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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

太田昌国の、ふたたび夢は夜ひらく[66]国連で対照的な演説を行なったふたりの「日本人」


『反天皇制運動カーニバル』第31号(通巻374号、2015年10月6日発行)掲載

戦争法案の参議院「可決」が異常な形で演出されて間もない九月下旬、1週間ほどの間隔をおいて、ふたりの「日本人」が国連演説を行なった。21日に国連人権理事会(ジュネーブ)で演説したのは、戦争法案成立の脅威をどこよりもひしひしと感じざるを得ない沖縄県の、翁長知事である。与えられた時間はわずか2分間だった。知事は、軍事基地問題をめぐって日米両国政府から自己決定権と人権を蔑ろにされている沖縄の人びとの現状に的を絞って訴えた。短い発言とはいえ、大いなる関心を世界的に掻き立てたかに見える。

その論点は、同じ日にジュネーブで行なわれた国際シンポジウムおよび翌日の記者会見、さらには帰国した24日に日本外国特派員協会(東京)での会見における発言によって、ヨリ詳しく展開された。それらを総合すると、知事が依拠した主要な論点が見えてくる。私は特に、知事が「沖縄は136年前までは、人口数十万人の小さな独立国だった」と語った後、併合・戦争・占領・返還の歴史に簡潔に触れてから「私たちは琉球王国のように、アジアの懸け橋になりたいと望んでいる」と述べた箇所に注目した。1879年の「琉球処分」時までは沖縄が独立国であったことを主張することは、歴代日本政府の主張と真っ向から対立する。沖縄も他県と同じ日本民族に属するとするのが、政府の変わることのない考え方だからだ。独立国が他国に支配されることはすなわち植民地化であり、そこへ植民者(コロン)が入り込むことによって「先住民」が生み出されるのは、世界各地に共通に見られることだ。自民党沖縄県連は、出発前の知事に対して「先住民の権利として辺野古基地反対を言うな」と釘を刺した。近代化の「影」の存在であることを強いられてきた先住民族の権利を回復する動きが、国連に象徴される国際社会の水準では具体化しており、それが「日本国家の統合性」を危機に曝すことに彼らは気づいているのであろう。

1980年代、沖縄も重要な拠点として『分権独立運動情報』という思想・運動誌が刊行されていた。近代国民国家の脆さを見抜いた、早すぎたのかもしれないその問題意識は、いま、スコットランドやカタルーニャなどにおける自立へ向けた胎動および沖縄の現在の中でこそ生きていると思える。同時に、9月末には、地主が米軍への貸与を拒否した軍用地の強制収容手続きをめぐり、沖縄県知事(大田昌秀)が国に求められた代理署名を拒否してから20年目を迎えたという報道に接すると、あのとき県を訴えて裁判にした国側を代表する首相は社会党の村山富市であったことを思い出す。そこからは、ヤマトにあって沖縄差別を実践している主体を「保守・革新」で明確に分けることはできず、「革新」派も含めた「ヌエ」的な実態であることをあらためて確認しなければならない、とも思う。

国連の場に登場したもうひとりは、29日の国連総会(ニューヨーク)で一般討論演説を行なった首相である。戦争法案をめぐる国会質疑で幾たびも答弁不能の醜態を曝しながら恬として恥じないという「特技」をもつこの男は、その演説で、どこからも要請されていない日本の「常任理事国入り」を力説したと知って、私は世界に向かって恥じた。シリアからの難民の一女性がわずかに手にしていた物の中に、日本政府がアラブ地域の女性たちに配布してきた「母子手帳」があったようだが、そのことを「わが援助の成果」として誇らしげ気に語るその姿に、〈殺意〉をすら感じた。首相の無恥な言動は、日本国に何らの責任も待たない私をすら恥じ入る気持ちにさせてしまう。加えて、記者会見で難民を受け入れるかどうかをロイター記者から問われた首相は、「人口問題で申し上げれば、移民を受け入れるよりも前にやるべきことがある。女性、高齢者の活躍だ」と答えたという。この呆れ果てた問答を、つまらぬ内閣改造のことは大々的に扱ったメディアがほとんど報道しないとは、はて面妖な、と私は思う。私が使う辞書にはない「国辱的」とか「売国奴」という表現は、首相のこの言動に対してなら使えるか、とすら思えてくる。

私が言いたいことは、こうである――2015年9月下旬、日本社会で進行する諸情勢を正確に反映した、このふたりの「日本人」国連発言に注目している外部世界の人が、もしいたならば、メトロポリス(東京)ではなくローカル(沖縄)にこそ、論理と倫理と歴史意識の担い手が実在していると考えるだろう。それも知らぬ気に生きているのは、「内国」に住む私たちだけなのだ。(10月2日記)

この3冊 太田昌国・選 「テロ」


「毎日新聞」2015年9月13日読書欄掲載

(1)テロリズムと戦争(ハワード・ジン著/大月書店/1944円)

(2)テロルと映画(四方田犬彦著/中公新書/820円)

(3)新潮世界文学49 『カミュⅡ』(アルベール・カミュ著、渡辺守章ら訳/新潮社/品切れ)

14年前の「9・11」に遭遇して、米国は世界にまたとない悲劇の主人公のようにふるまった。確かに悲劇ではあった。同時に、私は世界の近現代史を思い、米国の理不尽な軍事・政治・経済的な介入が世界各地で多くの犠牲者を生み出してきた史実に目を瞑るわけにもいかなかった。それを省みず、テロに戦争で報いる「反テロ戦争」なるものは必ず失敗する、かえって世界を混乱の極地に陥れるに違いない、と確信した。

(1)の著者は、第二次大戦時には米軍の優秀な爆撃手だった。のちに歴史家となり60年代ベトナム反戦運動の強力な推進者だった。9・11以後の米国で、彼は考える。テロと戦争の因果関係を。口を極めてテロを非難する国家指導者が、それに対抗して発動する戦争とは何か。戦争とは最悪の「国家テロ」ではないのか。戦争をテロから切り離し国家の崇高な行為だと見せかけるのは、詐術である。テロに対抗する戦争を肯定するのではなく、テロと戦争の双方を廃絶する道はどこにあるのか。いつ/どこにあっても、ためらうことなく軍事力を行使する米国に果てしなく追従する政権下にある私たちが手離したくはない視点である。テロが起こりやすいのは、すぐに戦争を仕掛ける国が強い影響力を及ぼしている地域なのだ。

9・11事件は、大都会の通勤時間帯に起き、すぐテレビ中継されたことで、劇的に効果を増した。テロとは、すぐれて映像的な行為である。現場で多くの人に目撃され、映像で世界じゅうの人びとが見ることで、行為は完結する。いわば見世物である。世界の映画に通じた(2)の著者は、「スペクタクルとしての暴力」であるテロの本質に着眼して、本書を著した。ブニュエル、若松孝二、スピルバーグらの作品を通して、テロの問題が内包する、意外なまでの現代的な広がりと切実性が浮かび上がる。

啄木が「われは知る、テロリストのかなしき心を!」と謳いえた昔はよかったのだろうか? 啄木が書物で知った帝政ロシア下のナロードニキ(人民主義者)は、皇帝によって奪われた言葉の代わりにわが身や爆弾を投げつけた。それは後年、(3)の中の戯曲「正義の人びと」を著したカミュの心をも捉えた。無差別攻撃ではなかったテロの初源的なあり方は何を物語るのか。それが、どこで、どう間違えると、ドストエフスキーが『悪霊』(光文社古典新訳文庫など)で描いた隘路に至るのか。

テロが投げかける問題は、かくも深く、広い。

太田昌国の、ふたたび夢は夜ひらく[65]内向きに「壊れゆく」社会と難民問題


『反天皇制運動カーニバル』第30号(通巻373号、2015年9月8日刊)掲載

一年でこの時期だけ国を挙げて戦争時代を回顧する「八月のナショナリズム」の日々――私なりに、さまざまな思いをもって過ごした。「8・15」の前日には、近くを通りかかったので靖国神社へ入った。急に、その前日の雰囲気を感じ取っておきたくなった。鳥居前の歩道に、「中国人、朝鮮人、反日主義者による敵情査察お断り」の旗を掲げる人物が立っていた。境内は、翌日の全国戦没者追悼式に参加するのであろう、各県の遺族会員が50人や70人の塊りをなしていて、いっぱいだった。高齢者からその孫の世代まで、一家を挙げての参加者の姿が目立った。これを大切な「年中行事」のひとつとしている家族が多いのだろう。翌朝の新聞には、厚生労働省が、戦没者遺族に対する「特別弔慰金」を支給するとの広告を載せていたが、軍人とその遺族(優先順位高位の人が亡くなっている場合には、孫・姪・甥までが支給対象となるのは、従来通りである)を経済的に手厚く遇する措置は、しかるべき効果を生み出している事実を、目の当りにする思いだった。

悔しいが800円を支払って「遊就館」にも入った。持ち時間も少なかったが、家族連れで混み合っていて、じっくりと見ることはできなかった。それでも、知る人ぞ知る靖国神社的な戦争観のエッセンスは掴み取った。この社会の中にあって、それはけっして「浮いている」史観ではない、だからこそ問題なのだ、と思った。

八月の別な日々には、70年前までのこの社会の姿を何度も思い起していた。校舎の壁に貼られている「鬼畜米英」と書かれた紙、本土決戦に備えて竹やり訓練に励む〈銃後の〉女性たち、バケツリレーで消火のための水を運ぶ防空演習――私はそれに参加したり、見たりしたことのない世代ではあるが、「戦前」といえば、書物や映画で見知っている、この滑稽で、異常な光景を思い起こす。戦後の仕事を読み、見聞きしてこころを寄せる多くの作家や詩人、評論家、画家たちが、戦前のこの社会的な雰囲気の中にあって異端児ではなかったこと、与えられた役割をしっかりと果たしていたことを知ったときの驚きも、いまなお鮮明な記憶だ。

あんな時代が繰り返されるはずがない――わけもなく、そう思い込んでいたのは、あの時代の〈異常性〉があまりに際立っていて、人間の理性はそれを反復するほど愚かではないだろうという〈期待〉か〈希望〉があったからだ。だが、この社会の現状を見て少なからぬ人びとが思い始めているように思える――「社会はここまで壊れたのか」と。

このかん「政治の言葉」、正確には「政治家の語る言葉」が壊れていることは、何度も触れてきた。短期的に言えば、小泉純一郎が首相になった時期から、それは始まった。日々のニュース報道の中でもっとも露出する度合いが高い首相の言葉がどれほどまでに壊れていようとも、それでいて、彼は大衆的な「人気」を誇る人物でもあった。「壊れていること」がマイナス価値ではなく、ごく「ふつう」のこととして社会に浸透した。

いったん壊れ始めると、容易には止まらない。それがまるで「運命のように」人びとを、社会を縛る。戦争法案をめぐる国会質疑、原発再稼働、辺野古・高江問題への政府の態度、オリンピックをめぐる大混乱――「壊れていること」が「ふつう」のこととなって、社会に浸透してしまったという実感を拭い去ることはできない。遊就館に掲示されている史観と心を一つにする人物が与党総裁となり、首相となる時代には、その史観もごく「ふつう」のものとなって、それを極限的に表現する在特会的な存在までもが現れる。当たり前の因果関係だ。

この国内情勢との関連で、私がいまもっとも注視しているのは、前々回も触れたヨーロッパ圏に向けて難民が押し寄せている問題だ。欧州圏の草の根では排外主義的な動きもあるが、政府レベルの態度は、いまのところ人道主義に根差して冷静である。他人事ではない。近隣アジア圏にひとたび社会的混乱か動乱が発生した時には、日本は現在の欧州圏の立場におかれよう。政府と大衆のレベルで排外主義が「ふつう」のこととなった社会が、その試練によい形で堪え得るとは思えない。内向きにだけ「壊れて」いくとすれば、それは私たちの自業自得だが、そう言って済ますことのできない近未来が、そこに、ある。(9月5日記)

『絶歌』を読んで


『出版ニュース』2015年8月下旬号掲載

死刑囚がなす文章と絵画による「表現」を読み、観て、評価も行なうという作業をこの10年間続けてきた。「死刑廃止のための死刑囚表現展」という試みに関わっているからである。冤罪のひとの場合には、もちろん、いま強いられている無念を晴らすために、自分が嵌められた事件について「表現」する強烈な動機がある。実際にひとを殺める行為をしてしまった人の場合には、「表現」は多様化する。子ども時代に実現できなかった夢を追い求めるような作品、獄中での日々を描く作品、いまや手の届かぬものとなった自然や事物に関わる作品など、少なくとも表面的には自分の犯罪とは無関係な主題を扱う表現もある。そして自らが手を染めた犯罪に関わる表現。この場合が、客観的に見ても、もっとも難しい表現の領域だ。率直、悔悟、懺悔、怯懦、逃げ、見栄、ごまかし、嘘、自尊心――およそ、人間がもつあらゆる心の動きが如実にあらわれてしまう。その一つひとつを、読むものは否応なく感受する。己の無様な姿をさらけ出してでもその壁に立ち向かう死刑囚の表現は、読む者の心を打つ。

だが、犯行の様態をつぶさに記した箇所を読みとおすことは辛い。むごい記述が多い。

理不尽な運命に見舞われた被害者のことも思う。だが、ひとを殺めた人間が再生するためには、自らがなした行為を正確にふりかえるこの作業が必要だったのだろうと考え、つらくとも読みとおす。

遅ればせながら、「元少年A」が著した『絶歌 神戸連続児童殺傷事件』を読んだ。刊行されたこと自体がメディア上でさまざまな観点から取り上げられてから、すでに数ヵ月経っていた。実に興味深い内容で、読むに値する本だと思う。彼は本書の冒頭において、中学時代の自分を「教室の片隅」にいる「勉強も、運動もできない」「スクールカーストの最下層に属する”カオナシ”のひとりだった」と表現している。本人によるその自己批評を信じるとして、しかし、その後展開する物語を読めば、幼い時代を回想するときの克明な記憶力、とりわけ映像的な喚起力には並々ならぬ力を感じる。精神病理学上の症例を参照するまでもなく、誰もが小中学校のクラスには、一般的な意味ではいわゆる「優秀な」子ではないが、きわめて狭く何事かに集中し、それに向かって一途に突き進んでゆく子がひとりくらいはいたことを思い出すのではないか。彼の場合、小学五年の時に経験した、敬愛した祖母の死によって受ける衝撃から、その〈偏り〉が速度を急速に上げてゆく。

それは、二つの方向へと向かった。一つには、祖母が愛用していた電気按摩器を祖母恋しさのあまり動かしていたところ、それが偶然ペニスに当たり、やがて勃起と射精に至ったことから始まった性的嗜好・性衝動の問題である。二つ目は、性衝動の問題とも絡むが、祖母の〈死〉の不可解性から生まれた下意識が小動物=猫の虐殺という形で、〈暴力〉へと向かった問題である。しかもそれ以前には、「不完全で、貧弱で、醜悪で、万人から忌み嫌われる」という意味で自分に模し、愛玩さえしていたナメクジを、もっと精密に見て知りたいと思ってかまぼこ板の手術台に乗せた挙句に、解剖してしまうという「事件」を起こしている。思春期にあっては(私に経験に照らしても)、性衝動と小動物虐待は、誰にでも起こるありふれたことがらである。それが、元少年Aの場合には、なぜあれほどまでの〈偏り〉へ至ったのか。それは、残念ながら本書ではまったく触れられていない、医療少年院での「治療」過程・方法が明らかになることによって、わかるのかもしれない。今後のためには必要な情報開示だと思う。

後半は、社会復帰後の人生遍歴をかたっている。「素性」は明かされていなくても、罪を犯した青年を待ち受ける住まいや仕事上の困難な問題が、想定できる範囲で書かれている。驚くのは、社会復帰した青年をそっと見守るチーム(監察官と呼ばれている)や身元引受人となる民間の篤志家夫婦の存在だ。「更生」や福祉に関わるこの社会の制度的な貧弱さを知る者の心をも打つエピソードだ。

元少年が起こした事件の犠牲者遺族から、この本の出版それ自体に対して厳しい批判が出ていることは知っている。それを否定できる場所に、私はいない。そのことを自覚したうえで言うなら、生来の悪者などではなく、衝動の制御が利かないほどに〈偏った〉人間と社会全体がどう向き合っていくかを考えるヒントが、本書にはいっぱい詰まっている。そのような本書の本質を見ずに、犠牲者遺族の言い分を不可侵の聖域において、出版それ自体を論難した一部メディア・書店・図書館・読者の反応ぶりに、大きな違和感を覚える。

(2015年8月10日記)

太田昌国のふたたび夢は夜ひらく[64]国際的な認知を得ている、沖縄の自己決定権の論理


『反天皇制運動カーニバル』第29号(通巻372号、2015年8月4日発行)掲載

7月21日付け『沖縄タイムス』の「戦後70年」特集の中には、共同通信の配信ではあるが、「米軍、異例の長期駐留」と題する大型記事がある。米国国防省のデータを基に、15年3月31日現在「各地に駐留・展開する米軍の兵力数」と題された地図を参照すると、以下の数字が浮かび上がる。日本(4万9千人)ドイツ(3万8千人)韓国(2万9千人)英国(9千人)イタリア(1万1千人)米領グアム(5千人)ハワイ(5万1千人)イラク(3千人)アフガニスタン(1万人)――詳しく挙げると、米軍駐留世界地図はいっそう複雑化しようが、これだけ見ても、アジア・太平洋戦争の終結→占領統治→東西冷戦→冷戦終結後の「反テロ」戦争と続く現代史70年を貫く、〈世界を俯瞰した〉米国の軍事支配戦略の意図が顕わになる。

記事は、沖縄米軍は「世界の歴史でも異例の外国への長期駐留」となっているという米国国務省当局者の発言を記しているが、同時に、1972年に実現した沖縄返還交渉に米側から参加した国務省スタッフから次の言質も取っている。「日本政府が返還後に沖縄の基地を戦争で使用することは一切認めないと言い出さないか、米軍内の懸念が強かった。米軍が可能な限り沖縄の基地の自由使用を続けられるようにすることが目標の一つだった」。加えて、こうも言う。「(1972年当時は)10年以内に撤退すると思っていた」。

従来から明らかになっていたことで再確認の意味でしかないが、ここから二つの問題を取り出すことができる。一つには、駐留米軍世界分布図は、米国が最強の軍事力を誇示して世界を制覇しているかに見えるが、それは同時に、そのために米国が〈切れ目のない〉戦争の時代を生き続けていること、すなわち〈戦後〉なき歴史を刻み続けているという事実である。第二次世界大戦終了後70年目の今日もなお(!)。こんな国が行なっている戦争に〈積極的に〉馳せ参じて集団的自衛権なるものを発動しようとする国の未来図もまた、見え易い。二つ目には、日本の歴代政権も外務・防衛官僚も、軍事基地の負担に喘ぐ地域住民の現実と意思を全面的に無視した地点で、米国の世界戦略に従属してきただけだという現実である。もちろん、その背後には、「日米安保と憲法9条」が一体化してこそ維持されてきたヤマト的秩序に安住してきている「民意」が存在していることを見抜かなければならない。

日米両政府と日本の「民意」の、このような不当な態度に我慢がならず、「国家」と「国民」の制約を超えた地点で問題提起しているのが、国際人権法と国際立憲主義に基づいて沖縄の自己決定権を主張する論理である。政治学専攻の島袋純は「自己決定権とはどういう権利か」(沖縄タイムス7月20日~22日、全3回)において、その論点を整理している。思い返せば、1986年、当時の首相・中曽根の「日本=単一民族国家」発言がなされて以降、アイヌ民族は国内的にはこれを徹底的に批判しつつも、同時に、国連の人権理事会などの国際的な場において、日本社会の人権状況を広く訴える活動を展開してきた。国連の組織編成のあり方や、そこで採用される随時の決議や方針に、いかなる問題が孕まれていようとも、こと少数者の権利を確立し擁護する点において、国連が一定の肯定的な役割を果してきていることに疑いはない。国連や国際法の概念でいう「先住民族」論に依拠して自己決定権を主張するのである。数年前からだったか、ここへ沖縄の人びとも参加して、琉球地域の先住民族としての権利が、日米両政府の軍事政策によって侵害されている実情を訴える姿に私は注目してきた。その努力は実を結び、沖縄の人びとは、先住民族の権利に関わる国連宣言(2007年総会決議)やILO169号条約に基づくなら、主権国家建設の際に住民の意思に背き強制的に併合された集団であることが、国連および国際社会においてはすでに確認されている。国連人権(自由権規約)委員会は2008年に、先住民族である以上「琉球・沖縄の人びとは特別な権利や保護を受ける資格」を持ち、「彼らの土地についての権利を認めるべきである」ことを日本政府に勧告している。2010年には人種差別撤廃委員会が、「不均衡な軍事基地の集中が(沖縄の)住民の経済的、社会的、文化的権利の享受を妨げている」事実を指摘している。

現政権による異常なまでの「法」の破壊状況を目撃しつつあるいま、国際社会においては、理に叶った「法の支配」が進んでいる側面もあることを確認できることは、ひとつの救いである。(8月1日記)

太田昌国のふたたび夢は夜ひらく [63]「グローバリゼーション」と「反テロ戦争」がもたらした一つの現実


『反天皇制運動カーニバル』第28号(通巻371号、201577日発行)掲載

最近のテレビ・ニュース番組は、報道すべきニュースの選択でもその内容でも、あまりにひどいので久しく見ていないというと、共感する人が多い。BSの「ワールド・ニュース」を見ているほうがよほど世界のことがわかる、という人もいる。私も、時間の許す限り、このニュース番組は見ている。6月中旬のある日、「フランス・ドゥ」が伝えたニュースには、不意を突かれる思いがした。

ハンガリーがセルビアからの難民・移民の流入を防ぐために、全長175キロに及ぶ対セルビア国境に、高さ4メートルの鉄条網を「壁」として建設するというニュースである。ハンガリーに入国した難民・移民は、2012年には2000人だったが、2015年は前半期だけで5万4000人に達しており、この数字は人口比で見ると、欧州ではスウェーデンに次ぐ難民受け入れ国になっているようだ。シリア、イラク、アフガニスタンから戦禍を逃れた人びとが多い、という。ハンガリー政府の言い分によれば、財政的な負担に堪えられない以上やむを得ぬ対処方法であり、この緊急措置はいかなる国際条約にも抵触するものではなく、時間は切迫しており、早く建設しなければならない、という。

このニュースからは、ふたつの問題を引き出すことができる。1989年、ハンガリーこそは東欧民主化革命の先駆けであった。諸改革を進めていた当時の政権は、同年5月、オーストリアとの国境線に敷かれていた鉄条網の撤去に着手した。6月には複数政党制による自由選挙が行われた。東ドイツ市民は、夏を迎えて、ハンガリー、オーストリア経由で西ドイツへの脱出が可能だと考え、ハンガリーに出国し、それがあの国境を越えて流れ出る人の波となったのである。それからわずか5ヵ月後には「ベルリンの壁」倒壊にまで至った東欧激動の同時代史を、私たちはまざまざと思いだすことができる。そんな歴史的な役割を果たし得たハンガリーが、4半世紀後のいまは、世界情勢の激変に翻弄され、改めて国境の「壁」の建設に着手している。

マグレブ地域から地中海を超えてスペイン、フランス、イタリアなどに殺到するアフリカ難民については、難民船が定員をはるかに超える人びとを乗せていて起こる悲劇も含めていくつもの報道に接してきたが、今回のハンガリーに関する報道を見て、欧州が(旧東ヨーロッパ圏も含めて)総体として直面している難民問題の重層性が見えてきたという意味で、「不意を突かれた」というのである。「歴史は繰り返す」とか「あのハンガリーが、逆説的にはいま……」とかの、手垢にまみれた言い方ではない言葉で〈現在〉を表現したいとは思うが、適切な言葉が、今の私からは出てこない。もちろん、難民・移民とは、新自由主義的原理に基づいて世界の再編成を行なっている「グローバリゼーション」(=現代資本主義)の趨勢が、〈労働力移動〉という形で必然的に生み出したものであると捉えることは前提ではあるが。

ふたつ目の問題は、ハンガリーに殺到している難民の出身国から導かれる。アフガニスタン、イラク、シリア……と聞けば、(シリアには異なる要素もあるが)そこはいずれも、21世紀初頭以降、外部世界から発動された「反テロ戦争」の戦場そのものであり、無人機を含めた爆撃機からの空爆に怯える人びとが、大量に脱出を図っている国々である。「因果」の関係ははっきりしている。「反テロ戦争」こそが、アフガニスタン、イラク、シリアの人びとはもとより、その「余波」を受けているハンガリーなどの諸国の「苦悶」を生み出しているのである。

この日の「フランス・ドゥ」にしても、前者の問題には触れる。グローバリゼーションの波及力には言及せずして、「25年前には東欧共産圏にあって率先して鉄条網を撤去したハンガリーが、皮肉にも今度は……」風なもの言いで。だが、後者の問題にはまったく触れない。「因果の関係」については、結局、メディア報道の読者であり視聴者である私たちが「自発的受動者」たる位置を離れて、自力で極めていくほかはない。その点は、ギリシャ情勢についても、戦争法案をめぐる攻防についても、辺野古に象徴される沖縄の状況に関しても、同じことだ。(7月4日記)

太田昌国の、再び夢は夜ひらく[62]相手の腐蝕はわが魂に及び……とならぬために


残す任期が少なくなってきた米国大統領オバマについては、歴史に名を残す「レガシー(遺産)づくり」のニュースが絶えることはない。革命直後からの半世紀以上にわたって敵視してきたキューバとの国交正常化は具体化の途上にある。他方、オバマの任期中に、黒人奴隷の末裔たちに賠償金が支払われるのではないかという「噂」も根強い。奴隷労働「最盛期」にその労働に従事させられていた人の数、1日の労働時間、現在の最低時給額、結局は支払われなかった賃金の、100年以上に及ぶ未払い期間の金利を複利計算して、それらを総合し、奴隷の子孫が請求できる対価を59兆2千億ドル(約7100兆円)とする計算もある。現在4千万人である黒人でこれを分配すると、1人当たり148万ドル(約1億7760万円)になる。米国の2015年度歳出額が3兆9千億ドル(約468兆円)であることを見ても、実現不可能な数字であることは明白だ(4月26日付け東京新聞)。賠償が実現するか否かはいまだ不明だが、第2次大戦中に強制収容した日系人に対する賠償金の支払いが実施された例もあり、突飛なことではない。ともかく、歴史的過去をめぐるふりかえりが、このような水準でも行なわれている米国の社会状況の一端は見えてくる。

フランス大統領オランドは、去る5月のキューバ訪問の際に、その隣国で、旧植民地であるハイチも訪れた。遥か昔の1804年、世界初の黒人共和国としてハイチが独立したとき、フランスは「独立承認の条件」(!)として多額の賠償金をハイチに支払わせた。今回、オランドはその事実を十分に意識しながら、「過去は変えられないが、未来は変えられる」と演説し、5年間で1億3千万ユーロ(約175億円)の援助表明も行なった(5月13日付けサンパウロ=時事)。

対外政策だけを見てみても、オバマは無人機爆撃も活用しながら世界各地で侵略的な軍事路線を遂行しており、オランドもまたアフリカやアラブ地域に対する戦争政策を憚ることなく展開している。私から見て、決して信頼しうる政治家ではない。それでいてなお、右の2つのエピソードから私は微かなりとも「歴史の鼓動」を聞き取っているのだが、それはとりもなおさず、自分が住まう社会=日本の政治からは、それが決して響いてこない種類のものだからである。

5月27日と28日の両日、衆議院安保法制特別員会において共産党の志位委員長が行なった質問と首相らの答弁の全容を、新聞の6面全体を割いて詳報する「しんぶん赤旗」の同月30~31日号で読んだ。国会中継は見る時間がない。仄聞だが、首相らが窮地に立つ場面はカットされる、最近とみに恣意的な編集が目立つというニュース番組は、隔靴掻痒であるうえ、「(下劣な政治家は)顔も見たくない」というのが本音だから、ほぼ見ない。一般紙が報じる質疑内容は、あまりに簡略化されていて、よくわからない。たまに、こうして、質疑応答の全容を伝える記事を読むと、現在の国会論議の水準がよくわかる。水準はわかるが、首相らの答弁の意味はほとんど理解不能だ。志位は苛立ち、質問にだけ答えよ、と繰り返すが、首相らは聞く耳を持たぬ。質問にはまともに答えないままに、長々と持論を展開する……。とりわけ、日本政府がいう「後方支援」なるものは、国際的には「兵站」といい、「兵站こそ武力行使と一体不可分であり、戦争行為の不可欠の一部だ」と追及されても、「兵站は安全が確保されている場所で行なう」としか答弁しないのだから、討論そのものが成立しないのである。

美術に通じている友人が、言ったことがある――2流、3流の絵画ばかりを見ていると、目が腐ります。

私の考えでは、B級映画にもB級グルメにも得難いものはあるが、美術の世界は違うかもしれぬ。素人なりに納得する意見である。

日本の政治状況を眺めながら、友人の言葉をよく思い出す。論争する相手がその人なりの論理をきちんともち、あっぱれな倫理性の持ち主でもあり、賛同はできぬまでも、持てる政治哲学や歴史認識の方法にも一家言ある人ならば、それに対峙する私たちも切磋琢磨しなければならず、自分なりの高みを目指しての努力を続けることはできる。そうではない人間たちを相手にしなければならないとすれば……? こんなのを相手にしていると、自分自身が腐蝕していくような気がする。相手の腐敗・腐蝕はわが魂に及び、とでもいうか。とめどなく奈落の底にでも落ちていくような。心底、疲れる。この無論理と非倫理をもって、あいつらは私たちを疲れさせようとしているのだろうか? それが、あいつらの狙い目なのだろうか? (6月5日記)

戦争の準備が「平和支援」? 壊れゆく言葉


『反天皇制運動カーニバル』第26号(通巻369号、2015年5月12日発行)掲載

「言葉が壊れ始めたな」と思ったのは、小泉政権の時代だった。大衆煽動の術だけは心得たこの男は、それまでの保守党政治家にはなかった歯切れの良さで、しかも断定的に言葉を発して、「斬新さ」を演出した。彼が吐く言葉は実態を伴わず空虚そのものだったし、質疑応答の時には、相手をはぐらかす言葉しか使わなかった。したがって、論戦・論争は成立しようもなかった。それでも、演出の功か、大衆的な「人気」は高く、メディア上での小泉批判は弱かった。批判すると、抗議の電話やファクスが殺到し、減紙や視聴率の低下に直結するからであった。「敵ながらあっぱれ」とまでは口が裂けても言えないが、なにかしらの「才」はあることを感じさせた。

小泉が後継指名したのは、「拉致」問題に熱心に取り組んできたというふれこみの安倍晋三だった。時はすでに、政治家が近隣地域に対して強硬かつ敵対的な言動に出ればそのぶん排外主義的なナショナリズムが増幅される状況下にあった。この社会的な雰囲気を背景に、第一次政権が惨めに挫折したにも拘わらず彼は復活を遂げ、現在の「安定した」政権基盤を保持している。すでに2年半有余が経過した第二次以降の安倍政権下で「言葉はますます壊れ」つつある。

アジア・アフリカ会議(バンドン会議)60周年首脳会議における安倍演説は、その典型をなした。彼は日ごろから「私は(日本がアジア諸国を)侵略(したこと)を否定したことは一度もない」と答弁する。「否定した」ことはないかもしれないが、「侵略した」事実を自ら発語することは、一貫して、ない。「侵略の定義は定まっていない」というのが彼の本音だから、自らを主語に置いた明快な表現を極力避けるのだ。ジャカルタ演説においても、60年前に採択されたバンドン10原則でいう「侵略または侵略の脅威、武力行使によって、他国の領土保全や政治的独立を侵さない」を引用して、「この原則を、日本は、先の大戦の深い反省と共に、いかなる時でも守り抜く国であろうと誓った」と述べたのみである。ここでも、自分の言葉で語ろうとはしなかった。

1955年バンドン会議は、自らを植民地支配から解放し、侵略戦争に打ち勝ったアジア・アフリカ諸国が主導的に開催した。敗戦から10年しか経っておらず、「国際社会への復帰」も果たしていなかった日本からは、経済審議庁長官であった高碕達之助が出席した。高碕個人はいくらかなりとも「ハト派」とはいえ、再軍備などの「逆コース」を推進する日本政府代表が、革命や民族解放運動の指導者たちと同席していることへの不信感を、幼かった私は抱いた。この遠い記憶に基づけば、右に触れた安倍演説は、「主体なき我田引水」とでも言うべきもので、歴史を知る者/恥を知る者には、とうてい口にできる文言ではない。主語を立てたくないから引用にすがるのは、安倍の変わることなき詐術である。

現政権が自衛隊海外派遣恒久法を検討し始めたのは昨年7月だったが、去る4月、茶番としか言いようのない与党協議の場で「国際平和支援法」なる法案名が提示された。米軍が行なっている戦争を支援するために、いつでも、地球上のどこにでも自衛隊を派兵したり他国軍への給油や輸送を可能にしたりするというこの法案の本質は「戦争の遂行」を可能にすることに他ならないが、それを「平和支援」と呼ぶのである。この法案の立案者は、ジョージ・オーウェルの『1984年』の良き読者なのだろう。架空の国=オセアニア国の住人を精神的に支配した3原理――「戦争は平和なり、自由は屈従なり、無知は力なり」――を、心底信じることのできる影武者がいたのだろう。ここまで愚弄されて、真の「言葉」は、ウォッ―!という怒りの叫びをあげたくなるのではないかという思いすらが去来する。

一議員はいみじくも、関連法案を総称して「戦争法案」と名づけたが、このとき見せた政府・与党の反応を思えば、「戦争は平和なり」というスローガンによっては、いまは「屈従している、無知な」大衆を騙し続けることができなくなる日の到来を怖れているのだろう。逆に言えば、彼らは、これまでのメディア対策と世論操作が首尾よくいっていることに一定の自信を持っていることを意味しよう。

問題は、安倍など一握りの愚かな政治家たちの在り方にのみ帰せられるものではない。敗戦直後、昭和天皇の戦争責任が連合国側に免罪されたことをもって、戦争を支えた誰もが免罪されたと思い込んだ歴史を繰り返さないために、この現状をもたらしたのは、現政権・与党の路線に、消極的ではあっても一定の支持を与えてきた「民意」なるものであることを確認せずしては、何事も始まらないのだ。(5月7日記)

太田昌国の、ふたたび夢は夜ひらく[60]「地下鉄サリン事件から 20年」報道で語られないこと


『反天皇制運動カーニバル』第25号(通巻368号、2015年4月7日発行)掲載

「オウム、大ばか、死刑」――これは、20年前の地下鉄サリン事件に遭遇して、今もサリンの後遺症に苦しむ51歳の女性の言葉だ。いったんは心肺停止状態に陥ったが、蘇生措置で命は取り留めた。だが8年半ものあいだ入退院を繰り返し、自宅療養中の今も片言しか話せず、体には麻痺が残り寝たきりの生活を強いられている。辛うじて発語できる「口癖の」言葉がこれだという(4月2日付け「東京新聞」)。死刑制度の廃止を願う私は、末尾の「死刑」という言葉にはびくっとするが、かの女の止むにやまれぬ心の叫びとして受け止めなければならぬ。

去る3月20日は、事件から20年めであり、同時に、関連して起訴されたオウム真理教(以下、オウムと略記)元信者の公判が開かれている日々とも重なったために、例年より多くの回顧報道がなされたように思える。回顧報道において重要なことは、過去に起こった事件そのものと、その後ろに広がる背景とを、出来る限り正確に把握して行なうことである。仮にこの事件が起きたと同じ年に生まれた人の場合、同時代的には事件の記憶を持たないのだから、まるで真っ白な心で20年後の事件報道に接することになる。その人からすれば、今回の主流の報道からは、地下鉄サリン事件を引き起こすまでに「暴走した狂信的宗教集団=オウム」というイメージしか残らないだろう。

だが、地下鉄サリン事件は防ぐことができた、さらには松本サリン事件も防ぎ得たという仮定が、もし成り立つとすれば? そのとき追及の矛先は、何がそれを妨げたのか、という問いへと向かわなければならぬ。この問題について私は何度か書いてきたし、同じ考えの人も少数だがいる。改めて今回の情報洪水に抗する再確認の場としたい。まず、簡潔な関連年表を用意してみよう。

1989年11月 坂本弁護士一家(在神奈川県横浜市)「失踪」事件

1990年 2月 右事件に関わった一信者、教祖(「尊師」)との対立関係が生じ、坂本一家の遺体を埋めた場所を神奈川県警に通告

1994年 6月 松本サリン事件

1995年 1月  オウム真理教本拠地のある山梨県上一色村で、サリン成分発見報道

1995年 3月 東京地下鉄サリン事件

わずか6年間の出来事を記したに過ぎないこの小さな年表は「雄弁」である。坂本がオウムに出家した子どもを持つ親の相談に乗っていたこと、事件の現場にはオウムのバッジであるプルシャが落ちていたこと、遺体埋葬現場の密告まであったこと――すべてにオウムの影が差している。だが、神奈川県警は、坂本の金銭横領や内ゲバによる失踪情報を一部報道機関に流し、オウムに向かうべき捜査を徹底して怠った。県警が行なった共産党幹部宅盗聴事件などで坂本が属する弁護士事務所と「敵対」関係にあった警察には、そうする「理由」があったのである。事実、20年目を迎えた今回の一部報道で明かされたところによれば、警視庁捜査一課は1991年8月にオウム捜査専従班を設けたが、県警から横槍が入りわずか2ヵ月で中絶に至っている。各警察署の「管轄権限」の壁に突き当たったのである。

この一連の事態から松本サリン事件までは4年有余、地下鉄サリン事件までは5年有余の年月がある。県警がまともなオウム捜査を行なっていたならば、後者の二つの事件は防ぎ得たという結論を、ごく自然に導くことができる。人生上の迷いや苦しみの救済をオウムに求めたに過ぎない、幾人もの有為な青年たちが殺人者に化すことは避け得た。29人の死者も、冒頭で触れた女性を含めた6400人もの後遺症に苦しむ人も生まれずに済んだはずだ。したがって、神奈川県警の罪は大きい。この組織的な権力犯罪に触れることなく地下鉄サリン事件を回顧しても、事態の真相から遠ざかるほかはないのだ。

オウム教祖は「国家権力とのたたかい」を信者に高言していた。それは国家を無化する方向性においてではなく、国家が独占する暴力をオウムも手にすることで対抗できるという「幻想」に基づいていた。事件とオウムの関連性を示すたくさんの証拠があるのに、捜査の手が一向に伸びてこないことで、オウムは国家権力を甘く見て、増長した。オウムは国家の所業をなぞるかのように、銃・VXガス・サリンなどの武器を躊躇うことなく行使して殺人を犯した。「国家」の、陰惨な真似事に終わったオウムの経験は、あくまでも哀しい。国家=オウムに共通する暴力性と権力志向を見抜くためにも、事態の正確な把握が必要なのだ。(敬称略)

(4月4日記)

『越境・表現・アイデンティティ――アラブ文学との対話』(2014年10月19日、成蹊大学)における発言


以下は、2014年10月19日、東京の成蹊大学で開かれた同大アジア太平洋研究センター主催の『越境・表現・アイデンティティ――アラブ文学との対話●ラウィ・ハージ/モナ・プリンス/サミュエル・シモン氏を迎えて』において、コメンテーターを務めた私が行なった発言の大要である。

司会は、同センターの田浪亜央江さん、アラブ世界からの3人の話を享けてコメントしたのは、アラブ文学研究者の山本薫さん、作家の小野正嗣さん、それに私であった。ここに紹介できるのは、もちろん、私の発言部分のみである。

■太田:太田です。よろしくお願いします。冒頭に田浪さんが今日の集まりの由来を話されて、韓国の仁川で2010年からアジア・アフリカ・ラテンアメリカ作家会議が開かれていたということを聞いて、なつかしい思いに浸りました。実は僕は1980年頃、当時日本に日本・アジア・アメリカ作家会議というのがあってですね、それを運営している作家や評論家と知り合ったんですが、いっしょにやらないかと言われたんです。作家というのは狭義の小説家という意味ではなくて、文化活動家であったり、表現に関わっている者の総称だから太田でも大丈夫だからということで、日本・アジア・アメリカ作家会議をしばらく一緒にやりました。東京でも川崎でも国際会議を開きましたし、旧ソ連の中央アジアの民族共和国の首都のフルンゼ[現ビシュケク]とかタシュケントの国際会議にも行きました。僕が出た最後は86年、チュニジアのチュニス、PLOがベイルートを追われてチュニスに本部が置かれた頃の会議だと思います。回を重ねたこのような折りにアラブ・パレスチナの外交団とも、[マフムード・]ダルウィーシュ含めてお会いしているんですね。そんな記憶が甦ったり。そこで感じたことは後で触れます。

韓国といえば、日本での会議のときは、韓国の人では白楽晴(ペクナクチョン)などを招いたような気がするんですけれども、国際会議でお会いしたことはなくて、むしろ朝鮮民主主義人民共和国の作家代表団と会いましたね。チュニスで会ったときには世界文学のあれも読めない、これも読めない、ってタイトルをいろいろ挙げられて(笑)。僕もなんとかしてあげたいけれども、しかしなあ…、と問答に詰まったことを思い起こします。80年から86年というのは、韓国はまだ軍事政権下ですから、なかなか表現について厳しい時代であった。ただ、僕はもう当時出版に関わっていたので、僕が出す第三世界の思想・文学の本なんかは、しょっちゅう韓国に行く在日朝鮮人の文学者に渡して「創作と批評」社に届けてもらった。そうすると間もなく、『創作と批評』なり、それから『第三世界思想』という雑誌なども軍事政権下で出ていたと思いますが、そこに解放の神学についての文章が載ったりとか、アパルトヘイトについての文章が載ったりしまして。僕らが送っている本がそれなりに生かされているなあと感じて、それはそれで嬉しく思ったということがありました。

それはともかく、今日の3人の方のお話を聞いて考えたことをお話したいと思います。僕自身は約30年間、現代企画室という小さな出版社で哲学、思想、文学、芸術、さまざまな人文書の企画・編集をやってきたんですけれども、そこで思想的な基軸としてこだわってきたのは、我々が生きている日本社会にどういう問題があるかということを考えたときに、それはやはり日本民族中心主義というぬぐいがたい思想傾向だと思うんです。これは明治国家がヨーロッパを先進国のモデルとして富国強兵政策を取り始めたときに定められて、その後なかなか、敗戦後70年経とうとしているいまもぬぐいきれない、重大な一つの傾向だと思うんです。その傾向がここ数年間、極右政権の成立とともに社会全体に浸透して、とんでもない状況になっているというのは、皆さんご存知のとおりです。

このような日本民族を中心に据えてしか思想や文学のことを語り得ないこの社会の中にあって、いったいどういうふうにこれを打破していくのか。それはもちろん一つとは限らない、さまざまな方法があると思うんですが、やはりその一つの有効な方法は、他民族、異民族の歴史や文化に対するさまざまな窓口をどのように開いておくか。それが人々の心の中に、時間をかけてですが訴えかけていく、その可能性にかけるしかないだろうというふうに思ったんです。ヨーロッパであれば、ヨーロッパ中心主義に対して批判提起をしている哲学思想が軸でしょうし、あるいは、ヨーロッパを模倣して日本が近代化を遂げて、アジアで唯一の植民地帝国になったということは、いわゆる第三世界に対する偏見とか、そうしたものがこの社会の中に根付いているということになる。だから第三世界の文化、思想、文学、そうしたものに対する窓口をどの程度作ることができるのか。それが中心的な課題でした。

僕自身は、まあ今も関心が続いているんですが、わりあい集中的にラテンアメリカのことを学んできたこともあったので、出版に関わることになったときに、まずラテンアメリカの文学・思想をどのように紹介するのかということを一つの課題にしました。最初に言いましたように今の出版活動に30年くらい関わってきたと思いますが、僕らのような小さな出版社でも狭い意味でのラテンアメリカ文学はもう50冊くらい出してきたと思うんですね。文学以外も含めると100冊くらいでしょうか。まあもちろん日本には新潮社とか集英社とか岩波書店とか、僕のところとは比べものにならない大出版社がありまして、それはそれぞれラテンアメリカ文学に力を入れてきている時期がありましたが、全部合わせるとおそらく200冊とか…。あんまり並べて数えたことはありませんけれども、全部の出版社を合わせると現代文学の紹介はそれぐらい進んでいるという状況だと思うんです。

それだけ皆さんもお読みになった方も多いだろうし、今年亡くなったガルシア=マルケスを筆頭として、1920年代や30年代に生まれて、今70代になり、80代になっている現代作家たちが非常に旺盛な創造性を発揮して次から次へと問題作を発表してきた。そういうことになる。どうしてそれが可能になったのかということも少し多面的に考えなければならないんですが、今日は話の進行上、一つの理由だけに触れたいと思うんですね。それは1959年のキューバ革命の勝利ということがラテンアメリカの現代作家に与えた決定的な影響力だったと思うんです。キューバ革命はもう半世紀以上経って、50年以上の歴史を刻んだので、その後さまざまな矛盾や問題を抱えています。それは僕のように、政治的にはキューバ革命への共感から青春時代が始まった人間においても、今考えると…。最初期の10年くらいは、やっぱり光り輝いているんですよ、それは僕が若かったということもあるかもしれないけれども。しかし10年経ち、20年経ち、30年経ち、ましてや半世紀経つと、キューバ革命がどれほど深刻な問題を抱えていたかというのは、僕なりに見えてきているわけです。

今日はこの問題ではなくて、例えば最初の5年間、10年間、そのときラテンアメリカの作家たちにとって、あるいはラテンアメリカの一般の民衆にとってキューバ革命がどれほど希望の星であったのかという、その影響力を考えなければならないと思うんですね。やっぱりラテンアメリカという地域は、それまではスペインに、あるいはポルトガルに征服されて成り立ってきて、19世紀の前半、大半はなんとか独立を遂げるわけですけれども、その後は、今度は北アメリカという同じ大陸に存在する超大国が政治的、文化的、経済的、そして20世紀に入ってからは軍事的に浸透し、支配して、完全にその支配の下に置かれるわけです。キューバもそうでした。19世紀末、フィリピンと共に何とかスペインから独立する直前まで行きながら、その独立闘争に荷担して軍事的な策略を講じたアメリカ帝国によって独立がかなわず、ほぼ半植民地下に置かれてしまう。そういう半世紀以上をすごしたキューバが、1959年にキューバ革命を成就し、社会主義革命であると名乗った。そしてそれまでの独裁政権とは違う国家予算の使い方をするわけですから、教育とか医療とか福祉とか、そうしたものが第三世界の貧しい国としては飛躍的に向上するわけです。イデオロギー的にもなかなかユニークな、当時のソ連の社会主義が持っていた重苦しさ、抑圧感、それとは違う新しい価値観を切り拓こうとしているかに見えた。

それまでのラテンアメリカの作家たちはみんな国境の、それぞれの国の中に閉ざされていた。意識としても。作品を互いに知り合うことはなかったし、単行本として作品が刊行されても、それが他の国に流通するというシステムを持たなかった。キューバ革命は、その勝利した土地に、カサ・デ・ラス・アメリカス、「アメリカの家」という文化団体を作ります。アラブの世界ではどうかわかりませんが、日本ではアメリカというとUSAをしか指さない場合があるんですが、ラテンアメリカの人にとってはアメリカというのはあの大陸全土を指す、そういう名称として使われているので、「アメリカの家」という文化機関を作ったんです。

ここでサミュエル・シモンさんの『Banipal』とつながる話になっていくのですけれど、「カサ・デ・ラス・アメリカス」という文化機関で、大陸の文化活動に関わる人々の様々な表現がそこに集まってシンポジウムが行われたり、個展が行われたり。雑誌が出て、その雑誌でいろんな文学者の作品が紹介されるようになった。あそこはスペイン語圏が一番多いけれども、ポルトガル語があり、フランス語があり、オランダ語があり、英語があり、たくさんのヨーロッパ植民地帝国の痕跡が残っているから、言語が多様なわけですね。そしてもちろん、無文字社会の先住民言語がある。そのような作品が雑誌や単行本のかたちでどんどんキューバで刊行されることになっていきます。それで文学賞や、映画祭も開かれるようになって、ハバナやサンティアゴ・デ・クーバにどんどん作家たちや文化活動家が集まってくるわけです。毎年一回、いろんな機会に。そこでお互いの顔を知るようになり、どんな作品を作っているかということをお互いが知るようになった。だから一つの地域の中で、国境の垣根を取っ払って、精神的にも開かれた作家たちが交流し合うと、それはもちろん大きな刺激になるわけです。コロンビアのガルシア=マルケスはこんな作品を書いていた、バルガス・リョサはこんな作品をと。それぞれが本当に知り合う。しかも、少なくとも1960年代というのは、まだまだキューバ革命への共感が一体化していた時代だったので、そこで一気に文学が活発化していく。もちろん映画も活発化しますし、さまざまな表現活動が花咲いていくわけです。

もちろんキューバには表現弾圧という時代がありました。別の立場から見ればそんな活況を呈しているところばかり見ても…、という批判も当然ありうるかもしれませんけれども、当時の状況の大きな流れとしては、そういうふうに説明してもいいだろうと思います。

僕は今回の機会を田浪さんからいただいたときに、『Banipal』という雑誌をインターネットサイトで検索してみました。こういう定期的な刊行物を出して、世界に開かれていく機会を提供することがどんなに重要になるかということを、僕がラテンアメリカの文化状況を見ながらずっと思っていたものですから、この『Banipal』は今までもそうであったろうし、これからもアラブ文学が世界に紹介されていく上で、ひじょうに大きな意味を持つものではないだろうかと、たいへん共感を持ちながらインターネットサイトを見ておりました。今日実際にその話を伺って、ひじょうに嬉しいと思います。

次にモナ・プリンスさんのお話ですが、先程僕は、旧ソ連やチュニスで、あるいは日本で、当時のアジア・アフリカ作家会議の国際会議に何度か出たというふうに言いました。アラブ・パレスチナ代表団にお会いしましたら、記憶がかなり薄れているところがあるけれども、ほとんどの代表団のメンバーは男性であったのです。まあ、80年代当時です。今日、モナ・プリンスさんのお話が僕にとって大事だったのは、女性の作家としての立場、今のエジプト文学の中で、あるいはアラブ圏の文学の中で、そのような立場をご自分がはっきりと立ててものを言われている。部分的に知った作品の中でもはっきりとそのような問題提起をされているということが、僕にとっては一つの大きな意味を持ちました。ごらんの通り僕は男ですが(笑)、大きく言えば人類史がここまで混迷してだめになっているのは、男性原理の価値観を貫いて国家が運営され、社会が展開してきたからだというふうに思っているんです、実は。(笑)

笑われてしまいましたけど、アラブ社会の方々は特に困難な時期を生きておられると思いますが、現在世界がここまで、戦乱が絶えず起きて、人類が戦争というものと今に至るも切ることのできない、そういう事態をもたらしているのは、やはり男性原理的な価値観。国家の支配層はもちろんそうだけれども、社会の一般に生きる民衆の中にまでそういう価値観が浸透してこれを覆すことができないからだと。断固としてそういうふうに、この立場でものを考えるようにしているので、今日のモナ・プリンスさんのお話はそういう意味でひじょうに勇気を得られ、ありがたく感じました(笑)。

■モナ:ありがとう。(笑)

■太田:そしてラウィ・ハージさん。『デニーロ・ゲーム』(白水社)を読みました。…なんというか、本当に悲痛な物語で、このような作品を読むと言葉を失うんですけれども、この作品にも描かれているし、今日ラウィ・ハージさんご自身が言われたように、ベイルートからパリへの移動、それからニューヨークへの移動、そしてカナダで最終的に居住権を取られる。そういう移動につぐ移動の人生を送られてきているわけですよね。僕のような日本に定住している人間がこういうことを客観的に言うのはちょっと奇異なのかもしれませんけれども、現代世界にとって移動というのは避けられないものになってきていると、客観的には見えます。それは一つには、ネオリベラリズムが経済的にここまで世界を制覇した時代になってきて、そのネオリベラリズムの力によって、たとえば第三世界の農業はほとんど崩壊するわけです。農民はいままで農地であった田舎を捨てて、自分の国の首都に出なければいけない。その首都でもあぶれると、今度はメトロポリスの、日本のような社会の大都市に出てそこでなんとか生きていかなければならない。そういう労働力の国際移動というのは当たり前のようになった。それはもちろんたくさんの悲劇をもたらす。背景にあるさまざまな問題というのは悲劇を否応なく持つんですけれども、しかしネオリベラリズムの力が、グローバリゼーションの力がここまで強く世界を制覇している以上、ある意味で避けがたい状況になってしまっている。

ラウィ・ハージさんのように自分の生まれ育った国が絶えず戦火に明け暮れていて、なかなかそこでの静かな生活が望めない、そこで移動していくという、それにももちろん背景にひじょうな悲劇や苦労が伴っているわけですけれども。しかしそれを…、ごめんなさい、これは客観的な言い方で申し訳ないんですが、そういう人生を強いられる中で、それを梃子にしながら生み出されている、必然的な表現のように思います。ですから移住とか移動というのは、確かに資本の強制力が働いてはいるんですけれども、現代社会がこのような展開を遂げている以上、それから簡単に脱することはできないかもしれない。そうすると、移住や移動を梃子にして、なんらかの別な、自分が生まれ育った国では実現できなかったことを、庶民は庶民なりに、表現者は表現者なりに、その新しい生を切り拓いていかなければならない。そういう時代が来ているんだろうというふうに思います。

そういう移動は悲劇も伴うけれど、平和的な移動である。軍人や宣教師や貿易商人がむりやり他の国を侵していって、軍事的、宗教的に無茶なことをやる、貿易商人が恥知らずな商売をしてしまう、そういうあり方がこれまでは移動の中心であった。最終的に移動した先で権力をとって世界を支配していく力になっていった。しかし普通の旅人の移動というのは、そこを支配する意図を持たないわけです。その移動を梃子にして、なんらかの新しい生を新しい土地で切り拓こうとするわけですから、やはり現代の移動というのはそういう意味で一つの希望の根拠なのです。そういうふうに僕は考えているので、これはラウィ・ハージさんの、ある意味で強いられた生に対する、ちょっと勝手な意味付与かもしれませんが、僕自身としてはそのような感じで捉えております。

以上です。