飛び出すことが出来ずに訓練途中で辞めてしまっていたら、現在の私の人格はなかったであろうとさえ思うのだ。おそらくは今よりもかなり引っ込み思案になり、絶対に危ない場所には跳び出せない性格になっていたであろう。」

【戦場を望む気持ち】

 除隊後、渡邉氏は何故ビルマの戦場へ向ったのだろうか。そこのところは、正直に言って未だに理解しきれない部分である。
 取りあえず本書から私が動機に繋がると考える部分を引用してみる。
 時期は多少前後するだろうが、「自衛隊の中で身についていった「非日常」的な刺激」を更に強く求める気持ちと、「本来の目的であった海外でのボランティア活動」参加に対する意欲ということになるだろうか。破り捨てられた「退職理由」に何が書かれていたのか?その言葉によって、言い尽くせたのだろうか?「戦場を体験したい。自衛隊で受けた訓練を試してみたいという理由で」とも書かれているが、ならば無給のボランティア兵でなく、フランス外人部隊という選択肢もあったはずだが、「傭兵」でなく「義勇兵」だったのは何故か?右翼思想はどのていど、どんなふうに影響していたのか?

【戦場がもたらしたもの】

 ビルマに渡り、訓練を受けた渡邉氏は最前線に赴き、迫撃砲の弾薬手として戦闘に参加する。長くなるので引用は避けるが、渡邉氏が戦闘中に経験した心理状態は、じわりじわりとやがて来るであろう危機を待ちながら、直接人間に照準を合わせる恐怖、人を殺す恐怖と、自分が殺される恐怖、様々な後悔そういうことが脳裏に浮かんでは消える特殊な心理であったと想像できる。そして、撤退が決まった直後はまだ残って戦いたいという気持ちと助かったという気持ち、相反する気持ちが複雑に同居する状態であった。生の希求と死への誘惑との同時併存。そして結末は「間接的にであるが、私の手渡した砲弾が何十人ものビルマ兵を殺したのである。」という自己確認である。その後の記述は「いつか、カレン語辞典を作りたい」との夢を果たせず戦死した今井氏、カレン人との人間関係を大切にしていた西川孝純氏の二人の日本人義勇兵のレクイエムに当てられる。闘いながら、異民族文化を理解しようと努めた戦友である。
 渡邉氏はより直接的に、「私は、死ぬことが怖くて生き残った「義勇兵」である。」と自嘲的に自己規定して第二章を終えている。

【大罪人として生きる自覚】

 本書のプロローグに渡邉氏は、「戦争は人を殺すことであり、人を殺すことは大罪である」との内村鑑三の言葉を引用している。この言葉が、私には、大罪と引き替えに『非戦』思想を獲得した渡邉氏の覚悟のように聞こえる。第四章で述べている、外国人労働者、野宿者、獄中者への支援の記述も読みごたえがある。支援対象者への渡邉氏の眼差しは、己自身の魂を救済するかのようだ。
 言葉というのは虚しいものだ。どのように精巧に組み立てられた理論も、組み立てられた瞬間から、自己点検を怠れば他者を圧殺し、差別する武器に変わるからである。それゆえ、人間の奥に潜む己の罪性を意識する者は、語り尽きないことを語り続けるのだろう。本書を10代の少年少女に勧めたい一冊である。