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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[92]願わくば子供は愚鈍に生まれかし。さすれば宰相の誉を得ん


『反天皇制運動Alert』第19号(通巻401号、2018年1月9日発行)掲載

今年は明治維新(1868年)から150年に当たる年なので、政府や地方自治体がそれを記念する行事を企画し始めているようだ。年頭の新聞各紙でも、その種の記事が目立った。ただし、この言い出しっ屁が現首相であると私が知ったのは、年頭1月6日付け毎日新聞掲載の編集委員・伊藤智永のコラム「時の在りか」によってである。

戦後70年に当たる2015年に山口県に里帰りした首相は、明治50周年(1918年)は長州軍閥を代表する寺内正毅、同100周年(1968年)は叔父の佐藤栄作が首相だったと紹介したうえで、「私は県出身8人目の首相。頑張って平成30年までいけば、明治維新150年も山口県の安倍晋三が首相ということになる」と語ったという。地元有権者の心をくすぐるリップサービスだったのだろうこの発言から、長期政権への野心を忖度した現官房長官が国の記念行事に位置づけた、と伊藤記者は言う。

現首相は、元来、まっとうな歴史意識や歴史認識の持ち主であることを期待しようもない人物ではあるが(首相の在り方として、ほんとうに、これは哀しく、情けなく、恥ずべき事実として私は言っている)、彼が肯定的に例示した寺内正毅は、「元帥陸軍大将」位をはじめとしていくつもの勲章を胸中に付けた肖像写真で有名な人物である。[勲章をぶら下げた人間を見たら、「軍人の誇りとするものは、小児の玩具に似ている。なぜ軍人は酒にも酔わずに、勲章を下げて歩かれるのであろう」と『侏儒の言葉』に記した芥川龍之介の言葉を思い起こすくらいの心を持ち続けていたい。それは、「革命軍」や「人民軍」や「解放軍」の兵士や司令であっても、変わることはない。躊躇いもなく人びとを殺す残虐な行為の果てに、胸を勲章で埋めるのが「軍人」、とりわけ「将軍」だからだ]。

ともかく、寺内正毅という軍人政治家の在り方を近代日本の歴史の中に位置づけておくことは、現首相の立場とは正反対の意味で、私たちにとっても必要なことに違いない。

1852年生まれ(ペリー艦隊「来襲」の前年である)の寺内は、明治維新の年=1868年に御盾隊隊士として戊辰戦争に従軍し、箱館五稜郭まで転戦したことで、軍人としての生涯を始めている。わずか16歳であったことに注目したい。その後の西南戦争でも、とりわけ田原坂の戦いで負傷して右手の自由を失うわけだから、いわば明治維新前後の政治的・社会的激動の中で生きたという背景がくっきりと刻印されている人物である。その負傷によって以後実戦の場を離れたとはいえ、日清戦争では兵站の最高責任者である運輸通信長官を、日露戦争時には陸相を務めていた事実に当たれば、いかにも「坂の上の雲」を目指して明治期前半の時代を生きた典型的な人物と知れよう。だが、その天を目指す群像を肯定的に描いた司馬遼太郎ですらが、寺内は自らの無能さを押し隠すように愚にもつかぬ形式主義に陥り、軍規にやかましく、偏執的なまでに些事に拘泥して部下を叱責した人物として描いている。その寺内が、1910年の「韓国併合」と共に陸相兼任のまま初代朝鮮総督となり、一般歴史書でも「武断政治」と称されるような苛烈な朝鮮統治の方法を編み出し、あまつさえ1916年には首相にまで「上りつめた」のである。

中国北宋代の政治家、詩人にして書家・蘇東坡の、有名な一句を思い出す。

「願わくば子供は愚鈍に生まれかし。さすれば宰相の誉を得ん」

日本国の現首相は言うに及ばず、世界中の現役宰相を眺めて思うに、「政治」「政治家」の本質は、やんぬるかな、古今(11世紀も、21世紀も)東西を貫いて、この一語に尽きるのかもしれぬ。

さて、寺内に戻る。彼は「韓国併合」の「祝宴」で次のように詠った。

「小早川 加藤 小西が世にあらば 今宵の月をいかに見るらむ」

固有名詞の3人はいずれも、16世紀末、秀吉の朝鮮出兵に参画し「武勲」を挙げた武将たちである。「歴史の評価は歴史家に委ねる」と公言する現首相が、心底に秘めている歴史観に共通する心情が謳われていることは自明のことと言えよう。

かくして、今年一年を通じて、明治維新150周年の解釈をめぐる歴史論争が展開されよう。ここ数年来、産経新聞はこの種の論争に敢えて「歴史戦」と名づけたキャンペーンを繰り広げている。『諸君!』『正論』などの右翼誌には1980年代後半以降とみに劣化した言論が載るようになったが、30年近くを経てみれば、その水準の言論が社会全体を覆い尽くすようになった。偽り、ごまかし、居直りに満ちたこの種の言論の浸透力を侮った報いを、私たちはいま引き受けている。「愚鈍な」宰相の言葉とて、甘く見るわけにはいかない。

(1月7日記)

書評:萱野稔人『死刑 その哲学的考察』 


『出版ニュース』2017年12月中旬号掲載

国家や暴力に関わって刺激的な問題提起を行なってきている哲学者による死刑論である。

最初に目次を紹介しておくことが重要な意味を持つ本だと思う。死刑について考える道筋をつけながら、議論が核心に迫っていく方法を、著者が自覚的に選び取っているからである。第1章「死刑は日本の文化だとどこまでいえるか?」、第2章「死刑の限界をめぐって」、第3章「道徳の根源へ」、第4章「政治哲学的に考える」、第5章「処罰感情と死刑」。

第1章は、2002年、欧州評議会主催の国際会合に出席した当時の森山法相が、「死んでお詫びをする」という日本の慣用句を引きながら「死刑は日本の文化である」と発言し、死刑制度の存置に批判的な欧州各国で大きな波紋を呼んだ事実の指摘から始まる。EU(欧州連合)は、死刑制度を廃止していることを加盟条件としているほどだから、この死刑擁護論への驚きは大きかっただろう。著者によれば、問題はこの発言の当否そのものにあるのではなく、死刑に関わる考え方は、森山発言のような文化相対主義を脱し、普遍的なロジックに基づいて披歴されなければならない。

第2章のタイトルは、「自分の人生を幕引きするための道連れ」として大量殺人を行なう、つまり死刑になるために凶悪犯罪に走った実際の事件を前に、死刑の「限界」を論じるところから来ている。死刑になることを望んでいる加害者を死刑にしたところで、刑罰としてどんな意味があるのか、という問いである。「一生刑務所から出られない刑罰」としての終身刑の導入(論理的には、これには死刑の廃止が前提となる)が論じられるのは、このあとである。「死ぬつもりなら何をしてもよい」という挑戦を前に、道徳的な歯止めをいかにかけるか。次に来るのは、この問いである。

第3章は、「人を殺してはいけない」という究極的で根本的な道徳をめぐっての論議である。死刑とは、処罰のためとはいえ人の命を奪うことであり、前記の道徳に反する。それでも多くの人が死刑を肯定しているのは、「人を殺してはいけない」という道徳が、多くの人にとって絶対的なものではないことを明かしている。ここでは、道徳を絶対的で普遍的なものだと捉えた哲学者のカントが死刑を肯定した論理構造を詳しく論じながら、しかし、道徳的には死刑の是非を確定することができないという結論が導かれていく。

犯罪による死と応報としての刑死における死の「執行者」はまったく異なるのだから――後者には、国家(権力)が貌を出すのだから――、それに触れないままに応報論に多くの頁を割いた第3章の議論に苛立ちを覚えた評者を待ち受けたのは、第4章である。ここでは、死刑を執行する公権力の在り方が論じられている。「合法/違法を決定する権力が、処罰のために人の命を奪う権限を保持している」死刑制度の本質が分析される。公権力の存在を望ましいと考える著者は、「国家なき社会」や「政府なき世界」を夢想する知識人を批判したうえで、公権力が過剰に行使されて起こる冤罪の問題を次に論じる。「冤罪の可能性は、公権力が犯罪を取り締まり、刑罰をくだすという活動そのもののなかに構造的に含まれて」おり、「権力的なもの」に由来すると考える著者は、道徳的な議論では死刑の是非に決着をつけることはできない以上、冤罪こそが、その是非を考える上で最重要な論点だと強調する。死刑に反対する人でも、冤罪の危険性を廃止論の核にここまで据える場合は稀なだけに、この議論の展開方法に、私は注目した。

最後の第5章で著者が改めて論じるのは、「凶悪犯罪は厳しく罰するべきだ」とする人びとの処罰感情の強さが死刑肯定論を支えている現実について、である。冤罪による刑死を生み出す危険性をいかに声高に訴えたところで、広い関心は持たれない。凶悪犯罪の被害者家族の処罰感情は別として、社会を構成する圧倒的多数としての第三者の人びとが抱く処罰感情は、現在の日本にあっては、メディア(とりわけテレビ)の無責任な悪扇動によるところが大きいと評者は考えるが、それにしても、この処罰感情に応えることなくして、死刑廃止の目途は立たない。著者はここで、処罰感情を「無条件な赦し」(デリダ)によって、つまり寛容さで克服しようとする死刑廃止論の無力さを衝きつつ、哲学の歴史において初めて死刑反対論を展開した18世紀イタリアの法哲学者、チェ-ザレ・ベッカリーアを引用する。刑罰としての効果が薄い死刑に代えて、終身刑を課すほうが望ましいという考え方を、である。著者は、処罰感情に正面から向き合ってなお死刑否定論の根拠を形成し得る議論として、ベッカリーアの考え方に可能性を見出して、叙述を終える。

社会を構成する個人や集団には許されない「殺人」という権限が、ひとり国家という公権力のみに許されるという在り方は、死刑制度と戦争の発動を通して象徴的に炙り出されると評者は考えている。敗戦後の日本で新憲法が公布された当時、戦争を放棄した以上、人を殺すことを合法化する死刑も当然廃止すべきだという議論が沸き起こったという証言もあるように。その関連でいうと、第1章が触れる欧州の国々の中には、死刑の廃止は実現したが、現在も「反テロ戦争」には参戦していることで、戦争における「殺人」は容認している場合があることが見えてくる。日本の公権力は、現在、死刑制度を維持する一方、「放棄」したはずの戦争をも辞さない野心も秘めているようで、世界的にも特殊な位置にあろう。「公権力」の問題をそこまで拡張して論じてほしかったとするのは、無いのもねだりか。

死刑問題の核心に向き合おうとしない死刑廃止運動の言動に対する著者の苛立ちが、随所に見られる。当事者のひとりとして、その批判には大いに学ぶものがあった。

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[91]代議制に絶望して、おろおろ歩き……


『反天皇詠運動Alert』第18号(通巻400号、2017年12月6日発行)掲載

かつて必要があって、1965年当時の日韓条約締結に関わる国会審議の様子を新聞記事に基づいて調べたことがある。不明なことが多く、議事録を取り寄せたら、質疑内容に関する印象は一変した。戦後「反戦・平和勢力」の、国会における重要な担い手であった社会党議員が、対韓植民地支配責任を問う形での「戦後処理」を求めるのではなく、敗戦時に在韓していた日本人植民者が混乱の最中で彼の地に放置せざるを得なかった「財産」の回復・確保が、締結すべき条約に関わっての主要な関心であったことに一驚した。これに関しては、植民者を動員した日本国家が負うべき責任はあるだろうが、対韓請求の問題ではないだろう。

時代は下って1990年代後半、オウム真理教教祖の公判での弁護側と検察側のやり取りを、某紙一面の全面を使う記事で読んだ。全面を使っているのだから、さぞ詳しく、的確にまとめられているのだろうと思い込んでいた節が我ながらあった。後日、その応酬を引用するために公判記録を読むと、新聞に掲載されていた要旨とはまったく異なる印象を受けた。同紙の要約記事は、法廷における教祖の、「異様」かつ「不真面目な」ふるまいに関するト書き的な叙述が多く、弁護人の重要な発言を軽視ないしは無視していたようだった。

当然のことながら、国会や裁判で交わされた当事者間の問答・論議を検証するには原資料に当たることの重要性を学んだ。その意味では、テレビやラジオの中継は、質疑・問答のありようをじかに確認できて、本来ならよいのだが、時間の関係上それはできない場合が多く、加えて、昨今の国会審議の惨状を思うと、そもそも見聞きするに堪えられないという思いが先に立つ。機会あって稀に見聞きしたりすると、両者の言動に対する賛否以前に、「言葉を交わす」こと自体が不可能な人間がここまで大量に登場している事実を知って、こころが塞ぐ。だが、ネット上のツイッターやフェイスブックでは、忍耐力のある人が、あまりにひどいケースを動画入りで報告してくれる場合が、昨今はある。今次臨時国会での「討論」に関しても、それを通して、いくつかの「シーン」を垣間見た。野党議員の持ち時間を大幅に削ってまで質問をしたいと望んだ与党議員と閣僚たちが、驚くべき「醜態」をさらしていた。

青山繁晴や山本一太などが行なった質問はここに引用するのも憚られる内容(正しくは、無内容)なので、それはしない。したくない。この間、私自身もそう思い、何度か書いたこともあったが、連中の狙い目は、有権者が国会審議のひどさに呆れ、もはや、今まで以上に政治への、国会への関心を喪失し、政府・与党のやりたい放題でこの国の運営ができる状態を出来させたいのではないかと呟く人を、今回はちらほらと見かけた。さもありなん。

「ひどさに呆れ」と言えば、否応なく思い出すひとつの文章がある。テーマが若干変わるが、以下に引用してみる。「天皇というものは本来純粋培養で、貴族同士の結婚によって段々痩せ衰えてゆき、ひとつの生物の標本となる。ジガ蜂のようにグロテスクになってしまい、国民がそれを見て、なるほど俺たちの象徴というのはこんなんなんだナというふうに眺めるようになってほしかった。ところが、民間の女性と結婚することになった。これは困ったことである。なぜならたいへん健康な子どもが生まれるであろうから」

これを書いたのは、作家・深沢七郎。時期は、現天皇夫妻が結婚して間もない1960年。掲載誌は、講談社が現在も刊行を続けている文芸誌『群像』。深沢が書いた高級落語(吉本隆明による命名)「風流夢譚」とほぼ同じ時期に書かれたエッセイだったと知れよう。深沢の、この暗喩的な表現は何を語ったのか。この国では、自覚的な意識化作業による精神革命を経ての天皇制の廃絶も、他国ではありふれた歴史的事象であった物理的な処断=「王」の処刑による王政廃絶も、いずれも不可能なのではないかという、いかにも彼らしいニヒリズムの表現であったように思われる。

私はここで天皇制のことを書こうとしているのではない。あまりにひどい代議制に対する私たちの絶望の度合いは、天皇制に関わる深沢のこの吐露に近いものに達していると考えている私は、この先どうしたものかとおろおろ歩いているさまを、そのまま記しておきたかったのである。(12月3日記)

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[90]山本作兵衛原画展を見に来たふたり


『反天皇制運動Alert』第17号(通巻399号、2017年11月7日発行)掲載

数年前のことだった。東京タワーの展示室で「山本作兵衛原画展」が開かれた。筑豊の炭鉱で自らが従事した鉱山労働の様子や、労働を終えた後の一時のくつろぎの仕方までを絵筆をふるって描き、深い印象を残す人物である。筑豊は谷川雁、上野英信、森崎和江などの忘れ難い物書き(関連して、後述する水俣の石牟礼道子も)を生んだ土地であり、私はそれらの人びとへの関心の延長上で作兵衛の作品にも画集では出会っていた。

原画にはやはり独特の趣があって、来てよかったと思った。原画展の会場を去る時、ひとりの友人とすれ違った。その彼女が深夜になってメールをくれた。あのあと会場で作品を見ていると、今日は緊急に閉場しますというアナウンスがあったので、そんなことは展覧会案内のホームページにも書いていない、まだ見終えていない、と抗議していると、どこからともなくわらわらと大勢の黒い服の男たちが現われ、見る見るうちに会場を制圧した。そしてその奥から、天皇・皇后の姿が現われた……と。

作兵衛画の鑑賞を突然断ち切られた友人の怒りは当然として、同時に、作兵衛展を見に行くとは、皇后もなかなかやるな――と私は思った。この展覧会の少し前に、ユネスコは作兵衛の作品を世界記憶遺産に指定していた。この年には、チェ・ゲバラが遺した文書(日記、旅行記、ゲリラ戦記など)も、キューバ・ボリビア両政府からの申請で同じ遺産に指定されており、それぞれの国では自国に縁のある文物が記憶遺産に指定されることに〈自民族至上主義的に〉大騒ぎする。日本社会も、描いている主題からして日頃はさして注目もしていない山本作兵衛の作品が、世界的な認知を受けたといって盛り上がっていたとはいえ、このような社会的「底辺」に関わる表現にまで目配りするとは、さすが皇后、と思ったのである。(この展覧会に来るという「見識」を持ち得るのは天皇ではなく皇后だろうという判断には、大方の賛同が得られよう。)

こんなことを思い出したのは、去る10月20日、83歳の誕生日を迎えた皇后の文書が公表されたからである。2ヵ月早く今年の回顧を行なった感のある同文書を読むと、神羅万象に関わる皇后の関心の広さ(あるいは、目配りのよさ)がわかる。震災の被災者や原爆の被害者への言及を見て、「弱者に寄り添う」という表現もメディア上では定番化した。今回は特に、核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)がノーベル平和賞を受賞したことにも触れており、これには明らかに、核廃絶への取り組みに熱心ではない安倍政権への批判が込められているとの解釈もネット上では散見された。学生時代の彼女は(1934年生まれの世代には珍しいことではないが)、ソ連の詩人、マヤコフスキーやエセーニンの作品を愛読していたという挿話もあって、〈個人としては〉時代精神の優れた体現者なのだろう。

だが、ひとりの人間として――というためには、他の人びととの在り方と隔絶された特権を制度的に享受する立場に立たない、という絶対条件が課せられよう。作兵衛展に出かけるにしても、一般人の鑑賞時間を突然に蹴散らしてでも自分たちの来場が保証されるという特権性に、彼女が聡明で優れた感度の持ち主であれば、気づかぬはずはない。自分たちが外出すれば、厳格極まりない警備体制によって「一般人」が被る多大な迷惑を何千回も現認しているだろうことも、言うを俟たない。「弱者」に対していかに「慈愛に満ちた」言葉を吐こうとも、己の日常は、このように、前者には叶うはずもない、そして人間間の対等・平等な関係性に心を砕くならば自ら持ちたいとも思わないはずの特権に彩られている。その特権は「国家」権力によって担保されている。この「特権」と、自らが放つ温情主義的な「言葉」の落差に、気が狂れるほどの矛盾を感じない秘密を、どう解くか。

凶暴なる国家意志から、まるで切り離されてでもいるかのように浮遊している「慈愛」があるとすれば、それには独特の「役割」が与えられていよう。彼女が幾度も失語症に陥りながらも、皇太子妃と皇后の座を降りようとしなかったのは、自らの特権的な在り方が「日本国家」と「日本民族」に必要だという確信の現われであろう。

高山文彦に『ふたり』と題した著書がある(講談社、2015年)。副題は「皇后美智子と石牟礼道子」である。そのふるまいと「言霊」の力に拠って、後者の「みちこ」及び水俣病患者をして心理的にねじ伏せてしまう、前者の「みちこ」のしたたかさをこそ読み取らなければならない、と私は思った。「国民」の自発的隷従(エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ)こそが、〈寄生〉階級たる古今東西の君主制が依拠してきている存立根拠に違いない。

(11月4日記)

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[89]「一日だけの主権者」と「日常生活」批判


『反天皇制運動Alert』第16号(通巻398号、2017年10月10日発行)掲載

テレビのニュース番組を観なくなって久しいことは何度か触れてきた。もともとテレビを買ったのは1983年のことだったから、きわめて遅い。この年の10月、米帝国がカリブ海の島国、グレナダに海兵隊を侵攻させた。社会主義政権の誕生で彼の地の社会情勢が「不穏」となり、在留米国人の「安否」が気遣われたという口実での、海兵隊の侵攻だった。ひどい話だが、「建国」以来の米国史ではありふれたことではあった。悔しいのは、グレナダという国について何のイメージも浮かばないことだった。長崎県の福江島に等しい程度の広さの国だというが、どんな人が住んでいるのだろう、主な生業は何だろう、10万人の人口で成り立つ「国」とはどんなものだろう。そんな小さな国で、米国をして不安に陥れる社会的・政治的情勢とは、どんなものだろう――百科事典でわかることもあったが、土地とひとに関わる映像的なイメージがどうしても必要だと思った。

あれほど拘って「拒否」してきたテレビを買ったのは、その時だった。買ってみてわかったことだが、グレナダのような小さな国の出来事なぞ、何が起ころうと日本のテレビ局は何の関心も示さない。新聞は読んできたのだからわかりそうなものだったが、マスメディアにおける、「世界」から打ち捨てられた地域・国々の扱い方はそういうものなのだ、という当然の、興ざめした結論を改めて得ることとなった。だが、ニュースのほかにもさまざまなテレビ番組に触れるにつれ、現代人の心のありように及ぼすテレビの影響力の決定的な大きさを心底痛感することとなった。

そのことを実感する個人的な経験も1997年にあった。前年末に起こって長引いていた在ペルー日本大使公邸占拠・人質事件をめぐって、某テレビのニュース番組に二度出演した。生放送ではない、録画撮りで、放映時間はそれぞれわずか一分程度のものだった。私としては、日本人人質の安否報道に純化している日ごろの番組ではまったく聞かれない意見を話したつもりだった。翌夕、事務所近くのラーメン屋へ行くと、顔見知りの兄さんが「夕べ、テレビに出ていましたね」と言って、何か小皿料理をサービスしてくれた。郵便局の局員も、見ましたよと言って、それがさも大変なことであるような話ぶりだった。話したことの内容ではなく、テレビに出たこと自体が、私に対する彼らの視線を変えたもののようだった。恐ろしい媒体だ、と心から思った。

1983年にテレビを買い、その後20年間ほどは、時間さえあれば、ニュース番組以外にもいろいろと観た。とりわけ2002年9月以降の半年くらいの間はテレビに浸った。日朝首脳会談以降の拉致問題報道によって社会がどのようにつくり変えられていくのか。それを見極めなくてはならない。そう考えたからだ。外にいたり電車に乗っていたりするときも、ワイドショー番組での人びとの発言を携帯ラジオの音声モードで聞いていた。恐るべき速度と深度で、この社会が民族排外主義と自己責任免罪主義によって席捲されていく様子が、手に取るように分かった。ワイドショーこそは諸悪の根源、と確信した。この作業を終えて以降、テレビ・ニュースを観ることをほぼ止めた。世界各国の最新のニュース番組を同時通訳で紹介するNHK・BSの「ワールド・ニュース」だけは観る。60年安保のころ、中国文学者・竹内好が「日本の新聞だけを読んでいても、何もわからない。英字新聞を読まなければ」と語った記憶が蘇える。今、テレビに関して、竹内に似た思いを抱く。

国会解散・総選挙・相次ぐ新党結成などの動きが打ち続くなかで、「禁」を破ってテレビのニュース番組やワイドショーをいくつか観た。テレビを重要な媒体だと考えている人びとの脳髄に日々染み渡ってゆく言論がどのような水準のものであるかを、司会者・コメンテーターの言動と番組全体の枠組みを検討して、理解した。15年前との比較においてすら、劣化は著しい。加えて、選挙制度は小選挙区制である。さらに加えて、極右が支配する「自民」「希望」は論外としても、これに対決しているかに見える新党「立憲民主党」の先頭に立つのは、震災・原発事故の際の〈為政者〉としての印象も生々しい政治家たちである。あっちを向いても地獄、こっちを向いても〈小〉地獄。選挙の一定の重要性は否定しないが、「一日だけの主権者」への埋没がこの事態を出来させたと考えれば、私たちが真に大切にしなければならないことは何かが見えてくる。それは、テレビ・ニュースに象徴される、己が「日常生活」への批判なのだ。(10月7日記)

カタルーニャのついての本あれこれ


カタルーニャの分離独立をめぐる住民投票の結果の行く末に注目している。若いころ、ピカソ、ダリ、ミロ、カザルスなどの作品に触れ、ジョージ・オーウェルの『カタロニア讃歌』を読み、その地に根づいたアナキズムの思想と運動の深さを知れば、カタルーニャは、どこか、魅力あふれる芸術と政治思想の揺籃の地と思えたのだった。

そんな思いを抱えながら、私が30代半ばから加わった現代企画室の仕事においては、カタルーニャの人びととの付き合いが結構な比重を占めることとなった。

現代企画室に関わり始めて初期の仕事のひとつが、『ガウディを読む』(北川フラム=編、1984)への関わりだった。これに収録したフランシスコ・アルバルダネの論文「ガウディ論序説」を「編集部訳」ということで、翻訳した。彼は日本で建築を学んでいたので、直接何度も会っていた。熱烈なカタルーニャ・ナショナリストで、のちに私がスペインを訪れた時には、「コロンブスはカタルーニャ人だった」と確信する市井の歴史好事家を紹介してくれたが、その人物は自宅の薄暗い書斎の中で、「コロンブス=カタルーニャ人」説を何時間にもわたって講義してくれた。それは、コロンブスは「アメリカ大陸発見」の偉業を成し遂げた偉人であり、その偉人を生んだのは、ほかならぬここカタルーニャだった、というものだった。翻って、コロンブスに対する私の関心は「コロンブス=侵略者=西洋植民地主義の創始者」というものだったので、ふたりの立場の食い違いははなはだしいものだった。

それはともかく、ガウディという興味深い人物のことを、私はこの『ガウディを読む』を通して詳しく知ることとなった。

http://www.jca.apc.org/gendai/onebook.php?ISBN=978-4-7738-9810-1

現代企画室は、それ以前に、粟津潔『ガウディ讃歌』(1981)を刊行していた。帯には、「ガウディ入〈悶〉書」とあって、粟津さんがガウディに出会って以降、それこそ「悶える」ようにガウディに入れ込んだ様子が感じ取られて、微笑ましかった。残念ながら、この本は、いま品切れになっている。

http://www.jca.apc.org/gendai/onebook.php?ISBN=978-4-7738-8101-1

それからしばらく経った1988年、私はチュニスで開かれたアジア・アフリカ作家会議の国際会議に参加した後、バルセロナへ飛んだ。そこで、漫画家セスクと会った。フランコ時代に発禁になった作品を含めて、たくさんの作品を見せてもらった。それらを並べて、カタルーニャ現代史を描いた本をつくれないかという相談をした。漫画だけで、それを描くのは難しい。当時、小説や評論の分野でめざましい活躍をしていたモンセラー・ローチに、並べた漫画作品に即した「カタルーニャ現代史」を書いてもらうことにした。彼女にも会って、「書く」との約束を取りつけた。

その後の何回ものやり取りを経て、スペイン語でもカタルーニャ語でも未刊行の『発禁カタルーニャ現代史』日本語版は、バルセロナ・オリンピックを2年後に控えた1990年に刊行された。それからしばらくして、現地でカタルーニャ語版も出版された。また一緒に仕事のできるチームだなと考えていたが、ローチは日本語版ができた翌年の1991年に病死した(生年は1946年)。また、セスクも2007年に亡くなってしまった(生年1927年)。制作経緯も含めて、忘れ難い本のひとつだ。

『発禁カタルューニャ現代史』(山道佳子・潤田順一・市川秋子・八嶋由香利=訳、1990)

http://www.jca.apc.org/gendai/onebook.php?ISBN=978-4-87470-058-7

カタルーニャ語の辞書や学習書、『ティラン・ロ・ブラン』の翻訳などで活躍されている田澤耕さんと田澤佳子さんによる翻訳は、20世紀末もどん詰りの1999年に刊行された。植民地の喪失、内戦、フランコ独裁、近代化と打ち続く19世紀から20世紀にかけてのスペインの歩みを、カタルーニャの片隅に生きた村人の目で描いた佳作だ。

ジェズス・ムンカダ『引き船道』(田澤佳子・田澤耕=訳、1999)

http://www.jca.apc.org/gendai/onebook.php?ISBN=978-4-7738-9911-5

1974年――フランコ独裁体制の末期、恩赦される可能性もあったアナキスト系の政治青年が、鉄環処刑された。バルセロナが主要な舞台である。この実在の青年が生きた生の軌跡を描いたのが、次の本だ。同名の映画の公開に間に合わせるために、翻訳者には大急ぎでの仕事をお願いした。映画もなかなかの力作だった。

フランセスク・エスクリバーノ『サルバドールの朝』(潤田順一=訳、2007)

http://www.jca.apc.org/gendai/onebook.php?ISBN=978-4-7738-0709-7

アルモドバルの映画の魅力は大きい。これも、同名の映画の公開を前に、杉山晃さんが持ちかけてこられた作品だ。試写を観て感銘を受け、監督自らが書き下ろした原作本に相当するというので、刊行を決めた。バルセロナが主要な舞台だ。本の帯には、「映画の奇才は、手練れの文学者でもあった。」と書いた。

アルモドバル『オール・アバウト・マイ・マザー』(杉山晃=訳、2004)

http://www.jca.apc.org/gendai/onebook.php?ISBN=978-4-7738-0002-9

版画も油絵も描き、テラコッタや鉄・木を使った作品も多い、カタルーニャの美術家、エステル・アルバルダネとの付き合いが深いのは、もともとは、日本滞在中の通訳兼同行者=唐澤秀子だった。来日すると、彼女が私たちの家も訪ねてくるようになったので、私も親しくなった。彼女のパートナーはジョバンニというイタリア人で、文学研究者だ。そのうち、お互いに家族ぐるみの付き合いになった。

私の郷里・釧路で開かれたエステルの展覧会に行ったこと。絵を描いたり作品の設置場所を検討したりする、現場での彼女の仕事ぶりは知らないが、伝え聞くエピソードには、面白いことがたくさん含まれていたこと。彼女が急逝したのち、2006年にバルセロナの北方、フィゲーラス(ダリの生地だ)で開かれた追悼展に唐澤と出かけたが、そこで未見の作品にたくさん出会えたこと――など、思い出は尽きない。”Abrazos”(抱擁)と題する油絵の作品は、構図を少しづつ替えて何点も展示されていた。多作の人だった。「ほしい!」と思うような出来栄えなのだが、抱擁している女性の貌が一様に寂しげなのが、こころに残った。

私の家の壁には、『ハムレット』のオフェリアの最後の場面を彷彿させる、エステル作の一枚の版画が架かっている。

釧路での展覧会は、小さなカタログになっているが、現代企画室で作品集を刊行するまでにはいかなかった。でも、日本各地に彼女の先品が残っている。いくつか例を挙げよう。

「庭師の巨人」は、新潟・妻有に。

http://yuki8154.blog.so-net.ne.jp/2008-09-11

「家族」は、クイーンズスクエア横浜に。

http://www.qsy-tqc.jp/floor/art.html

「タチカワの女たち」は、ファーレ立川に。

http://mapbinder.com/Map/Japan/Tokyo/Tachikawashi/Faret/029/029.html

川口のスキップシティにも、日本における彼女の最後の作品が設置されているようだが、私は未見であり、ネット上でもその情報を見つけることはできなかった。

カタルーニャの分離独立の動きについて思うところを書くことは、改めて他日を期したい。(10月3日記)

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[88]過去・現在の世界的な文脈の中に東アジア危機を置く


反天皇制運動連絡会機関誌『Alert』第15号(通巻397号、2017年9月12日発行)掲載

米韓及び日米合同軍事演習と朝鮮国の核・ミサイル開発をめぐって、朝鮮と米国の政治指導者間で激烈な言葉が飛び交っている。日本の首相や官房長官も、緊張状態を煽るような硬直した言葉のみを発している。

いくつもの過去と現在の事例が頭を過ぎる。1962年10月、キューバに配備されたソ連のミサイル基地をめぐって、米ソ関係が緊張した。若かった私も、新聞を読みながら、核戦争の「現実性」に恐れ戦いた。その時点での妥協は成ったが、それから30年近く経ったころ、米・ソ(のちに露)・キューバの当事者が一堂に会し、当時の問題点を互いに検証し合った。モスクワ再検討会議(1989年)、ハバナ再検討会議(1992年、2002年)である。二度に及ぶハバナ会議には、フィデル・カストロも出席している。当時の米国防長官マクナマラも、三度の会議すべてに出席した。二度目のハバナ会議の時はすでに「反テロ戦争」の真っただ中であり、ブッシュ大統領が主張していたイラクへの先制攻撃論をマクナマラが批判していたことは、思い起こすに値しよう。カストロも「ソ連のミサイル配備の過ち」を認めた。キューバ・ミサイル危機では、「敵」の出方を誤読して、まさに核戦争寸前の事態にまで立ち至っていたことが明らかになった。それが回避されたのは、僥倖に近い偶然の賜物だった。

マクナマラは、ベトナム戦争の一時期の国防長官でもあって、彼は後年のベトナムとの、ベトナム戦争検証会議にも出席している。そこでも彼は、米国の政策の過ちに言及している(『マクナマラ回顧録――ベトナムの悲劇と教訓』共同通信社、 1997年)。対キューバ政策にせよ、ベトナム戦争にせよ、あれほどの大きな過ちだったのだから、「現役」の時にそれと気づけばよかったものを、そうはいかないらしい。「目覚め」はいつも遅れてやってくるもののようだ。

それにしても、人類の歴史を顧みると、同じ過ちを性懲りもなく繰り返している事実に嫌気がさすが、この種の「検証会議」はその中にあってか細い希望の証しのように思える。かつては真っ向から敵対していた者同士が、「時の経過」に助けられて一堂に会し、過ぎ去った危機の時代を検証し合うからである。そこからは、次代のための貴重な知恵が湧き出ている。それを生かすも殺すも、その証言を知り得ている時代を生きる者の責任だ。

南米コロンビアの現在進行中の例も挙げよう。キューバ革命に刺激を受けて1960年代初頭から武装闘争を続けていたFARC(コロンビア革命軍)が、昨年実現した政府との和平合意に基づいて武器を捨て、合法政党に移行した。略称はFARCのままだが、「人民革命代替勢力」と名を変えた。同党は自動的に、議会に10の議席を得た。彼らが初心を失い、後年は麻薬取引や無暗な暴力行為に走っていたことを思えば、この「妥協的」な条件には驚く。政治風土も違うのだろうが、困難な事態を解決するための、関係者の決然たる意志が感じられる。50年以上に及んだ内戦の経緯を思えば、この「和解・合意」の在り方が示唆するところは深い。朝鮮危機が報じられた9月1日の朝日新聞には「戦争は対話で解決できる/ポピュリズムは差別生む」と題されたコロンビアのサントス大統領との会見記が載っている。「ゲリラに譲歩し過ぎだ」との世論の批判を押し切ったブルジョワ政治家・サントスの思いは強靭だ。「双方の意志で対話し、明確な目標を持てば、武力紛争や戦争は終わらせることができる」。内戦で苦しんだ地方の人びとの多くが和平に賛成し、内戦の被害が少なかった都市部の住民が和平に否定的だったという文言にも頷く。当事者性が希薄な人が、妥協なき強硬路線を主張して、事態をいっそう紛糾させてしまうということは、人間社会にありふれた現象だからだ。

さて、以上の振り返りはすべて、今日の東アジア危機を乗り越えるための参照項として行なってきた。導くべき答は明快なのだが、惜しむらくは、朝鮮を見ても、米国を見ても、日本を見ても、政治・外交を司る者たちの思想と言動の愚かさを思えば、事態は予断を許さない。こんな者たちに政治を委ねてしまっている私たちは、渦中の「検証会議」を想像力で行なって、この状況下で「当事者」として行なうべき言動の質を見極めなければならぬ。

(9月8日記)

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[87]「一帯一路」構想と「古代文明フォーラム」


反天皇制運動連絡会機関誌『Alert』第14号(通巻396号、2017年8月8日発行)掲載

去る5月、北京で「一帯一路国際協力サミットフォーラム」が開催された。およそ130ヵ国の政府代表団が出席する大規模な国際会議だった。元来は、中国の習近平総書記が2013年に行なったふたつの演説で(カザフスタンのナザルバエフ大学とインドネシア議会)明らかにした構想の延長上で開かれた国際会議である。この構想で目論見られている世界地図は、当時の新聞でたびたび報道されて、私も注目していた。南北の中央部には、中国大陸がどっしりと構えている。その北に広がる「シルクロード経済ベルト」(=一帯)は、中国西部から中央アジアを経由してヨーロッパに至るが、シベリアを含めた広大なロシアの全領土を覆い尽くしている。南に位置する「21世紀海上シルクロード」(=一路)は、中国沿岸部から東南アジア、インド亜大陸、アラビア半島を経て、アフリカ東海岸部へと至るものである。このふたつの地域で、インフラストラクチャー整備、貿易および資金の往来を促進しようとする計画である。習近平は、ふたつの演説地を周到に選んだと言うべきだろう。

ここに描かれる世界地図では、何事につけても口出しをする欧米諸国の影は薄い。だが、EUは「一帯一路」構想の支持を表明しており、日米両国も北京会議には閣僚級の代表団を派遣した。いずれも、構想が「オープンかつ公正、透明に」実施されるなら、積極的に協力する意思を表明している。

中国が交通インフラ整備の要としているのは高速鉄道網の建設だという。日本の新幹線の派生技術として始まった中国の高速鉄道は、国産技術の水準を急速に高め、自信をつけている。このことをひとつ取ってみても、「一帯一路」事業が孕み得る経済的な可能性(利潤の獲得、とはっきり言っておこう)を思えば、どの国の経済界もこれに参画することを欲して政府に働きかけたであろうことは疑うべくもない。

歴史論・文明論としての魅力は備えているかに見える「一帯一路」構想は、経済合理性に基づいて実施されるしかないから、世界各地の「近代化」が歴史に刻んだ負性を帯びざるを得ない。各国を支配するのが、強権政治を事も無げに行なう連中である限り(東アジアだけを見ても、中国・朝鮮・日本を例に挙げればわかる。新政権が誕生したばかりの韓国は、その行方を今しばらく見守るとしても)、「政経分離」による協力体制がもたらす未来像は、決して明るくはない。経済発展のために常に「フロンティア(辺境)」を必要としている資本主義体制にとって、今後2度とないビッグ・チャンスとすら言えよう。広大な各地に住まう「辺境の民」を蹴散らし、それはまさに、「真昼である。特別急行列車は満員のまま全速力で馳けていた。沿線の小駅は石のように黙殺された。」といった態をなすだろう。

もうひとつ、去る4月に、中国が主導し、ギリシャと語らってアテネで開催した閣僚級の国際会議にも注目したい。「古代文明フォーラム」である。参加国は、上記の両国に加えて、エジプト、イラン、イラク、イタリア、インド、メキシコ、ペルー、ボリビアの計10ヵ国である。古典的な「世界4大文明圏」に、5世紀有余前に世界史に「登場」した南北アメリカ大陸の、アステカ、マヤ、インカの古代文明圏を組み入れた国際会議であることが、見てとれる。描かれる世界地図からは、ここでも、従来はあまり見たこともない世界史像が浮かび上がってきて、その魅力がないではない。たかだか250年足らずの歴史をしか刻んでいない米国は、姿・形も見えない。ギリシャとイタリアを除くヨーロッパ諸地域も、古代にあっては「辺境」の地であったから、同じことだ。

発表されたアテネ宣言によれば 排外主義やテロなど不寛容な精神の広がりを防ぐために文明間の対話を進め、歴史の知恵を生かすことを唱っている。異論は、ない。だが、「古代文明フォーラム」にも、私は疑念をもつ。古代史研究は、自民族の文化と国家の起源を、「ヨリ古く」「ヨリ大きい」ものにすることに価値を置く方向ではたらくことがある。それが高じれば、異なる文明間に、「発展段階」による優劣をつける歴史観に流されてゆく。

習近平が次々と繰り出す外交方針は、人目を惹く。魅力もある。だが、「中華」の悠久の歴史を思う存分活用しようとするその方針には、検証と批判が不可欠だろう。(8月5日記)

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[86]「現在は二〇年前の過去の裡にある」「過去は現在と重なっている」


『反天皇制運動 Alert 』第13号(通関395号、2017年7月6日発行)掲載

今からちょうど20年前の1997年12月、一冊の「歴史書」が刊行された。『歴史教科書への疑問』という(展転社)。編者は「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」と名乗った。煩を厭わず、目次を掲げておきたい。

はじめに(中川昭一)

1 検定教科書の現状と問題点(高橋史朗、遠藤昭雄、高塩至)

2 教科書作成の問題点と採択の現状について(高塩至、丁子淳、漆原利男、長谷川潤)

3 いわゆる従軍慰安婦問題とその経緯(平林博、虎島和夫、武部勤、西岡力、東良信)

4 「慰安婦記述」をめぐって(吉見義明、藤岡信勝)

5 日韓両国にとっての真のパートナー・シップとは何か(呉善花)

6 河野官房長官談話に至る背景(石原信雄)

7 歴史教科書はいかに書かれるべきか(坂本多加雄)

8 我が国の戦後処理と慰安婦問題(鶴岡公二)

9 なぜ「官房長官談話」を発表したか(河野洋平)

当時わたしは『派兵チェック』誌に「チョー右派言論を読む」という連載をもっていて、『正論』(産経新聞社)や『諸君!』(文藝春秋)などの月刊誌を「愛読」していた。当時から見て一昔前なら、泡沫的な極右言論が集う場であったそれらの雑誌は、記述の中身をますます劣化させながら、にもかかわらず社会の前面に躍り出てくる感じがあった。「劣化ぶり」とは、まっとうな歴史的検証に堪えられず、論理としても倫理としても明らかに破綻した文章が「堂々と」掲載されているという意味である。右翼言論のあまりの劣化ぶりを「慨嘆」しながら、それでいてかつてない勢力を誇示しながらそれが露出しつつあることの「不気味さ」を、天野恵一と語り合った記憶が蘇える。この「歴史書」の執筆者には、それらの雑誌で馴染みの名も散見されるとはいえ、そうでもない名も多かった。右派言論界の「厚み」を感じたものである。

「若手議員の会」なるものの発足の経緯にも触れておこう。これは「1997年2月27日、中学校歴史教科書に従軍慰安婦の記述が載ることに疑問をもつ戦後世代を中心とした若手議員が集まり、日本の前途について考え、かつ、健全な青少年育成のため、歴史教育のあり方について真剣に研究・検討すると共に国民的議論を起こし、行動することを目的として設立」された。1997年に先立つ前史を振り返れば、彼らがもった「危機意識」が「理解」できる。以下、年表風に記述してみる。

1991年 元日本軍「慰安婦」金学順さん、その被害に関して日本政府を提訴。

1992年 全社の小学校教科書に「南京大虐殺」が記述される。/訪韓した宮澤首相、「慰安婦」問題でお詫びと反省。

1993年 河野洋平官房長官談話、「慰安婦」問題での強制性を認め、謝罪。/細川護煕首相「先の戦争は侵略戦争」と発言。

1994年 全社の高校日本史教科書に「従軍慰安婦」が記述される。

1995年 村山富市首相、侵略と植民地支配を謝罪する戦後50年談話発表。

これが、1990年代前半の一連の動きだが、これに危機感をもった「若手議員の会」の役員構成は次のようなものだった。代表=中川昭一/座長=白見庄三郎/幹事長=衛藤晟一/事務局長=安倍晋三。そして、衆議院議員84名、参議院議員23名で発足した。中川と安倍は自他ともに許す「盟友」だったが、両者の動きは2001年1月に顕著なものとなった。NHKの「戦争をどう裁くか」第2回「問われる戦時性暴力」の内容を、なぜか事前に知った中川・安倍の両議員がNHK幹部に圧力をかけて番組内容を改変させたからである。NHK側の当事者であった永田浩三の『NHK、鉄の沈黙はだれのために』(柏書房、2010年)などを読むと、NHK幹部は『歴史教科書への疑問』をかざしながら、この連中が圧力をかけてきているといいながら右往左往していた様子が描かれている。

1997年には、日本会議と「『北朝鮮による拉致』被害者家族連絡会」が結成されている。振り返ってみて、この年が、日本社会の「現在」を作る原点的な意味を持つことが知れよう。最後に、「若手議員の会」の役員以外の主なメンバーを一瞥しておこう。下村博文、菅義偉、高市早苗、中山成彬、平沢勝栄、森田健作、八代英太などの名前が見える。森田は、もちろん、現千葉県知事である。何よりも冒頭のふたりの名前に注目すれば、「現在は20年前の過去の裡にあり」「過去は現在と重なっている」ことがわかる。(7月1日記)

男たちが消えて、女たちが動いた――アルピジェラ創造の原点


「記憶風景を縫う」実行委員会編『記憶風景を縫う-チリのアルピジェラと災禍の表現』所収、2017年

(ISBN978-4-9909618-0-0)

私がメキシコに暮らし始めて2ヵ月半が経った1973年9月11日、チリに軍事クーデタが起こった。その3年前の1970年、選挙によって誕生したサルバドール・アジェンデ大統領のもとで、「社会主義へのチリの道」がいかに展開するかに期待を込めた関心を持ち続けていた私には、大きな衝撃だった。やがて、左翼・右翼を問わず亡命者を「寛容に」迎え入れる歴史を積み重ねてきたメキシコには、軍事政権の弾圧を逃れたチリ人が続々やってきた。女性が多かった。新聞に載った一女性の語った言葉がこころに残った。愛する男(恋人か夫)が軍部によって虐殺されたか、逮捕されたのだろう。「相手を奪われて、セックスもできない日々が続くなんて、耐え難い」。軍事クーデタへの怒りが、このような直截な言葉で語られることが「新鮮」だった。メキシコでは、チリ民衆との連帯集会が頻繁に開かれて、私は何度もそこへ参加した。

ラテンアメリカを放浪中だった私は、クーデタから1年数ヵ月が経った75年2月、チリへ入った。アルゼンチンのパタゴニアの北部を抜けて、南部のテムコへ入った。リュックの荷物からは、税関で「怪しまれ」そうな本・新聞・資料をすべて抜き去った。

テムコは、世界的にも有名な詩人パブロ・ネルーダが幼年期を過ごした町だ。アルゼンチンで知り合ったチリ人が、テムコの実家に泊まってというので訪ねると、そこはネルーダの縁戚の家だった。アジェンデの盟友であり、自らも共産主義者であったネルーダは、73年クーデタの直後の9月23日に亡くなった。クーデタ当日はがんで入院していたが、政権を掌握した軍部の命令を受けた担当医によって毒殺されたという説が濃厚である。

私が訪ねた家も、ク-デタ後何回にもわたって家宅捜査を受けたという。大家族で、芸術・文化の愛好者が揃っていたが、書物は少なかった。軍部によって焚書されたのだという。焼けただれた本も幾冊か、あった。十全な形ではもう読めないのに、捨てるには忍びなかったのだろう。夜が更けると、家族みんなが集まって、大声では歌えないアジェンデ時代の民衆歌や革命歌を歌った。メキシコで私も親しんでいた歌だったので、小さな声で合わせることができた。

テムコは、先住民族マプーチェの土地だ。スペイン人征服者(コンキスタドール)を相手に展開した激しい抵抗闘争で、歴史に名を刻んでいる民族である。アジェンデ政権期には、その要求が全面的に認められたわけではなかったにしても、マプーチェへの土地返還が、従来に比べれば大幅に進んだ。軍政によってこの動きは断ち切られ、彼ら/彼女らは逆風にさらされていた。今は物を言う状況にはないマプーチェの人びとの小さな野外市場で、いくつかの民芸品を買った。チリでは他にも、首都サンティアゴ・デ・チレでの、人びととの忘れ難い出会いがあった。しかし、軍政下ゆえの不自由さは、隠しようもなかった。それだけに、テムコでの想い出が、いまもくっきりと脳裏にひらめく。

数年後、帰国して間もない私のもとに、チリから国際小荷物が届いた。そこに、一枚のタペストリーが入っていた。布の切れ端で作られたパッチワークだった。アンデスの山脈を背景にした家々の前で人びとが立ち働いている。10人全員が女性だが、それぞれが何かを持ち寄って、集まって来るような印象を受ける。この時代、現実にあった、貧しい人びとの「共同鍋」の試みなのかもしれぬ。テムコのあの家族からの贈り物だった。由緒の説明はなかったように思う。突起部分があって、ふつうの額には収まらないので、ラテンアメリカ各地で買い求めた民芸品と共に、大事に箱にしまい込んだ。

それからずいぶんと時間が経って、20世紀も末期のころ、私は編集者として一冊の翻訳書の仕事に関わった。「征服」期から現代にまで至る「ラテンアメリカの民衆文化」を研究した『記憶と近代』という書物である(ウィリアム・ロウ+ヴィヴィアン・シェリング=著、澤田眞治+向山恭一=訳、現代企画室、1999年刊)。そこでは、片方には軍政の抑圧、他方には革新政党のヒエラルキー構造や温情主義的な慣習をはびこらせた左翼の失敗の双方を乗り越えて、近隣の共同組織に依拠して日常生活や消費領域の問題を公的な政治領域に導入した動きとして、チリで行なわれてきた「アルピジェラ」と呼ばれるパッチワークの生産活動が挙げられていた。十数年前にテムコから送られてきたあの布地のことではないか!

同書は言う。「個人的な喪失や別離や極貧の経験を政治的事件の証言に変える試み」としてのアルピジェラは、「木綿や羊毛のぼろ布を使って日常生活のイメージを構成したものなのだが、その繊細で子供らしい形式とそこに描かれた内容とは衝撃的なくらい対照的である。それは大量収容センターのゲートの外で待っている身内の人々、軍事クーデタの日に軍のトラックに積まれた死亡した民間人、スラム街の無料食堂の場面、行方不明の身内との再会や、飢えや悲しみのない豊かな生活といった想像上の場面を描いている」。

軍政下での人権侵害を告発したカトリック教会は、「失踪者」家族支援委員会を運営しながら、アルピジェラのワークショップの開催、買い取りと販売を通して、生産者の経済的自立の手段を提供してきた、とも書かれていた。

アルピジェラの生産者が女性であることからどんな意義を読み取るか――同書はさらにその点をも書き進めるのだが、その後私たちに届けられたチリの表現をも援用しながら、この問題を考えてみたい。アジェンデ時代のチリを振り返るために決定的に重要なチリ映画が2016年にようやく日本でも公開された。パトリシオ・グスマン監督の『チリの闘い』3部作(1975~78年制作)である。この映画は、アジェンデ政権期の1970年から73年にかけての現実を、とりわけ73年の、クーデタに至る直前の半年間の状況をドキュメンタリーとして捉えている。そこには、当時のチリ階級闘争の攻防が生々しく描かれている。アジェンデ支持派の集会、デモ、討議の場で目立つのは男性である。米国CIAに扇動もされたブルジョアジーが日常必需品を隠匿して経済を麻痺させようとする策動を行なうのだが、地域住民がこれに抗して独自に生活物資を集め仕分けする場面に、辛うじて女性の姿が垣間見える。

このように『チリの闘い』が記録してしまった1970年代初頭の社会運動の状況と、アピルジェラをめぐる諸問題などを重ね合わせると、次のような課題が浮かび上がってくるように思われる。

1)チリ革命を推進していた社会運動は、政党にあっても労働組合運動にあっても、性別分業に特徴づけられた男性中心主義の色合いを強くもっていたことは否めないようだ。それは、世界的に見て、1970年代が持つ時代的な制約であったとも言えるのかもしれない。したがって、軍事クーデタ後の弾圧は、男性に集中的にかけられた。クーデタ直後に「デサパレシードス(行方不明者)」の写真を掲げて示威行動をしたり、グスマンの映画『光のノスタルジア』(2011年)が描いたような、クーデタから30年以上経ってなお強制収容所跡地で遺骨を探したりしている人びとがすべて女性であることによって、それは裏づけられている。

2)男性中心の諸運動は、こうして再起不能な打撃を受けたが、それは同時に、母、妻、娘として、親密な男性を失った女性たちが、その「喪失や別離」の体験を発条にして、新たな地平へ進み出ることを可能にした。男性優位の社会的な価値規範のもとで下位に退けられていた「女性的なもの」に根ざした表現として現われたのが、アルピジェラであった。それは、硬い男性原理から、柔らかな女性原理への転換が求められている時代を象徴していると言える。大言壮語に満ちた「大きな物語」を語る政治運動が消えて、日常生活に根ざした表現と運動が、支配への有効な抵抗の核となった時代――と表現してもよいだろう。

3)チリ革命では、もともと、文化革命的な要素が目立った。アリエル・ドルフマンなどは『ドナルド・ダックを読む』(晶文社、1984年)、『子どものメディアを読む』(晶文社、1992年)などの著作を通して、子どもの脳髄を支配する文化帝国主義の批判を行なった。また、女性を伝統的な価値観の枠組みの中に閉じ込めるいわゆる女性雑誌の編集姿勢を徹底的に批判・分析した一連の作業もあった。若い男性主体の価値意識の中では低く見なされがちな大衆、子ども、女性などの社会層に働きかける文化批判が実践されることで、単に、政治・社会・経済過程の変革に終わらぬ、草の根からの革命の事業が活性化する可能性が孕まれていたのではないか。それは、時代が激変し、軍事政権下に置かれた時に、庶民の女性たちがアルピジェラという表現に賭けたこととも関連してくるものだろうか?

アルピジェラという民衆の文化表現からは、この時代を考えるうえで避けることのできない重要な問いがいくつも生まれ出てくるようだ。

追記:「記憶風景を縫う」展覧会についての情報は、以下をご覧ください。

https://www.facebook.com/arpilleras.jp/