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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

太田昌国の、ふたたび、夢は夜ひらく[72]米大統領のキューバ訪問から見える世界状況


『反天皇制運動カーニバル』37号(通巻390号、2016年4月5日発行)掲載

私が鶴見俊輔の仕事に初めて触れたのは、高校生のころに翻訳書を通してだった。米国の社会学者、ライト・ミルズの『キューバの声』の翻訳者が鶴見だった(みすず書房、1961年)。表紙カバーには、原題 “Listen , Yankee” (『聴け、ヤンキー』)の文字が浮かび上がっていた。1960年夏まで(ということは、キューバ革命が勝利した1959年1月からおよそ1年半の間は)ミルズはキューバについて考えたこともなかった、という。だが60年8月、キューバの声は「空腹民族ブロックを代表する」(原語はどうだったのか、「空腹民族」とは言い得て妙な、「面白い」表現だ)ひとつの声だと悟ったミルズは、急遽キューバを訪れ、フィデル・カストロやチェ・ゲバラはもとより市井の多くの人びとと会って話を聞き、それを「代弁」するような書物を直ちにまとめた。米国は「空腹世界のどのひとつの声にも耳をかたむけることをしないということが許されないほどに強大で」あることに気づいたからである。原書は60年末までに刊行されたのであろうが、61年3月には日本語版が発行されている。改訂日米安保条約強行採決に抗議して東工大教官を辞したばかりの翻訳者・鶴見をも巻き込んでいた「時代」の熱気を感じる。

オバマ米大統領のキューバ訪問についての報道を見聞きしながら思い出したことのひとつは、ミルズのような米国人も存在していたのだということである。当時のケネディ大統領も含めた米国の歴代為政者が、もしミルズのような見識(他民族・他国の独自の歩み方を尊重し、米国がこの国に揮ってきた政治・経済の強大な支配力を反省する)の持ち主であったならば、半世紀以上にもわたって両国間の関係が断絶することはなかったであろう。軍事侵攻によってキューバ革命の圧殺を図った過去を持つ米国の大統領としてキューバを訪れたオバマは、人権問題をめぐってキューバに懸念を示す前に、言うべき謝罪の言葉があったであろう。キューバが深刻な人権侵害問題を抱えているというのは、私の観点からしても、事実だと思う。だが、自国の過誤には言及せず、サウジアラビアやイスラエルによる人権侵害状況にも目を瞑り、むしろこれを強力に支えている米国が、選択的に他国の人権問題を批判することは、二重基準である。米韓合同軍事演習は、通常の何気ない言葉で表現し、朝鮮が行なう核実験やミサイル発射のみを「挑発」というのと同じように――大国とメディアが好んで行なうこの言語操作が、いつまでも(本当に、いつまでも!)人びとの心を幻惑しているという事実に嘆息する。

1903年以来米国がキューバに持つグアンタナモ海軍基地を返還するとオバマが語ってはじめて、キューバと米国は対等の立場に立つ。グアンタナモとは、裁判もなく米軍に囚われて虐待されているアルカイーダやタリバーンなどの捕虜の収容所だけなのではない。1世紀以上の長きにわたって、米軍に占領されているキューバの土地なのだ。他国にこんな不平等な関係を強いて恥じない大国の傲慢さを徹底して疑い、批判するまでに、世界の倫理基準は高まらなければならない。

オバマはキューバからアルゼンチンへ向かった。後者には、十数年ぶりに右派政権が成立したからである。各国が軒並み軍事独裁政権であった時代に、米国主導の新自由主義経済政策によって社会に大混乱をもたらされたラテンアメリカ諸国には、20世紀末から次々と、米国の全的支配に抵抗する政権が生まれた。二十数年間続いてきたこの流れは、この間、一定の逆流に見舞われている。だが、全体を見渡すと、この地域に、いま戦乱はない。軍事的緊張もない。1962年のキューバ・ミサイル危機を思い起こせば、感慨は深い。東アジア、アラブ、ヨーロッパ、北部アフリカなどの地域と比較すると、それがよくわかる。かつてと違って、米国の軍事的・経済的・政治的なプレゼンス(存在)が影をひそめたことによって、社会の安定性が高まったからである。巨大麻薬市場=米国と、悲劇的にも国境を接するメキシコが、10万人にも上る死者を生み出した麻薬戦争の只中にある事実を除けば。

米国の「反テロ戦争」を発端とするアラブ世界の戦乱が北アフリカ地域にも飛び火している、悲しむべき状況を見よ。60年以上も続く、朝鮮との休戦協定を平和協定に変える意思を米国が示さぬために、米韓合同軍事演習と朝鮮の「先軍路線」の狭間で、「(金正恩の)斬首作戦」とか「ソウルを火の海にする」とか、熱戦寸前の言葉が飛びかう東アジア情勢を見よ。

米国の「存在」と「非在」が世界各地の状況をこれほどまでに左右すること自体が不条理なことだが、その影響力を減じさせると、当該の地域には「平和」が訪れるという事実に、私たちはもっと自覚的でありたい。(4月1日記)

太田昌国のふたたび夢は夜ひらく[71]「世界戦争」の現状をどう捉えるか


『反天皇制運動カーニバル』第36号(通巻379号、2016年3月8日発行)掲載

アラブ地域の現情勢を指して、「世界戦争」とか「第三次世界大戦の始まり」と呼ぶ人びとが目立つようになった。いわゆるイスラーム国には、欧米を含む世界各地から数多くの義勇兵が駆けつけている。シリアに対する空襲は、国連安保理常任理事国を構成する5ヵ国のうち中国を除く米英仏露の4ヵ国によってなされている。この構図を見るにつけても、「世界戦争」という呼称は、あながち、大げさとは思えなくなる。その社会的・政治的メッセージの鮮烈さにおいて群を抜く現ローマ教皇フランシスコは、2015年11月13日パリで起きた同時多発攻撃事件を指して「まとまりを欠く第三次世界大戦の一部である」と表現した。国家単位の戦闘集団ではないイスラーム国が、世界各地に自在に軍事作戦を拡大する一方、これに対して「反テロ戦争」の名目で諸大国が(あくまでも表面的には)「連携している」という意味で、第一次とも第二次とも決定的に異なる、現下の「世界戦争」の性格を巧みに言い当てているように思われる。

この「世界戦争」という構図の枠外に位置しているかのように見える、残りの安保理常任理事国=中国も自らの版図内に、北京政府から見れば「獅子身中の虫」たる新疆ウイグル自治区を抱えている。多数のイスラーム信徒が住まうこの自治区は、世界的な「反テロ戦争」のはるか以前から、中国内部に極限された「反テロ戦争」の中心地であった。北京政府の強権的な政策(ウイグル人の土地の強制収用、漢民族の大量移住計画、ウイグル人に対する漢民族への徹底した同化政策、信仰の自由に対する抑圧など)に反対する人びとによる爆弾闘争が散発的に繰り返され、これに対する弾圧も厳しかったからである。圧政を逃れて、トルコなどへ亡命しているウイグル人も多い。その人びとの心の奥底に、イスラーム国に馳せ参じる若者たちに共通の心情が流れていても、おかしくはない。事実、2013年10月には、ウイグル人家族がガソリンを積んだ車で天安門に突入し自爆する事件も起こっている。北京政府を標的にした軍事攻撃は、イスラーム国のそれにも似て、すでにして辺境=新疆ウイグルに留まることなく、首都中枢にまで拡散しているのだといえる。

私は、今年1月に行なわれた中国の習近平主席のサウジアラビア、エジプト、イラン訪問に(訪問先の選び方も含めて)注目したが、各紙報道にも見られたように、これは明らかに、ユーラシアをシルクロードで結ぶ「一帯一路」の経済圏構想を具体化するための布石であった。これを実現するためには、新疆ウイグル自治区の「安定」が不可欠である。だが、同時に、習近平は知っていよう――新疆ウイグル自治区は、イスラーム国の浸透が顕著なカザフスタン、キルギス、タジクなどのイスラーム圏共和国と天山山脈を境にして接する同一文化圏にあることを。中国政府は、現在、チベットや新疆ウイグル自治区に対する政策を人権侵害だとする欧米諸国からの批判は「二重基準(ダブル・スタンダード)」だとして反発している。だが、この地域での蠢動を続けるイスラーム国の軍事攻撃が、さらに国境を超えていくならば、現在は別個に行なわれている欧米諸国と中国の「反テロ戦争」が、共通の「敵」を見出して合体するときがくるかもしれない。そのとき、ローマ教皇がすでに始まっているとみなしている「第三次世界大戦」はいっそうの「世界性」を帯びざるを得ない。

他方、中国は、中央アジアを離れて、東アジア地域においても重要な位置をもっている。去る3月2日、国連安保理事会は、朝鮮民主主義人民共和国が行なった核実験と「衛星打ち上げ」に対して、同国に出入りするすべての貨物の検査を国連加盟国に義務づけ、同国への航空燃料の輸入禁止を含む大幅な制裁決議を採択した。制裁強化を躊躇っていた中国も、最終的にはこれに賛成した。中国の四大国有商業銀行は、従来は米ドルに限っていた朝鮮国への送金停止措置を、人民元にまで拡大している。

3月7日には、朝鮮が激しく反発している米韓合同軍事演習が始まる。朝鮮半島は、残念なことに、「第三次世界大戦」の一翼を担う潜在的な可能性をもち続けている。

ここでは、否定的な現実ばかりを述べたように見える。もちろん、たゆまぬ反戦・非戦の活動を続ける人びとが世界的に実在している(いた)からこそ、世界はこの程度でもち堪えている(きた)ことを、私たちは忘れたくない。(3月5日記)

袴田巖さんが、「死刑囚表現展」に応募してきた


金聖雄監督『袴田巖:夢の間の世の中』パンフレット(2016年2月27日発行、Kimoon Film )

死刑制度の廃止を目指して死刑囚表現展を始めて、11年が経った。死刑囚は社会との接点をギリギリまで断ち切られて、存在している。冤罪の身であれば、身を切るような叫びがあろう。人を殺めたならば、顧みて言うべき言葉があるかもしれない。事件を離れて、想像力の世界に浸る表現もあろう。毎年、心に迫る作品が寄せられる。その表現に出会うことで、隔離されている死刑囚と、私たち外部社会との間に接点が生まれる。私たちはその時、犯罪と刑罰について、死刑について、冤罪について、あらかじめわかったような顔をせずに、深く向き合う契機にできるかもしれない。

映画『袴田巖――夢の間の世の中』のスクリーンに浮かび上がる袴田さんの獄中書簡のいくつかを目で追いながら、袴田さんが死刑囚表現展に応募してきたのだ、と幻想した。「さて、私も冤罪ながら死刑囚。全身にしみわたって来る悲しみにたえつつ、生きなければならない。」などという表現に触れて、私は思わず、居ずまいを正した。若い日々に、ボクシングという激しいスポーツに身を投じていた袴田青年は、内面に、このように静謐で、文学的ともいえる世界を持つ人でもあったのだ。

映画が映し出すのは、だが、2014年3月27日、静岡地裁が死刑および拘置の執行停止を決定して48年ぶりに袴田さんが釈放されて以降の日常である。拘禁症状の下で、独特の幻想世界に生きる袴田さんの姿と言葉が私たちの耳目に飛び込んでくる。それは、獄中の孤独を彷彿させるものだが、その姿を描いているのが総合芸術としての映画である以上、袴田さんがここを抜け出る方向性も示唆されている。

金聖雄監督をはじめスタッフ、出演者、そして私たち観客との協働性の中でこそ、袴田さんは新たな生を生き始めている ということである。この映画の中での袴田さんの立ち居振る舞いと言葉に触れて、これは死刑囚表現展への見事な応募作品ではないか――あらためて私は独断的に、そう思う。

太田昌国のふたたび夢は夜ひらく[70]国際政治のリアリズム――表面的な対立と裏面での結託


『反天皇制運動カーニバル』第35号(通巻378号、2016年2月9日発行)掲載

朝鮮民主主義人民共和国(以下、朝鮮)が予告した「衛星打ち上げ」についての報道状況を知るために、久しぶりにNHKのテレビニュースを点けた。たまに観るだけだが、ちょうど桜島噴火報道と重なったために、朝鮮報道と災害報道に懸けるNHKの「熱意」は半端なものではない、とあらためて思う機会ともなった。いずれも、視聴者の危機感を煽りたてるためには、この上ない材料なのであろう。神戸大震災と「3・11」を経験したいま、万一の場合に備えて、時々刻々の災害報道が必要なことは言を俟たない。そのことを認めたうえで、NHK的な危機煽りの報道によって「組織」される人びとの心の動きを注視することも、止めるわけにはいかない。

朝鮮の「衛星打ち上げ」についても、飛行経路に近い地域の自治体の対応ぶりが事細かに報道されている。ミサイルの2段目ロケットが上空を超えることになる沖縄県宮古市、同じ先島諸島の石垣市、地対空誘導弾パトリオット3(PAC3)が配備されている航空自衛隊基地のある那覇市などの動きに加えて、「部品が落下する恐れがある」航行危険区域を示す漁業安全情報が各漁協に徹底周知されたなどという文言に接すると、ひとは当然にも、「今、ここにある危機」を持つよう、精神的に駆り立てられる。ひとというものは、ときに哀しい存在だとつくづく思う。情緒に巻き込まれ、自らすすんで「危機」を択びとってしまうのだ。

しかも、この情景には既視感がある。日米防衛協力のために新ガイドライン(指針)を実施に移すための、周辺事態法などの関連法案が国会で審議されていた小渕政権下の1998-99年の時期である。ソ連体制はすでに崩壊し、旧ソ連の日本侵攻を想定して作られていた旧ガイドラインは実質的に失効した。今や朝鮮半島有事などの「周辺事態」に際しての物資の輸送や補給など米軍への後方支援や、米軍に民間の空港・港湾を使用させることなどおよそ40項目を盛り込んだ対米支援策が論議されていた。

そのさなかの1998年8月、金正日指導下の朝鮮はいわゆるテポドンを発射した。それは東北諸県を横切って、三陸沖に落下した。翌99年3月、朝鮮の高速艇が能登半島沖に現われた。これを「不審船」による領海侵犯と見た海上自衛隊と海上保安庁が追跡し、威嚇射撃も行なった。この段階で、「朝鮮有事」は実際にあり得ることだとの実感が、人びとの心に浸透した。ガイドライン法案は国会を通過した。

このころ、元陸上自衛隊人事部長・志方俊之はいみじくも述懐している――日本人には、太平洋戦争の経験に基づく本能的な恐怖がふたつある。空襲とシーレーン喪失の恐怖である。テポドン発射と不審船の横行は、まさにこの恐怖心の核心を衝くものだった。民心は大きく動き、自民党政権が何十年もかかってもできなかった新段階の防衛政策の採用へと大きく前進することができた、と(『諸君!』1998年12月号)。彼が言外に語っていることは、以下のように解釈できよう。表面的には激しく対立しているかに見える日米の軍産複合体支配層と朝鮮の独裁体制は、その軍事優先政策を国内的に納得させるためには、裏面で手を結び合っている、と。国家の枠組みの中での駆け引きとして行われる国際政治に貫かれているこのリアリズムを、私たちは頭に入れておかなくてはならないと私は思う。

朝鮮といえば、蓮池透著『拉致被害者たちを見殺しにした安倍晋三と冷血な面々』(講談社、2015年)と題する本を読んだ。同氏と私が『拉致対論』(太田出版)を刊行したのは2009年だった。民主党政権成立時に重なり、対朝鮮外交への提言的な要素も盛り込んだ。だが、それまで自民党政権を支えてきた外務官僚が急に発想の転換を行なうはずもなく、それを促す力量が政権に備わっているわけでもなかった。民主党政権の3年間は無為に過ぎた。そのあとには、何かといえば拉致問題解決のために「あらゆる手段を尽くす」と見栄を切る安倍晋三が再登場したが、対朝鮮外交における無為無策は一目瞭然である。しびれを切らした蓮池は、「拉致問題を利用して首相にまで上り詰めた」人物に過ぎない安倍の姿を描いている。この問題の裏面を知り尽くしているだけに、視界が開ける。同時に蓮池は、拉致被害者家族会事務局長を任じていた時期の自分が、政府を対朝鮮強硬路線に駆り立てた過去にも、自己批判をこめて触れる。

朝鮮と日本の関係性をめぐる問題は、さまざまな顔貌をして、私たちの眼前にある。情緒に溺れることなく、歴史的な視点を手放さずに、冷静に向き合い続けたい。(2月6日記)

太田昌国の、ふたたび夢は夜ひらく[69]朝鮮の「水爆実験」と「慰安婦」問題での日韓政府間合意


『反天皇制運動カーニバル』第34号(通巻377号、2016年1月12日発行)掲載

国連の安保理事会構成国である五大国が独占してきた核兵器を、他の国が(しかも小国が!)持つことは許さないとするのが、核不拡散条約の本質である。この条約の制定とそれ以降の過程を詳述する紙幅は、今はない。また、イスラエル、インド、パキスタンなどの「小国」も核を保有するに至った現実を、ときどきの国際情勢の下にあって「容認」するか否か、あるいは確認せぬままに目を瞑るかなどの駆け引きも、これを機に利を得ようとする大国がマリオネットの操り師になって、誰の目にも明らかな形で行なわれてきた。したがって、国際政治における「核不拡散」なるスローガンの欺瞞性を批判することは重要だ。国際政治では、つまるところ、「力」を誇示したものが勝つのさ――身も蓋もない「教訓」をそこから得て、核開発に膨大な国家予算を費やしてしまう、「敵」に包囲された貧しい国の若年の国家指導者がいたところで、「軍事を通した政治」に関して同等のレベルで物事を考え、ふるまっているひとつ穴の貉が、どうして、それを嗤い、非難することできようか。

また、自らは核を持たずとも、安保条約なる軍事同盟によって「米国の核の傘」の下にあることを積極的に選んでいるこの国で、そしてその米国はといえば、1953年以来、朝鮮民主主義人民共和国(以下、朝鮮)との間で結んでいるのは休戦協定でしかなく、韓米両軍は朝鮮に対する挑発的な合同軍事演習を一貫して行なっている事実を思えば、ここでも自らを省みずに他国を非難するだけでは、事態を根本的に解決する道筋は見えてこないと指摘しなければならない。

1月6日、朝鮮が行なった「水爆実験」に関して、各国政府やマスメディアが組織する一方的な朝鮮非難の合唱隊に加わらず、せめてこの程度の相対的な視点をもって、事態を見つめることは重要なことだ。彼の国の科学技術水準に軽侮の表情を浮かべながら「水爆開発はまだ不可能」と(おそらくは)正確に事態を捉えていながら、「今、ここにある危機」を演出する政府とメディアの宣伝攻勢も鵜呑みにはせずに、冷静な分析を心がけることも重要だ。そうすれば、多くの専門家が言うように「朝鮮の核開発の段階は実用化には程遠く、実戦用の核兵器の小型化に努めている時期だろう」との判断も生まれよう。事態の把握の仕方は、対処すべき方法を規定することに繋がるのだから、大事なことだ。

さて、これらのことは自明の前提としたうえで、同時に、次のことも言わなければならないと私は思う。朝鮮が行なった「水爆実験」は、疑いもなく、東アジアおよび世界各地に生まれるかもしれない戦争の火種を一所懸命に探し求め、あわよくばそこへ戦争当事国として参加しようと企てている安倍政権にとって、この上ない、新春のプレゼントとなった、と。戦争法の施行を目前に控えているいま、この「水爆実験」は安倍の背なかを押すものとなった、と。

朝鮮の「水爆実験」に理があるものなら、私はこのような批判はしない。「安重根による伊藤博文暗殺が、日本が朝鮮を併合するのに有利な環境を作り出した」という俗論を、日本は当時すでに十数年をかけて朝鮮植民地化の準備を積み重ねていたという歴史的な事実に反するがゆえに、かつ時代状況的には安重根に「理」があったと思うがゆえに、私は受け入れないように。だが、朝鮮の核実験には理がない。若い指導者がしがみついているのであろう「核抑止論」は、どの国の誰が主張しようと、深刻な過ちであると考えるからである。

今回の事態を、昨年末に日韓政府間レベルだけでの急転直下の「解決」をみた「慰安婦」問題と併せて総体的に分析する視点が必要だと思われる。昨年12月16日、「慰安婦」問題を話し合っていた日韓局長協議は結論に至らず越年する、との発表があった。その9日後の25日には、28日の日韓外相会談が公式に発表された。この間に何があったのか。米国政府からの圧力があったことを仄めかす記事は散見される。米国の外交政策を仕切るといわれる外交問題評議会(CFR)が12月20日に出した討議資料 ”Managing Japan-South Korea Tensions” (日韓の緊張を何とか切り抜ける)もネット上には出回り始めた。

慌ただしい年末ギリギリの三国政府間の「圧力」と「談合」の実態を見極め、朝鮮半島全体で何が進行しているのか、その中で日本はどこに位置しているのか、を探る必要がある――敗戦後70年めの昨年にも「最終的かつ不可逆的に解決」されることのなかった課題が、私たちの眼前に広がっている。

(1月9日記)

太田昌国の、ふたたび夢は夜ひらく[68]「魂の飢餓感」と「耐用年数二〇〇年」という言葉


『反天皇制運動カーニバル』第33号(通巻376号、2015年12月8日発行)掲載

翁長雄志沖縄県知事が発するメッセージには、じっくりと受け止めるべき論点が多い。権力中枢の東京では、論議を回避してひたすら思うがままに暴走する極右政治が跋扈する一方、本来の保守層の中から、それに抵抗する粘り腰の考えと行動が随所で生まれていることに注目したい。なかでも、辺野古問題をめぐる翁長知事の揺るぎない姿勢が際立つ。翁長知事は、日米安保体制そのものは「是」とする立場であることをたびたび表明しているが、この人となら私のような日米安保解消論者も、その「是非」をめぐって、まっとうな討論ができるような気がする。辺野古に限らず、高江のヘリコプター着陸帯計画や宮古島への陸上自衛隊配備構想なども含めて、日米両国の支配層が琉球諸島全域において共同であるいは個別に行ないつつある軍事的な再編の捉え方に関しても。

12月2日、辺野古の新基地建設計画に伴う埋め立て承認取り消し処分を違法として、国が翁長知事を相手に起こした代執行訴訟の第一回口頭弁論において、知事は10分間の意見陳述を行なった。訴訟で問われているのは、(大日本帝国憲法下で制定された)公有水面埋立法に基づく判断だが、その枠内での法律論は県側が提出した準備書面で十全に展開されている。そこでは、1999年の地方自治法改訂によって国と地方が対等な立場になったことをはじめ、憲法の規定に基づく人格権、環境権、地方自治の意義などをめぐる議論が主軸をなしている。そのためもあろうか、知事の陳述自体は法律論を離れて、過重な基地負担を強いられてきている沖縄の歴史と現状を語ることで、地方自治と民主主義の精神に照らして見た場合、沖縄にのみ負担を強いる安保体制は正常なのかと社会全体に問いかけた。とりわけ、2つの箇所が印象に残った。「(沖縄県民が)歴史的にも現在においても、自由・平等・平等・自己決定権を蔑ろにされてきた」ことを「魂の飢餓感」と表現している箇所である。この表現を知事は過去においても何度か口にしている。私には、どんなに厳しいヤマト批判の言葉よりもこの表現が堪える。1960年の日米安保条約改定を契機にしてこそ、ヤマトの米軍基地は減少し始め、逆に沖縄では増大する一方であった事実に無自覚なまま、私たちの多くは「60年安保闘争」を戦後最大の大衆闘争として語り続けてきた。それだけに、「魂の飢餓感」という言葉は、沖縄とヤマトの関係性の本質を言い表すものとして、支配層のみならず私たちをも撃つのである。

いまひとつは、「海上での銃剣とブルドーザーを彷彿させる行為」で辺野古の海を埋め立て、普天間基地にはない軍港機能や弾薬庫が加わって機能強化される予定の新基地は「耐用年数200年ともいわれている」と述べた箇所である。耐用年数200年と聞いて、私が直ちに思い浮かべるのは、キューバにあるグアンタナモ米軍基地である。米国がこの海軍基地を建設したのは1903年だった。現在から見て112年前のことである。その後60年近く続いた米国支配が終わり革命が成っても(1959年)、米国がキューバの新政権を嫌い軍事侵攻(初期において)や経済封鎖(一貫して)を行なってきた半世紀以上もの間にも、米国はグアンタナモ基地を手離すことはなかった。革命後のキューバ政府がどんなに返還を求めても、である。現在進行中の両国間の国交正常化の交渉過程においても、米国にグアンタナモ返還の意志は微塵も見られない。

一世紀以上も前に行われた米国のキューバ支配の意志は、当時の支配層の戦略の中に位置づけられていた。南北戦争(1861年~65年)、ウーンディッドニーでのインディアン大虐殺(1890年)などの国内事情に加えて、モンロー宣言(1823年)、対メキシコ戦争とカリフォルニアなどメキシコ領土の併合(1848年)、ペリー艦隊の日本来航(1853年)、キューバとフィリピンにおける対スペイン独立戦争の高揚を機に軍事的陰謀を計らって、局面を米西戦争に転化(1898年)して以降カリブ海域支配を拡大、ハワイ併合(1898年)、コロンビアからのパナマ分離独立の画策(1903年)とパナマ運河建設(1914年)など、米国が当時展開していた対カリブ海・太平洋地域戦略を総合的に捉えると、グアンタナモを含めてそれぞれの「獲得物」が、世界支配を目論む米国にとっていかに重要かが、地図的にも見えてくる。戦後70年を迎えている沖縄をも、あの国は、いま生ある者がもはや誰一人として生きてもいない1世紀先や2世紀先の自国の利害を賭けて、その軍事・経済戦略地図に描き込んでいるのである。それに喜々として同伴するばかりの日本政府のあり方も見据えて発せられている「耐用年数200年」という翁長知事の発言に、現在はもとより未来の世代の時代への痛切な責任意識を感受する。

(12月5日記)

太田昌国の、ふたたび夢は夜ひらく[67]Abenomicsとは「コインがじゃらじゃら笑顔で輝く」の意


『反天皇制運動カーニバル』第32号(通巻375号、2015年11月3日発行)掲載

英文学者で翻訳家の柳瀬尚紀が、今年はルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』が刊行されて150年目だとするエッセイを書いているのが目にとまった(『しんぶん赤旗』10月23日付)。この人らしく軽妙な筆致で、この物語の主役は、子ども向けに翻案された物語と違って、ちっとも可愛くもないアリスではなく、言語であること、しかもその言語は、本来の意味をズラし、ナンセンス詩の一語一語に意味を付与し、こじつけ的に新たな言葉を合成し――といった具合に、言葉遊びで読者を解放する試みだ、としている。この〈起承〉は十分に共感できる内容なのだが、柳瀬は後半にきて突然に、日本の現実に話題を〈転〉じる。本当は書き写したくもない、嫌悪感で身が震えるような標語なのだが、「一億総活躍」なるキャッチフレーズを編み出した現首相は、キャロルを凌ぐ文学的才能の持ち主だと「褒め殺し」をするのである。言葉から意味を解き放ち、否、意味を剥奪し、かつまた自ら奪い取った意味を見事に修復してみせるだろう、と。

柳瀬は夢の中で、かのハンプティ・ダンプティに会ったそうだ。『不思議の国のアリス』の八歳下の妹『鏡の国のアリス』に登場する、奇怪な顔をした「意味の君臨の信奉者」である。柳瀬が「キャロルに並ぶ文学的才能を有するわれらが宰相のことを得意げに話す」と、ハンプティ・ダンプティは紙に等式を書いて、すーっとどこかへ消えた、という。〈結〉語は、すべて引用しよう。

「Abenomics=CoinsBeam  キャロルの得意な綴り替え(アナグラム)である。コインがじゃらじゃら笑顔で輝く、の意味だ。要するに、アベノミクス社会でカネだけは喜々として活躍するのだろう。これが一億総活躍の意味らしい。」

アリスの物語に始まり、この社会の「民意」を幻惑し続けているまやかしの経済政策を皮肉るに至る、〈起承転結〉の効いた、柳瀬らしい文章であった。柳瀬発案のアナグラムも見事だ。このエッセイを受けて、「コインがじゃらじゃら笑顔で輝」いている現実の〈裏表〉をいくつか見ておこう。

誰よりも笑顔が輝いているのは、兵器ビジネスである。政府はこの間、金蔓の経団連の要望に応えて、武器輸出を容認する「防衛装備移転三原則」を決定し、防衛装備庁も発足させた。ここまでくれば、兵器産業が利益を生み出し続けるためには、日本が関与できる戦争がなければならない。戦争法案をなりふり構わぬ形で「成立」させた背景には、この経済的な欲求をも見ておくべきだろう。同時に、防衛省が発表した「自衛官再就職状況」書によれば、多数の幹部自衛官が代表的な軍需関連企業へ天下っている事実にも注目したい。現首相が得意とする「外遊」には、常に、兵器製造企業も含めた大企業幹部が大挙して随行している。訪問先の国々で、兵器の共同開発、輸出などに向けた協定が次々と成立していることも忘れるわけにはいかない。首相はこれを「トップセールス」と称して、悦に入っているのである。国家が「死の商人」と一体化しつつある実態が、そこには見てとれる。

辺野古への基地「移設」問題に関わって、政府が県や名護市の頭越しに、名護市の辺野古、久志、豊原の3区に直接振興費を交付するという戦術も、「基地を受け入れるものにだけ金を出す」という、いかにも拝金主義者らしい卑劣なやり口である。地方自治体の財政規律など、彼らは歯牙にもかけていないのだ。

他方で、こんな現実もある。厚労省の調査に基づいてさえ、子どもの貧困率(住民1人ひとりの所得を試算し、真ん中の人の半分に届かない人の割合)は16.3%で、6人に1人の子どもが貧困状態にある。そこで政府は「子供の未来応援基金」なるものを創設したのだが、発起人には首相、経団連や全国市長会・日本財団の代表者らが名を連ねて、民間からの募金や寄付を子どもの貧困対策に充てるつもりのようだ。児童扶養手当や返済不要の給付型奨学金の拡充に取り組もうともしない政府が、公的責任を放棄して、民間の「善意」に頼ろうとしている姿勢が明らかだ。「活躍」する可能性の低い貧しい子どもに対して「じゃらじゃら」公金を注ぎ込むわけにはいかないという本音が、そこからは聞こえてくる。

Abenomics の本質は、まこと、あちらこちらで透けて見える。それでいてなお、首相の大きな顔のそばに「経済で、結果を出す」(これぞ、まさに、CoinsBeamではないか)というスローガンの掲げられた自民党の新しいポスターが、この国では効力を持ち続けるのだろうか。(11月1日記)

ホルヘ・サンヒネスとの対話から――ラテンアメリカ特集に寄せて


山形国際ドキュメンタリー映画祭2015/映画祭公式ガイドブック「スプートニク」掲載

私たちが自主上映・共同制作活動でこの40年間付き合ってきているボリビアのウカマウ集団+ホルヘ・サンヒネス監督は、狭い意味でのドキュメンタリー作家の枠内には収まらない。その作品は、現実に起きた出来事に素材を得ながらもフィクション化している場合が多いからである。だが、ドキュメンタリーやセミ・ドキュメンタリーの作品もあるから、ラテンアメリカや欧米で出版されている「現代ラテンアメリカ・ドキュメンタリ―映画」の研究書の中では必ず言及される存在だ。

ホルへ・サンヒネスたちと出会ったのは1975年のことだ。首都キトで偶然観たウカマウの映画『コンドルの血』(1969)に新鮮な驚きを感じてこの未知の監督のことを探っていたら、何と、軍事政権下のボリビアを逃れてキトに滞在中という。翌日には会っていた。話し合ってみて、歴史観・世界観に共通なものを感じた。旅の途上にあった私たち(連れ合いも一緒だった)と、亡命地を転々としていたホルヘたちとは、ラテンアメリカ各地で再会する機会があった。その度ごとに、ホルヘは自分たちの旧作や「これは!」と彼が思う同時代の作家たちの作品を見せてくれたり、ラテンアメリカ映画にまつわるさまざまな話をしてくれたりした。それ以来、私たちは映画人でもないのに、40年来の付き合いである。

今回の山形映画祭で上映される『チルカレス』(マルタ・ロドリゲス+ホルヘ・シルバ監督、コロンビア、1972)をホルヘ・サンヒネスは、確か、ボゴタのどこかで見せてくれた。ホルヘは、自分たちの初期の短篇『革命』(1962)と『落盤』(1965)が、民衆の貧窮の実態を描きながら、当の貧しい民衆からの批判に曝されていると語った。自分たちが日々生きている「貧しさ」が画面に映し出されていても、面白くもなんともない。知りたいのは、この現実がなぜ生まれているのか、だ。この批判を受けて、ウカマウ集団+ホルヘ・サンヒネスの映画は変わり始める。その意味では、『チルカレス』も同じ問題を抱えている。しかし、信頼できる作家たちだ――ホルヘは、そう語ったと記憶している。今年は、『チルカレス』に加えてコロンビアのこの二人の映画作家のその後の作品も観られると知って、私の心は沸き立つ。

アルゼンチンのフェルナンド・ソラナスは、ホルヘ・サンヒネスがもっとも信頼し親しくしている映画作家のひとりだ。オクタビオ・ヘティノとの共同監督作品『燃えたぎる時』(1968)――私はかつて『坩堝の時』と訳していた――のことを熱く語ったホルヘの様子をよく覚えている。2000年頃だったか、日本での上映可能性はないがとの断り書き付きで、この名のみ高い作品が東京の某所で「クローズドで」上映される機会があった。その場に居合わせることができた私がどんな思いで画面に見入ったか――想像にお任せしたい。

チリのパトリシオ・グスマンの話が、ホルヘとの対話に出てきたか、よく覚えていない。だが、1970~73年9月のチリに成立していたアジェンデ社会主義政権の時代の一時期、軍事政権下のボリビアを逃れてホルヘたちはチリに亡命していた。アジェンデ政権下では文化政策が活性化し、ラテンアメリカ各地の軍事体制から逃れた多数の文化活動家がチリに赴いて、テレビや映画分野での仕事に携わったという。ホルヘ・サンヒネスもそうした一人だったから、おそらく、パトリシオ・グスマンと知り合う機会があったのではないか。ともかく、私は現地の新聞記事や研究書で彼の名と作品のことはよく見知っていたから、作品をひとつも観ないうちから、今回上映される『チリの闘い』3部作(1975~78)などの題名がくっきりと頭に刻み込まれている。数年前、彼の『光のノスタルジア』(2010)を観た時の思いは、だから、とても深いものがあった。

ウカマウ作品の自主上映を始めたのは1980年だったが、それが大きな成功を収めたので持続的な活動にする展望が見えた1981年には、ウカマウ集団+ホルヘ・サンヒネスの映画理論書『革命映画の創造――ラテンアメリカ人民と共に』を翻訳・出版した(三一書房、絶版)。巻末には、ウカマウのみならずラテンアメリカ映画の作品年表を付した。その頃は同地の映画が上映される機会はほとんどなかったから、私が観たこともない作品も含めて、ホルヘ・サンヒネスから聞いた話や研究書に基づいて、監督名と題名を年表に付け加えていった。したがって、『チルカレス』も『燃えたぎる時』(は『坩堝の時』として)も『チリの闘い』3部作も、その年表に収められている。

上に見たようなエピソードに満ちた作品を、日本に居ながらにして観る機会が訪れようとは! 過ぎ去った40年間を思い、人生が続き、活動が持続している限りは、こんなことが起こり得るのだ、という思いが溢れ出てくる。(9月10日記)

日本でスペイン語書籍を出版するということ


メサ・レドンダ「日本文学のスペイン語への翻訳――モンセ・ワトキンス没後15周年記念」

(2015年10月4日、セルバンテス文化センター、『第2回日本スペイン語・スペイン語圏文化国際会議』の1プログラムとして)

私は、現代企画室という出版社で企画・編集の仕事に携わって30年になります。小さな出版社でありながら、多様なジャンルの人文書を刊行しています。とりわけ、私自身がスペイン語文化圏の歴史と文化に深い関心を抱いてきたことから、ラテンアメリカとスペインに関わる文学・歴史・哲学・思想・音楽・映画・美術・デザインなどの書物をすでに100冊以上刊行してきています。そこで、日本の読者に対してスペイン語文化圏の多様で、豊饒な文化表現を紹介するうえでは、ささやかながらも一定の役割を果たしてきたと自負しております。

しかし、あるべき文化交流とは、一方通行では成立しません。相互浸透・相互交通の回路を作ることが、どうしても必要です。私たちの出版活動が15年ほど経ち、スペイン語文化圏に関わる書籍もかなりの冊数を出版できていた1990年代の初頭に、私たちはモンセ・ワトキンスと知りあう機会に恵まれました。話し合ってみると、彼女は日本の文化に並々ならぬ関心を抱いていることがすぐわかりました。その入り口になったのは、彼女がスペインで観た小津安二郎の映画でしたが、念願かなって日本に住み始めて以降、驚くべきスピードと深さで、日本文化の中に浸っていることを実感できました。それは、とりわけ、ふたつの点で、際立っていました。ひとつには、日々の生活スタイルの中で、現代日本人がすでに忘れて放棄してしまったものをふんだんに取り入れていることでした、ふたつ目は、日本の近代・現代の文学をよく読み込んでいるということでした。私は出版活動を、連れ合いである唐澤秀子と共に行なっていましたが、モンセと唐澤は特別の友情関係を出会いの当初から結んだといえます。

モンセは、それまでに読んできていた日本人作家の文学作品のなかから、彼女が特に気に入っているものをスペイン語に翻訳して出版したいという希望を持っていることを、私たちは知りました。そして、すでに島崎藤村の『破戒』という作品をスペイン語に翻訳しているということも聞いたのです。『破戒』は、特定の出身階層・居住地・職業の人びとを差別し迫害するという、日本社会に根深く存在する深刻な社会問題を扱った作品です。読解が決してやさしくはないこの作品をすでに翻訳し終えているというモンセの話を聞いて、彼女がいかに深く日本社会を理解しているかと知って、私たちは驚きました。この人となら、固い信頼関係に基づいて仕事を一緒にできるのではないかと考えたのは、その時です。

スペイン語文化圏で出版された書物を翻訳して出版してきた私たちのそれまでの仕事のあり方は、いわば、輸入に偏していました。モンセが行なっている日本文学のスペイン語訳を私たちの出版社を通して提供・販売できるなら、文化の相互交流を実現したいという私たちの長年の夢も叶うのです。そこで、モンセと私たちの共通の夢を実現するプロジェクトが始まりました。モンセが選び出してきた、スペイン語に翻訳したい近代日本文学作家のリストを見ると、先に触れた島崎藤村に加えて、宮沢賢治、夏目漱石、芥川龍之介、森鴎外、太宰治、小泉八雲、武者小路実篤など、私たちが心から納得できる選択でした。

他方、モンセは、経済的には決して報われることがないであろうこの企画を実現するためには、公的な出版助成金を得ることがどうしても必要だと考えました。そこで、国際交流基金(Japan Foundation )が行なっていた出版助成プログラムに着目し、これに申請したのです。近代日本文学を広くスペイン語文化圏の読者に紹介したというモンセの熱心さは交流基金の担当者の胸を打ちました。基金の助成を得て、最初の仕事である宮沢賢治著『銀河鉄道の夜』が出版されたのは、1994年のことでした。そして、モンセ・ワトキンスが無念にも亡くなる2000年までの6年間の間に、彼女は実に13冊もの日本文学作品を翻訳し、出版するという偉業を成し遂げたのです。

冒頭で述べたように、私たちはスペイン語文化圏の人びとの優れた著作を翻訳・紹介することで、精神的に実に大きなものを得てきました。いわば、輸入超過でした。モンセの仕事に協働することで、日本の側から皆さんに、ささやかなりとも「お返し」ができたのでは、と考えております。精神的な遺産の「輸入・輸出」がいくらかなりとも相互交通的なものになったのは、こうして、モンセ・ワトキンスの功績なのですが、その仲介者となり得た私たち現代企画室のスタッフにとっても深い喜びでした。

さて、次のテーマに移ります。モンセ・ワトキンスは、文学の翻訳・紹介者という顔と同時に、ジャーナリストとしての顔も持つ人でした。この分野の仕事として、1999年に

“El fin del sueño? : Latinoamericanos en Japón” とその日本語訳を、現代企画室から出版しております。これも、私たちにとっては必然的な仕事でした。

日本社会には、長らく、日本は古代以来異民族が混淆しながら形成された社会ではなく、単一民族国家であるという硬直した考え方があります。民族の純血性を尊いとする考えは、容易に、ゆがんだ自民族中心主義や排外主義に結びつきます。19世紀後半から20世紀半ばにかけて、日本はこのような考え方の基に、近隣諸国に対する植民地支配と侵略戦争を行なうという過ちを犯しました。敗戦後の社会でも、日本が単一民族国家であるとする考え方は生き延びています。少子高齢化社会を迎えている日本は、単純労働を担う若年労働力の不足に見舞われるようになりました。1990年代初頭、政府は、海外に住む日系人の子弟に限って、来日して単純労働に就くことを認めました。ラテンアメリカには、ブラジルの60万人を筆頭として巨大な日系人の社会があります。19世紀末から20世紀初頭にかけて、当時の日本政府は貧しい農村人口を減らすための棄民政策を取ったために、大量の移民をラテンアメリカ諸国に送り出したのです。それから1世紀が過ぎて、最初の移民の子弟たちが「豊かな」日本を目指して働きに来るようになりました。

そのような時代が来てしばらくして、CATLAという団体が結成されました。”Comité de Apoyo a los Trabajadores Latinoamericanos” です。遠くラテンアメリカからやって来た移住労働者たちは、厳しい労働条件・低賃金・労働中の怪我などの困難な問題を抱えるようになったので、彼ら・彼女たちを支える運動体が必要になったのです。もちろん、言葉の壁もあるので、日々の生活での細々したことでも問題が山積でした。ごみの出し方、子どもが通う学校のこと、外国人にはアパートを貸したくないと考える家主との交渉、人種差別――いくつもの問題があるので、よき仲介者を得て、じっくりと話し合ったり、交渉したりして、より良い相互関係をつくることが必要でした。私たちも、このCATLAの活動に協力していましたが、実はモンセ・ワトキンスとの初めての出会いは、このCATLAの会合の場だったのです。

經濟のグローバル化に伴って、ヨリ豊かな社会に向かって労働者が移動するのは、世界の趨勢です。移住労働者を待ち受ける苦難の物語はさまざまにあるでしょう。また、受け入れ国側が開かれた社会であって、遠来の働く人びとのために心を込めて、労働と生活、基本的人権の保証などの条件を整備する模範を示すなら、そこには異民族間の豊かな出会いの物語も生まれるでしょう。今はまだ、外国人労働者にとっての苦難の物語の方が多いのですが、ジャーナリストとしてのモンセがこのテーマに関心を持ったことは、彼女の根底にあるヒューマニズムの精神からして、十分理解できることです。この書物のスペイン語版は、ラテンアメリカから来ている移住労働者自身が自分たちの現状を歴史的な背景に基づいて知るために、また日本語版は、日本人が自分たちの社会は外国から来ている労働者をどのように処遇しているかを知るために、役立ったのです。

しかし、ジャーナリストの顔を持つモンセは、同時に、やはり文学愛好者でもあり続けていました。ラテンアメリカからの移住労働者が書いた短編の文学作品のアンソロジーを、彼女が編者になって、1997年に出版しています。タイトルは” Encuentro : Colectánea de autores latinos en Japón”です。”Encuentro”というタイトルには、彼女の祈りが込められているように思えます。

まとめます。モンセ・ワトキンスは、このように、日本文学をスペイン語に翻訳・紹介するうえでも、ラテンアメリカ諸国と日系移民の関わりを振り返るうえでも、先駆的で、重要な仕事を果たしました。もちろん、彼女はさまざまな協働者・協力者にも恵まれたとは言えますが、あの発動機のような彼女の働き・活動がなければ、どれ一つとして実現したものはなかったでしょう。その意味で、モンセ・ワトキンスの人格と仕事は、スペイン語文化圏と日本語文化圏の間に架けられた見事な懸け橋として、永遠に不滅なのです。

彼女の早すぎた死から15年を迎えるいま、「ありがとう、モンセ!」の言葉を、あらためておくります。

ご清聴、ありがとうございました。

Publicar en español en Japón


Ponencia en la Mesa Redonda “ Traducción al español de la Literatura Japonesa : 15 años despues de la muerte de Montse Watkins” ( Instituto Cervantes, 4 de octubre del 2015 )

Hace treinta años fundé la Editorial Gendaikikakusitsu que sigo dirigiendo hasta el día de hoy. Es una editorial pequeña pero publica libros de diversos temas del área de las humanidades. Destacaré que en estos años hemos publicado más de cien títulos de literatura, historia, filosofía, pensamiento, música, cine, bellas artes, diseño, etc. relacionados con Latinoamérica y España porque yo mismo he tenido un gran interés en la historia y cultura del mundo hispánico. En ese sentido puedo presumir de haber contribuido de alguna manera a la divulgación de la diversidad y la riqueza de las diferentes expresiones culturales del mundo hispánico entre los lectores japoneses.

Sin embargo, el intercambio cultural no ha de ser unilateral. Es absolutamente necesario establecer el vínculo de integración y comunicación recíprocas. Tuvimos la oportunidad de conocer a Montse Watkins a principios de los años 90 cuando nuestra editorial llevaba quince años de actividad y ya habíamos publicado bastantes libros sobre el mundo hispánico. Tan pronto nos pusimos a conversar con Montse Watkins nos dimos cuenta del profundo interés que tenía por la cultura japonesa. El motivo había sido el arte tradicional y las películas de Yasujiro OZU que vio en España, y pudimos percibir enseguida la rapidez y la profundidad sorprendente con que se había sumergido en la cultura japonesa desde que empezó a vivir en Japón.

Destacaré especialmente dos aspectos: En primer lugar ella había incorporado en su estilo de vida abundantes costumbres que los japoneses contemporáneos habían olvidado y abandonado. En segundo lugar, había leído, investigado y asimilado obras literarias de las épocas moderna y contemporánea de Japón. Yo trabajaba en la publicación con esposa Hideko Karasawa. Y diría que un lazo muy especial de amistad unió a Montse y a Hideko desde el primer momento.

Montse nos comunicó que deseaba traducir las obras literarias de los autores japoneses más famosos al español y publicarlas. Asimismo, que ella ya tenía traducida al español la obra “Hakai” El precepto roto, de Toson SHIMAZAKI. Es una obra que trata sobre un problema social grave arraigado en la sociedad japonesa: discriminación y persecución de las personas de determinada clase social, lugar de residencia y profesión. Nos quedamos muy asombrados al enterarnos la profundidad con la que ella había comprendido la sociedad japonesa cuando nos contó que había terminado de traducir esta obra que no es nada fácil de interpretar.

Y desde ese preciso instante supimos que podríamos trabajar juntos con ella con una profunda relación basada en la confianza mutua.

Nuestra forma de trabajar como editorial hasta entonces consistía en traducir los libros del mundo hispánico al japonés, publicarlos y distribuírlos en Japón, es decir, nos limitábamos a la importación de la cultura hispánica. Si nuestra editorial pudiera proporcionar y vender las traducciones al español de la literatura japonesa realizadas por Montse conseguiríamos un intercambio cultural realmente recíproco, y haríamos realidad nuestro sueño de muchos años. Estimulados por esta idea pusimos en marcha el proyecto encaminado a realizar el sueño compartido de Montse y nosotros.

Entre la selección de escritores de literatura de los siglos XIX y XX cuya traducción al español deseaba publicar, figuraba, además de Toson SHIMAZAKI, Kenji MIYAZAWA, Soseki NATSUME, Ogai MORI, Osamu DAZAI, Ryunosuke AKUTAGAWA, Yakumo KOIZUMI y Saneatsu MUSHANOKOJI. Nos pareció perfecta esta selección de los mejores y más representativos escritores japoneses.

Por otro lado, Montse pensó que era imprescindible obtener una financiación para sus publicaciones y así poder materializar este proyecto que nunca gozaría de recompensa económica. Pensó en el programa de subvención a las publicaciones de la Fundación Japón, Kokusai koryu kikin y presentó la solicitud correspondiente. Su entusiasmo también conmovió a todo el personal encargado de dicha Institución. En 1994 fue publicado la colección de relatos titulada Tren Nocturno de la Vía Láctea, obra de Kenji MIYAZAWA, nuestro primer trabajo con la subvención de la Fundación. Montse Watkins llevó a cabo una gran obra traduciendo y publicando trece obras literarias japonesas durante los seis años transcurridos desde ese año de 1994 hasta 2000, cuando tristemente falleció.

Como he dicho anteriormente, recogimos en nuestra alma unos frutos culturales realmente grandiosos traduciendo y dando a conocer obras excelentes del mundo hispánico en Japón. Pero podríamos decir que teníamos un déficit en la difusión de la cultura de Japón. Pienso que, en cuanto al mundo literario japonés pudimos corresponder a Uds., aunque de forma modesta, trabajando junto con Montse. Si la presentación y difusión del patrimonio espiritual japonés llegó a ser un intercambio realmente recíproco fue gracias a Montse, promotora de este gran proyecto, quien contribuyó con su estusiasmo inagotable, lo cual significó una profunda alegría para nosotros, el personal responsable de Gendaikikakushitsu, que felizmente actuamos como intermediarios.

Siguiendo con otro tema, Montse tenía, además de su faceta de traductora y difusora de la literatura, su faceta de periodista. Su trabajo periodístico ¿El fin del sueño?: Latinoamericanos en Japón y la traducción al japonés del mismo, titulada 夢のゆくえy realizada por Mitsuko Ido, lo publicamos también en Gendaikikakushitsu y fue una labor absolutamente necesaria para nosotros.

La sociedad japonesa se ha aferrado desde épocas antiguas a la idea de que es un país monoétnico, es decir, que los japoneses provienen de una sola etnia homogénea de pura raza. Estas teorías sobre la pureza racial se vinculan fácilmente con el etnocentrismo extremo o la xenofobia. Japón cometió el error de someter al colonialismo e invasión a los países vecinos basándose en esa teoría desde fines del Siglo XIX hasta la mitad del XX. Y la noción de que Japón es un país de raza homogénea perdura en la sociedad aún después de la derrota en la guerra.

La sociedad actual en el proceso de envejecimiento y la baja tasa de natalidad ha empezado a sufrir de escasez de fuerza laboral joven para realizar trabajos no cualificados. A comienzos de los años noventa, el gobierno japonés abrió el mercado laboral y reconoció el derecho a la residencia y empleo de los NIKKEI o descendientes de los japoneses que emigraron a ultramar en el pasado, para dedicarse a ese tipo de trabajo. En América Latina hay una colonia muy numerosa de japoneses, el primer lugar lo ocupa Brasil, con 600.000 personas. En Japón desde finales del siglo XIX hasta principios del siglo XX el gobierno de la época adoptó la política de abandonar a la gente haciéndola exiliarse con el objetivo de reducir la población pobre en las zonas agrícolas, lo cual llevó a un gran número de japoneses a emigrar a varios países latinoamericanos como Perú, Argentina, etc. Transcurrido un siglo empezaron a venir a trabajar al Japón enriquecido económicamente los descendientes de estos primeros emigrantes.

Algún tiempo después se fundó CATLA, el “Comité de Apoyo a los Trabajadores Latinoamericanos”. Y estos emigrantes que vinieron de lejanas regiones empezaron a hacer frente a numerosas dificultades tales como las duras condiciones laborales, bajos sueldos o lesiones o accidentes durante la jornada laboral, por lo cual surgió la necesidad de contar con alguna entidad que les asistiera. No hace falta insistir en que el idioma era una barrera, y que se habían acumulado numerosos problemas concernientes a la vida cotidiana. La manera de dividir la basura, la escuela en que estudian sus hijos, la negociación con dueños de casas que no desean inquilinos extranjeros, discriminación racial – había un sinfin de problemas y la necesidad de establecer relaciones positivas conversando con calma y negociando a través de intermediario adecuado para conseguir un verdadero entendimiento cultural. Nosotros colaborábamos en las actividades de CATLA. De hecho, conocimos a Montse Watkins justamente en una reunión de esa entidad porque ella ayudó a muchos inmigrantes en todo tipo de problemas.

La tendencia general del mundo actual, a medida que avanza la globalización, es que los trabajadores se trasladan a una sociedad más “rica”, económicamente hablando y, por tanto, los emigrantes tendrán que hacer frente a diversas dificultades.

Deben de existir muchas historias de sufrimientos que soportan los trabajadores inmigrantes. De la misma manera, deben de nacer historias de felices encuentros entre diferentes culturas en una sociedad abierta donde se muestra la iniciativa sincera de proponer y mejorar las condiciones para la garantía de los derechos humanos fundamentales, la vida y el trabajo de los que vienen de lejanas tierras.

Por eso comprendo muy bien que la periodista Montse Watkins tuviera tanto interés en estos problemas dada su profunda empatía y su espíritu humanista.

La edición en español de su libro sirvió para que los trabajadores emigrantes provenientes de la América Latina conocieran su situación actual en base a los antecedentes y el contexto histórico. Por otro lado, la traducción al japonés ha sido muy útil para que los japoneses sepamos cómo trata su sociedad a los trabajadores que vienen del exterior.

Pese a todo, Montse, con su afán investigador de periodista, siguió siendo amante de la literatura. En 1997 publicamos la antología de cuentos cortos escritos por los trabajadores de origen latinoamericano y editada por ella, algunos de los cuales siguen viviendo en Japón. Se titula Encuentro: Colectánea de autores latinos en Japón. Tengo la sensación de que la palabra “encuentro” representa su más profundo deseo a modo de plegaria.

En resumen, y como hemos visto, Montse Watkins fue pionera en numerosas áreas y realizó un gran trabajo traduciendo al español la literatura japonesa y divulgándola así como reflexionando sobre el vínculo que une a los países latinoamericanos y a los inmigrantes japoneses. Es verdad que tuvo la suerte de contar con varias personas que trabajaron y colaboraron con ella. No obstante, nada de todo esto hubiera sido posible sin la fuerza motriz de su acción, ilusión y actividad. En ese sentido la personalidad y la labor cultural de Montse Watkins son el magnífico puente inmortal que une el mundo hispánico con el japonés.

Transcurridos quince años desde su prematuro fallecimiento, le reitero una vez más mis palabras de agradecimiento: ¡Gracias, Montse!

Muchas gracias por su atención.(traducido al español por Elena Gallego )