私は、つい最近になって『戦場が培った非戦』という著書を社会批評社から出させてもらった。この本は、あくまで私の過去の体験談をもとに書いたものである。したがって、現在の出来事を取材・調査したものではない。それでも、あの当時から私が関わってきた体験が今日の自分の行動を形づくっていることは否定できない事実であり、自己批判してきた遍歴なのだ。
私は30代で、このような自分の「半生記」を書くことに当初、抵抗を感じざるを得なかった。己の活動歴などを人前に晒すことが「売名」に等しいと感じたからだ。しかし、イラクで拉致事件から解放された後、日本に帰ってきて私を待っていたものは、週刊誌などによる興味本位の前歴暴露とゴシップ記事であった。
このような情報によって、個人への誹謗中傷や誤った詮索などが横行するにつれて世間からは、体制の潮流と異なった活動をする自由意志を持った者たちに対する風当たりの悪さが強くなっていった。そんな世間に私は憤りを感じたからだった。
とくに、私たちの後にイラクで誘拐され、殺害された香田証生君への世間の対応には怒りを覚えた。彼が誘拐されたというニュースが伝わると、日本の世論は彼の身の上を案ずる人々を尻目に、とことん個人情報を暴露して非難の的にした。その後、人質のまま彼が殺害されると、メディアは態度を一変させて「香田君は可愛そう」となり、彼の問題を取り上げることを「死者への冒涜だ」という論調に切り替えた。さらに、「イラク武装組織は悪人、イラクは怖いところ」などのフレームアップを展開したのだ。 そして、イラクに訪れた経験のあるボランティアや反戦活動家たちに対して、「世間を騒がす迷惑者」というレッテルを固定化していった。
このような状態のなかで私は、もし自分が何らかの形でその足跡を残しておかなければ、万が一というときに個人情報を湾曲されて本当に何も残らないで終わってしまうのではないかと危惧した。また、自分のためというだけでなく、これから何かを始めようとする若い人へ資料のひとつとして記しておく必要を感じたからである。
インドネシア・アチェ州における自衛隊の活動は、本来業務の定める規定に在っては既に限界に来ている。2月21日から23日まで中止した海自の輸送任務は、防衛庁長官の「追加命令」によって実施されたものである。私たち一般市民や隊員家族に重要なことは、何も知らされないところで危険な戦闘地域での活動に踏み切ったのだ。防衛庁は、インドネシアの治安情勢を理解していないのではないかとさえ本気で思える。
防衛庁広報は、この21日の独立派武装組織「自由アチェ運動(GAM)」とインドネシア軍兵士との銃撃戦が行われた日の活動について、「自衛隊が襲撃されたわけではないので公表の必要はないと判断した」とだけ述べているに過ぎない。さらに、23日以降に活動再開した海自からは、「状況は安全」と述べるに留まった。
しかし、このような不安要素を残したままの対応は、自衛隊員たちに向かって「死傷者が出ない限り安全である」と言っているようなものである。政府は、この外国人立ち入りが禁止にまでなっている危険地域一帯での自衛隊活動をなぜ容認しているのか疑問である。危険地域における交戦の発生は、「いつ、どのような状況で」起こりえるのか、現段階では予測不可能である。防衛庁は、隊員たちの命を戦地で弄んでいるのか。
防衛庁広報の情報統制は、イラク・サマワにおいても同様のものと言える。つい最近でも、オランダ軍宿営地付近で「大きな爆発音」が聞こえたという地元住民らの証言がある。しかし、オランダ軍当局者や防衛庁広報は、「爆発があったことはない」というコメントを出している。それでも、市街地の住民が感じるほどの爆音と衝撃をオランダ軍や自衛隊の宿営地から何も情報をつかんでいないとは到底思えない。とくに、自衛隊では何らかの異変があればサマワ宿営地から防衛庁まで直接に連絡が届くはずである。広報では、治安情報に関わる不安要素を故意に隠しているのではないかとさえ思える。 このようなことでは、自衛隊が派遣される地域の情報はすべて日本政府や防衛庁に都合のよいものだけしか私たちには伝わらない。「本当は何をしているのか?」という疑念と、隠蔽を暴く好奇心がまたしても私たちのなかに沸き起こってくる。彼らは、私たち大衆運動のなかから反戦・非戦を求める声が高まってくることを自ら招いているとしか言えないのである。
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