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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[100]百年後のロシア革命――極秘文書の公開から見えてくるもの


『反天皇制運動Alert』第27号(通巻409号、2018年9月4日発行)掲載

あるところで「ロシア革命百年」講座を行なっている。半年かけて、全6回である。昨年もこのテーマに関しては2回ほど公の場で話した。そのうち1回は、「レーニン主義」をなお墨守していると思われる人びとが多く集う場だから、緊張した。私は一定の〈敬意〉をもってこの人物に接してはきたが、いわゆる「レーニン主義者」であったことは一度もない。若い頃の思いを、恐れも知らず埴谷雄高を模して表現するなら、ヨリ自由な立場から『国家と革命』に対峙し、理論的に負けたと思ったら、選ぶ道を考え直そう、というものだった。〈勝ったか負けたか〉はともかく、レーニンが主導した道は選ばなかった。だから、その道を選び、今なお〈悔い改めない〉人びとの前では、いい意味で緊張するのである。

53歳で亡くなったレーニンは、論文・著作の生産量が高い人だった。最終的には、ロシア語第5版で補巻を含めて全57巻、日本語版はロシア語第4版に依拠し全48巻の全集が編まれた。いずれも、1950年代から60年代にかけての、息の長い出版の仕事だった。レーニンの著作をめぐって、事態が決定的に変わるのは、ソ連体制が崩壊した1991年以降である。ソ連共産党中央委員会のアーカイブに厳密に保管されてきていた極秘文書が公開されるようになった。書き込みも含めてレーニンの手になる文書3700点、レーニンが署名した公的文書3000点が明るみに出た。極秘にされていた理由は、以下による。(1)国家機密に関わるもの。陰謀的な性格を持つもの。(2)公定レーニン像に抵触する、不適切なイデオロギー的性格をもつもの。(3)判読不能・鑑定上の疑義のあるもの。技術的・学術的な問題。(文書の点数は、池田嘉郎による)

ロシアではもとより、英語圏・フランス語圏でもこれらの文書を参照しないロシア革命研究はもはやあり得ない。重要な著作は、いくつか日本語訳も出版されている。日本でも、梶川伸一、池田嘉郎、故稲子恒夫のように、従来の未公開文書を駆使して重要な仕事を行なっている研究者が生まれている。そんな時代がきて、4半世紀が過ぎた。

それらの資料を読みながら、私はつくづく思う。党中央委員会の文書管理部は、一貫して、実に〈すぐれた〉人物を擁していた。同時代的に、あるいは後世においてさえ、この文書を公開しては、レーニンとロシア革命のイメージをひどく毀損すると「的確に」判断できていたからである。この短い文章では具体的な引用はできない。ただ、〈敵〉と名指しした人びとに対する、公開絞首刑の執行を含めた仮借なき弾圧が幾度となく指示されているとか、レーニンの忠実な「配下」であったトゥハチェフスキーが「反革命」鎮圧のために毒ガス使用を指示したとか程度には触れておこう。「富農を人質に取れ」という苛烈なレーニンの指令に驚き、心がひるみ、この指令を無視する地方の党幹部の姿も現われる。つまり、この幹部のように、そしてクレムリンの文書管理部局スタッフのように、難局極まりない内戦の渦中にあっても「的確な」判断を成し得た人物は実在したのである。レーニンと革命が掲げる〈目的〉に照らせば、採用してはいけない〈手段〉があることを知っていた人物が……。

その意味では、1921年のクロンシュタット叛乱と、1918~21年のウクライナのマフノ農民運動に対して、レーニンやトロツキーが先頭に立って「弾圧」した事実は、夙に(同時代の中でも)知られていた。前者の叛乱は、「革命の聖地」ペトログラードのすぐ近くのクロンシュタット要塞で進行した。それは、ボリシェヴィキの一党独裁を批判する立場から革命の根源的な深化を求めた水兵・労働者の公然たる動きであり、ボリシェヴィキも機関紙上で反論せざるを得なかった。叛乱なるものの背後にはフランスのスパイがいる、というお定まりの宣伝ではあったが。後者の場合は、ボリシェヴィキの弾圧にさらされる農民アナキストが渦中で情報を発信した。1922年末に日本を脱出した大杉栄は、翌年2月パリに着くと、マフノ運動関連の文献渉猟に全力を挙げている。7月に帰国して、翌8月には「無政府主義将軍 ネストル・マフノ」という優れた紹介文を執筆した。大杉が虐殺される前の月である。

ロシア革命は、当時も百年後の今も、その本質について、どんな情報に基づいてどのような判断を持つかを迫られる、或る意味で「おそろしい」場であり続けている。

(9月1日記)

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[99]オウム真理教幹部13人の一斉処刑について


『反天皇制運動Alert』第26号(通巻408号、2018年8月7日発行)掲載

共謀罪法施行一周年の抗議集会で講演するために、豪雨の大阪へ向かう準備をしていた7月6日朝、オウム真理教幹部の死刑執行の第一報がラジオで流れた。執行後にしか情報が流れない通常の在り方とは異なる「事前情報」であることは、ニュースの言葉遣いから分かった。その後は新幹線の車中にいたために、次々となされる死刑執行の様子が、まるで実況中継のようになされたという一部テレビ報道は現認していないが、執行に立ち会うべき検察官が早朝から拘置所内へ入る姿が撮られている以上、法務省は積極的に事前情報を流したのだろう。テレビ・メディアの「効用」を思うがままに利用したその意図を見極めなければならない。7人の死刑が執行されたことは車中のテロップで知った。残るオウムの死刑確定者は6人。彼らにとっては、これは「予告された殺人宣告」にひとしい作用としてはたらくだろうと思い、その残酷さに心が震えた。

7月26日、翌日に某所で行なう講演「オウム真理教幹部一斉処刑の背景を読む」の準備をしていた時に、第二次処刑のニュースが流れた。合計13人の処刑。すぐに思い浮かべたのは、1911年1月の24日と25日のこと――前日には、「大逆事件」で幸徳秋水ら11人の、翌日には管野スガひとりの、計12人の死刑が執行された史実だった。大量処刑を行なっても世論は反撃的には沸騰しない、と読んでいる安倍政権の「冷徹さ」が、際立って透けて見えるように思えた。

無理にでも心を落ち着かせて、翌日の講演の準備を続けた。いくつかの資料に基づいて、オウムの関連年表を作ってみた。「オウム神仙の会」が設立され、松本智津夫が麻原彰晃と名乗り始めたのは1984年(「オウム真理教」と改称したのは1987年)だったが、松本サリン事件が1994年、地下鉄サリン事件は1995年――という形で年表を作ってみると、創設からわずか10年前後で、オウム真理教は「極限」にまで上り詰めたことがわかる。無神論者の私にして、宗教がもつ始原的なエネルギーのすさまじさを思うほかはなかった。来世や浄土を信じる心が、市民社会に普遍的な「善悪の基準」に拘泥され得ないことは、理念的には、見え易い。だが、近代合理主義からすれば、神秘的なこと/常軌を逸したことへの信念を持つことが、これほどまでに短期間に、無差別殺戮を正当化する暴発に結びついたことには、心底、驚く。

修行中に異常を来した信者を水攻めにして死に至らしめ遺体を焼却した事件や、その事実を知る信者が脱会を申し出たために殺害した事件は、1988年秋から89年初頭にかけてすでに起こっていたが、これはごく少数の幹部の裡に秘匿されていたために、長いこと外部に漏れることはなかった。だが、出家した子どもの親たちが、高額の「お布施」や連絡の途絶に不審を抱いて、被害対策弁護団も結成された後の1989年8月に、東京都から宗教法人の認証を受けているなど、解明されるべきことは多々あることを、あらためて思い知る。89年11月の坂本弁護士事件が、神奈川県警のサボタージュによって捜査の方向が捻じ曲げられたことは今までも触れてきた。その捜査の中心人物たる古賀光彦刑事部長(当時)がその後、愛知県警察本部長→警察大学学長→JR東海監査役という具合に、絵に描いたような「出世」と「天下り」のコースをたどっていることは、寒心に堪えない。安倍政権下で「功績」を挙げた官僚たちが歩む道は、いつの時代にも、敷き詰められているのだ。

その夜の講演で私は、「国家権力とたたかう」オウムが、省庁を設けて担当大臣や次官を任命し、他者を殺戮する兵器や毒ガス開発に全力を挙げたことを指して「国家ごっこ」と呼んだ。軍隊・警察を有する国家が独占している殺人の権限を自らも獲得しようとしたオウムは、悲劇的な形で「国家の真似事」を演じた。一宗教がたどった軌跡から私たちが取り出すべきは、宗教がもち得る危険性への視点だけではない。大量処刑も含めて「国家」が行なう所業への批判も導き出すことができるのだ。(8月4日記)

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[98]「貧しい」現実を「豊かに」解き放つ想像力


『反天皇制運動Alert』第25号(通巻407号、2018年7月10日発行)掲載

10や50や100のように「数」として区切りのよい周年期を祝ったり、内省的に追憶したり、それに過剰に意味付与したりするのはおかしいと常々思ってはいる。だが、ロシア革命百年(1917~)、米騒動・シベリア干渉戦争百年(1918~)、三・一独立運動/五・四運動百年(1919~)、関東大震災・朝鮮人虐殺百年(1923~)という具合に、近代日本の歩みを顧みるうえで忘れ難い百周年期が打ち続くここ数年には、その歴史的な出来事自体はもとよりこれに続いた歴史過程の検証という視点に立つと、深く刺激される。百歳を超えて存命されている方を周辺にも見聞きするとき、ああこの歳月を生きてこられたのだ、と思いはさらに深まる。

厄介な「米国問題」を抱えて苦悶する近現代の世界を思えば、五年後の2023年は、米国は身勝手なふるまいをするぞと高らかに宣言したに等しいモンロー教義から二百周年期にも当たることが想起される。それに、現在のトランプ大統領の勝手気ままなふるまいを重ね合わせると、他地域への軍事侵攻と戦争に明け暮れている米国二百年史が重層的に見えてきて、嘆息するしかない(いまのところ、唯一、トランプ氏の対朝鮮外交だけは、伝統的な米外交政策顧問団が不在のままに大統領単独で突っ走ったことが、局面打開の上で有効であったと私は肯定的に判断しているが、この先たどるべき道は、なお遠い。紆余曲折はあろうとも、よい形で、朝鮮半島南北間の、そして朝米間の、相互友好関係が築かれることを熱望してはいるが……)。

さて足下に戻る。冒頭に記した百周年期を迎える一連の出来事を見ても一目瞭然、問題は、百年前の当時、日本が東アジアの周辺地域といかなる関係を築いていたのかとふり返ることこそが、私たちの視点である。先ごろ実現した南北首脳会談と朝米首脳会談に対して、日本の政府、マスメディア、そして「世論」なるものが示した反応を見ても、この社会は総体として、朝鮮に対する植民地主義的態度を維持し続けていることがわかる。民族的な和解に向けた着実な歩みを理解しようとせずに、そこには「ぼくがいない」(=拉致問題に触れていない)などと駄々をこねているからである。この腹立たしい現実を思うと、改めて、「日韓併合」から10年ほどを経た1920年前後の史実に、百年後の今いかに向き合うかが重要な課題としてせりあがってくる。

その意味で注目に値するのが、公開が始まったばかりの瀬々敬久監督の映画『菊とギロチン』である(2018年)。関東大震災前後に実在した、アナキスト系青年たちの拠点=ギロチン社に集う面々を描いた作品である。ギロチン社の実態をご存知の方は、そんなことに何の意味があろうと訝しく思われよう。大言壮語を駆使して資本家から「略奪」した資金を酒と「女郎屋」で使い果たしたり、震災後の大杉栄虐殺に怒り「テロ」を企てるも悉く惨めな失敗に終わったりと、ギロチン社に関しては情けなくも頼りない史実が目立つばかりである。映画はそこへ、当時盛んであった女相撲の興行という要素を絡ませた。姉の死後、姉の夫だった男の「後妻」に、こころ通わぬままになったが、夫の暴力に耐えかねて貧しい農村を出奔した花菊(木竜麻生)にまつわる物語は、当時の農村社会の縮図といえよう。元「遊女」の十勝川(韓英恵)は朝鮮出身の力士と設定されているが、彼女が経験してきたことがさまざまな形で挿入されることで、物語は一気に歴史的な現実に裏づけられた深みと広がりをもつものとなった。過去の、実態としては「貧しい」物語が、フィクションを導入することによって、現在の観客にも訴えかける、中身の濃い「豊かな」物語へと転成を遂げたのである。大言壮語型の典型と言うべき中濵鐵(東出昌大)も、思索家で、現金奪取のために銀行員を襲撃したときに心ならずも相手を殺害してしまったことに苦しむ古田大次郎(寛一郎)も、この物語の中では、いささか頼りないには違いないが、悩み苦しみつつ、「自由な世界」を求める人間として、生き生きとしてくる。大震災の直後の朝鮮人虐殺にまつわる挿話は、十勝川も、威張りちらす在郷軍人も、今は貧しい土地にへばりついて働いているが、自警団としての耐え難い経験を心底に秘めた元シベリア出兵兵士も、それぞれの場から語って、映画の骨格をなした。

現実は、ご存知のように、耐え難い。想像力が解き放つ映像空間を楽しみたい。

(7月6日記)

【追記】『菊とギロチン』の公式サイトは以下です。

http://kiku-guillo.com/

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[97]米朝首脳会談を陰で支える文在寅韓国大統領


『反天皇制運動 Alert』第24号(通巻406号、2018年6月5日発行)掲載

引き続き朝鮮半島情勢について考えたい。東アジア世界に生きる私たちにとって、情勢が日々変化していることが実感されるからである。しかも、差し当たっては政府レベルでの動きに注目が集まるこの事態の中に、日本政府の主体的な姿はない。見えるとしても、激変する状況への妨害者として、はっきり言えば、和解と和平の困難な道を歩もうとする者たちを押し止めようとする役割を自ら進んで果たす姿ばかりである。その意味での無念な思いも込めて、注目すべき状況が朝鮮半島では続いている。

政治家は押し並べて気まぐれだが、その点では群を抜く米朝ふたりの政治指導者の逐一の言葉に翻弄されていては、問題の本質には行きつかない。そこで、今回のこの情勢の変化を生み出した当事者のひとりで、米朝のふたりとは逆の意味で頭ひとつ抜けていると思われる政治家、文在寅韓国大統領の言葉の検討から始めたい。

17年5月に就任したばかりの文大統領は、直後の5月18日に、記憶に残る演説を行なっている。光州民主化運動37周年記念式典において、である。文大統領は、朴正煕暗殺の「危機」を粛軍クーデタで乗り越えようとした軍部が全土に非常戒厳令を布告し、ひときわ抵抗運動が激しかった光州市を戒厳軍が制圧する過程で起こった80年5月の事態を「不義の国家権力が国民の生命と人権を蹂躙した現代史の悲劇だった」として、自らの問題として国家の責任を問うた。18年3月1日の「第99周年3.1節記念式」では、日本帝国主義支配下で起きた独立運動の意義を強調し、この運動によってこそ「王政と植民地を超え、私たちの先祖が民主共和国に進むことができた」と述べた。最後には、独島(竹島)と慰安婦問題に触れて、日本は「帝国主義的侵略への反省を拒んでいる」が、「加害者である日本政府が『終わった』と言ってはならない。不幸な歴史ほどその歴史を記憶し、その歴史から学ぶことだけが真の解決だ」と語った。私たちは、韓国憲法が前文で、同国が「3・1運動で建立された大韓民国臨時政府の法統」に立脚したものと規定している事実を想起すべきだろう。来年はこの3・1運動から百年目を迎える。改めて私たちの歴史認識が、避けがたくも問われるのである。

文大統領は18年4月3日の「済州島4・3犠牲者追念日」でも追念の辞を述べた。日本帝国主義軍を武装解除した米軍政は、1948年に南側の単独選挙を画策したが、これに反対し武装蜂起した人びとに対する弾圧が、その後の7年間で3万人もの死者を生んだ悲劇を思い起こす行事である。今年は70周年の節目でもあった。文氏はここで、70年前の犠牲者遺族と弾圧側の警友会の和解の意義を強調しつつ、「これからの韓国は、正義にかなった保守と、正義にかなった進歩が『正義』で競争する国、公正な保守と公正な進歩が『公正』で評価される時代」になるべきだと語っている。

どの演説にあっても貫かれているのは、国家の責任で引き起こされた過去の悲劇をも、後世に生きる自らの責任で引き受ける姿勢である。私は、文氏が行なっている内政の在り方を詳らかには知らない。韓国内に生きるひとりの人間を想定するなら、氏の政策にも批判すべき点は多々あるのだろう。だが、今や世界中を探しても容易には見つからない、しかるべき識見と歴史的展望を備えた政治家だ、とは思う。米クリントン政権時代の労働省長官だったロバート・ライシ氏は、文氏が「才能、知性、謙虚さ、進歩性」において類を見ない人物であり、「偏執症的なふたりの指導者、トランプと金正恩がやり合っている脆弱な時期に」文在寅大統領が介在していることの重要性を指摘している(「ハンギョレ新聞」18年5月27日)。13年来の「新年辞」で南北対話と緊張緩和を呼びかけてきた金正恩氏にとっても、またとない相手と相まみえている思いだろう。

来るべき米朝会談のふたりの主役は、その内政および外交政策に批判すべき点の多い人物同士ではあるが、会談の行方をじっくりと見守りたい。この重要な政治過程にまったく関わり合いがもてない政治家に牛耳られているこの国の在り方を振り返りながら。

(6月2日記)

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[96]板門店宣言を読み、改めて思うこと


『反天皇制運動 Alert』第23号(2018年5月8日発行)掲載

去る4月27日の朝鮮半島南北首脳会談に際して発表された板門店宣言の内容を知って、「日本人拉致問題への言及がない」という感想を漏らしたのは、拉致被害者家族会の会長だった。置かれている立場は気の毒としか言いようがないが、見当外れも甚だしいこのような見解が紙面に載るというのも、2002年9月の日朝首脳会談以降16年の長きにわたって日本政府が採用してきた過てる対朝鮮政策の直接的な結果だろう。自ら問題解決のために動くことなく、他国の政府に下駄を預けるという方針を貫いてきたからである。多くのメディアもまた、その政府の方針に無批判で、日本ナショナリズムに純化した報道に専念している。長い年月、分断され非和解的な敵対関係にあった南北朝鮮の2人の指導者が「民族的な和解」のために会談を行なう時に、なぜ「日本人」に関わる案件が宣言文に盛られるほどの重要度をもち得ると錯覚できるのであろうか。藁にも縋りたい家族会の人びとをこのような迷妄的な境地に導き入れてきた政府とメディアの責任は大きい。

金正恩朝鮮労働党委員長は「いつでも日本と対話する用意がある」と文在寅韓国大統領に伝えたという。日本政府は絶好の機会を捉えてすぐ応答することもせずに、首相が中東地域歴訪に出かけるという頓珍漢な動きをした。あまつさえ、去る1月に対朝鮮国断交を行なったヨルダン政府の方針を高く「評価」した。事ほど左様に、およそ確たる外交方針を持たない日本政府ではあるが、日朝間にも何らかの交渉の動きが近いうちに始まるのではあろう。会談の結果明らかになる拉致問題に関わる内容如何では、両国間にはさらなる緊張状態が高まるかもしれず、今の段階から、その時代風潮に対処するための準備が必要だろう。

私は16年前の日朝首脳会談直後から、あるべき対朝鮮政策の在り方を具体的に述べてきているので、ここでは違う角度から触れてみたい。対朝鮮問題に関しては一家言を有する元国会議員・石井一氏が「約束を破ったのは北朝鮮ではない、日本だ」とする発言を行なっている(『月刊日本』2018年5月号)。氏は日朝議員連盟会長を務め、1990年の金丸訪朝団の事務総長の任にも当たり、先遣隊の団長でもあった。自民党、(まだ存在していた)社会党、朝鮮労働党の3党合意が成ったこの会談に関する氏の証言は重要だろう。朝鮮ではまだ金日成が存命中だった。金丸・金日成の2者会談を軸にしながら、「国交正常化」「植民地時代の補償」「南北分断後45年間についての補償」の3点の合意が成った。だが、日本国内にあっては、金丸氏に対して「売国奴」「北朝鮮のスパイ」との非難が殺到した。国外にあっては、日本の「抜け駆け」を警戒する米国からの圧力があった。自民党の「実力者」金丸氏にして、自主外交を貫くまでの力はなかった。かくして1990年の日朝3党合意は、日本側の理由で破棄されたも同然、と石井氏は言う。

2002年の日朝首脳会談も「平壌宣言」の合意にまでは至った。拉致問題に関わって明らかになった事実が、被害者家族にとってどれほど悲痛で受け入れがたいものであったとしても、また社会全体が激高したとしても、この事実を認め、「拉致問題は決着した」との前提で、宣言はまとめられた。家族会の怒りに「無責任に」同伴するだけの世論と、それを煽るメディアを前に、訪朝と国交正常化までは決断していた小泉氏も屈した。日本の独自外交を嫌う米国からの圧力が、ここでも、あった。平壌宣言を無視し、国交正常化交渉を推進しなかったのは、小泉氏を首班とする日本側だった――石井氏の結論である。世上言われている捉え方とは真逆である。

石井氏は2014年に「横田めぐみさんはとっくに亡くなっている」と公言して、家族会の反発を喰らっている。「被害者全員を生きて、奪い返す」とする安倍路線が破綻していることは、石井氏にも私にも明らかなのだが、今後の事態がいざそれを証明するように展開した場合に、日本社会の「責め」は改めて朝鮮国に集中するだろう。拉致問題をナショナリズムの高揚と自らの政権基盤の維持に利用しただけの政権をこそ批判しなければならない。この雰囲気が醸成された2002年以降の過程で、民衆に対する国家的統制を強化し、戦争に備える悪法がどれほど成立したかを冷静に見つめなければならない。

(5月5日記。200年前、カール・マルクスが生まれたこの日に)

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[95]現首相の価値観が出来させた内政・外交の行詰り


『反天皇制運動 Alert』第22号(通巻404号、2018年4月11日発行)掲載

我慢して、安倍晋三氏が書いた(らしき)本や対談本、安倍論などを読み始めたのは、2002年9月17日の日朝首脳会談を経て、数年が過ぎたころからだったか。その数年間には、彼が拉致問題を理由にした対朝鮮強硬派であるがゆえにメディア上での注目度が上がった歳月や、2001年に「慰安婦」問題を扱ったNHK番組に関して、「勘ぐれ」という言葉を用いてNHK幹部に改竄するよう圧力をかけたことが明るみに出た2005年の日々が含まれている。やがて2006年、小泉氏の後継者をめぐる自民党総裁選が近づくと、件のNHKニュースは、安倍氏に「国民的人気が高い」という形容詞を漏れなく付けるようになった。それ以降現在にまで至る経緯は、もはや、付け加えることもないだろう。

最初の本を目にした時から、とんでもない人物が台頭してきたものだとつくづく思った。論理がない、倫理もない、歴史的な知識も展望もない、あるのは、ギラギラした、内向きで排外主義的なナショナリズムだけだ。昔の「保守」はこれほどひどいものではなかった、と独り言ちた。1980年代後半以降、『正論』『諸君!』などの極右雑誌に目立ち始めた、歴史の偽造を厭わない低劣な文章群は、とうとう、こんな政治家を生み出す社会的な基盤を造成したのかと慨嘆した。そうは思いつつも、拉致問題の捉え方を軸にその言動の批判的な分析は続けてきた。だから、関連書を読み続けたのだ。そのとき思った――右翼がここまで劣化すると、左翼も危ないぞ、と。まもなく、ソ連的社会主義体制が崩壊して、左翼は危ないどころか、理念的にはともかく運動としてはほぼ消滅した。

批判的な左翼が消えた時代に、安倍的な価値意識に彩られた社会が花開いた。5年有余が経ち(わずか1年で瓦解した第一次政権の成立時から数えると12年が経ち)、その結果を私たちは日々見ている/見せられている。改竄・隠蔽・捏造が公然と罷り通る内政の荒廃ぶりは、かくまでか、と思うほどだ。幼稚園の子どもたちに教育勅語を暗唱させ、軍歌を歌わせ、首相の妻を前に安保法制の議会通過を喜ぶ台詞を斉唱させて彼女を涙ぐませるような「愛国主義教育」を行なうことを目指した私学経営者に、首相とその取り巻きが肩入れし、国有地の安価な払い下げと設立認可を急いだ――森友学園問題のこの原点に、強権主義的な安倍政治の本質がまぎれもなくにじみ出ている。

米国頼み一本鎗が「方針」であったかのような外交の行き詰まりぶりも、内政同様、見苦しい。今年度初頭の金正恩氏の路線転換以来、朝鮮半島情勢はめざましい進展ぶりをみせている。対朝鮮外交における「対話ではなく圧力」路線の盟友であったトランプ米大統領は来る5月の米朝首脳会談を決意する一方、日本に対する輸入制限も発動した。「日本ひとりが蚊帳の外」という印象がぬぐい難い。

あるジャーナリストの調査によると、首相がこの5年間、「拉致問題は、安倍内閣の最重要課題であります」と本会議や委員会で語ったのは54回に上るという。1年に10回以上もこんな発言をしていることになる。その実、解決のための努力を少しもしていないことは、蓮池透氏や私が夙に指摘してきたとおりである。拉致問題あったればこそ首相に上りつめた彼は、自らが煽った「朝鮮への憎悪感情」が社会に充満していることが政権維持の必要条件なのだから、日朝関係は現状のままでよいのだろう。去る2月の日韓首脳会談において、「米韓合同軍事演習を延期するな」と主張した首相に、「我が国の主権の問題」とする韓国大統領は反発した。160ヵ国との外交関係を持つ朝鮮との断交を国際会議で求めた日本国外相の演説は、あるべき外交政策を知らぬその無知無策ぶりに、心ある外交官の失笑を買っただろう。この期に及んで外相は韓国へ行き、4月の韓朝首脳会談で拉致問題に触れるよう、韓国外相に要請するという。首相は「盟友」トランプに会いに行き、5月の米朝首脳会談での同じふるまいを頼むのだという。自力解決の意図も能力もないことを自白したに等しい。河野外相はさらに、3月31日に「北朝鮮は次の核実験の用意を一生懸命やっているのも見える」と語った。私も時々見ている米ジョンズ・ホプキンズ大学の朝鮮分析サイト「38NORTH」は、逆にその動きは激減しているとして、外相発言の根拠に疑問を投げかけている。中国外務省は、各国が東アジアの緊張緩和に向けて努力を積み重ねている時に「その過程から冷遇されている日本は、足を引っ張るな」と不快感を示した。

かくも無惨な外交路線があり得ようか。内政・外交ともに進退窮まっている現政権の現状は確認できた。次は何か、が私たちの課題だ。            (4月7日記)

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[94]戦争を放棄したのだから死刑も……という戦後初期の雰囲気


『反天皇制運動 Alert』第21号(通巻403号、2018年3月6日発行)掲載

死刑廃止のためには、犯罪に対する刑罰のあり方、死刑という制度が人類社会でどんな役割を果たしてきたのか、国家による「合法的な殺人」が人びとの在り方にどう影響してきたのか、犠牲者遺族の癒しや処罰感情をどう考えるか――など多面的な角度からの検討が必要だ。死刑に関わっての世界各地における経験と実情に学び、日本の現実に舞い戻るという往還作業を行なううえで、2時間程度の時間幅で、それぞれの社会的・文化的な背景も描きながら「犯罪と刑罰」を扱う映画をまとめて上映すれば、大いに参考になるだろう――そう考えて始めた死刑映画週間も、今年で7回目を迎えた。死刑廃止の目標が達成されたならやめればよい、将来的には消えてなくなるべき活動だと思うから、持続性は誇ることではない。だが残念ながら、情勢的にはまだ、やめる条件は整っていないようだ。

7年間で56本の映画を上映してきた。思いがけない出会いが、ときどき、ある。外国の映画を観れば、映画とは、それぞれの文化・社会の扉を開く重要な表現媒体だということがわかる。韓国映画が、死刑をテーマにしながら奇想天外なファンタジーにしてしまったり、あからさまなお涙頂戴の作品に仕上げたりするのを見ると、ある意味「自由闊達な」その精神の在り方に感心する。加えて、軍事政権時代の死刑判決と執行の多さに胸が塞がれた世代としては、制度的には存続しつつも執行がなされぬ歳月が20年も続いているというかの国の在り方に心惹かれる。社会が前向きに、確実に変化するという手応えのない社会に(それは自らの責任でもあると痛感しつつも)生きている身としては。

日本映画、とりわけ1950年代から60年代にかけての、映画の「黄金時代」の作品に触れると、冤罪事件の多かった時代だから、それがテーマの映画だと驚き呆れ、憤怒がこみ上げてくると同時に、骨太な物語構成・俳優陣の達者さと厚み、そして何よりも高度経済成長以前の街のたたずまいや人びとの生活のつましさに打たれる。深作欣二監督の『軍規はためく下に』(1972年)には驚いた。私も、周囲の映画好きですらもが、未見だった。敵前逃亡ゆえに戦地で処刑された軍人の妻が遺族年金を受給できないという事実から、軍人恩給制度・戦没者追悼式・天皇の戦争責任・帝国軍隊を支配した上意下達的な秩序と戦犯級の軍人の安穏とした戦後の生活ぶり――などの戦後史の重要項目に孕まれる問題点が、スクリーン上で語られ、描かれてゆく。1960年前後の深沢七郎による天皇制に関わる複数の作品(創作とエッセイ)もそうだが、表現者がタブーをつくらずに、自由かつ大胆に己が思うところを表現する時代はあったのだ。

今年の上映作品では『白と黒』(堀川弘通監督、橋本忍脚本、1963年)が面白かった。妻を殺害された死刑廃止論者の弁護士が、被告とされた者の弁護を引き受けるという仕掛けを軸に展開する、重層的な物語の構造が見事だった。証拠なき、自白のみに依拠する捜査が綻びを見せる過程もサスペンスに満ちていて、映画としての面白さが堪能できる。

死刑反対の弁護士の妻が殺された事件は実際にあったと教えられて、調べてみた。1956年、磯部常治弁護士の妻と娘が強盗に殺害された事件が確かにあった。明らかな冤罪事件である帝銀事件の平沢貞通被告の弁護団長も務めた人だ。事件直後にも氏は、「犯人が過去を反省して誤りを生かすこと」が真の裁判だと語り、心から済まぬと反省して、依頼されるなら弁護するとすら言った。氏は、56年3月に参議院に提出された死刑廃止法案の公聴会へ公述人として出ている。曰く「自分の事件についていえば、犯人は悪い。だが、あの行為をなさねば生きてはいけぬという犯人を作り上げたのは何か。10年前、彼が17、8歳のころ日本が戦争をして、彼に殺すことを一生懸命に教育し、ほんとうに生きる道を教育しなかったことに過ちがある」。この言葉は、作家・加賀乙彦氏が語ってくれる「新憲法で軍隊保持と戦争を放棄した以上、人殺しとしての死刑を廃止しようという気運が戦後初期には漲っていた」という証言と呼応し合っている。残念ながら法案は廃案になったが、その経緯を詳説している『年報・死刑廃止2003』(インパクト出版会)を読むと、時代状況の中でのこの法案のリアリティが実感できる。諦めることなく、「時を掴む」機会をうかがうのだ、と改めて思った。(3月3日記)

〈万人〉から離れて立つ表現


(「万人受けはあやしい 時代を戯画いた絵師、貝原浩」展の講演録 2017年11月22日)

人間のおもしろみや哀しみ、愚かさが滲み出る「三面記事美術館」

「万人受けはあやしい」という、いかにも貝原さんにふさわしいタイトルだと思いますが、それについて、お話ししたいと思います。

ぼく自身は生前の貝原浩さんとは知り合いで、仕事のつき合いはほとんどありませんでしたが、直接話をしたり、数は少なかったけれども一緒にお酒を飲んだりしたこともありました。個展にはよく行っていましたし、それなりに貝原ワールドは作品としては知っていたつもりですが、先日、この会場でゆっくりと時間をかけて展示作品を見、今回の図録もかなり丹念に見ました。

今回展示されている作品は、基本的には1980年代に入ってからのものですね。貝原さんの年齢としては30代後半から、亡くなった2005年ぎりぎりまでの作品、約25年間、四半世紀の作品が、主に並んでいます。

おもしろかったのは80年代の雑誌『ダカーポ』に貝原さんが連載していた「三面記事美術館」です。展示の数は少ないのですが、図録にはたくさん収録されています。

「三面記事」とは、みなさん、その言葉だけでイメージできると思いますが、新聞の社会面、三面に載っている、人間社会にある、ちょっとした出来事の記事です。出来事そのものとしては当人からすれば恥ずかしかったりすることで、どうしようもなさとか、いいかげんさとか救いのなさがあったりするし、それからユーモアもある。そうした記事が、社会面には載ることがあります。

ぼくも、絵を描くわけではないし小説を書くわけでもないけれども、なんとなく気になって切り抜いて、手帳に挟んでおいたり、スクラップ帖をつくるほどではないけれど、保存しておいたりした記事もあります。

貝原さんは1980年代、そうした三面記事を一枚の絵にして、『ダカーポ』に連載していました。これがおもしろい。もちろん、元の記事がおもしろいわけですが、図録ではその新聞記事自体は載っていませんが、ごくかんたんに出来事を説明しています。

例えば、有力企業のエリートサラリーマンが、酔っぱらって地下鉄に乗って目の前にいた女性、OLと書いてありますが、その女性に向けて放尿してしまったというような事件があって三面記事になったようです。それを絵にしちゃうんですね、貝原さんは(「満員電車内でOLに“用足し”」図録作品ナンバー12)。

事件そのものも、なんだろうと思いますけれども、これを絵にする人もなんなんだ、という感じがありますよね(笑)。

図録に掲載されている「三面記事美術館」をひとつひとつ見ていくと、ほんとに世の中にこんなことが起きていたのか、こんなバカバカしく愚かなことを人間がやってしまうのかと、ぼくもどこかでやっているのかもしれませんが、そう思います。

そして当事者、物語の中心人物が描けているのは当然なんだけれども、その周辺に野次馬としている、そこに居合わせた人間の描き方がまた、その表情などがおもしろい。そうやって、どうしようもない出来事の記事が、一枚の絵になると、なにかまた別の意味合いを持ってしまいます。

貝原さんがこれらを描いていた時期は、今日のテーマである風刺画的なものを書き始めていた時期と重なります。ある意味でシリアスな風刺画を描いている時期に、こういう、人間のおもしろみや哀しみや、愚かさが滲み出る絵を描く、そういう世界を貝原さんは持っていた。ぼくは、貝原さんの作品の中でも「三面記事美術館」についてはあまり記憶がなかったので、今回はほんとうにおもしろく見て、ときどき見返したいなと思っています。

さて、このような貝原浩の世界もあったわけですが、きょうお話ししたいことは、1980年代前半から21世紀に入ってはわずか5年間でしたが2005年まで、およそ四半世紀にわたって貝原さんが、時代に対する懐疑を、絵としてどのように描いていたのかということです。彼が亡くなって12年経つ今、我々はいったいどんな時代を生きているのか、というところまで話が及べばいいかなと思います。

80代前半、新自由主義経済政策で進行したこと

風刺画を描くとは、時代と向き合って、相渉って、それを絵に描くということであり、それは当然のことながら、世界および日本で、同時代的に進行している政治的なあるいは社会的な、あるいは思想的な動向に目を凝らし、それについて絵師が、画家が、どんなふうに表現するのかが問われます。

1980年代前半というのは、世界政治でいえば、米国にレーガン、イギリスにサッチャー、日本に中曽根という、それぞれ大統領・首相が現れて、それぞれ長期政権になっています。この時代、この3人の大統領・首相が、今、世界を席巻しているいわゆる新自由主義、ネオリベラリズムの先駆け的な政策を、「先進国」において採用した時期なわけです。

レーガン、サッチャーには触れませんが、中曽根政権――この政権も5年の長期政権となりましたが――の下、何が行なわれたか。みなさん記憶していると思いますが国鉄の解体作業です。国鉄を国営鉄道の枠から外して分割民営化を行なった。それから約30年経って、現在、かつての日本国有鉄道は、JR北海道は、JR四国はどうなっているか。本州の線路であるJR東海、あるいはJR東日本は「優良経営」を行なっているけれども、JR北海道は瀕死の状態であることは、みなさんご存知のとおりです。

この国には今1億2600万の人々が住んでいますが、国の政策とは本来、総人口がどんな地域に住んでいようと生活に必要な足は確保するというものです。それをそれぞれの国家の政策として、19世紀後半、鉄道が広範囲に展開し始めて以降、それぞれの国は鉄道事業を国営として成り立たせてきました。

ところが新自由主義の時代に入って、不採算部門は、資本主義社会で儲けにならない部門は、国家は予算が限られているから、そこはもう国家経営から外してしまうと。そして資本主義の本領である民間の競争力に委ねて競争させると。要するに民営化させて競争の原理に委ねれば、うまく活性化するのではないかという考え方を採用するわけです。

ですから鉄道事業の民営化は日本だけではなく、世界各国で最初に試みられた新自由主義経済政策のひとつのあり方です。ほかにも、採算がとれない、金にならない、つまり資本主義経済にとって最も大事なことである利潤、お金を回転させて利潤を増やすということを考えたら、医療というものもなかなかたいへんであるとなる。福祉はもとより、教育もたいへんだとなっていって、福祉切り捨て、教育予算のカットという、今現在日本で進行しているような事態が当たり前のように進行するわけです。

公共事業で言えば水道事業もそうです。地方自治体が管轄してやってきた水道事業は、これもなかなか採算が難しい。そこで、人間という生命体にとって、地球の生命の循環にとってどうしても必要な水というものを、公共の責任において管理するということから外して、これも民間の競争力に委ねる。こうした考え方が日本でも世界でも出てきて、水道事業の民営化が世界各地で、どんどん進もうとしています。

新自由主義経済政策とは資本主義を純化させた考え方であって、不採算部門を国家および地方自治体が責任をもって運営するというところから外して、民間の競争力に委ねるということを意味します。それが1980年代の前半、日本では中曽根政権によって試みられた。これは連綿として続きますが、より加速されるのが2001年から2006年までの小泉政権下です。小泉政権の下での郵政民営化を見れば、おわかりになると思います。

ある意味で社会にひたひたと浸透している公務員労働に対する反感、「親方日の丸で、あいつらはろくに働きもしないのに給料は安定している」と、「定年まで過ごすことができる」という、民間の労働者がどこかでもっている反感を利用しながら、公共事業をどんどん切り捨てて民間に委ねていく。小泉などは、そういう政策を意識的にとったわけです。

それが、どれほどの社会的な心理面における荒廃、それから経済のでたらめさをもたらしたのか。2006年以降、断続的ではありましたが、同じ政策を継いでいる安倍政権の下、さらに進行する事態の中で、私たちは否応なく気づいていることです。

貝原さんのこの展示の中で、1980年代前半の作品には中曽根がよく出てきて、表現されています。その中曽根がとった政策が、いったいどの方向を向いているものであるかということを、貝原さんは、うまく感じ取って、いくつかの表現をなしていたと思います。

「反テロ戦争」の出発点、米国は、なぜ憎悪に満ちた攻撃を受けたのか

政治的な面にかんして、ひとつの大きな節目は、世界的にはやはり、2001年9月11日の、ニューヨークのワールドトレードセンター(世界貿易センター)やワシントンのペンタゴン(国防総省)が攻撃された、いわゆる同時多発の自爆攻撃があり、それ以降、報復として始まるブッシュの名づけた「反テロ戦争」があります。それがいったい、どういう事態を招いているのかを、この時代、貝原さんは描くことができたわけです。

2001年、あの攻撃の1か月後に、あの攻撃をやったとブッシュが断定したのが、アルカイーダです。当時、アルカイーダはアフガニスタンのタリバン政権によって、安住の地を与えられている、訓練の地を与えられているとブッシュは解釈し、その首領はオサマ・ビンラーディンであると断定したわけです。そしてこの許されざるテロ組織、アルカイーダを匿っているタリバン政権を攻撃するとして、アフガニスタン全土に対する一方的な攻撃を始めたのが2001年10月の事態でした。それから1年半後、2003年3月には大量破壊兵器を持ち、これを捨てようとしないということで、フセイン治世下のイラクに対する攻撃を始めた。これが「反テロ戦争」なるものの出発点の第一段階、第二段階でした。

2017年の現在、この「反テロ戦争」は終わりが見えないまま、もうすでに16年間続いているということになります。これには何十か国もの、いわゆる国際的な有志連合国が参加しているわけですが、もちろんその主力を担っているのは米軍です。

米国は戦争に次ぐ戦争で、どんな年表を作っても、常に海外において戦争を行なっています。それは18世紀後半の独立以来のアメリカ社会を貫くひとつの大きな戦略ですが、その米国をして、これだけ長く続いている戦争はないというくらいの16年間という長い歳月があって、いまだ収束の見込みがつきません。あの2001年の事態を見ていれば、このような戦争を始めてしまったら、もう泥沼だということは、わかる人にはわかることです。

ぼくはあの自爆攻撃にはきわめて批判的な人間です。けれども、しかしあのハイジャックした旅客機もろとも突っ込む、米国の経済的な繁栄の象徴としてのワールドトレードセンター、米国の世界における軍事的な象徴としてのペンタゴンに突っ込むということは、その突っ込んだ主体が、どれほどまでに米国の経済的な、および軍事的な行動に、ふるまい方に憎悪を抱いているかということの直接的な反映であって、それは手段が間違っているのではないかというのを超えたところで判断しなければならない、ひとつのあの事件の象徴的な性格だと思います。

すると、そのような攻撃を受けた側の為政者は、政治家は、大統領やその政権は、なぜ自分たちの国がこれほどまでの憎悪に満ちた攻撃を受けるのかということを、大国であればあるほど顧みて、出直しと言うか、顧みて次にとるべき方策を考えなければなりません。

しかもワールドトレードセンターの犠牲者は、当初は6000人くらいと言われましたが、最終的にはその半分の3000人くらいに減りはしました。とてつもない、たくさんの犠牲者が出たことの事実に変わりはありませんが。

ぼくがニューヨークやワシントンの出来事の報道を聞きながら思ったのは、米国の歴史であり責任です。

米国は、ほかの国の土地において、その社会が「不穏な状態」になったときに、米国公民の財産と生命の安全を確保するという理由ですぐに海兵隊を派遣して上陸させ、その土地で生まれてしまった不穏な社会情勢に対する一方的な介入を行なう、戦争という行為を行なうという歴史を繰り返してきたわけです。

それぞれの場所で、海兵隊の上陸によっても、そのひとつの作戦で数千人の人々を殺すことを当たり前のようにやってきた。戦争であれば、朝鮮戦争のようにベトナムのように、何十万人という人間を殺してきたのです。そうした責任をなんら問われたことがないのが米国です。圧倒的な政治的・経済的・軍事的な、および文化的な超大国であるがゆえに。文化的なというのは、ハリウッド映画やディズニーランドや、さまざまな文化浸透の力によって、世界に君臨していることです。それを含めた超大国であるがゆえに、あの国は、人を殺した責任を問われたことが一度としてありません。

広島・長崎での原爆投下の責任を問う姿勢が日本の歴代政権にはそもそもないけれども、そのことも、あの広島に行ったオバマの演説にわかるように、今に至るも、見事にその責任感のないところで彼らはものごとを考えています。

自分たちの国内では、さしあたっては先住民族のインディアンに対する殲滅戦争を皮切りに、その殲滅戦争が終わった後のインディアンをリザベーションに閉じ込めて以降、19世紀後半以降は、周辺のカリブ海に出ていって、その支配力を伸ばしていった。

そういったことを考えた場合に、自分たちの国が、国内で世界で行なってきた挑発的行動を顧みる、歴史を反省するよすがとして、あの9.11の攻撃をどうとらえるかと考え直せばよかったと思います。しかし、そうはしないで別な方向をとったわけです。

貝原さんは、この問題についても、きちんと取り上げ、「ベストセラー戯評」の中で、何回かにわたって描いていると思います。

民間人を殺傷する、国家テロ=「反テロ戦争」

もうひとつ、大きな問題としては、2002年9月17日、同時多発攻撃から、自爆攻撃から約1年後の「日朝首脳会談」があげられます。首相の小泉がピョンヤンを訪問して、日本と朝鮮の、日本では北朝鮮と呼んでいますが正式名称が長いので「朝鮮」と言いますが、日本と朝鮮の「首脳会談」が行なわれた。これによって国交正常化という本筋の目標を外したところで拉致問題だけが浮上し、日本社会はそこにだけ関心を集中させます。この問題についての関心も、貝原さんはうまく掬い取って、表現していると思います。

これら、「80年代前半の英国、米国、日本における新自由主義政策によって社会が席巻される」、「2001年、同時多発攻撃が起きる」、「日朝首脳会談が行なわれ、日本社会が拉致問題だけに関心を集中する」、このようなことが起きる時代に、引いたところで、少し客観的なところでこれを批判するというのは、なかなか「万人受け」しないことです。

例えば昨日、2017年11月20日、米国は朝鮮に対して「テロ支援国家指定」を再度行ないました。世界的なメディア報道では、これによって朝鮮の指導部の譲歩を導き出すことができるかという問題としてしか、とらえられていません。

しかし、この「テロ支援国家指定」はちゃんちゃらおかしいと思います。

もちろん、朝鮮国の現在の指導部の行なっている、核を担保とした瀬戸際政策、あるいはこの間度重なって行なわれているミサイル発射、こうした軍事的な方針によって、今彼らが抱えている苦境を打破しようとするやり方は、まったく間違っている。これはぼくの前提としてあります。

後で触れる拉致問題も含めて、あの国の指導部は社会主義を自称、あるいは僭称しているわけですが、とんでもない政権だと思っていますし、ぼくは今、あの政権を防衛したり擁護したりする気持ちは微塵もありません。しかし同時に言わなければならないのは、世界で最大の「テロ国家」は米国だということです。

彼らは「反テロ戦争」と言いますが、「戦争」とは国家テロの発動であるというのが、ぼくの基本的な考え方です。

この16年間続いている「反テロ戦争」、国家が発動している、米国が先頭になって発動している「反テロ戦争」は聖域に置いて、これはある意味で「当たり前の戦争」であると彼らは規定します。しかしパキスタンで、アフガニスタンで、イラクで、イエメンで、ほかの国々でもたくさんの民間人の死者が生まれました。

オバマ政権のときにいちばん重用されたのが、ドローンと無人機による爆撃です。彼らは本土の航空基地から、コンピュータ制御で、いわゆる「敵」、彼らが攻撃しようとする他国の「目標」を見ています。そして、「決まった」と。これがあの有名なテロリストの誰それだと。あるいは、彼らが武器を集めようとしていると。そういう目標を定めると、本土の空軍基地から命令が出されて、アメリカ兵はまったく傷つかない形で、ドローンあるいは無人機から爆弾を落とすわけです。

「目標」は、つまりアフガニスタンではパキスタンでは、イエメンにおいては、人々の居住区でもあるのだから、当然のことながら民間人を殺傷してしまう。しかしそれは、戦争に伴う、残念ではあるが避けがたいことだ、そういうことも起こりうると、彼らは自分たちの戦争行為を正当化するわけです。

このような戦争の在り方を、ある意味で、国家が発現する当然の「戦争」だと判断する。そして、いわゆるテロリストと名づけられた小集団、あるいは個人が行なう攻撃、パリで行なう、ニースで行なう、ブリュッセルで行なう、あるいはジャカルタで行なう、マドリードやバンドンでもありました。そうした攻撃をのみ、凶悪な「テロリストの活動」であると判断する。こうしたこと自体に、「万人受け」はするかもしれないけれども、ひとつの論理的な詐術と言いますか、ごまかしがある。

このことに世界の人々が気づかない限り、「戦争」と「テロ活動」をめぐる終わりのない連鎖は、なかなか終止符を打つことができないだろうと思います。

繰り返しますが、国家が発動する戦争を、やむを得ぬ「是」として、いわゆるテロリストが行なう活動のみを「否」とする、ダメだとする。それでは、「戦争」も「テロ」もなくならないというのがぼくの基本的な考え方です。国家が発動する「戦争」も、いわゆる「テロ」も、両方に終止符を打つ考え方と行動のあり方が、人間社会のひとつの基本にならないと、現状はなかなか打破できないだろうと思うわけです。

例えば朝鮮をめぐる情勢で言えば、朝鮮が行なう行動はすべて「挑発」と表現されます。日米、米韓合同軍が行なう軍事演習は「挑発」とは表現されません。

今年8月には、陸上自衛隊と米海兵隊の朝鮮半島をにらんだ軍事演習が北海道で行なわれましたし、日米韓の演習もしょっちゅう行なわれています。もし、朝鮮のミサイルや核を「挑発」と言うのであれば、日米韓の動きもまた「挑発」と言わなければならない。そういうまっとうな考え方を世界はしない。メディアの偏向した報道によって、そして世界の約200ある国々の政治指導部のきわめて妥当性を欠く表現によって、まっとうな考え方がなされないわけです。

ですから今のような報道が、万人によって受け入れられる表現になっていく。このようなときに、いったいこの事態をどう表現することができるのかというのが、大きな問題です。

先に見た新自由主義の問題で言えば、医療や福祉、教育、あるいは生活の重要な足である鉄道や通信の重要な手段である郵便、そうしたものはどんなに国家財政が苦しくなっても、国の責任において公共事業として行なわれ、その地域に住まう住民に等しく権利として享受されなければならないというのが本来の在り方です。それが、国のどこに住んでいるかによって格差が生まれない、社会的な公正さを少しでも経済的に保とうとするひとつの考え方であるわけです。ところが新自由主義経済政策というのは、国の責任をすべてかなぐり捨てて、資本の原理に基づいて、民間の競争力に委ねればそれでよいという、資本主義万々歳の考え方なわけです。

そうやって、ひとつの国の経済、あるいは予算の使い方が実現された場合に、その社会がどういうふうに荒廃していくものであるか、もうそれは現在の日本の労働状況、労働環境をみれば、誰の目にも明らかな事態になっています。

労働する人の権利が散々侵されて、企業はきわめて不安定な雇用形態しかとらなくなった。それは、この資本主義経済機構の中で企業が生き残るために必要な、競争原理に基づいた措置であると解釈されている。そうしたきわめて一方的な、雇う側に有利な考え方を、政府が言い、経団連が言い、メディアがそれに十分抵抗できないまま、ひとつの価値観として押し付けられていく。そういうときに、新自由主義経済政策が万人に受け入れられているわけではないという表現をどのように行なっていくか、そのことが問われてくると思うのです。

怒りと憎しみで一色になった日朝首脳会談後の日本社会

先に少し触れましたが、2002年の日朝首脳会談の問題に戻って、考えていきたいと思います。

2002年9月17日の日朝首脳会談で、金正日が、それまで否定してきた日本人の「拉致」を事実であったと認めて謝罪し、二度と繰り返すことはしないと述べた、ただ日本政府が拉致被害者として認定している13人のうち、8人の人はすでに死亡しており、5人のみ生存していると発表したという報道があったのが、あの日の夕方です。

この日の夜、テレビには、この間もよく登場されている横田さんご夫妻や、当時「家族会」の事務局長であった蓮池透さんなど「家族会」の人たちが前面に出ていました。そこで語られたのは、もちろん、悲しみもつらさもあっての、ある意味で当たり前な言葉であったわけですが、ぼくは夜、9時か10時ころ帰宅してテレビを見ながら、とんでもないことになるなと思いました。「とんでもない」というのは、日本社会が、朝鮮に対する、怒りと憎しみで一色になるだろう、そのようにメディアは機能し、人の心はそのように組織されるだろうということです。そして、この問題がはらんでいる本質はいったいどこにあるのかを、考えて明らかにしていくのは、たいへんなことだなと、ぼくは思ったわけです。

翌日から、実際そうなりました。新聞も一色でした。1か月後に5人の生存者が帰ってきて、それから2年近くたって子どもさんたちが帰ってくる。その間、日本のメディアは、この問題一色に染まったわけですね。

こういうときに、どういう観点から発言するか。これもなかなか、万人の、誰もがやることではない。

あえて「安易」と言っていいと思いますが、いちばん安易なのは、この風潮に同調することです。「もちろん亡くなった方は気の毒だ」、そして、その8人の家族を亡くした「『家族会』の人たちは気の毒だ」、「こんなことをやった朝鮮は許せない」、「金正日はけしからん」、「金日成の時代までさかのぼることじゃないか」と。

そして、その感情から「日本は今まで植民地支配云々で、後ろ指を指されてきたけれど、これでようやく我々は犠牲者になった。もう植民地支配の加害者として謝罪を要求されたりすることはない。これでおあいこだ。犠牲者として、被害者として何を言ってもいいんだ」という空気が生まれ、この社会に充満しました。

この中で、じゃあいったい、何をどのように異論として言うのか。これも万人受けのしない作業です。この問題についても、先に触れましたが貝原さんが仕事をしていた時代の中にあって、ぼくの考えでは皇室問題を除いた中での最も大きな問題のひとつと言える。繰り返しますが、新自由主義経済政策の問題と、同時多発攻撃と「反テロ戦争」の問題、それからこの日朝首脳会談以降の日本社会の問題に、今につながる問題が象徴されると思うのです。

ここでも貝原さんは、正面から取り組んだ形で作品を残しているということに触れておきたいと思います。

天皇制批判をどう表現するか――貝原浩と深沢七郎の「きわどい」表現

もうひとつは天皇問題です。反天皇制運動連絡会という組織が1984年でしたか、結成されて、今に至る活動が続いています。この、略称「反天連」の機関誌や様々なパンフレットに皇室関係の風刺画を描くというのも、80年代後半以降の、貝原さんの重要な仕事のひとつでした。

ひとつひとつの作品を紹介はしませんが、実際に今回の展示作品、図録をご覧になっていただけば、けっこうきわどい表現があることがおわかりいただけます。

昭和天皇裕仁が死んだのは、1989年。ですから貝原さんが、反天連の様々なことにかかわり始めた、わりあい初期のころですね。

裕仁については、彼が最期まで認めない、「文学上のアヤの問題は私は知らん」と言って、とうとう逃れてしまいましたが、戦争責任の問題が当然あります。しかし戦争責任については、それなりに描きやすいということはないかもしれないけれども、批判的な問題提起をしようというときには、問題の立て方としては、すっきりできると思います。

難しいのが、その後に天皇になり皇后になった、現在の、1989年以降のいわゆる、あえて元号を使えば、「平成」天皇と「平成」皇后のあり方をどのように表現するのかということだと思います。これはけっこう難しい問題です。

この間の日本の政治社会状況の中でも、例えば安倍晋三との対比において、天皇が繰り返し言う、平和への強いメッセージ、あるいは戦争犠牲者に対する海外を含めた慰霊訪問、そうしたことをひとつの象徴ととらえ、「これは安倍の戦争路線に対する内に秘めたる批判である」というような解釈をする人たちがいます。大衆運動の中にもいるし、いわゆる文化人的な人たちの中にもいないこともない。「ああ、戦争と平和の問題について、このような発言をする天皇や皇后をもって幸せだ」という、そのようなことさえ言う人たちがいる。

ぼくは、そのような考え方には反対の立場ですが、この問題はしかし難しい。

反天連の機関誌にはぼくも、この間、8年くらいでしょうか、もう90回くらいになる連載のコラムを持っています。それは貝原さんが、反天連に挿絵や風刺画を提供していた時代とは彼の死を挟んで、ずれてしまうので、機関誌の中で一緒にやったことはないんですけれども。

その機関誌の中でもよく問題にされることですが、現在の天皇皇后のあり方について、どのような言葉で、どのようなアプローチの仕方で、うまく批判できるか。昭和天皇のときと違って、ちょっと難しい。ここに、貝原さんがいない、亡くなって、今に至るこの12年間の空白ができてしまったのが、ぼくは非常に残念なことだと思っています。

貝原さんの表現は「きわどい」と言いましたけれども、しかし天皇制についての表現が、これほどまでにみんながびくびくしたり、ちょっとこれはやばいんじゃないかと思ったりするというのは、それほどずっと続いているわけではありません。

ぼくの記憶する中で、2つの例を挙げますが、これはいずれも、作家の深沢七郎の表現にかかわる問題です。

深沢七郎は『楢山節考』でデビューした、ぼくは優れた作家のひとり、忘れがたい作家のひとりだと思っています。彼が1960年12月の『中央公論』というあの、今や読売新聞社の傘下にある出版社、中央公論社の出している月刊誌ですが、そこに、『風流夢譚』という小説を書きます。

現在はインターネットの時代なので、いろいろな形で読むことができますが、「夢譚」という、つまり夢のお話です。掲載が11月発売の12月号で、いわば年末から正月にかけてのちょっとした夢物語として書かれたものです。しかし60年安保の年であり、現在の天皇と皇后が結婚した翌年ですから、そうしたことを反映しています。実際の当時の天皇皇后、現在の天皇皇后も実名で出てきますが、首都でサヨクの革命のようなことが起こったというので、見に行くと天皇の首が切られた胴体があったりする。「革命」といい、「サヨク」といっても、そのサヨクのヨクが慾望の慾の「左慾」ですからね。ウソ物語、夢物語です。しかし皇太子の首が斬られ、美智子の首が斬られて「首がスッテンコロコロカラカラカラと金属性の音がして転がっていった」というような表現を含めてある、そういう作品です。

作品の評価は別個行なうべきだとして、そんな作品が1960年に、『中央公論』という総合雑誌に載っていたわけです。その結果、これを怒った右翼の人間が版元の中央公論社の社長宅を襲って、お手伝いさんが亡くなるという事件が起こってしまいました。

日本の出版界が、天皇表現について委縮し始めたのがこれ以降です。ですから57年間、せいぜい半世紀ちょっとです。

この深沢七郎という人はもうひとつ、1959年の講談社の文芸雑誌『群像』に「これがおいらの祖国だナ日記」というエッセイを書いています。これは、天皇家に、民間の血が入ったことに対する残念な思いを書いたものです。

つまり、天皇家というのは「血族結婚」を続けていって、「ムカデの様な」、「皮をむいた蝦や蝦蛄(シャコ)の様で、くねくねと動いている」一家になって、その一家の写真を、「国民は『これがおいらの祖国だナ』と、国賓の様な、偶像の様な、神秘な、驚異や、尊厳の眼で見つめるのだ。(それが、すつかりダメになつちゃつたんだよ)」「僕は御成婚の日にテレビを見ながらガッカリして眺めていた」というのですから、これはちょっとすごい表現でしょう。

今だったら、まず『群像』が載せるはずがない。載せたら何が起こるかわからないというような表現です。しかし、半世紀ちょっと前には、その手の自由さはあったんです。

深沢七郎はほんとうにおもしろい人で、余談ですが、米国大統領のケネディが殺されたとき、赤飯を炊いて隣近所に分けたという。みんな怪訝な顔をするわけですが、「いやあ、戦争をする奴が亡くなったからめでたいでしょう」と言ったとか。彼は、そういうことを、正直にできる人だったんですね。

この社会にそういう人がいてよかったなと思うんですけども、そういう、ある意味まっとうな発想で、そのとおりのことを言っていた文学者だったと思います。

つまり、天皇制に対する批判的な言辞に臆病になってしまう、委縮してしまうというのは、ごくごく最近だということ。深沢氏の表現に対する右翼テロがあって、それに大きなメディアが怖気づいて、やがてこれほどに無抵抗な、批判的な言論が一切ないような時代が来てしまった。これがこの半世紀の問題ですし、少しでもこの天皇制という余計なものに対する批判の空間、言論空間を広げていかなければならないと思います。

しかし残念ながら、やはり違うベクトルから天皇一家を表現するものが、この社会では圧倒的に受ける、万人受けするわけです。それになんら疑問を抱かない。批判的な言論はものすごくマイナーな反天連の機関誌でしかなされていないということは、ほとんどの人の目には触れないわけです。批判のないのが当たり前になってしまう。そして天皇がらみのことでは反射的に、なにか、丁寧な言葉を使って崇め奉ってしまう。それが、どれほどこの社会を不自由にしているかということを指摘したいと思います。

犯罪への反応からみる、万人に受け入れられる考え方の恐ろしさ

もうひとつ、万人に受け入れられないものには、たとえば犯罪報道があります。

社会的な関心を呼び起こす凶悪な事件を含めた犯罪事件が起こったとき、その事件によって殺された犠牲者に成り代わる、あるいは犠牲者の遺族に成り代わって犯人をつるし上げる。これが、なぜかわからないけれども、社会にいちばん浸透している人々の心の在り方です。

貝原さんが生きた時代の中では、「ロス疑惑」と呼ばれた三浦和義さんの事件があって、それを扱った絵も展示されています。あの事件のころ、ぼくはテレビを買ったばかりだったということもあって、珍しくてニュースショーなどを見ていました。レポーターというんですか、みんなマイクを持ってワーッと三浦さんのところに押しかけていく。

最初は『週刊文春』がスクープして、「ロス疑惑」というのを暴き始めたわけですが、そしてテレビが犯人に仕立て上げてしまい、後追いで警察が介入する。もう三浦和義という人に対する、罵倒と憎悪、それが満載の社会になっていました。

現在はなおさらです。先だっても、おそろしい事件がありました。パーキングでの駐車の仕方を注意された若者が、その注意した人の車を高速で追いかけて、走行を妨害して、結果、後ろから来たトラックに追突されて注意した側のご夫婦が亡くなるという悲惨な事件があった。

この事件について、20代の若者の名前が出ました。どこに住んでいるか、地名も出ました。そうするとなぜかわざわざその名前を調べて、「この店のバカ息子がやったに違いない、こいつがオヤジだ」というように、だれかがインターネットに上げた。するとそのネット情報に基づいてどんどん嫌がらせ電話が、間違えられた人のところに入って、仕事にならないと。そういうことが報道されていました。

ここまでこの社会はひどくなっている。いわゆる「テロ」事件でも、「拉致」事件でも、凶悪事件でもそうですが、圧倒的多数の新聞、報道記者、テレビ視聴者は第三者です。その事件の犠牲者でもなければ犠牲者の遺族でもない、加害者の側にいるわけでもない。99.9パーセントの人たちはその事件の当事者ではありません。第三者だからこそ、冷静に、なぜこんな悲劇が起こるのかを考え、こうした悲劇が起こらない社会にするために必要なことは何か、どんな考え方が、どんな行動が必要なのかを冷静に考える、そういうことができる位置に本来はいるわけです。

ところが、この社会ではそうならない、いたずらに、ひとり興奮してしまって、その犠牲者に成り代わり、遺族に成り代わって加害者をバッシングする側になる、それをテレビメディアは先頭に立って、週刊誌メディアがそれを追い、場合によっては新聞メディアも加わって、それがいかにも、社会の万人に通用する考え方であるかのように検証してしまうわけです。

万人に受け入れられる考え方というのは、これほどまでに恐ろしい、そういう時代になっていると思います。

それはインターネットによって加速した。パソコンが普及し始め、インターネットが普及し始めた元年は1995年だと思いますが、貝原さんはネット社会がだんだんと人々の心の中に浸透していく、その初期の段階の10年間を、彼は並走したわけです。それから12年経って、このネット社会というものが、どれほどまでにひどい状態になっているのか、貝原さんが体験できたならば、いったいどういう風刺を描いていただろうか。これも彼の作品を、見ながら考えたことでした。

劣化した社会の中でこそ、「万人」の表現になびかず、抵抗の表現を

もうひとつ重ねて終わりにします。

ぼくは先ほど触れた、2001年に小泉政権が成立した以降、小泉の時代に書いた文章の中で何回か、「言葉が死んだ」といいますか、そういう表現を使ったことがあります。

小泉純一郎というのは、人が発する言葉からその本質的な意味を奪い取ってしまう政治家の典型です。言葉で、論争をするとか論戦をするとか、そうしたことが不可能なところに、そういう劣化した状態に社会を追いやってしまったと思います。

どういうことかというと、例えば2003年、自衛隊の「イラク派兵」が問題になったときに、「非戦闘地域にしか自衛隊は派遣しない」と当時の小泉政権は言っていて、それなら、そのときのイラクの戦闘地域と非戦闘地域をどういうふうに分けて判断しているんだと野党が質問すると、小泉は何と答えたか。「どこが非戦闘地域でどこが戦闘地域かと、いま永田町にいるこの私に聞かれたって、わかるわけないじゃないですか」と答えた。質問に対するとてつもない居直りです。

野党の質問の仕方にも問題はありましたが、しかし戦闘地域と非戦闘地域がわけがわからない人間が、最高責任者として自衛隊を派遣しているという、そういうことになってしまうわけです。

そんな派遣の無責任性を批判していく展開が必要ですが、「わかるわけがないでしょう」と言って、情けないことに野党の追及はそこでストップしてしまうわけです。

あるいはまた、2004年、年金の問題のときに、小泉自身の厚生年金加入疑惑を質されると、島倉千代子の歌にかけて「人生いろいろ、会社もいろいろ、社員もいろいろだ」などと言って、まともに質問に答えない。言葉に向き合うのではなくて、ずらしたところで、答えたつもりにさせてしまう。ある意味、ものすごく巧みな人間でした。あらゆることから人間の発する言葉の意味を奪い、論争するという機会をずるずると奪ってしまいました。

小泉という、ほんとうに口の軽い、言葉の軽い、とんでもない人間が5年間、あれだけの人気を誇って首相の座にいた。あのときから、ぼくは、日本社会が、日本の政治が、それまでもとんでもない政治が行なわれていたけれども、もう一段階、国会論戦のあり方を含めて、とんでもない時代が来てしまったのだと思います。

その小泉の後継指名を受けたのが安倍晋三です。せっかく1年間で辞めてくださいましたが、残念ながら自民党内の勢力的な問題があって、2012年にまた復活し、とうとう5年間の長期政権が続いてしまいました。彼の下で言葉がさらに意味を失ったことはみなさん、日々、実感されていると思います。

とにかく話にならない、論争にならない。あれだけはぐらかし、まともに答えないで、しかし、野党の力不足で、あるいは質問時間がなくて、どんどん既成事実として進んでいく。これほどまでに風刺も効かない、言葉が本来の意味を持たず、風刺も効かなくなった時代に、貝原浩が生きていたらいったいどんな風刺画を描けたんだろうというのが、たいへん興味のある問題です。

ぼくはほんとうに、小泉政権以降のこの16年間、こういう時代に、社会や政治のあり方に対して批判的な文章を書くということの意味はいったい何なんだと、いったいどこに手ごたえを感じたらいいのだろうということを、つくづく思うようになりました。

しかも、社会は大きく転換して、いくら選挙制度に不備があろうと、社会全体はここまでこう、抵抗力を失って、劣化して現在に来てしまったわけです。

いろいろな問題点を指摘することはできるけれども、しかし小泉的なもの、安倍的なもの、米国であればトランプ的なもの、そうしたものを支える社会層が、それなりに厚みを帯びて、この社会を形成してしまっている。それが「万人」であることのように装って、この社会を仕切っている。そういう時代を迎えてしまったわけです。

こういうときに、この「万人」の表現になびかず、こんな表現が、こんな政治家が受けるのはあやしいというふうに踏みとどまって、考え、行動する。踏みとどまって文章として、絵として、演劇として、映画として、様々な表現を行なう、そういう人間が途絶えてはいけない。そのことを十分思いつつ、同時にその難しさも思うわけです。

繰り返しになりますが、こんな、なんと名づけていいのかわからないへんてこな時代に貝原浩が生きていたら、いったい彼は、これに抗う、どんな抵抗の表現をしていただろうかということを考えながら、なんとかこの時代を乗り切っていきたいなということを考えています。

(2018年2月13日発行 発行責任:貝原浩の仕事の会)

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[93]ソ連の北方四島占領作戦は、米国の援助の下で実施されたという「発見」


『反天皇制運動Alert』第20号(通巻402号、2018年2月6日発行)掲載

1945年2月、米英ソ首脳によるヤルタ会談で、ソ連の対日参戦が決定された。同年8月9日、米軍による長崎への原爆投下と同じ日、ソ連軍は樺太南部と千島列島に投入された。さらに8月28日からは、択捉、国後、色丹、歯舞の北方四島占領作戦が展開された。各島で日本兵の武装解除が行なわれ、9月5日、ソ連軍は四島を制圧した。

ここまでは、従来もよく知られた歴史である。8月15日直後の状況下で、スターリンが北海道占領計画なるものを提示し、これをトルーマンが拒否したことも知られている。いつ頃のことだったか、スターリンが夢想した北海道占領案を地図上で知ったことがあった。それによると、釧路と留萌を結ぶ線を引き、その北東部分をソ連が占領することになっていた。そのとき2歳で、釧路に住んでいた私は、ソ連占領下に生きることにもなり得たのだった。権謀術数の駆け引きに拠って成立している国際政治の在り方如何によっては、所与の地域に生きる(とりわけ、敗戦国や勝者に占領された国の)民草の行く末などはいかようにも翻弄され得るのだという、世界政治に対する私の基本的な視点は、この段階で定まった。21世紀に入って4半世紀、このことが、アフガニスタン、イラク、シリア……などアラブ地域の国々で繰り返されているさまを、私たちは目撃し続けている。背後で蠢いているのが、米国とロシア(旧ソ連)であることにも変わりはない。これが、人間の歴史に対する諦観をわれらが裡に育てるものなのか、もっと深く絶望を植えつけるものなのか、それとも?――ここでは、問うまい。

さて、上に触れた歴史を受けて、北方4島問題を国家帰属に関わるそれとして捉えて角逐し合っているのが日露の両国家だが、そこは、近代国家成立以前には先住民族の土地であったことを考えるなら、歴史哲学的にはこの契機を挟むことなく、ことを「領土問題」に凝縮して解決を図ることの「不可能性」が浮かび上がる。この点を指摘したうえで、次へ進もう。日本が敗戦した1945年以降73年間ものあいだ揺るぐことのなかった「ソ連対日参戦」の事実に、新たな視点が付け加えられたのは昨年末のことだった。ソ連の北方4島占領を「米国が援助し、極秘に艦船を貸与し訓練も施していた」事実が明らかになったのだ(『北海道新聞』17年12月30日朝刊)。冒頭に触れたヤルタ会談の直後から、共に連合国であった米ソは「プロジェクト・フラ」(Project Hula)と呼ばれる合同の極秘作戦を開始した。内容は以下のごとくであった。米国は45年5~9月、掃海艇55隻、上陸用舟艇30隻、護衛艦28隻など計145隻の艦船をソ連に無償貸与し、4~8月にはソ連兵約1万2千人を米アラスカ州コールドベイ基地に集め、艦船やレーダーの習熟訓練を行なった。これら一連の訓練は、45年8~9月の「実践」で役立てられた。4島占領作戦に参加したソ連側の艦船数は17隻だったが、そのうち10隻が米国から貸与されたものだった。

つまり、ソ連の勝手なふるまいと考えられてきた北方4島の電撃的な占領作戦は、米ソをトップとする連合国の作戦であった、ということになる。こんなこともあるのか、と思えるほどの、歴史的な「一大発見」ということになる。発見者は2015年来北方四島の遺産発掘・継承事業を行なっている根室振興局である。各国の資料に当たる中で、サハリン及びクリール諸島上陸作戦に参加した軍艦リストを調査した一ロシア人学者の2011年度の研究が糸口になったようだ。調べてみると、米の元軍人リチャード・ラッセルが2003年に『プロジェクト・フラ』を書いて、この極秘プランの内実を著してもいる。これが最初の研究だとすれば、やはり真相は60年近くも秘されてきたということになる。

この場合は、国際関係の微妙さを口実とした「隠蔽」だったのか、よくわからぬ。時代の制約の中に生きる人間の問題意識・歴史認識の水準に帰すべき場合もあろう。近着の『極東書店ニュース』643号電子版を見るにつけても、学生時代以降半世紀間見続けて読書の指針にしてきたこの学術洋書案内に見られる内容の変化は著しい。ジェンダー研究、女性史、移民史、移民問題、少数民族、人種問題、環境問題などという書目分類は昔ならあり得なかったが、昨今は際立って冊数も多い。国際政治ゆえの「隠蔽」の力が作用しているのか、それともわが認識水準が及ばないのか、いずれにせよ、歴史にはこんなことが起こり得るのだ。

まだ真相に行き着いてはいないのではないかという恐れをもって、歴史に向き合いたいものだ。(2月3日記)

「死刑囚表現展」の13年間を振り返って


『創』2017年12月号掲載

「死刑廃止のための大道寺幸子・赤堀政夫基金」が運営する「死刑囚表現展」は今年で13回目を迎えた。始めたのは2005年。その前年に、東京拘置所に在監する確定死刑囚、大道寺将司氏の母親・幸子さんが亡くなった。遺された一定額の預金があった。近親者および親しい付き合いのあった人びとが集い、使い道を考えた。筆者もそのひとりである。幸子さんは、息子が逮捕されて以降の後半生(それは、54歳から83歳までの歳月だった)の時間の多くを、死刑制度廃止という目的のために費やした。

息子たちが行なったいわゆる「連続企業爆破」事件、とりわけ1974年8月30日の三菱重工ビル前に設置した爆弾が、死者8名・重軽傷者385名を出したことは、もちろん、彼女の胸に重く圧し掛かっていた。本人たちが意図せずして生じさせてしまったこの重苦しい結果が彼女の頭を離れることはなかったが、息子たちは、マスメディアがいうような「狂気の爆弾魔」ではないという確信が揺ぐことはなかった。この確信を支えとして、彼女は「罪と償い」の問題に拘りつつ、同時に死刑廃止活動への関わりを徐々に深めていった。息子以外の死刑囚とも、面会・文通・差し入れ・裁判傍聴などを通して、交流した。人前で話すことなど、およそ想像もつかない内気な人柄だったが、乞われるとどこへでも出かけて、息子たちが起こした事件とその結果に対する自らの思いを話すようになった。死刑囚のなかには、自らが犯した事件・犯罪について内省を深め、罪の償いを考えているひとが多いこと、また、国家の名の下に命を最終的に絶たれる死刑事件においても冤罪の場合があることなどを彼女は知った。

幸子さんは、晩年の30年間を、獄外における死刑廃止運動の欠くことのできない担い手のひとりとして、死刑囚と共に「生きて、償う」道を模索した。この辺りの経緯は、幸子さんへの直接の取材が大きな支えとなっているノンフィクション作品、松下竜一の『狼煙を見よ――東アジア反日武装戦線“狼”部隊』(初出「文藝」1986年冬号、河出書房新社。現在は、単行本も同社刊)に詳しい。

彼女の遺産の使い道を検討した私たちは、そのような彼女の晩年を知っていた。遺されたお金は、「死刑廃止」という目標のために使うのが彼女の思いにもっとも叶った道だろうという結論はすぐに生まれた。さて、どのように使おうか。討論の結果、次のように決まった。

死刑囚の多くは、判決内容に異議をもち再審請求を希望する場合でも、経済的に困窮していて、それが叶わないこともある。一人ひとりにとってはささやかな額ではあろうが、「基金」は一定の金額を希望者に提供し、再審請求のための補助金として使ってもらうことにした。毎年、5人前後の人びとの弁護人の手にそれは渡っている。

もうひとつは、死刑囚表現展を開催することである。死刑囚は、多くの場合、外部の人びとと接触する機会を失うか、ごく限られたものになるしか、ない。「凶悪な」事件を引き起こして死刑囚となる人とは、身内ですら連絡を絶つこともある。ひとは、自分が死刑囚になるとか、その身内になるとかの可能性を思うことは、ほとんどないだろう。だが、振り返れば、死刑囚がなした表現に深い思いを抱いたり衝撃を覚えたりした経験を、ひとはそれぞれにもっているのではないか。永山則夫氏の自己史と文学、永田洋子および坂口弘両氏が著した連合赤軍事件に関わる証言や短歌、苦闘の末に冤罪を晴らした免田栄氏や赤堀政夫氏の証言、そして、いまなお冤罪を晴らすための闘いの渦中にある袴田巌氏の獄中書簡やドキュメンタリ―映画、当基金の当事者である大道寺将司氏の書簡と俳句など、実例は次々と浮かぶ。世界的に考えても、すべてが死刑囚ではないが、マルキ・ド・サド、ドストエフスキー、金芝河、金大中、ネルソン・マンデラなど、時空を超えて思いつくままに挙げてみても、獄中にあって「死」に直面しながらなした表現を、私たちはそれぞれの時代のもっとも切実で、先鋭なものとして受け止めてきたことを知るだろう。それらに共感を寄せるにせよ批判的に読むにせよ、同時代や後世の人びとのこころに迫るものが、そこには確実に存在している。

日本では、死刑制度の実態が厚いヴェールに覆われているにもかかわらず、死刑を「是」とする暗黙の「国民的な合意」があると信じられている。刑罰の「妥当性」とは別に、死刑囚といえども有する基本的な人権や表現の自由についての認識は低い。「罪と罰」「犯罪と償い」をめぐっては冷静な議論が必要だが、「死刑囚の人権をいうなら、殺されたひとの人権はどうなるのだ」という感情論が突出してしまうのが、日本社会の現状だ。死刑囚が、フィクション、ノンフィクション、詩、俳句、短歌、漫画、絵画、イラスト、書など多様な形で、自らの内面を表現する機会があれば、そのような社会の現状に一石を投じることになるだろう。死刑囚にとって、それは、徹底した隔離の中で人間としての社会性を奪われてしまわないための根拠とできるかもしれない。

そのような考えから表現展を実施することにしたが、死刑囚の表現に対してきちんと応答するために、作品の選考会を開くこととして、次の方々に選考委員をお願いした。加賀乙彦氏(作家)、池田浩士氏(ドイツ文学者)、川村湊氏(文芸評論家)、北川フラム氏(アートディレクター)、坂上香氏(映像作家)。基金の運営会からは私・太田昌国(評論家)が加わった。第7回目を迎えた2011年には、ゲスト審査員として香山リカ氏(精神科医)を迎えたが、香山さんにはその後常任の選考委員をお願いして現在に至っている。

「死刑囚表現展」と銘打つ以上、応募資格を持つのは、当然にも死刑囚のみである。この企画が発足した2005年ころの死刑囚の数は、確定者と未決者(地裁か高裁かで死刑判決を受けているが、最高裁での最終判決はこれからの人)合わせて百人程度だった。それから12年を経た昨今では、125人から130人くらいになっている。このうち、表現展に作品を応募する人は、平均15%から20%くらいの人たちである。

例年の流れは、以下のとおりである。7月末応募締め切り。文字作品はすべてをコピーして、選考委員に送る。その厚みはだいたい30センチほどになるのが普通だ。9月選考会。絵画作品はその場で見て、討議して選考する。10月には「死刑廃止集会」という公開の場で、改めて講評を行なう。

「基金」のお金は、参加賞や各賞の形で応募者に送られる。「賞」の名称(名づけ)には、いつも苦労する。「優秀賞、努力賞、持続賞、技能賞、敢闘賞」などはありふれているが、獄中にありながら現代的な言葉遣いに長けた人には「新波賞」(文字通り、「ニュー・ウェーブ」の意味である)が、また周囲の雑音に惑わされず独自の道を歩む人には「独歩賞」とか「オンリー・ワン賞」が与えられた。肯定・否定の論議が激しかった作品には、「賛否両論賞」が授与されたこともある。この「賞金」がどのように使われているかは、外部の私たちは、詳しくは知る由もない。少なからぬ人びとが、来年度の応募用のボールペン、色鉛筆、原稿用紙、ノート、封筒、切手などの購入に充てているようだ。お金に困らない死刑囚など存在しているはずはないし、物品制限も厳しい中で、なにかしらの糧になっているならば、「基金」の趣旨に叶うことだ。

応募者には、選考会での各委員の発言内容をすべて記録した冊子が送られる。公開の講評会の様子も、死刑廃止のための「フォーラム90」の機関誌に掲載されるので、それが差し入れられる死刑囚のみならず、希望するだれの目にも触れる。これは、精神的な交流を、一方通行にせずに相互交通的なものにするうえで大事なことであると痛感している。選考委員の率直な批判の言葉に、応募者が憤激したり、反論してきたりすることも、ときどき起こる。ユーモアや諧謔をもって応答する応募者もいる。常連の応募者の場合には、明らかに、前年度の作品への選考委員の批評を読み込んで次回作に生かしたと思われる場合も見られる。

この13年間に触れてきた膨大な作品群を通して考えるところを、以下に記しておきたい。自らが犯してしまった出来事を、俳句・短歌などの短詩型やノンフィクションの長編で表現する作品が目立つ。前者の場合、短い字数ゆえに、本人の心境をごまかしての表現などはそもそもあり得ないもののようだ。自己批評的な作品は、ずっしりと心に残る。

眠剤に頼りて寝るを自笑せり我が贖罪の怪しかりけり  (響野湾子)

振り捨てて埋めて忘れた悲しみを思い出させる裁判記録 (石川恵子)

一読後、その人が辿ってきた半生がくっきりと見えたような感じがして、ドキリとする作品も散見される。作品の「質」を離れた訴求力をもって、こころに呼びかけてくる作品群である。

父無し子祖母の子として育てらる吊るされて逝きて母と会えるや (畠山鐵男)

弟の出所まで残8年お互い元気で生きて会いたし        (後藤良次)

両親を知らずして育ち、高齢を迎えたいま、獄中に死刑囚としてあること。2人、3人の兄弟が全員刑務所に入っていること――そんなことを読み取ることができる表現に、掲句に限らず、ときどき出会う。ここからは、経済的な意味合いだけには還元できない現代社会の「底辺」に澱のように沈殿している何事かを感受せざるを得ない。ひとが残酷な事件を犯すに至る過程には、社会的な生成根拠があろう。貧困、無知、自分が取るに足らぬ存在と蔑まされること、社会全体の中での孤独感、根っことなるものをことごとく引き抜かれていること――それらすべてが、一人の人間の中に凝縮して現われた時に、人間はどうなり得るか。永山則夫氏の前半生は、まさにそのことを明かしている。同時に、永山氏は自らが犯した過ちを自覚したこと、それがなぜ生まれたかについて「個人と社会」の両面から深く追求する表現を獲得しえたこと、それが書物となって印税が生じたとき、自らが殺めた犠牲者の遺族に、そして最後には「貧しいペルーの、路上で働く子どもたち」に金子を託すという形で、彼独自の方法で「償い」を果たそうとしたこと――などが想起されてよいだろう。

ノンフィクションの長編で自らの犯罪に触れた作品からも,時に同じことが読み取れる。同時に、「凶悪な犯罪」というものは、たいがい、絵に描いたように「計画的に」行なわれるものではないようだ、ということにも気づかされる。作品が真偽そのものをどこまで表現し得ているかという問題は残る。だが、文章そのものから、物語の展開方法から、事実が語られているか、ごまかしがあるかは、分かるように思う。その前提に立てば、実際の犯行に至る過程のどこかで、複数の人物の「偶然の」出会いがなかったり、車や犯行用具が一つでも欠けていたりしたならば、ここまでの「凶行」は起こらなかったのではないか、と思われる場合が多い。逆の方向から言えば、「偶然」の出会いに見えるすべての要素が、たがが外れて合体してしまうと、あとは歯止めが利かなくなるということでもある。その過程を思い起こして綴る死刑囚の表現からは、ひたすらに深い悔いと哀しみが感じられる。

問題は、さらにある。被疑者は逮捕後に警察・検察による取り調べを受ける訳だが、死刑囚が書くノンフィクション作品においては、その取り調べ状況や調書の作り方への不満が充満しているということである。冤罪事件の実相に触れたことがある人は、取り調べ側がいかに恣意的に物語を作り上げるものであるかを知っておられよう。「物語」とは、ここでは、「犯行様態」である。捜査側の思い込みに基づいて、現場の状況と数少ない証拠品に合わせるように「自白」を誘導する手口も、犯人をでっち上げることで初動捜査の失敗を覆い隠すやり口も、根本的にご法度なのだ。だが、実際には、それがなされている。このようなシーンが、十分に納得のいく筆致で書かれていると、死刑囚にされている表現者がもつ怒りと悔しさが伝わってくる。

絵画作品の応募も活発だ。選考会でよく話題になることだが、幼子の時代を思い起こしてみれば分かるように、文章を書くことに比して、絵を描くことは、ひとをしてヨリ自由で解放的な空間に導いてくれるようだ。人を不自由にすることに「喜び」を見出しているのかとすら思われる、拘置所の官僚的な規則によって、獄中で使用できる画材には厳しい制限がある。だが、その壁を突破しようとする死刑囚の「工夫の仕方」には、舌を巻くものもある。常連の応募者の画風に次第に変化が見られる場合があることも、楽しみのひとつだ。最近は、立体的な作品が生まれている。着古した作務衣を出品するという意想外な発想をする人も現われた。或るひとが漏らした「まるでコム・デ・ギャルソンだ」とは、言い得て妙な感想だった。極限的に狭い空間の中から、ここまで想像力を伸ばし切った作品が生まれるとは――と思うことも、しばしばだ。

この企画を始めて13年――11年目には、1980年代に冤罪を晴らした元死刑囚の赤堀政夫さんが、自分もこの企画に協働したいと申し出られて、一定の基金を寄せられた。以後、「基金」の名称には赤堀さんの名も加わることとなった。初心を言えば、当初は10年間の企画と捉えており、その間にこの日本においても「死刑廃止」が実現できればよいと展望していた。残念ながら、政治・社会状況は悪化の一途を辿り、それは実現できなかったからこそ、現在も活動は続いている。この間には、無念にも、かつての応募者が処刑されてしまったこともある。獄死した死刑囚もいる。このように、私たちには力及ばないことも多いが、この表現展は、死刑囚と外部社会を繋ぐ重要な役割を果たしていると実感している。