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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

ロルカの生きた時代――米西戦争からスペイン内戦まで


『ガルシア・ロルカ生誕祭119』(2017年6月4日、広島のcafé-teatro Abiertoで開催)における講演

1)米西戦争

さてもさても、お集まりの皆さん、私はこの4年間、ガルシア・ロルカが生まれたこの季節になると、この舞台の上で、ロルカが書いた詩を原語でふたつ三つと朗読してまいりました。今年は趣向変わって、彼が生きた時代を背景に、その短かく終わった人生の足跡を辿ることに相なった次第。題して「ロルカの生きた時代――米西戦争からスペイン内戦まで」。わずか30分に彼の生涯を凝縮してお話しするのは至難の業ですが、ともかくそれを試みるゆえ、とくとお聞きあれ。

スペインといえば、だれもが知っている名前をいくつか挙げましょう。「ドン・キホーテ」という名は、この国では安売り雑貨屋の名としてまかり通ってしまった風情なれども、もともとは、16、7世紀スペインが生んだ文豪、セルバンテスが書いた長編小説のタイトルこそが『ドン・キホーテ』。世界的に見ても時空を超えた大傑作というべき小説のタイトルが、21世紀の日本国ではこんな店の名として「盗用」されていることを知ったならば、天国にいるのか地獄にいるのか、名付け親のセルバンテスはびっくり仰天しているに違いありません。

さらには、絵画の世界を覗けば、古くは18世紀のフランシスコ・ゴヤ、20世紀の現代に来れば、パブロ・ピカソ、サルバドール・ダリ、ジョアン・ミロなど、言い古された言葉なれども、まるで綺羅星のごとく天才的な画家たちが居並びます。あの奇怪にして魅力的な建築物を手掛けたアントニオ・ガウディ、その息遣いがチェロの音色と一緒になって聞こえてくるチェロ弾きのパブロ・カザルス、鬼才という形容がよく似合う、映画監督のルイス・ブニュエル、そして今日も、私たちの心を掴んで放さないカンテの歌やフラメンコの舞踏――ともかく、文化面からみれば、スペインという国は、妖しくも煌びやかな光を放っているのでございます。我らがガルシア・ロルカも、まぎれもなく、その中の一員だということをお忘れなく……。

さて、ロルカが生まれたのは1898年。今を去ること、120年前ということになります。ベン・シャーン、ジョージ・ガーシュイン、ルネ・マグリットなどが同じ年の生まれです。この年は、スペイン史においては忘れることのできない出来事が起きました。米西戦争、すなわち、スペインは、遠く大西洋を隔てた国、アメリカ合衆国との戦争を行なう破目に至ったのです。なぜか。

歴史を遡れば、スペインは世界史に植民地支配の時代を生み出した先駆けの国です。今から逆行すること5世紀ちょい、15世紀末に、スペイン女王の資金援助を得たコロンブスは大海原を西へ、西へと航海し、遂に現在のアメリカ大陸に到達しました。ヨーロッパには未知の土地であったこの大陸と周辺カリブ海の島々の大部分を、スペインは植民地としたのです。以来3世紀有余、スペインは、現在のメキシコからアルゼンチン、チリまでの広大な米大陸の支配者として君臨しました。ラテンアメリカの国々がスペインからの独立を遂げたのは19世紀初頭。したがって、いっときは海を伝って世界各地に植民地を築き上げたスペインは、米国との戦争が始まる19世紀末には、アジア太平洋のフィリピンとグアム、カリブ海のキューバとプエルトリコ、さらにはアフリカの一角のモロッコに植民地を遺すだけとなっていたのです。しかも、フィリピンとキューバでは、激しい独立闘争がたたかわれていました。

こうして、植民地帝国=スペインは追い込まれていた。一方、米国は1890年のサウスダコタ州ウーンデッド・ニーにおける先住民族スーの大虐殺によって、長年続いたインディアンの抵抗を最終的に圧し潰し、国内を「平定」することに成功した。だから、この時期以降の米国は、対外的に膨張する道を選び、まずは近隣のカリブ海に注目し、どこかの国に付け入る隙を虎視眈々と狙っていたのでありました。スペインに対して独立闘争を戦っているキューバこそ、絶好の機会を提供する場所。首都ハバナ沖に軍艦を派遣したところ、これが爆発・沈没した。歴史的に見ても、米国はフレームアップ、でっち上げの嘘を口実に戦争を仕掛けることが得意。米軍艦爆破はスペイン軍の仕業だとして、スペインに宣戦を布告したのです。落ち目の植民地帝国=スペインと、日の出の勢いの新帝国=アメリカの軍事力の差は歴然。アメリカはいとも簡単にスペインを負かしてしまったというのが、事の次第でございました。

スペイン人から見れば、世界に先駆けて植民地帝国となった15世紀末以降しばらくは「黄金時代」、それが見る見るうちに後発のヨーロッパ列強に追いつかれ、追い越されてきたのがスペイン近代史の流れでしたが、「黄金時代」から4世紀を経て、とうとう「(18)98年の不幸」と自嘲する時代に突入したのでした。スペインがなお支配していた植民地は、北アフリカのモロッコだけになりました。モロッコは、この後の歴史でも重要な地名として再登場します。覚えておかれますように。

さて、しかし、歴史的な「逆行」の時こそ、個々人の精神の深部では、とりわけ芸術家にあっては自らの真の姿に真っ向から向き合う時――先に触れた、ガウディの建築を筆頭にした文化的ルネッサンスの動きは、まさにこの時期を前後して始まっていたのです。かの有名な「サグラダ・ファミリア=聖家族教会」や「グエル邸」関連などの建造物は、この時代の真っただ中の仕事です。アフリカの彫刻に深い関心を抱いたピカソが、キュビズム革命の発端となる「アビニヨンの娘たち」を描いたのも1907年ですから、この時代の文化的な凝縮のほどが知れます。早熟にして多面的な才能に恵まれていたロルカは、まさにこの文化的ルネッサンスを養分として育ったのでした。

さて、しばらくは、その後のスペインの歴史の流れを一瞥しておきましょう。1898年にフィリピンとキューバ民衆の独立闘争によって長年にわたるスペインの植民地支配が打倒されたならば、それは、いわば、歴史的な必然であった、と言えましょう。スペインはその運命を甘受し、祖国再生の道を歩んだことでしょう。だが、この独立闘争は、スペインの後釜としてこれらの地に君臨しようとするアメリカの奇襲作戦によって、性格を一変させたのでした。フィリピンとキューバの民衆にとっては、自らの解放を賭けた独立闘争が、スペインとアメリカの2大大国の戦争になってしまったのですから、たまったものではありません。いつ変わることのない、大国の身勝手さに悔しい思いをしたことでしょう。この事件は、実は、世界全体から見ても重大な意味を持っていました。アメリカという国は、この戦争を通して、他国に軍事介入さえすれば、新たな領土や資源や労働力や軍事基地を獲得できるのだという価値観をもってしまったのです。だから、あれから1世紀以上も経ったいまなお、アメリカはそのようにふるまい続けています。72年も前に戦争が終わった沖縄に、新しい軍事基地を作ろうとしているのを見れば、この言い方が的外れでないことがお分かりでしょう。

ただ、どんな国にも、大勢に流されず、ひとりになっても抵抗の言説をやめないひとはいる。それを知ることも大事です。この時代のアメリカの場合、それは作家、マーク・トウェインでした。そうです、あの『トム・ソーヤーの冒険』や『ハックルベリー・フィンの冒険』の作家です。米西戦争の結果、アメリカは敗戦国スペインからフィリピンを買い取りました。新たな植民地にしたのです。大国間の身勝手な取引きに抵抗・反対して、フィリピン民衆は、やってきた米軍にゲリラ戦で闘いを挑みました。米軍はすさまじい弾圧をこれに加えました。これを知って、マーク・トウェインは言ったのです。「われわれは、何千人もの島民を鎮定し、葬り去った。彼らの畑を破壊し、村々を焼き払い、夫を失った女や孤児たちを追い出した。こうして、神の摂理により……これは政府の言い回しであって、私のものではない……われわれは世界の大国となったわけだ」

20世紀初頭の、忘れることのできないエピソードです。どんな時代にあっても、このような人物が実在することは、私たちへの励ましです。どんな社会も「ファシズム一色」「侵略戦争賛美一色」に塗り込められるのではないのです。

2)スペイン内戦

さて19世紀末のスペインに戻りましょう。スペインにとっては、アメリカへの軍事的な敗北は屈辱でした。政治的・社会的には、混乱と混迷が続きました。政党政治は立ち行かなくなりました。残された唯一の植民地モロッコでは、反スペイン暴動が頻発し、これを鎮圧するために軍隊を派遣する事態が度重なりました。この状況の中で、もともとスペインの土地に根を張っていたアナキズムの思想と運動が急速に育っていきました。とりわけ、バルセロナを中心とするカタルーニャ地方の工場労働者と、万年飢餓状態に置かれていたアンダルシーア地方の農民は、権力から遠く、「土地と自由」を愛するアナキズムの理念を、いわば身体的に受容したのです。「土地」とは、そこに種を蒔き、貴重な農産物を手にすることのできる場所です。「自由」とは、人が生きる上で譲ることのできない絶対的な価値です。「土地と自由」とは、人が生きるための物理的・精神的な根拠地なのです。アンダルシーアは、ロルカが生まれ育った地でもあることを思い出しておきましょう。

さて1920年代にも起こったモロッコでの反乱を鎮圧するために出動しこれに成功した軍部がその後政治の実権を握り、軍事独裁の時代が誕生します。1930年、8年間にわたって口を封じられてきた民衆は、王政か共和制かを問われた地方議会選挙で、共和制を選んだ。国王は逃亡し、第2共和国が誕生した。これが、世界史的に見ても忘れがたい1930年代スペインの幕開けでした。これ以降、左右両派の対立が激化します。1936年の国会議員選挙で人民戦線派が勝利すると、ファシストたちが暴動を引き起こす。人民戦線派の労働者は、ストライキをもって対抗する。

さて、このころスペインが保有していた唯一の植民地、アフリカのモロッコには、暴動鎮圧のためにスペイン軍兵士が多数派遣されていたことには、先にも触れました。このモロッコの地で軍がクーデタを引き起こしたのです。指導者はフランコ将軍でした。時は1936年7月18日。同時に、スペイン各地の主要都市でファシストの武装蜂起がいっせいに起こりました。そして共和国に対抗したのです。ここに、スペイン内戦、スペイン内乱、あるいはスペイン市民戦争とも呼ばれますが、それが始まったのです。

当時、ヨーロッパには、すでに二つの国で、ファシズム体制が成立していました。ヒトラーはドイツで全権を掌握し、ナチス党の独裁が始まっていました。イタリアでもムッソリーニが権力を握り、エチオピアへの侵略を開始していました。アジアにおいては、日本が「大東亜共栄圏」建設の美名の下で、近隣のアジア諸国侵略の道を突き進めておりました。日本、ドイツ、イタリアのファシズム3国が「日独伊防共協定」を結ぶのは1937年です。このような世界情勢を背景に展開されたスペイン内戦は、考えるべき大事なことがいっぱい詰まっています。きょうはとても時間がないので、かいつまんで、いくつかの重要な点にのみ触れます。

この内戦は、1939年3月までの3年間にわたって続きました。

ファシストは強固に結束していました。国際的にはドイツとイタリアの支援を受け、首都マドリーの攻防戦では、イタリア軍の地上軍派遣が大きな役割を果たしました。バスク地方を含む北部戦線にあっては、反乱軍を支援したドイツの空軍部隊がゲルニカという小さな村で無差別爆撃を行ない、それが引き起こした惨状に怒りと哀しみを押さえきれなかったピカソは、即座にあの大作「ゲルニカ」を描くに至るのです。スペイン人の精神生活上重要な役割を果たしているカトリック教会が、フランコ指揮下の反乱軍は「無神論と共産主義」から祖国を救う十字軍だと称賛したことも、人びとを結束させるうえで計り知れない助けとなりました。

これに対して、共和国側はどうだったでしょうか。共産党からトロツキスト、アナキストなど、さまざまな潮流がおりました。考え方や政治路線の違いはあって当然ですが、その違いを内部矛盾として上手に処理する知恵を欠いていた、と言えます。とりわけ、官僚主義的な共産党、これはモスクワのソ連共産党からの指示に基づいて行動するのですが、当時ソ連ではトロツキストをはじめとするスターリンの「政敵」対する粛清の嵐が吹きすさんでいた頃でした。スペインではトロツキズムやアナキズムの運動が根強い大衆的な基盤を持っているのに、モスクワの指示に従ってこれを弾圧すれば、どんな結果が生じるかは自明のことだったのです。すなわち、共和国側には、異なる集団間の路線上の違いを解決する術がなかったのです。とりわけ、ソ連共産党のスターリン主義的な路線が果たした役割は犯罪的であったと断言しても過言ではないでしょう。

スペイン内戦は、それが孕んでいた「希望」と「錯誤」ゆえに、あの時代に生きていた世界中の人びとに大きな影響を及ぼしました。これをテーマに小説、ルポルタージュが書かれ、映画にもなりました。イギリスの作家、ジョージ・オーウェルは『カタロニア賛歌』を、アメリカの作家、アーネスト・ヘミングウェイは『誰がために鐘は鳴る』を書きました。スペインでは、ホセ・ルイス・クエルダが『蝶の舌』を、ビクトル・エリセが『ミツバチの囁き』を制作し、イギリスの映画作家ケン・ローチも『土地と自由』と題した作品でこのテーマを描いています。

ここで私は、忘れることのできない一人の女性の発言を記録しておきたいと思います。フランスの思想家、シモーヌ・ヴェイユの発言です。ヴェイユは、もちろん、その思想的・政治的な立場からしてファシストの敗北を願い、共和国側の勝利を願ったひとです。内戦が勃発した直後の1936年8月、共和国側に加担するためにスペインへ義勇兵として赴いてもいます。事故で火傷を負い、心ならずも2ヵ月で帰国することになったのですが、その彼女がスペイン戦争で現認したことは、「理性や信条を無意味化する戦争のメカニズムというものがある」ということでした。彼女は、共和国派の、とりわけ底辺の民衆の渇望や犠牲的精神に促された義勇兵への共感を決して放棄してはいない。同時に、味方の軍勢の中で吸い込んだ〈血と恐怖のにおい〉も記さずにはいられなかった。それは〈解放の主体〉であるはずの者が〈金で雇われた兵隊たちのするような戦争に落ち込んで〉いき、〈敵に残虐な行為の数々〉を加え、〈敵に対して示すべき思いやりの気持ち〉を喪失する過程であった。

スペインで内戦が勃発したことをパリで知ったヴェイユは、「勝利を願わずにはいられなかった」反ファシズムの側にも、このような現実があったことを知ったのです。私は、ファシズムとたたかった人びとの感動的なエピソードをいくつも知っていますが、同時に、この現実からも目を逸らすわけにはいかないのです。

スペイン内戦をめぐるこれらのエピソードから得られる教訓は明らかです。

ファシズムは、もうたくさんだ!

スターリン主義は、もううんざりだ!

ひとびとからモラル(倫理)を奪い取る戦争は、もうたくさんだ!

すべてが、現代を生きる私たち自身に関わってくる課題です。スペインを二分してたたかわれた内戦は、深い傷跡を残しました。独裁者フランコ将軍は1975年に死ぬのですが、実に35年近くその支配が続いたのです。共和国派の人びとは、そのかん一貫して、逮捕・投獄・拷問・軍事裁判による重刑判決・亡命などの運命を強いられました。30年もの間、自宅の「壁に隠れて」暮らしたひとの実話も残っているくらいです。スペイン内戦で問われた事柄は、遥か昔の話ではなく、過ぎ去った過去でもないのです。

3)ガルシア・ロルカの生死

さて、このような時代を駆け抜けたロルカの人生を簡潔に振り返っておきましょう。

120年前の6月5日、ロルカが生を享けたのは、グラナダ市に近いフエンテ・バケーロスという町でした。私は訪れたことがありませんが、広がる沃野の中に白壁の家々が立ち並ぶ、南スペインの典型的な小部落だと言われています。音楽と詩が好きだった母親の影響はよく言われるところですが、彼は、母、祖母、伯母、乳母たちに囲まれて、抱きかかえられるようにして大事に育てられたと言います。とりわけ、年寄りの召使ドローレスが語るアンダルシーアの伝説や、歌う土地の民謡を聞きながら眠ったようです。ロルカは、後年、アンダルシーアの民間伝承に深い関心を抱き、カンテ・ホンドや各地の子守歌を採集し始めるのには、この幼児体験が基盤にあるようです。

やがて、ロルカの一家はグラナダへ引っ越します。皆さんもご存じでしょう、グラナダは、アルハンブラ宮殿を初めとしてイスラーム文化の痕跡が数多く残る街です。ロルカは心から愛したこの町で大学へ通い、哲学・法律。・文学などを学びました。10代後半に熱中したのは音楽でしたが、師匠の突然の死に出会ってその道は挫折し、文学に方向を転換しました。ここで彼は詩作を始めます。

1919年、21歳になったロルカは、グラナダ大学の法律の教授で、社会主義者であったフェルナンド・デ・ロス・リーオスを敬愛していましたが、彼の勧めでマドリーの「学生館」

へ赴きます。若い芸術家や文学者のたまごが集まる場所です。ここで彼は、すでに名前を挙げたサルバドール・ダリやルイス・ブニュエルなどと知り合い、親友となったのです。およそ10年をここで過ごしました。土着的な詩的伝統に深い関心を抱いていたロルカは、ここで、友人たちが熱中するシュルレアリスムなどの近代的な感覚や表現に出会ったのでした。最初の詩集『詩の本』を先駆けとして、『カンテ・オンドの詩』『組曲集』『歌集』『ジプシー歌集』はすべてこの時代に書かれているのですから、充実した時期を過ごしていたことがわかります。戯曲も手掛けていましたし、遺されているデッサンの多くもこの時期に描かれたものです。

したがって、マドリーからグラナダに戻ったロルカの「名声」は高まっていた。だが、その名声にも疲れたのでしょう。リーオスと共にニューヨークへ発ったのが1929年でした。コロンビア大学に入り、一年間を過ごします。1929年とは、あの世界大恐慌の年です。資本主義市場が大混乱に陥るなかで、彼にはハーレムだけが落ち着く場所だったようです。そこではじめて聞いたジャズの向こう側に、故国のフラメンコのリズムの魅惑を再発見した、と言われています。ニューヨークの次には、キューバのハバナへ行きました。キューバはフィリピンと違って、米西戦争後独立は遂げていました。しかし、米国の海軍基地が強引に設けられ――驚くべきことに、そのグアンタナモ米軍基地は1世紀を超える115年が経った今もキューバに返還されることなく、米軍は居座り続けているのです!――、経済的にも米国企業の支配下に置かれていました。そのことへのロルカの反応は残されていませんが、ニューヨークのハーレムで会った黒人たちとジャズに深い印象を受けていたロルカは、キューバではまた別な黒人と出会ったことに心を動かされたと言います。つまり、アングロ・サクソンの文化ではなく、ラテン系の文化の中での黒人に出会ったのです。音楽好きであったロルカが、ハバナの街のあちらこちらから聞こえてくるキューバン・リズムに感興を掻き立てられたであろうことは、想像に難くありません。

ロルカがスペインに戻ったのは1930年でした。翌年の1931年には、国王が国外に逃亡し、共和制に移行したことはすでに触れました。政治的・社会的な激動は、一般的に言っても、文化・芸術表現の世界にも活況をもたらします。民衆文化を掘り起こし、これを再興しようとする機運が盛り上がったのです。それは、以前から、ロルカが求めていた道でもありました。ニューヨークへも同行した、敬愛するリーオスは、共和政府の教育相に任ぜられました。ロルカは古典劇の傑作を携えて、全国を巡回しました。移動劇団【La Barraca ラ・バラッカ=仮小屋、掛け小屋、バラック】プロジェクトです。演じるのは主として学生、トラックには簡素な舞台装置を積み込み、辺鄙な農村にまで出かける。「黄金世紀」の喜劇を即興的なセリフでアレンジし、ロルカの中に蓄積されていた古い民謡に関する知識を生かして編曲した音楽が盛り込まれる。自分の世界に近しい物語や音楽に触れることができた、観客となる農民たちの喜びが、目に浮かぶようです。

この時期、ロルカは、さすがに多作です。『血の婚礼』、『イェルマ』、『ベルナルダ・アルバの家』の代表的な戯曲の3部作を書き上げます。牛の角に刺されて死んだ親しい友人の闘牛士、イグナシオ・サンチェス・メヒーアスを哀悼する詩集も出版します。また、グラナダの地に似つかわしくも、アラビアの詩型を借りた一連の短い抒情詩を『タマリット詩集』と題して出版する準備も始めました。まさに、脂の乗り切った時代の活躍ぶりと言えましょう。

1936年7月13日、恒例の家族の集まりに顔を出すために、ロルカはマドリーからグラナダに向かいました。先にも触れましたが、この3日後に、モロッコでは軍部のクーデタが起こりました。スペイン全土で、ファシストの蜂起がいっせいに起こりました。ロルカが戻った故郷=グラナダも、右翼ファシストであるファランヘ党員による制圧下にありました。ロルカは、直接に政治に関与していたわけではありません。しかし、移動劇団「ラ・バラッカ」は明らかに共和政府の保護の下で行なわれていました。また、共和派の側に立つことを公言していた彼は、こうも言っています。「私はすべての人びとの兄弟であり、抽象的な国家主義的観念のために自分を犠牲にしようとする人びとを憎む」と。また、「芸術家はただひとつのもの、すなわち芸術家であらねばならない。芸術家、とりわけ詩人は常に、言葉の最良の意味においてアナキストでなければならない」「僕は絶対に政治家にはならない。僕は革命家なんだ。だって、革命家じゃない本物の詩人なんていないからだよ」という言葉も残しています。

ロルカの立場は鮮明でした。1936年8月18日早朝、ロルカは友人の家からファシストたちに連れ去られました。オリーブ畑に運ばれたロルカは、連行された他の共和主義者と共に、自らの墓穴を掘らされた挙句、その場で銃殺されたのです。

享年38歳でした。

さて、私はここまで25分間をかけて、ガルシア・ロルカの生涯とその時代を駆け足で語ってきました。1898年に生まれ、1936年に死んでいったひとりの人物。スペイン現代史を画する年が、その生年と没年に刻印されています。いかにも、象徴的なことです。ここで、私の話を止めるべきでしょうか。否、私は止めません。止めるわけにはいかないのです。ファシズムが勝利し、その過程で我らが愛するひとりの詩人が殺されたところで話しを止めるわけにはいかないのです。このままでは、人間の歴史があまりに哀しすぎる。

最後に、ロルカの詩を読むのも一つの方法です。でも、それは今までも読んできました。きょうは、小さな子どもが大好きであった詩人のひとつのエピソードに触れます。親友サルバドール・ダリの故郷を訪ねた時のエピソードです。子どもたちが海辺で遊んでいると、そばにいたロルカは突然風に吹かれて飛んできた紙を掴むふりをした。「あっ、小さなマルガリータの手紙だ」と言ったロルカは、次のように続けたのです。「愛する子どもたち。私は、たてがみを風になびかせて、星を探している白い馬だ。星を探すために、どんなに走っているか、見てほしい! でも、見つからないんだ。疲れた、これ以上、走れない。疲労が私を溶かして煙にしてしまう。形がどう変わるかみてごらん」。

子どもたちは、やがて、馬のたてがみやシッポや、星までをも幻視したと言います。石を読んでと言って、ロルカに石を渡した子がいました。すると、ロルカは「愛する子どもたちよ。私は何年も何年もここに住んでいます。その間、一番幸せだったのは、蟻たちの巣の屋根になれたことです。蟻たちは、私が空だと思っていたので、私もその通り空だと信じ込みました! でも、今、私は自分が石だと気づいたので、この思い出は、私の秘密です。誰にも、この秘密を話しては、だめだよ」

ここしばらくのあいだ、ロルカの詩に親しんで来られた聴衆のみなさんは、これらの即興表現には、ロルカの詩的世界が横溢していると思いませんか。登場する生き物にも、使われているメタファーにも……。

子どもたちにこのように接したロルカの、詩人の魂に乾杯! です。

そして、ロルカの、このような即興の小さな物語を柔らかな心で受け止め、理解し、自分の心の中で大きく育てていくであろう、過去・現在・未来の世界じゅうの子どもたちがもつ可能性に希望と期待を抱いていることをお伝えして、私の話を終わります。

ありがとうございました。

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[85]PKO法成立から25年目の機会に


『反天皇制運動 Alert』第12号(通巻394号、2017年6月13日発行)掲載

1992年6月、PKO(国連平和維持作戦)法案が成立した。今から、ちょうど、25年前のことである。法案審議が大詰めを迎えた攻防の日々には、ほぼ連日、国会の議員面会所なるところへみんなで出かけていた。野党議員の報告を聞き、「激励」するのである。私は、ソ連の体制崩壊と同時期に進行したペルシャ湾岸戦争(1990~91年)の過程でこの社会に台頭した「国際貢献論」(クウェートに軍事侵攻したイラクの独裁者フセインに対して、世界が挙げて戦おうとしている時に、この地域で産出する石油への依存度が高い日本が憲法9条に縛られて軍事的に国際貢献ができないのはおかしい、とする考え方)を批判的に検討しながら、戦後期は新しい時期に入りつつあると実感した。「反戦・平和」の意識を強固にもつ人は少数派になった、と思わざるを得なかったのである。

自衛隊の「海外派兵」の時代を迎えて、これを監視し、包囲するメディアとして『派兵チェック』が創刊されたのは1992年10月だった(2009年12月、200号目が終刊号となった)。このかん実施されたPKOへの自衛隊の参加実態は以下の通りである。

カンボジア(92年9月~93年9月)

モザンビーク(93年5月~95年1月)

ゴラン高原(96年2月~13年1月)

東ティモール(02年3月^04年6月)

ネパール(07年3月~11年1月)

スーダン(08年10月~11年9月)

ハイチ(10年2月~13年1月)

東ティモール(10年9月~12年9月)

南スーダン(12年1月~17年5月)

去る5月27日、南スーダンに派遣されていた陸自施設部隊第11次隊40人が帰国した。国連南スーダン派遣団司令部への派遣は来年2月末まで続けられるが、部隊派遣は現状ではゼロとなった。当初は、自衛隊が軍事紛争に関与することなく「中立性」を保つための5原則が定められた。「紛争当事者間の停戦合意、紛争当事者のPKO受け入れ同意、中立性の維持、上記の減速が満たされない場合の撤収、武器の使用は必要最小限度」である。前記年表からわかるように、南スーダン派兵が開始されたのは、民主党・野田政権時代である。民主党も海外派兵の流れに乗るだけだという政治状況を示しているのだが、当時はまだしも、道路建設などに従事し、紛争当事者間の停戦合意が成立した治安情勢が安定している国であることが、派兵の前提になっていた。だが、まもなく、安倍晋三が政権に復帰した。2015年9月に制定された安保法制=戦争法によって、自衛隊は任務遂行のためには武器使用が可能となって、「交戦主体」へと変貌した。

陸自の「日報隠し」にもかかわらず、南スーダン派遣部隊の任地=ジュバでは、2016年7月、「対戦車ヘリが旋回」したり、「150人の死者が発生」したりする事態が生まれていた。この時の状況を詳しく検証したNHKスペシャル「変貌するPKO 現場からの報告」(5月28日放映)によれば、次のことがわかっている。(1)政府軍と反政府勢力との銃撃戦は自衛隊宿営地を挟んで行なわれた。砲撃の衝撃波で自衛隊員はパニックに陥り、「今日が私の命日になるかもしれない」と手帳に記した者もいた。(2)近くの宿営地のルワンダ軍は銃撃戦からの避難民を受け入れた。政府軍はそこを砲撃し、バングラデシュ軍が応戦した。避難民は自衛隊宿営地にも流れ込み、警備隊員には「身を守るために必要なら撃て」との指示が下されていた。帰国した派遣隊員の言葉を通して、「宿営地内のコンテナ型シェルターに何度も避難した」こと、「平穏になっても1ヵ月以上も宿営地外で活動しなかった」ことがわかる。

安倍政権は、南スーダン派遣部隊が「現地の住民生活の向上」に寄与した、とその成果を誇っている。だが、昨年11月、南スーダン自衛隊部隊は、戦争法に基づいて、「宿営地の共同防衛」や「駆け付け警護」(救助のために武器をもって現場に駆け付ける)任務を付与されていた。これが実際には行なわれなかったことは、上に見た状況からいって、「不幸中の幸い」でしかなかった。

「反戦・平和」派が一見して少数派になっているとしても、軍隊(国軍)の存在と戦争(国家テロ)の発動に馴致されないこと――そこを揺るぎない場所に定めたい。 (6月2日記)

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[84] 韓国大統領選挙を背景にした東アジアの情勢について


『反天皇制運動 Alert 』第11号(通巻393号、2017年5月9日発行)掲載

選挙は水物だ。下手に結果を予測しても、それが覆される可能性は常にある。しかし、現在の韓国大統領選挙の状況を複数のメディア報道を通してみる限り、「共に民主党」の文在寅の優位は動かないように思える。対立候補から「親北左派」とレッテル貼りされている文在寅が大統領になれば、現在の東アジアの政治状況は「劇的に」とまでは言わないが、ゆっくりとした変化を遂げていく可能性がある。朝鮮をめぐる日米中露首脳の言動が相次いで行なわれているいま、その文脈の中に「可能性としての文在寅大統領」の位置を定めてみる作業には、(慎重にも付言するなら、万一それが実現しなかった場合にも、東アジアの政治状況に関わる思考訓練として)何かしらの意味があるだろう。

文在寅は、廬武鉉大統領の側近として太陽政策を推進した経験をもつ。具体化したのは金剛山観光、開城工業団地、京義線と東海線の鉄道・道路連結、離散家族再会などの事業であった。それは、「無謀極まりない北」への融和策として、対立者からの厳しい批判にさらされてきた。あらためて大統領候補として名乗りを上げた文在寅は、ヨリ「現実的」になって、韓国軍の軍事力の強化を図ること、つまり、朝鮮国に対して軍事的に厳しく対峙する姿勢を堅持している。注目すべきは、それが、対米従属からの一定の離脱志向を伴っているということである。1950年代の朝鮮戦争以来、韓国軍の指揮は在韓米軍が掌握してきた。平時の指揮権こそ1994年に韓国政府に委譲されたものの、2012年に予定されていた有事の指揮権移譲は何度も延期されたまま、現在に至っている。

文在寅は、大統領に就任したならば早急に有事指揮権の韓国政府への委譲を実現すると表明した。それは対米交渉を伴うだろうが、「アメリカ・ファースト」を掲げるトランプには、世界のどこにあっても米国が軍事的・政治的・経済的に君臨し続けることへの執着がない。韓国の軍事力の強化を代償として、在韓米軍の撤収への道が開かれる可能性が生まれる。それは、朝鮮国指導部が要求していることと重なってくる。

朝鮮国・韓国の両国間では激烈な言葉が飛び交っている。とりわけ、朝鮮国からは、あの強固な独裁体制下での下部の人びとの「忠誠心競争」の表われであろう、ヨリ激しい言葉を競い合うような表現が繰り出されている。それでも、底流では、戦火勃発に至らせないための、「国家の面子」を賭けた駆け引きが行なわれていると見るべきだろう。

朝鮮半島をめぐって同時的に進行しているいくつかの事態も整理してみよう。4月27日に行なわれたプーチン+安倍晋三会談において、前者は「少しでも早く6者協議を再開させることだ」と強調した。後者は記者会見で「さらなる挑発行為を自制するよう(北に)働きかけていくことで一致した」ことに重点をおいて、語った。

4月29日、朝鮮は弾道ミサイルの発射実験を行なったが、失敗したと伝えられた。ロンドンにいた安倍首相は「対話のための対話は何の解決にもつながらない」、「挑発行動を繰り返し、非核化に向けた真摯な意思や具体的な行動を全く示していない現状に鑑みれば、(6者協議を)直ちに再開できる状況にない」と断言した。

4月30日、トランプは「若くして父親を亡くし権力を引き継いだ金正恩委員長は、かなりタフな相手とやり取りしながら、やってのけた。頭の切れる人物に違いない」と語った。翌5月1日にも「適切な条件の下でなら、金委員長に会う。名誉なことだ」とまで言った。

さて、5月3日付けの「夕刊フジ」ゴールデンウィーク特別号に載った首相インタビュー記事での発言は次のようなものだ。「トランプの北朝鮮への覚悟は本物か」と問われて「間違いない。すべての選択肢がテーブルの上にあることを言葉と行動で示すトランプ大統領の姿勢を高く評価する」。「軍事的対応もテーブルの上にあるか」との問いには「まさにすべての選択肢がテーブルの上にある。高度な警戒・監視行動を維持する」と答えている。その「成果」が、ミサイル発射時の東京メトロの一時運行停止や、内閣官房ポータルサイトに「核爆発時の対応の仕方」を注意事項として掲げることなのだろう。

これ以上わたしの言葉を詳しく重ねる必要はないだろう。当事国も超大国も、駆け引きはあっても、朝鮮半島の和平に向けて「暴発」や「偶発的衝突」を回避するための姿勢を一定は示している。その中にあって、平和に向けての姿勢をいっさい示さず、むしろ緊張を煽りたてているのは、2020年の改憲を公言した日本国首相ひとりである。 (5月5日記)

津島佑子さんの思い出に


『津島佑子――土地の記憶、いのちの海』(河出書房新社、2017年1月20日)掲載

津島佑子さんとの付き合いは、アイヌの人たちとの関わり合いから始まった。20世紀末も近づいた1990年代、私は民族・植民地問題に関わる発言と活動を集中的に行なっていた。人類が直面しながら、なかなかうまい解決策を見出し得ないでいる厄介な問題の一つが、そこに凝縮していると考えたからだ。1992年には、「コロンブスの大航海と地理上の発見」の時代(1492年)から数えて500年目という時代的符合に注目して、「500年後のコロンブス裁判」という討議の場をもった。異民族同士の「出会い」が、大量虐殺・征服・植民地支配の始まりを告げることになった、近代の歴史的な大事件だったからだ。(のちに知ったことだが、津島さんもこの年、メキシコの山間部で開かれた国際会議に招かれて出席していたが、そこには各地の先住民が参加していたという。知らずして、画期的ともいえる〈時代の息吹き〉を感じ取る場に、等しく立ち合っていたといえよう)。

翌年の1993年には、その国内的な応用問題として、東京にアイヌ料理店を作る活動をしていた。同じ郷里=北海道釧路の出身で、関東圏に住むアイヌの女性たち(小学校時代の同級生や、その年長者の世代の)から、好きな時に集まり、働くことで生活の糧にもなる同胞の寄り合いの場所を作りたいと相談を受けた。日本=単一民族国家論に固執する当時の日本政府も地方自治体も、アイヌ民族のために特別な予算措置を講じることを忌避していた。北海道なら、行政の手で「生活館」が作られるが、東京ではそうはいかない。業を煮やした彼女らは、草の根の力でそれを実現したいと相談してきたのだ。早速そのためのカンパ活動を開始するために、呼びかけ人をお願いする人の人選を始めた。私がその作品の多くを読んでいて、底流にある「北方志向性」を感じとっていた作家・津島佑子さんは筆頭に挙げたいくらいの方だった。しかも、そのしばらく前にフランスに滞在していた津島さんが、アイヌの神話「カムイ・ユカラ」をフランス語に翻訳する手助けをしたと記したエッセイも読んでいた。未知の人だったが、思い切って手紙を書いた。意外と、あっさりと受けて下さった。

断続的な付き合いが始まったのは、それ以降のことである。私は、南米ボリビアの映画集団との付き合いがあり、その作品を自主上映したり共同制作したりする活動に取り組んできた。集団を主宰するホルヘ・サンヒネス監督は白人エリートの出身だが、アンデスの人種差別社会が自己変革を遂げるためには、先住民族の歴史哲学や自然観を学び、取り入れることが重要だと考えていた。彼が監督する映画では、先住民が主人公を演じ、スクリーンでは先住民の母語が飛び交っていた。物語も、先住民の生活・歴史意識・自然哲学を尊重して組み立てられていることが歴然としていた。それは今でこそ珍しくはないが、1960年代半ばから制作活動をしていた彼らがそうしていたことは、世界的に見ても先駆的なことだった。それは普遍的な問題提起でもあったから、日本での反響も大きかった。あるとき、津島さんならきっとこれらの作品に深い関心を持たれるだろうと思い、上映会にいらしていただいたり、ビデオをお送りしたりしていた。

まもなく、津島さんのエッセイでは、ボリビアの映画を観た感想が綴られるようになった。

2000年代に入って間もなく、福岡市の公的ホールがこのボリビア映画の上映会を企画してくれた。図書館が併設されている施設なので、どなたか作家と一緒に来福し、対談をしてくれないかという提案があった。津島さんに相談し、一泊しなければならないこの福岡行きに同行していただいた。この対談では、興味深い意見の違いが生まれた。知里幸恵編の『アイヌ神謡集』が岩波文庫に入ったのは1978年のことだった。同文庫独自の分類によって、外国文学のジャンルに属することを意味する赤帯が付けられたのだが、それはアイヌ語には日本語との類縁性がないからと編集部が考えたからだった。津島さんは、今までアイヌ民族を差別してきた日本社会が、アイヌ独自の口承文学を日本文学の枠組みから排除していることが、その差別構造の延長上にあると捉えて、心外のようだった。私は、言語上の区別に加えて、次のことを思った。人間(アイヌ)と動物・鳥・魚たちとの親和性を謳う『神謡集』の原形は、知里幸恵が「序」で言うような、「その昔この広い北海道は、私たちの先祖の自由の大地で」あり、「天真爛漫な稚児の様に、美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活していた」時代に創造されたのだろう。それは、蝦夷地に松前藩の部分的な支配が及ぶ遙か以前から、ましてやそこが明治維新国家の版図に強制的に組み入れられる以前から、アイヌの人びとの間で語り継がれてきたことを意味しよう。そのような時代に原形が作られた口承文学を、事後的に形成された日本「国」の文学(古典は黄帯、近代以降は緑帯)の枠内に収める理由はない――私はそう考え、岩波文庫編集部の判断は適切だと思うと言った。アイヌ民族およびその文化と歴史を、日本国のそれに包摂することなく、独自のものとして捉える方法に私は荷担していた。

要は、「国」をどう捉えるか、そして「国家社会」の責任をどのような位相で捉えるか、という点に帰結することのように思えた。この意見の「食い違い」が孕む緊張感は、心地よかった。

同じころ、出版の分野でも津島さんと仕事を共にした。津島さんが、他の文学者と共に、海外の文学者との交流に力を入れていたことはよく知られている。とりわけ、女性の文学者との間で。その頃は、「日印作家キャラバン2002」を経た時期で、まず出版したいという希望が出されたのは、インドのベンガル語文学者、モハッシェタ・デビの作品『ドラウパディー』だった。ガヤトリ・チョクロボルティ・スピヴァクが彼女の作品を高く評価することで、世界的な注目を集めつつある作家だということを、私自身初めて知った。幸いにも、よき翻訳者にも恵まれて(臼田雅之+丹羽京子)、しかも津島さんに加えて、同じく文学交流を続けていた松浦理英子、星野智幸両氏の「解説」も付して、この作品を出版することができたのは2003年のことだった(現代企画室刊)。

後年、津島さんは「日本女流文学者会」の責任者を引き受けていたが、会員の合意を得て「女流文学者会」そのものを解散するに際して、それまで交流してきたアジアの女性文学者の中から3人を選び、翻訳書として刊行したいとの相談があった。それは、2011年に、姜英淑(韓国)の『リナ』(吉川凪=訳)、陳雪(台湾)の『橋の上の子ども』(白水紀子=訳)、ムリドゥラー・ガルグ(インドのヒンディー語作家)の『ウッドローズ』(肥塚美和子=訳、いずれも現代企画室刊)として実現できた。原著者との翻訳権契約・翻訳・編集・刊行・関係者への発送などの諸過程で、津島さんとは何度も連絡を取って、すすめた。東アジアから南アジアにかけての、女性作家を主軸とした文学的な鼓動が伝わってきて、私にとっても忘れがたい企画となった。

この同じ年の「3・11」には、東北で大地震とその結果としての福島原発事故が発生した。責任省庁としての経済産業省を包囲して、原発の全面的な即時停止を求める行動が何度も取り組まれた。或る夜、その包囲行動で、偶然にも、津島さんと隣同士になったことがあった。その夜語り合った「不安」を、津島さんは「半減期を祝って」(初出、「群像」2016年3月号)と題した、見事な掌編に形象化した。この作品は絶筆となった。

最後にお会いしたのは、2014年5月だった。連休を挟んだ2週間にわたって、私たちは、ボリビア映画集団の全作品(長編11作品、短編2作品)の回顧上映を、東京・新宿のミニシアターで行なった。一夜、上映後の対談に出ていただいた。先住民族の存在が問いかけてくる諸問題について、多面的な光を当てる内容になったと思う。津島さんが、突然のように亡くなってしばらくして、津島さんの作品の英語訳をいくつか担当されたというジェラルディン・ハーコートさんが連絡をくれた。ユーチューブには、ボリビア映画上映時の津島さんと私の対談映像が流れているが、そこには津島さんの思いが非常によく表われている、津島佑子という作家をヨリ広く世界に知らしめるために、対話の部分を英語訳して流したいという希望を言ってこられた。

数ヵ月後、それは実現した。→https://www.youtube.com/watch?v=83pIj8FL1RY

そのしばらく前に、津島さんの最後のエッセイ集『夢の歌から』(インスクリプト)と遺作『ジャッカ・ドフニ 海の記憶の物語』(集英社)が私の元に届いた。津島さんの晩年の小説世界は、地球上のさまざまな先住民族の神話や生活に着目することで、時空を超えた広がりを見せていた。遺作『ジャッカ・ドフニ』はそれをさらに徹底させて、オホーツク海、日本海、南シナ海、ジャワ海を舞台に、17世紀から21世紀にかけての物語が雄大に展開されている。時間と空間の規範から解放された自由自在さを得たこの作品を読む私たちは、現実には、この21世紀に(!)狭くも〈国家〉と〈民族〉を拠り所にして〈排外〉と〈不寛容〉の精神を声高に叫ぶ者たちが広く社会に浸透した時代を生きている。

「マルスの歌」の高唱があちらこちらから聞こえてくる時代状況の中で、私は、類い稀なこの作家の「文学的抵抗」の証としての作品を繰り返し読み、自らの中でそれをさらに豊かなものに育てたいと思う。

伝承民話に基づいたスペクタクル映像がもつ解放感


映画『いぬむこいり』劇場用パンフレット(ドッグシュガー、2017年2月24日発行)掲載

情報化社会のいま、ましてや、インターネットがここまで私たちの日常に入り込んでいる以上、事前情報をほとんどもたないままに一本の映画に出会うことは難しい。旧知の映画プロデューサー小林三四郎氏から連絡があり、氏の友人が4時間を超える大作を撮ったので、ぜひ観てほしい、という。失礼ながら、片嶋一貴という監督の名は私には初耳で、したがって、その旧作も一つとして観ていない。忙しい時期で、ネット検索をする時間もないままに、試写会場へ出かけた。

ロビーで監督に会い、すぐ紹介されたのは、内田春菊さん。『私たちは繁殖している』は愛読していたし、私が勤める出版社が『マッチョ』に関する本を出した時には、(別のスタッフから)解説をお願いしてもいる。だが、内田さんの「全体像」を知っているわけではないので、10人もいない試写会の観客の中に、内田さんという「特異な」人物がいることに、「フシギ・ワールド」に入り込むような胸騒ぎをおぼえる。

入り口で、簡潔な映画パンフレットを渡された。上映開始まで、それをちらちら眺める。いきなり、有森也実が主演の映画と知る。有森さんは、私が、その作品をわずかしか観ていないにもかかわらず、「秘かに」フアンだと自覚している女優だ。胸の鼓動が高まる。他にも、ベンガル、石橋蓮司、柄本明、韓英恵、そして、PANTA、緑魔子までもが出演しているらしい。これは、あやしい。こんな「怪優」ばかりを集めて、いったいどんな映画なんだと、あらためて胸は騒ぐのだった。

果たして結果は?――ストーリーについては、別な原稿が用意されているだろうから、ここでは触れない。誰もが知る伝承民話「犬婿入り」が全編を貫くモチーフとして設定され、荒唐無稽ともいうべき、破天荒な物語が展開する。途中休憩を挟む4時間の長尺だが、飽きも長さも感じさせないおもしろさだ。「荒唐無稽」とか「破天荒」とか書きながら、ふと立ち止まる。この表現でははみ出してしまう何かが、スクリーン上には蠢いているのだ。イモレ島を含めて舞台となっているいくつもの架空の土地で積み重ねられてきた重層的な歴史――それは、言ってみれば、人間がどの地域にあっても繰り広げてきた歴史ということなのだが――への眼差しによって裏打ちされているといえようか。「重層的な歴史」と書いたからといって、それは常に重々しいものとして立ち現れるのではない。それは、時にいかさまで、時にやくざで、時にエロティックで、時におふざけで、時に卑小で、時に暗鬱で、時にユーモラスで、時に権謀術策に満ちていて、要するに、人間の世界に〈あった〉、そして〈ある〉すべての要素が盛り込まれているのだ。その点を映画はよく描いていて、エンターテインメントとしても楽しめる作品として成立している、と言い切ってしまってよいだろうか?

私の考えでは、ただそれだけをこの映画に求めた者は裏切られよう。破天荒でいて、緻密な歴史意識に裏づけられたこの映画は、背景にちりばめられたいくつものエピソードを読み解いていけば、舞台は、地球上のどこであってもよいのではなく、東アジアに浮かぶ多島海社会〈ヤポネシア〉以外ではあり得ないことが知れよう。映画製作チームは、あらゆる意味で奇怪なこの社会で積み重ねられてきた歴史と現実に憤り、絶望し、それでも新たな夢かユートピアを信じて、この異数の物語を紡いでいったのだ。歴史過程や現実に無批判的な、凡百の映画との決定的な違いが、ここで生まれた。

映画に見入りながら頭に浮かんだのは、コロンビアの作家ガブリエル・ガルシア=マルケスの『百年の孤独』だった。あるいは、もっと広く、彼と同世代のラテンアメリカの作家たちが切り開いた魔術的リアリズムの世界を思い起こした、といってもよい。それらもまた、想像力と歴史および現実認識の力とが、緊張感を孕みつつ拮抗した地点で生まれた優れた作品群だった。片嶋監督は大胆にも、スペクタクル映像によって、マルケスたちの小説世界に伍するつもりだったのだろうか? その壮大なる意図を聴いてみたい。

「犬婿入り」といういわば神話的な世界に始まり、波瀾万丈の人生を送ったヒロインが最後には犬の貌をもつ赤子を生んで終わることで、観る者の想像力は広く、深く、解き放たれるように思える。この解放感を手放す(=忘れる)ことなく、現実の歴史過程に相渉りたいものだと、あらためて私は思った。

その後わたしは、片嶋監督の旧作『アジアの純真』(2009年)と『たとえば檸檬』(2012年)をDVDで観る機会に恵まれた。これまで片嶋ワールドを知らなかったことを心底悔いた。「拉致」問題への発言を続けてきている私のアンテナが、『アジアの純真』をキャッチできていなかったことには、とりわけ〈屈辱〉をすら感じた。

かくして、「遅れてきた老年」である私は、今後は、片嶋監督の――否、映画は、異種の労働に従事する多様な人びとの協働作業によってはじめて成立する、集団的な総合芸術であるから――、〈片嶋組〉の作品の「追っかけ」になろうと心に決めた。

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[83]現政権支持率の「高さ」の背景に、何があるのか


『反天皇制運動 Alert』第10号(通巻392号、2017年4月4日発行)掲載

私としたことが、少なからず驚いた。3月末に行なわれた世論調査の結果に対して、である。ふだんから、その結果に大幅に依拠した発言は控えてはいる。設問の仕方が明快ではなく、信頼に足る調査結果が果たして生まれるものなのか、との疑念が消えないからである。だが、例えば、内閣支持率の場合には、ある程度の「現実」がそこには反映されていて、時の政権も「20%を割ったら、もたない」などといってその数字を気にかけていることが、過去の事例からわかる。

現政権の支持率の「高さ」は、私の〈狭い〉人間関係の中での周辺を思えば不可思議で、同時に、後述するこの四半世紀の社会・政治状況を思えば、心ならずも得心が行くところはあった。しかし、今回は違うだろう。去る3月23日、いわゆる森友学園問題をめぐって、衆参両院の予算委員会で籠池学園理事長の証人喚問が行なわれたが、そこで発せられた証言を見聞きした直後の世論調査では、いくらなんでも、内閣支持率は急激に落ちるだろう。確かに「敵失」によってではあっても、この最悪の首相を早晩辞任に追い込む一里塚になるかもしれない――そんな思いが、ないではなかった。

もちろん事が終わったわけではなく継続中だから諦めるわけではないとしても、その段階での私の見立ては間違った。甘い読みだった。共同通信が、籠池証言の2日後に行なった世論調査での内閣支持率は確かに下がったが、それでもなお50%前後を維持している。森友学園問題についての首相の答弁が十分ではないと考えている人びとの率が70~80%であっても、内閣支持率になると「復調」するのだ。一昨年の戦争法案の時も同じだった。この政権に限っては、なぜ、このような現象が起こるのだろう? その人格・識見において「敵ながらあっぱれ」と思わせるどころか、歴代の保守政治家と並べてみても劣悪極まりない人物なのに。

世代交代によって自民党が変質したとか、民主党政権「失敗」の印象が強く代わり得る受け皿がないなどの意見を筆頭として、さまざまな見解が飛びかっている。それぞれ一理はあろうが、ここでは改めて、自分たちの足元に戻りたい。私たちが、戦後民主主義者であれ、リベラルであれ、左翼であれ、社会の在り方を変革しようとする、総体としての「私たち」の敗北状況のゆえにこそ「現在」があるのだという事実を噛み締めるために。

現首相の支持母体であり、森友学園問題の背後に見え隠れする「日本会議」についてこのかん刊行された複数の書物を読むと、彼らは周到な準備期間を経て、自らの潮流をこの社会の中に根づかせてきたことが知れる。結成されたのは1997年だが、これが胎動し始めた決定的な起点は、それを遡ること6~7年目の1990年前後だと振り返ることができよう。1989年から1991年にかけて、東欧・ソ連の社会主義圏一党独裁体制が次々と崩壊した。実感をもって思い起こすことができるが、あの時代、公然とあるいは暗黙の裡に、左翼からの転向現象が相次いだ。書店の棚からはマルクス主義の書物が、大学からはマルクス経済学の講座が消えた。ソ連圏の実態については、はるか以前から数多くの批判が、外部および内部から積み重ねられてきていたが、共産党が独占してきた非公開文書の流出によって、社会主義の悲惨な内実がいっそう明らかになった。「ナチズムは断罪されるのに、なぜ共産主義はされないのか」――この言葉が、端的に、時代状況を言い表していた。共産主義が掲げていた「理想主義」も「夢」も地に堕ちた。「反左翼」が「時代の潮流」となった。日本会議は、この「時を掴んだ」のだ。

この時期の東アジアの状況は特異だ。韓国では軍事独裁体制が倒れ、言論の自由を獲得した人びとの声が溢れ出たが、その一つは、日本帝国のかつての植民地支配が遺したままの傷跡を告発することに向かった。北朝鮮と中国からも、日本の植民地主義と侵略戦争をめぐる告発が次々と発せられた。これこそ、歴史修正主義潮流である日本会議の路線に真っ向から対立するものだった。日本ナショナリストたちの反応は捻じれたものとなった。「いつまで過去のことを言い募るのか」「左翼が負けたと思ったら、今度は植民地問題か」――この「気分」は、状況的にいって社会に広く浸透していた。「難癖をつける」隣国に負けるな、強く当たれ! それを政治面で表象するのが安倍晋三である。

安倍の時代は早晩終わるにしても、社会にはこの「気分」が根づいたままだ。いったん根を張ってしまったこれとのたたかいが現在進行中であり、今後も長く続くのだ。

(4月1日記)

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[82]スキャンダルの背後で進行する事態に目を凝らす


『反天皇制運動 Alert』第9号(通巻391号、2017年3月7日発行)掲載

「ことばが壊れた」とか、「崩れゆくことば」などという表現を私が使ったのは、 21世紀に入って間もないころだった。世界的には、「9・11」に続く「反テロ戦争」の正当化を図る米国政府の言動の支離滅裂さと、にも拘わらず各国政府や主要メディアがこれに追随する状況が念頭にあった。国内的には、いわゆる「小泉語」の問題があった。首相に就任した小泉純一郎が、従来の保守政治家とまったく異質の断定口調の〈爽快さ〉によって支持率を上げてゆく事態が進行していた。論理に基づく説明はいっさいなく、その意味では支離滅裂さの極みというべきものが「小泉語」の本質には、あった。

それから十数年が経った。今や、政治の世界では「ポスト真実」などということばが大手を振って罷り通っている。「事実に基づかない政治」「政策路線や客観的な事実より個人的な感情に根差した政治家の物言いが重視され、それによって世論が形成される」時代を指しているのだという。「小泉語」はその典型ではないか、私たちはすでにそんな時代を体験してきたのだ、と言っておきたい思いがする。世界的に見て、この状況が加速されたのではあろう。インターネット上に「贋情報」や「贋ニュース」が蔓延し、それがひとつの「世論」を形成する場合もある現代の〈病〉が浮かび上がってくる用語である。

この状況をもっとも象徴的に代表し得る為政者として、世界に先駆けて二国間会談を行なった米日両国首脳を挙げることができよう。彼方米国では、さらに、「オルタナ・ファクト(もうひとつの事実)」なることばすら使われている。誰の目から見ても明らかな嘘を言い、それを指摘されると、「嘘じゃない、オルタナ・ファクトだ」と強弁するのである。裸の「王」ひとりが言うのではなく周りの者たちも直ちに唱和していく点に、〈政治〉の世界の恐ろしさが見られる。

だが、スキャンダラスなこの種の話題にのみ集中して、米国で進行する新旧支配層の闘争を見逃すわけにはいかない。2月下旬、米国と北朝鮮は、中国の協力を得て、核問題をめぐる非公式会談を行なう準備を進めていた。北朝鮮のミサイル発射、金正男殺害事件(その真相はまだ不明だ)によっても、会談のための準備は中絶されなかった。だが、最終段階で、米国は朝鮮代表団へのビザ発給を見送った。米朝対話から和平へと進むことを快く思わない軍産複合体が米国には存在する。政権内部の抗争があったのだろう。トランプ「人気」は、既存秩序の象徴たるオバマやヒラリー・クリントン(それらを支える軍産複合体も含まれている)と対決しているかに見える点にある。水面下で進行する両者のせめぎ合いにこそ注目すべきだと思う。権力政治家は、スキャンダルの一つや二つで消え去りゆくほどやわな者ではないことは、長年心ならずも自民党政治を見てきた私たちには自明のことだ。

さて、此方にも、米朝対話の挫折を喜ぶ者たちがいる。安倍政権が現在の対米軍協力強化・軍拡・武器輸出推進などの路線を追求するためには、北朝鮮とは恒久的に対立していることが望ましい。事実、対立関係が見た目に高まれば高まるほどに、時の政権の支持率も増す。「拉致問題の解決こそ自らの使命だ」と高言してきた安倍が、被害者家族会がようやくにして苛立ちを示すほどにその努力を怠ってきたことには、彼なりの理由がある。

その安倍も、いま、森友学園をめぐるスキャンダルに見舞われている。政治家と官僚、さらには日本会議に巣食う連中の本質が透けて見えてくる「醜聞」ではある。国有地売買の背景には、民主党鳩山政権から菅政権への移行期に財務省官僚が立案した『「新成長戦略」における国有財産の有効活用』(2010年6月18日、財務省)と『新成長戦略~「元気な日本」復活のシナリオ~』(同日、閣議決定)がある。新自由主義的な価値観に貫かれたこの官僚路線は、反官僚の姿勢をむき出しにした民主党政権の「失敗」を経て、2012年に第2次安倍政権が復活した段階で、利害の合致する政治家を見出したというべきだろう。この問題からは、どこから見ても、現代日本をまるごと象徴する腐臭が漂う。徹底した追及がなされるべきだが、同時に、私は思う。秘密保護法、戦争法案、南スーダンへの自衛隊の派兵などの政治路線における攻防で「勝利」できなかった私たちの現実を忘れまい、と。誰であろうとスキャンダルによる「窮地」や「失墜」は、いわばオウンゴールだ。そこで、私たちの力が、本質的に、増すわけではない。(3月4日記)

【追記】文中で触れた「成長戦略」文書のことは、ATTAC(市民を支援するために金融取引への課税を求めるアソシエーション)のメーリングリストに投稿されたIさんの文章から教えてもらった。末尾に、リンク先を記します。

なお、ATTACのHPは以下です。

http://www.jca.apc.org/attac-jp/japanese/

◎「新成長戦略」における国有財産の有効活用

平成22年6月18日 財務省

http://www.mof.go.jp/national_property/topics/arikata/

◎新成長戦略~「元気な日本」復活のシナリオ~(平成22年6月18日)

http://www.kantei.go.jp/jp/sinseichousenryaku/

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[81]トランプ政権下の米国の「階級闘争」の行方


『反天皇制運動 Alert 』第8号(通巻390号、2017年2月7日発行)掲載

就任式から2週間、米国新大統領トランプが繰り出す矢継ぎ早の新たな政策路線に、世界じゅうの関心が集中している。この超大国の、経済・軍事・外交政策がどう展開されるかによって、世界の各地域は確かに大きな影響を受けざるを得ない側面を持つのだから、関心と賛否の論議が集中するのは、必然的とも言える。個人的には、私は、(とりわけ)米日首脳がまき散らす言葉に一喜一憂することなく、自らがなすべきことを日々こなしていきたいと思う者だが、それでも一定の注意は払わざるを得ない。

トランプは、米国の外に工場が流出したことで「取り残された米国人労働者」や「貧困の中に閉じ込められた母子たち」とは対照的に、ひとり栄えるものの象徴として「首都=ワシントン」を挙げた。そこに巣食う小さなエリート集団のみが政府からの恩恵にあずかっているとし、それを「既得権層」と呼んだ。就任演説を貫くトーンから判断するなら、現代資本主義の権化たる「不動産王」=トランプは、まるで、労働者階級のために身を粉にして働くと言っているかのようである。叩き上げの「新興成金」が、伝統的な支配構造に一矢を報いているかに見えるからこそ、この状況が生まれているという側面を念頭におかなければならないと思える。

具体的な政策をみてみよう。米国労働者第一主義(ファースト)の立場からすると、労働力コストなどが廉価であることからメキシコに製造業の生産拠点を奪われ、国内雇用を激減させる要因となった北米自由貿易協定(NAFTA、スペイン語略称TLC)も、トランプにとっては攻撃の的となる。協定相手国であるメキシコとカナダとの間での、離脱のための再交渉の日程も上がっている。思い起こしてもみよう。メキシコ南東部の先住民族解放組織=サパティスタ民族解放軍は、この協定は3国間の関税障壁をなくすことで、大規模集約農業で生産される米国産の農作物にメキシコ市場が席捲され、耕すべき土地も外資の意のままに切り売りされると主張して、その発効に抵抗・抗議する武装蜂起を、1994年1月1日に行なった。発効後15年目の2008年には3国間の関税が全面的に撤廃され、予想通りにメキシコ市場には米国産農産物が押し寄せ、メキシコ農業は荒廃し、農で生きる手立てを失った農民は、仕事があり得る首都メキシコ市へ、そこでもだめならリオ・グランデ河を超えて、米国へと「流れゆく」ほかはなくなった。

グローバリズムを批判し、これに反対するという意味では、トランプとサパティスタは、奇妙にも、一致点を持つかに見える。だが、子細に見るなら、他国の民衆をねじ伏せる経済力を持つ米国の利益第一主義を掲げるトランプと、一般的にいって多国籍企業の利益に基づいてこそ自由貿易協定の推進が企図され、それは経済的な弱小国に大きな不利益をもたらすという、事態の本質に注目したサパティスタとは、立脚点が根本的に異なっていると言わなければならない。

トランプの反グローバリズムの主張を色濃く彩る排外主義的本質は、メキシコとの国境線をすべて壁で塞ぐという方針にも如実に表れている。総距離3150キロ、うち1050キロにはすでにフェンスがつくられている。1000万人を超えるというメキシコからの「不法」移民に「米国人労働者の職が奪われて」おり、彼らは「犯罪者」や「麻薬密売人」だから国境を閉鎖して「不法」侵入を防ぐというトランプの方針は、米国白人が持つ排外主義的な感情を巧みにくすぐっている。今はご都合主義的にも反グローバリズムの立場に立つとはいえ、資本制社会の申し子というべきトランプは、米社会に麻薬の最大需要があるからこそ供給がなされているという「市場原理」を忘却して、メキシコにすべての罪をなすりつけようとしている。

歴史的経緯や論理を無視して「アメリカ・ファースト」という感情に基づく発想でよしとするトランプは、今後も「100日行動計画」を次々と打ち出してくるだろう。「予測が不能な」その路線如何では、世界は〈自滅〉の崖っぷちを歩むことになるのかもしれぬ。私は、米国の外交路線は「トランプ以前」とて決してよいものではなかったという立場から、新旧支配層の対立・矛盾が深まるであろう米国の「階級闘争」の行方を注視したい。

(2月5日記)

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[80]何よりも肝要なことは「アジアとの和解」だ


『反天皇制運動 Alert』第7号(通巻389号、2017年1月10日発行)掲載

2012年に再登場して以降の安倍政権の官邸周辺には、よほどの知恵者がブレーンとしているように思える。世論なるものの気まぐれな動きを、蓄積された経験智に基づいて的確に察知でき、これに対処する方法に長け、同時にマスメディア対策もゆめゆめ怠ることなく、効果的に行ない得る複数の人物が……。このように言う場合、もちろん、働きかけられる「世論」と「メディア」の側にも、「自発的に隷従して」(エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ)それを受け入れるという意味での、哀しい〈相互作用〉が生まれているのだという事実を大急ぎで付け加えておかなければならない。

2016年12月、ロシア大統領をわざわざ首相の地元の温泉に招いて会談するという宣伝がなされていた時期には、「北方諸島」の帰属問題で日本に有利な結果が生まれそうだとの観測がしきりになされた。例えば「二島返還」という具体的な形で。その「成果」の余勢を駆って、首相は年末あるいは年始の衆議院解散に踏み切るのでは、との予測すらなされていた。その前段において、この展望は甘かったという感触が得られてすぐ、日露首脳会談の展望をめぐる首相の口は、重くかつ慎重になった。間もなく、首相はロシア大統領との会談を終えた半月後の年末ギリギリにハワイの真珠湾を米国大統領ともども訪れるというニュースが大々的に報道された。官邸ブレーンは、「見事な」までの、首相スケジュール調整機能を発揮した。

世論とメディアは、首脳会談なるものにも弱い、あるいは、甘い。会談の無内容さは、世界の二大超大国、ロシアと米国の大統領と次々と渉り合っている「われらが宰相」――というパフォーマンス効果によって打ち消される。16年5月の米国大統領の広島訪問を思い起せばよい。主眼は、大統領が広島訪問の直前に行なった岩国の米軍海兵隊基地での兵士激励であり、その付け足しのように行なわれた、一時間にも満たない広島行きではなかった。せめても、岩国米軍基地と広島への訪問が「セット」で行なわれた事実の意味を問う報道や発言がもっと多くなされるべきだったが、それは極端に少なかった。にもかかわらず、大統領の広島訪問とあの空疎なメッセージは、大きな効果を発揮した。日本国首相にとっても。大統領が苦心して折った折り鶴を持参して原爆資料館に贈呈したなどという無意味な行為が、感傷的に報道されたりもした。8年間の任期中にこの大統領が、核廃絶のために行なった具体的な政策の質と総量が同時に検証報道されたなら、広島行きのパフォーマンスの偽善性が明らかになっただろう。この点に関しては、在日の米国詩人アーサー・ビナードも、峠三吉『原爆詩集』(岩波文庫、2016年)に付された解説で的確に論じている。

16年末、真珠湾を訪れた日本の首相も、「不戦の誓い」と「日米の和解の力」を強調する演説を行なった。これを大々的に報道した主要メディアの中には、訪問を一定評価しつつも、「アジアへの視点」の欠如を指摘するものもあった。だが、「不戦の誓い」は、この政権が続けている諸政策と沖縄への態度に照らせば、化けの皮がすぐに剝れる性質のものであり、「日米和解」に至っては、戦後日本の米国への「自発的隷従」が続けられたことで夙に実現しているというのが、冷めた一般的な見方であろう。したがって、後者の「アジアへの視点」の欠如こそが強調されなければならなかった。例えば、12月8日(日本時間)真珠湾攻撃の一時間前には、日本陸軍がマレー半島への上陸作戦を開始していた、という史実への言及がなされるだけで、「日米戦争」という狭い枠組みは崩れ、短く見ても1931年の日本軍の中国侵略に始まるアジア・太平洋戦争の全体像に迫る視点が生まれるだろう。中国侵略戦争が行き詰まることで、日本はフランス、英国、オランダなどの植民地が居並ぶ東南アジアへの侵攻を国策の中心に据えていたのだから、真珠湾攻撃に先立って行なわれたマレー侵攻の意図は、明らかなのだ。アジアと向き合うことを、歴史的にも現在的にも無視する常習犯=現日本国首相は、にもかかわらず「地球儀を俯瞰する外交」などとしたり顔で語っている。首相の真珠湾訪問と同じ日、韓国は釜山の日本総領事館前に「慰安婦」を象徴する少女像が設置されたことは(これには論ずべき多様な問題が孕まれているとはいえ)、日本がもっとも肝要な「アジアとの和解」を実現できていないことを示している。この事実を改めて心に刻んで、一年を送りたい。(1月7日記)

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[79]フィデル・カストロの死に思うこと


『反天皇制運動 Alert』第6号(通巻388号 2016年12月6日発行)掲載

1972年、ポーランド生まれのジャーナリスト、K.S.カロルの大著『カストロの道:ゲリラから権力へ』が、原著の刊行から2年遅れて翻訳・刊行された(読売新聞社)。71年著者の来日時には加筆もなされたから、訳書には当時の最新情報が盛り込まれた。カロルは、ヒトラーとスターリンによるポーランド分割を経てソ連市民とされ、シベリアの収容所へ送られた。そこを出てからは赤軍と共に対独戦を戦った。〈解放後〉は祖国ポーランドに戻った。もちろん、クレムリンによる全面的な支配下にあった。

1950年、新聞特派員として滞在していたパリに定住し始めた。スターリン主義を徹底して批判しつつも、社会主義への信念は揺るがなかった。だからと言うべきか、「もう一つの社会主義の道」を歩むキューバや毛沢東の中国への深い関心をもった。今ならそのキューバ論と中国論に「時代的限界」を指摘することはできようが、あの時代の〈胎動〉の中にあって読むと、同時代の社会主義と第三世界主義が抱える諸課題を抉り出して深く、刺激的だった。カロルの結語は、今なお忘れがたい。「キューバは世界を引き裂いている危機や矛盾を、集中的に体現」したがゆえに「この島は一種の共鳴箱となり、現代世界において発生するいかに小さな動揺に対しても、またどれほど小さな悲劇に対してであろうとも、鋭敏に反応するようになった」。

本書の重要性は、カストロやゲバラなど当時の指導部の多くとの著者の対話が盛り込まれている点にある。カストロらはカロルを信頼し、本書でしか見られない発言を数多くしているのである。だが、原著の刊行後、カストロは「正気の沙汰とも思えぬほどの激しい怒り」をカロルに対して示した。カストロは「誉められることが好きな」人間なのだが、カロルは、カストロが「前衛の役割について貴族的な考え方」を持ち、「キューバに制度上の問題が存在することや、下部における民主主義が必要であることを、頑として認めない」などと断言したからだろうか。それもあるかもしれない。同時に、本書が、刺激に満ちた初期キューバ革命の「終わりの始まり」を象徴することになるかもしれない二つの出来事を鋭く指摘したせいもあるかもしれない。

ひとつは、1968年8月、「人間の顔をした社会主義」を求める新しい指導部がチェコスロヴァキアに登場して間もなく、ソ連軍およびワルシャワ条約軍がチェコに侵攻し、この新しい芽を摘んだ時に、カストロがこの侵攻を支持した事実である。侵攻は不幸で悲劇的な事態だが、この犯罪はヨリ大きな犯罪――すなわち、チェコが資本主義への道を歩んでいたこと――を阻むために必要なことだったとの「論理」をカストロは展開した。それは、1959年の革命以来の9年間、「超大国・米国の圧力の下にありながら、膝元でこれに徹底的に抵抗するキューバ」というイメージを壊した。

ふたつ目は、1971年、詩人エベルト・パディリャに対してなされた表現弾圧である。

詩人の逮捕・勾留・尋問・公開の場での全面的な自己批判(そこには、「パリに亡命したポーランド人で、人生に失望した」カロルに、彼が望むような発言を自分がしてしまったことも含まれていた)の過程には、初期キューバ革命に見られた「表現」の多様性に対する〈おおらかさ〉がすっかり失せていた。どこを見ても、スターリン主義がひたひたと押し寄せていた。

フィデル・カストロは疑いもなく20世紀の「偉人」の一人だが、教条主義的に彼を信奉する意見もあれば、「残忍な独裁者」としてすべてを否定し去る者もいる。キューバに生きる(生きた)人が後者のように言うのであれば、私はそれを否定する場にはいない(いることができない)。その意見を尊重しつつ、同時に客観的な場にわが身を置けば、キューバ革命論やカストロ論を、第2次大戦後の世界史の具体的な展開過程からかけ離れた観念的な遊戯のようには展開できない。それを潰そうとした米国、それを利用し尽そうとしたソ連、その他もろもろの要素――の全体像の中で、その意義と限界を測定したい。(12月3日記)