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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

「抵抗の布――チリのキルトにおける触覚の物語」ラウンドテーブルにおける発言


2010年10月16日(土)大阪大学豊中校舎

去る10月16日午後、大阪大学で開かれたシンポジウム「抵抗の布――チリのキルトにおける触覚の物語」のシンポジウムに出席した。キルトの一種であるarpillera(アルピジェラ)は、ピノチェト軍事政権下での弾圧と抵抗の経験を表現した芸術作品であり、同時に社会運動としての機能も果たして、世界的な注目を集めてきた。

チリ出身の研究者であり人権活動家でもあり、現在は北アイルランドに住むロベルタ・バシック(Roberta Bacic)さんが来日し、40点のアルピジェラ作品を展示するとともに、「アルピジェラにおけるコンテクストの物語」と題したラウンドテーブルの講師を務めた。これに対し、大阪大学の北原恵さんと私がコメントした。作品の一部と開催趣旨は、以下で見ることができる。

http://gcoe.hus.osaka-u.ac.jp Stitching Resistance

私のコメントは以下のようなものであった。

1)アルピジェラに即して

(私の家にあった一枚のアルピジェラを示しながら)これは、私の家にあったアルピジェラです。きょうテーマになっているのは、1973年の軍事クーデタに始まって18年間続したチリ軍事政権の時代を背景としてもつ時代のことですが、私は軍事クーデタの一年半後にチリに入り、一ヵ月ほど滞在しました。

私が出会った人びとのなかで、軍事政権に反対している人びとは、声を潜めて自分たちの気持ちを語り、またビクトル・ハラやビオレッタ・パラなどの歌を、これまた声を潜めて歌っていました。そこで知り合った人が、後にこのアルピジェラを送ってくれたのです。

(会場には40枚ものアルピジェラが展示されていたので)これほどのアルピジェラを見たのは初めてですが、ある感慨をおぼえました。

(来日したキュレーターの)ロベルタ・バシックさんは、先ほど行なわれたガイド・ツアーで「連帯ビカリオ」という作品の説明のときに、ブラジルの教育学者パウロ・フレイレに触れました。

上位下達ではない作品構成のあり方が何をヒントとしているかという点に関して、ロベルタさんはフレイレに触れたのでした。

私も、一連の作品を先ほど見ながら、これらが観る者に対話を求めてくるという印象を強く持ちました。

相互主体性、相互対話性、相互浸透性などの言葉で表現してもよいのですが、それはいずれも、フレイレの概念から導き出されるものです。

とはいっても、チリから遠い日本にいて、これらの作品に込められた含意を理解するのは、容易なことではありません。

特に現在は、歴史的な記憶や経験を伝達すること、それを引き継ぐことがきわめて困難な時代です。観る側には、これを理解するための一定の努力が求められるでしょう。

ピノチェト軍事政権は、左翼政治運動・政党運動・労働運動などの諸運動を徹底的に弾圧し、これを壊滅させました。

これらの運動は、男性を主軸とし、思想・文化的にも、支配層が作り上げている男性原理に基づいた価値観に貫かれていたと、いまでこそ言えますが、弾圧された者も、したがって、男性が多数でした。

男性中心の諸運動が、再起不能な打撃を受けている一方、男性優位の社会的価値意識のもとで下位に退けられてきていた「女性的なもの」に根ざした表現が、人をも驚かせる力を発揮することとなったのです。

一般的に信じられている「女性的なもの」とは、「硬い」ものではない感情レベルのもの、すなわち、弱さ、控え目、ためらい、従属と依存、傷つきやすさ、などの要素です。

同じく、女性の活動領域は、思想よりも身体、公共よりも個人、社会よりも家庭である、と捉えられてきました。

これらの条件が重なり合った地点で、女性を表現主体としたアルピジェラは生まれた、と言えます。

このことは、硬い男性原理から、柔らかい女性原理への転換が求められている時代を象徴している事柄であったのではないでしょうか。

また、大言壮語に満ちた「大きな物語」を語る政治運動が消えて、日常的な生活に根ざした運動と表現こそが、支配への抵抗の核になっている現代を、先駆け的に暗示したものでもあった、と言えないでしょうか。
2)軍事政権前の「チリ革命」の文化革命的側面について

ピノチェト軍事クーデタが起こる以前の「チリ革命」は、その文化革命的な側面において、見るべきものがあったと思います。

それまでのチリにおいては、流布されるテレビ番組、映画、コミックなどのほとんどが米国製であったから、文化的な従属ははなはだしいものでした。

アジェンデ政権は、この現状を改め、民族的な自律性を高め、現実を批判的に分析・解釈できるような「新しい文化の創造」に重点をおいたのです。

作家アリエル・ドルフマン、ベルギー人社会学者アルマン・マテラール等を中心に、文化帝国主義の浸透に関する批判的な検討が積み重ねられました。

それらは『ドナルド・ダックを読む』『子どものメディアを読む』『多国籍企業としての文化』などの理論的な成果を生みました。ディズニーのコミックや写真小説(フォト・ノベラ)が子どもたちや大衆の脳髄を完全に支配している現状に鑑みて、それらの作品を貫いているイデオロギーを容赦なく批判する作業に力が注がれた、のです。

また、やせる/美しくなる/男性に気に入られる/セックスなどのテーマに純化している、いわゆる女性向け雑誌の批判的な分析も行なわれました。それは、その種の雑誌が溢れかえっている日本の現状に対しても、深い示唆に富むものです。

大衆、子ども、女性など、旧社会の価値意識のなかでは低く見なされてきた社会層にはたらきかけるような、文化批判の活動が「チリ革命」の過程で活発化していた事実が、果たして、軍事政権下の庶民の女性たちがアルピジェラという表現に賭けたことと関連してくるものなのか。

外部社会の私たちにはよく理解できない(見えてこない)この点が、ロベルタさんへの問いとして残るように思えます。

(以上、発言終わり) ロベルタさんからは、アルピジェラに、チリ革命の課程での文化批判の理論と実践が深く関係しているという視点は、とても刺激的だった、という感想を得ることができた。
(10月23日記)

いわゆる「尖閣諸島」問題について


『人民新聞』2010年10月15日号掲載

国家を背景にして発言したくはない、と思い続けてきた。国家人あるいは国民という自己規定に基づいて発言することはしたくない、とも。
それは、先人たちが火傷を負い、他民族にまで害悪を及ぼした日本民族主義・日本国家主義の克服をめざす立場から、である。加えて、国家なるものは、私自身のアイデンティティを最後まで根拠づけてくれるような存在ではないからである。

人類史をふり返ってきて、たかだか数世紀の歴史しかもたない近代国家の枠組にわが身を預けてしまうことの、自他に対する「危うさ」を知ったからである。

そのような立場から、いわゆる北方諸島問題について発言したことがある。

ソ連体制末期の一九九一年、当時のゴルバチョフ大統領の来日が予定されていたころ、日本での「北方領土返還運動」はメディア上での世論扇動も、右翼の情宣活動もピークに達していた。

日本もソ連も、近代国家の枠組の論理で相互の対立的な主張を繰り返していたのだが、私の考えでは、領土問題はそのような国権の主張では解決できない種類のものであった。

近代国家の形成以前から、「無主地」であるそこを生活の現場としていた先住民族の共同管理地域として、領土紛争なき自由地とするしかない。日本からはアイヌが、ソ連からはサハリン、シベリアの北方諸民族が集って、土地と周辺海域の利用方法を考えればよい、と私は主張した。

国民国家の論理を否定するこの解決方法を「夢想」と嗤う者もいたが、国境や排他的経済水域の論理で国家同士が角突き合いしていれば解決できるという見通しを、その批判者とて持っているわけでもない。

ならば、一見したところ永遠の彼岸にあるかのごとくに見えるかもしれない、脱国家主権の論理に基づいて「地域住民」による共同管理の方途を探ることを提案し、その具体化を図るという道をたどる者がいてもよい。

その場合「地域住民」のなかには、近代国家形成の過程でそこへ「植民」してきて今も住みついている人びとを、排他的な既得権を主張しない限り排除しない、という程度の倫理を忍び込ませておけばよい。

ひとが、現存する秩序を前提としてしか発想ができないものであるならば、遠く未来を見通した理想を語ることも、来るべき未来を夢想することも、それを手近に引き寄せるために日常的な努力する者も立ち現われることはない。

いわゆる尖閣諸島(中国の言う魚釣島)をめぐって噴出している日中間の軋轢についても、私なら、同じ視点で分析する。菅民主党政権、マスメディア、北朝鮮や中国との間に緊張が走ると途端に活気づく安部晋三らの愚昧な政治家、反中ナショナリズムで沸騰する「世論」――この社会の多くの人びとは、この諸島が「日本の領土」であることと確信している。

日本政府が一八九五年の閣議決定によってここを日本領に編入し、これが歴史的に最初の「領有行為」であったから、国際法上でも、最初に占有した「先占」に基づく取得および実効支配が認められている、とするのである。

この、歴史的には後世につくられた国際法上の概念こそが、すでに既成の事実として積み重ねられてきていた、帝国主義による植民地支配を「合法化」し正当化する論理を構成してきた。

尖閣諸島の場合も、「一八九五年」という年号と「台湾」の近々である該当地域に注目するなら、やがて悲劇的に展開することになる日本帝国主義による植民地支配の一歴史的過程であることは、一目瞭然ではないか。

二一世紀も一〇年が過ぎて、国家間対立・国境紛争・経済格差・環境悪化・温暖化など人類社会が突き当たっている諸問題と真剣に向き合うならば、たとえば「領有権」問題に関して言うなら、「先占」の概念そのものを再審に付さなければならないことは、自明のことと思える。

そこへ踏み出すことなど考えたこともなく、未来永劫「国家」にしがみついていれば安心立命していられると思い込んでいる人びとが、中国を含めてどの国でも「国民」の多数派であることは、否定し難い現実だ。

一見不動に見える現実を前にしてもなお、その時代状況の中では「空想」か「夢」のような問題提起を行なう者がおり、それを実現するための、不断の運動・活動があったからこそ、惨めでもあるが進歩してきた側面もないではない「現在」があるのだ。
(10月13日記)

太田昌国の夢は夜ひらく[8]検察特捜部の「巨悪」の陰に見え隠れする、日常不断の検察の「悪行」


『反天皇制運動モンスター』9号(2010年10月5日発行)掲載

この六年間、死刑囚が獄中で行なう「表現」に触れている。

「死刑囚表現展」の運営と選考に私自身が携わっているからである。

書、絵画、俳句、短歌、詩、エッセイ、フィクションおよびノンフィクションの中長編――何かにつけて制限の多い獄中にあって、さまざまに工夫を凝らした表現が届けられる。ここでは、ノンフィクションの作品に孕まれている問題に限って、いう。

自らが関わった事件をふり返り、犯罪の様態を含めて詳しく書き込んだ作品が送られてくることがある。

なぜ、あのような残虐な行為に、自分が手を染めたのか。悔恨は深い――そのような作品もある。

書かれてあることの「真実性」如何は、肝心な箇所での表現方法や全体的な筆致から判断するしかないが、それにしても、犯行の構成要素のひとつでも欠けていたなら!、と思わせられることがある。

犯罪の多くは、「必然性」によってではなく「偶然性」によって引き起こされると思われるほどに、あれか/これかの要件をひとつでも欠いていたなら、この人があの、目を背けずにはいられないような犯罪に走ることはなかったろうに、と思われるのである。

さらに印象的なことは、多くの死刑囚が「部分冤罪」を訴えていることである。

被害者は当然にも身を避けたり抵抗したりするわけだから行為それ自体の順序、絞殺などの手による行為の場合の被害者との位置関係、凶器の用い方、共犯者がいる場合にはそれぞれの「役割分担」、主導性と随伴性――いくつもの問題をめぐって、死刑囚は、警察・検察の取調べ段階で取られた調書では、自分の行為・役割・意図などが捻じ曲げられて表現されているという不満をもっている。

結果的に被害者を死に至らしめたとしても、それがいかなる経緯でなされたかということは「情状」問題に大きく関わってくることであり、また誰にせよ、自分がなした行為が曲げて解釈されることには耐えがたいものを感じるだろう。

加害者が自らの罪を軽減するために自分に都合のよい形で自己主張している、という捉え方は当然にもあり得る。

その点は、けっこう、用いられている言葉や文体によって推し量ることができるものだという感想はあるが、いずれにせよ、決定的な根拠にはなり得ない。

このことを前提にしたうえで、警察・検察段階での取調べの様態と調書の作られ方には、あまりにも深刻な問題が孕まれているということは強調しておきたい。

自分が関わった事件を記述する死刑囚の多くは、取調べ段階で、警察・検察が描いた通りのシナリオに嫌々ながら引きずり込まれていく心理を語っている。

そのシナリオをどんなに否定しても、怒鳴られ、こずかれ、蹴られ、殴打され、彼らのシナリオを認めなければ長時間の取調べが続いて、自暴自棄になるのだ。

あるいは、これを認めれば罪が軽くなるという甘言を信じたり、裁判で真実を話せば分かってくれるだろうと絶望感の底で思ったりしてしまうのだ。

このことは、警察・検察が犯し、それに無批判的に追随した裁判所によって引き起こされたいくつもの冤罪事件によって、夙に明らかになっていたことだ。

最近の例でいえば、足利事件の菅谷さんに過酷な半生を強いた責任は、警察・検察・裁判所の「共犯」にあったという、隠しようもない事実を思い起こせば十分だろう。

加えて、警察・検察は持てる権限と人員を最大限に活用していくつもの証拠物件を得ていくが、仮にそのうちのひとつが、自らが描いたシナリオを覆す場合には隠蔽してしまい、被告も弁護人もその存在を知らないままに裁判が進行して判決にまで至ってしまうというのが、日本の刑事司法の現実なのだ。

大阪地検特捜部の主任検事による押収物改竄事件は大きく報道され、当然にも、世間の関心を集めている。それ自体は、もちろん、許しがたいことだが、「正義の味方」=検察内部に、突然のように、異形の者が立ち現われたわけではない。

国家権力を背景にしてその権限を行使することに――巷の「愚民」からは隔絶した特権的なその地位に――「蜜の味」を感じてきた検察が、「国策捜査」ではない一般事犯においても日常普段に行なってきたことが、誰の目にも明白な形で明るみに出た、に過ぎない。

「大阪地検のエース」「割り屋」の前田某には、吉田修一の『悪人』が小説でも映画でも評判になっていることに因んで、このさい洗いざらい検察内部の悪行のすべてを暴露してせめてもの罪償いをしてもらいたいものだが、他方「愚民」である私たちには、検察「トップ」の巨悪だけに目くらましされることなく、警察・検察・裁判所が抱える構造的な問題にこそ目を向けるべきだという課題が課せられているのだと言える。(10月2日記)

太田昌国の夢は夜ひらく[7]イラクが被った損害を一顧だにしない「戦闘任務終了演説」


『反天皇制運動モンスター』8号(2010年9月7日発行)掲載

「9・11」が、まためぐってくる。

丸九年が経つことになる。日本の場合は、それに翌2002年の「9・17」(日朝首脳会談とピョンヤン宣言)が付け加えられるから、世界は、そして日本は、新世紀初頭の九月に起きた大きな出来事に引っ掻き回されて、冷静さを取り戻す間もないままに、新世紀10年目の現在を迎えていることになる。

それでも、事態は動いたのか。良い方向へと少しでも変わったのか。

「9・11」の延長上で米国が行なったイラクへの一方的な攻撃からは、7年有余が経った。2003年3月、米国は二つの理由を挙げて、イラク攻撃を開始した。

①イラクは大量破壊兵器を保有していること。

②イラク政権が国際「テロ組織」アルカイダと協力関係にあること――いずれも嘘だとわかったのは、イラク人に多数の犠牲者が出た後だった。

それでも、大量破壊兵器の最大の保有国で、「テロ国家」というべき米国は、戦争を続けた。対イラク戦争には批判的だった現米国大統領は、8月31日をもって米軍のイラク戦闘任務は終了したと演説した。

彼は「米国は海外から借金までして一兆ドルを戦争に費やし、自国の繁栄に必要なことをしてこなかった」とは語ったが、他ならぬ米軍が生み出した「戦果」、すなわち、少なめに考えても十万人を下るまいというイラク人犠牲者、いまなおベッドで苦しむ多数の戦火の負傷者たち、破壊した家屋とインフラ、傷つけた大地、化学兵器で汚染させた畑地――などのことには、いっさい触れることはなかった。

大統領は、イラクが理由なく受けた人的・物的・自然上の損害は一顧だにせず、今後は「自国の繁栄のために」米国の国家予算を使う、と言外に語ったことになる。

この国は、いつだって、そうなのだ。軍事的力量の差が大きいことをいいことに、自国の利害を賭けて、完膚なきまでに相手を叩きのめす。

イラク国軍が米国本土を爆撃することはあり得ないから、当然にも米国に恨みと憎しみを抱いた個人か集団が、せめて一矢を米国に報いたいと考えて、絶望的な行動に出るのだ。

あえてその用語を使えば「テロリスト」を生み出しているのは、他ならぬ米国ではないか。

こうして、米国が世界各地で絶えず能動的に作り出している戦闘行為・戦争こそが、世界の安寧・平和を破壊してきたという近現代史の本質に無自覚かつ無知なこの大統領は、しかも、今後はアフガニスタンに「資源と戦力をふりむける」と語って、恥じない。

世界から何の関心も寄せられていないアフガニスタンの空から降り落ちてくるのがミサイルではなく、書物だったら、飢えた民のためのパンだったら、乾いた大地を湿らす雨だったら……とイランの映画監督マフマルバフが語ったのは、タリバーンによるバーミヤンの仏像爆破の直後だった。つまり「9・11」の半年前だった。

米国は、或る国家が引き起こしたわけでもない「9・11」攻撃を、新たな戦争の好機と捉え、マフマルバフの黙示録的な啓示に満ちた言葉を無視するかのように、アフガニスタンに向けてミサイルを発射し、爆弾を落とし始めた。

それから九年が経ち、対イラク戦争には反対だったらしい現大統領も、アフガニスタン戦争はさらに強化するというのである。

そのアフガニスタンと延々と国境を接しているパキスタンは、いま、大洪水に見舞われ、二千万人にも及ぶ被災者が生まれている。

アフガニスタンでの戦争のためにパキスタンをいいように利用してきた米国は、「テロリストと戦っているパキスタンの、まさにその地域を洪水が襲った」「支援に失敗すれば、パキスタン政府がテロとの闘いで獲得し得たものを失うかもしれない」と語る 。

米国政府の意向を受けた日本政府は、自衛隊ヘリ部隊を派兵した。またしても、災害救助活動を「軍事化」するのか。

歯止めの利かない菅民主党政権の米国追随路線を見て図に乗った産経紙は、「丸腰派遣でよいのか」と言い募っている。

確かに緊急に必要とされているパキスタンへの国際的な援助を、米国は「反テロ戦争」の意義と結びつけて、世界を主導しようとしている。

これに対して、パキスタンのCADTM(第三世界債務帳消し委員会)などは、パキスタンが歳入の三〇%以上の額を対外債務返済に充てている現状に鑑み、債務の支払いを拒否し、それを救援と復興のために使うことを訴えている。

米国でも日本でもパキスタンでも、政府が物事の因果関係を説明すると、「結果」を「原因」を言いくるめる。戦争・自然災害・援助・債務などに関して、因果関係を的確に捉えた分析と方針の提示が、何よりも重要だ。

(9月3日記)

太田昌国の夢は夜ひらく[6] 国家論なき政治家の行方――死刑執行に踏み切った法相の問題


『反天皇制運動モンスター』7号(2010年8月3日発行)掲載

去る五月一九日午後、私は死刑囚の処遇改善を「直訴」する各種団体のメンバーのひとりとして、法務省内大臣室にいた。

一〇人ほどで千葉景子法相に面談するために、である。多忙を極めているという理由で、一五分間という制限時間があらかじめ設けられていた。

一〇人はそれぞれ、一分間で、死刑囚が置かれている劣悪な医療事情、開示されない医療情報、外部との厳しい交通制限……などの問題に関して、法相に検討するよう訴えた。

就任して以来その日まで、死刑執行命令書に署名していない法相のあり方に関して、肯定的に評価する気持ちを伝える発言もあった。

二〇分間で、面談は終わった。法相は一言も言葉を発することなく、熱心そうに耳を傾けているだけだった。

私たちの背後では、三人の法務官僚が、私たちの発言内容をしきりにメモに取っていた。

千葉法相就任以来、彼女が死刑執行を強く要請する法務官僚たちの、厳しい包囲網に囲まれているらしいという噂は、私たちのもとにも届いていた。

メモを取る背広姿の三人の男たちは、日々法相にかけられているらしい「圧力」を、無言のうちに象徴するものに違いなかった。

それから二ヵ月有余を経た七月二八日、他ならぬ千葉法相の指令に基づいて、ふたりの人に対する死刑が執行された。

怒りと哀しみは、深い。先の参院選挙で落選してなお、菅首相の要請に応えて法相の座に座り続けている法相への批判は、野党から出ていた。

メディア上でもその種の論調は多く見られ、とりわけ読売紙は、結果的に執行当日となった二八日付けの朝刊で、殺人事件被害者遺族の怨念に満ちた言葉の陰に隠れて、死刑確定者の執行(人殺し、と読め)を扇動する意図的な紙面造りを行なった。

法相を窮地に追い込む網がさらに狭まっていたであろうことは、想像に難くない。

ここでは、究極においては死刑制度廃絶をなお望んでいるらしい法相が、信条に反するはずの死刑執行に踏み切った事情の背後にあるものを推察することにしたい。

大韓航空機爆破事件の実行者・金賢姫の来日招請は、拉致問題担当相でもある中井国家公安委員長の主導で行なわれたものと思われるが、「テロリスト」の入国に問題なしとの結論を下したのは、千葉法相である。

罪と罰をめぐっての私の考えからすれば、偽造した日本旅券を行使し、百十五人を死に至らしめる航空機爆破を行なった人物といえども、自らの行為を内省し、悔やみ、贖罪の気持ちをいだき、新たな価値観に基づいた人生を送ることは保障されるべきである。

決定を下した当時の韓国政府の意図がどこにあろうと、いったんは死刑を宣告された彼女が「特赦」の対象となったことには、十分な意義があった。

韓国政府の決定が、単に、北朝鮮の出方を睨んだ政策的・戦術的な水準で、「転向者」を歓迎し利用するために選択されたものだとしても、それを越える本質的な問題領域を、刑罰論や国家論の形で設定し直すことはできる。

それは、日本においても同じことだ。だが、千葉法相は、本来ならば入国拒否対象者である金賢姫を特別招請する根拠を「拉致問題の解決を韓国政府と一体となって進め、国民にも改めて拉致問題の重要性を理解してもらう」という水準の、政策的なものに押し留めてしまった。

北朝鮮を出国して二三年にもなる彼女からは、拉致問題をめぐる新たな情報が得られるはずがないにもかかわらず、拉致被害者家族会と世論に迎合する安易な言い方に堕したのである。

このとき、北朝鮮との関係をいかに打開するかという、国家(=社会)のあり方をめぐる本質論は後景に退くしかなかった。

社会変革運動に携わる者が、世論なるものと対決してでも自らの理念と行動を選択しなければならない時があるように、政治家もまた、本来的にはそのような存在だといえる。

死刑廃止の理念を持つ者が法相の任に就いた時、制度を維持しようとする法務官僚や制度を容認するという85%もの世論に抗しうる力の拠り所はどこにあるのだろう。

それは、自分が行使し得る、国家を背後に持つ権限をめぐっての本質論から逃げないことだろう。

在野にあった時には、いくぶんか情緒的であったかもしれない気分から抜け出し、国家の名の下で人の命を奪うことが許されるとする死刑存置論を、国家論のレベルで論破できる根拠を自力で探ることだろう。

国家論なき政治家は、二国間軍事同盟問題でも、その根源的な解決の道にたどりつくことはなかった。死刑問題でも、問われるのは国家の本質論だ。

太田昌国の夢は夜ひらく[5]植民地・男性原理・王家の跡継ぎ問題を浮かび上がらせた舞台


『反天皇制運動モンスター』6号(2010年7月6日発行)掲載

静岡市には、県立の静岡芸術劇場がある。東静岡駅前に劇場があり、そこからバスで一五分ほどかけて山のなかへ入ると、野外劇場や屋内ホール、稽古場棟などがある。

以前は鈴木忠志が芸術総監督を務めていた。いまは宮城聰である。

四、五年前だったか、グローバリゼーションをめぐる諸問題についての講演を依頼されて訪れて以来、毎年行なわれる芸術祭公演の案内が送られてくるので、ときどき観劇に出かける。

県立劇場を持つのは、全国で二県だけだという。中学・高校生は招待されたり、優待されたりしている。

だから、劇場にはいつも、若い人びとの姿が目立つ。この年齢までは、高校演劇くらいしか観ることができなかった私のような人間からすると、新鮮な驚きであり、いいなあと思う。

海外の演出家と劇団の招請にも積極的だ。いまの時代、当たり前とはいえ、欧米中心ではなく、第三世界出身の人も多い。

演劇界では、国境を超えた演出家と俳優の交流がごくふつうに行なわれているから、どこそこの出身と固定して言うだけでは意味をなさない場合も増えてきた。

去る六月にも出かけた。宮城聰の台本と演出による、一九九九年に行なわれたク・ナウカの初演以来、伝説的な舞台となっている『王女メディア』の公演を観るために、である。

原作は、もちろん、生年が前四八〇年前後と推定されているギリシアのエウリピデスである。メディアは、黒海海岸のくに(現在のグルジア)の王女である。金の羊毛を奪いにきたギリシアの王子イアソンと恋に落ち、親族を裏切ってまで一緒に逃亡した。男の子も生まれた。

ところが、逗留先の地で、跡継ぎのいない王家の娘との結婚を唆されたイアソンは、それに同意した。王たちはメディアをくにざかいの外へと追放し、ふたりの結婚を成就させようとする。

静かな怒りを秘めたメディアは、その王家の王と娘を毒殺し、挙句の果てに、「裏切った夫への復讐のために」自らの息子をも殺してしまう……と展開するのがもともとの物語である。

王と心変わりしたイアソンの口からは、文明の地=ギリシアと、メディアが生まれた東方の「蛮族の地」を対比する言葉があふれ出る。

宮城は、驚くような仕掛けをこの戯曲に試みた。舞台は明治期の「文明」日本、法曹家の服装をした日本人の男たちが茶屋遊びにやってくる。

娼妓たちは「未開の」朝鮮から連れてこられたようだ。宴席に座した男たちは、余興に文楽の太夫に扮して「王女メディア」の台詞を大声で物語る。

言葉は男が操り、女はメディアを含めて、男が発する言葉のままに、衣装と所作と表情で演じるだけだ。

この演出は、観る者に、当初は相当な違和感を強いる。男(=言葉)と女(=身体)の分裂が、あまりにも明らかだからだ。

その違和感も、舞台が進行するにつれて次第に消え去り、月明かりも照らす野外劇場での公演に引き込まれていくうちに、最後に、メディアをはじめとする女たちの、無言の裡の大逆襲が始る……。

緊張感に満ちた、見事な舞台であった。自明のこととして設けられていた前提が、ことごとく覆されていく瞬時の展開に、息をのんだ。

初演のときには、朝鮮と日本という設定はなされておらず、公演を繰り返すなかでいつしかこうなった、と聞いた。

もちろん、日本による「韓国併合」から百年目の年に、この公演が実現した意義をいうことはできる。

演出した宮城の意図は、彼自身の言葉によれば、「男から男へと家督が相続されていく」男性原理に基づいたシステムそのものへの復讐劇として描くところにあったように思える。

子殺しが夫への復讐となるとメディアが考えたのは、子が男子だったからだ、男性原理による統治に慣れた人類は、「地球という母」の息の根を止めかねない地点にまできたが、これを食い止めるには、母殺し寸前の息子、すなわち男性原理を滅ぼす必要があったのだ、というように。

そしてまた、跡継ぎなき王家において、当事者たちが苦悶の果てに引き起こした血まみれの抗争に、奇妙なまでのリアリティを感じるところもあって……。

二五〇〇年前につくられた戯曲の翻案公演は、こうして、現在の東アジアのくにぐにの「奇怪な」現実をいくつもの視点から浮かび上がらせるものとなった。

太田昌国の夢は夜ひらく[4]「理想主義がゆえの失政」に失望し、それを嗤う人びとの群


『反天皇制運動モンスター』5号(2010年6月8日発行)掲載

「宇宙人ではないか」とあまねく噂されていた人の謎が解けた。

ご本人の解釈によれば「今から5年、10年、15年先の姿を国民に申し上げている姿が、そう映っているのではないか」ということだった。なるほど、そうだったのか。

他方、生涯を通じて理想の「リ」の字も考えたこともないらしい愚かな記者が、普天間問題に関わって彼に問いかけた。

「理想主義への反省はあるか」と。宇宙人は答えた、「理想は追い求めるべきだ。やり方の稚拙さがあったことは認めたい。

ただ、普天間(問題)は次代において選択として間違ってなかったと言われるときが来ると思う」。

ふたつの問題が残る。首相の座から去り行く人に対して、今さら皮肉を言う気持ちにはなれない。

政治的責任を負う立場の人でなければ、人間として悪い人ではないのだろう。しかし、次代のことを考えていると自認している割には、肝心なところで対米交渉のための努力の痕跡が見えない。

外務・防衛官僚の壁は厚く、高かったであろう。

しかし、5年先や15年先を見通しているなら、「いま」が重要なのだ。とどのつまりは、自爆的な辞任をするのであれば、ペンタゴンに牛耳られているオバマとの「死闘」を行なえばよかったのに。沖縄には「もう、たくさんだ!」という民意がある。

他の地域には「基地を誘致してまで沖縄と痛みを分かち合うつもりはない」という本音がある。

去った人は「米国に依存を続けて良いとは思いません」という気持ちを、今ここで持っていたというではないか。

それらを背景に、対米交渉を開始すれば、問題は「日米安保」でしかないことが、いっそう浮かび上がったに違いない。

安保解消は仮に5年先の目標かもしれないが、普天間基地即時閉鎖・地位協定改定に加えて、この政権の目玉をなしている仕分け作業の対象外にされてきた「思いやり予算」を全額廃止するなどの具体的な課題を、もっと手元に手繰り寄せることになる交渉が始められたり、決断に至ったりしたに違いない。

ふたつ目の問題は、宇宙人の「理想主義」を嗤った記者や、メディアの意見として、そこで踊るコメンテーターなる者たちの言論として、また世論として、メディア上に溢れかえっている、去り行く人に対する失望感や嗤い声に関わっている。

ここには、普天間問題での彼の「迷走」をしたり顔で批判する自民党や公明党の面々も入れなければならない。

残念なことには、おそらく、少なからぬ「護憲派」の姿もまた、ここに含めなくてはならないだろう。

それくらいに、幅広い人びとがここには〈無意識のうちに〉集っているのだ。

これらの人びとの立場を大まかにくくることのできる共通項は「日米安保体制」容認――これである。

沖縄の人びとに同情するような顔つきをして、前政権の失政を指摘した人びとの多くは、実はその本心に「安保体制容認」の気持ちを隠し持っていることを何度でも指摘しなければならない。

なぜなら、いつ「暴発」するかもしれない北朝鮮や、日本周辺海域へ海軍を広く進出させている中国の「不穏な」動きを思えば、沖縄に一万九〇〇七人から成る米海兵隊員が駐留している(〇九年一二月末現在、米国防総省の統計による)ことに、これらの人びとは安心感をおぼえているからである。積極的な平和のための努力も行なわずに。

これが、現在にまで続く戦後日本の「平和」の根拠である。 米本土以外で、米海兵隊基地があるのは日本だけだ。駐留数でいっても、第2位はフィリピンの四二九名だ。

二万人ちかい海兵隊員が沖縄にいるから「抑止力」があって「安心だ」と考えているのは、二〇〇ヵ国ちかくある世界のなかで日本だけだ、という事実が広く知られるならば、世界における日本の異常性がいかほどばかりかがくっきりと浮かび上がるだろう。

黒船来航→帝国主義間競争→開戦→原爆投下→敗戦→占領下→独立後も依存……と続いてきた一五〇年以上におよぶ近代・現代の過程で、日米関係がいかにいびつなものになったか、を明るみにださなければならない。

来る八月に、ある町の市民運動団体から講演依頼があった。この間の状況をみながら、タイトルを「戦後史の中の憲法9条と安保体制」とすることにした。(6月4日記す)

韓国哨戒艦沈没事件を読む


『反改憲運動通信』第6期No.2掲載

(以下の文章においては、朝鮮民主主義人民共和国を「北朝鮮」と表記している。)  3月26日、韓国の西側にあって、南北朝鮮の領海を隔てている黄海上の周辺海域で、韓国海軍の哨戒鑑「天安」が沈没し、乗員104名のうち46名が死亡・行方不明となった。

韓国における当初の報道を思い起こすと、北朝鮮による攻撃の可能性を示唆するものは少なく、内部的なミスに起因するという見方が有力だった。

軍は、爆発時間の説明を二転三転させ、沈没前後の交信記録の情報公開にも消極的だった。

世論形成に影響力を持つ韓国メディアが、4月に入って「北朝鮮関与説」を報道し始めた。

李明博政権は、国際軍民合同調査団なるものを設置し、韓国一国の利害を離れた地点での「国際的で、客観的な調査」に判断を委ねる態度を取った。

事故からおよそ2ヵ月近く経った5月20日、調査団は「北朝鮮の小型艦・艇から発射された魚雷による水中爆発」によって事件は起こったと断定した。

北朝鮮の国防委員会報道官は、同日、調査団報告は「でっち上げだ」とする声明を発表し、韓国が制裁措置を講じるなら「全面戦争を含む強行措置」を取ると主張した。

この段階での、日本社会での受けとめ方を考えてみる。普天間問題で苦慮していた前首相はこの事件を奇貨として、北東アジア情勢の不安定性を強調し、在沖縄米海兵隊が持つという「抑止力」なるものへの信仰を突然のように語り始めた。

それは、6月2日、首相辞任を表明した民主党議員総会での発言に至るまで続いた。

大方のメディアも、ほぼ同じ論調に依拠している。韓国哨戒艦沈没事件という悲劇は、日本の前首相や日米安保信奉者に向かっての「追い風」となったのである。

まこと、軍事の論理は輪廻する。その車輪の中で生きようとする者すべてを、他者の死を前提とした、終わりのない/極まりのない戦時の世界へと導くのである。

問題は、民衆レベルでの受け止め方であろうが、「あの国なら、やりかねない」という捉え方があっても、反駁する方法はなかなかに難しい。そのことが悩ましい。

私個人の問題として書いてみる。国際社会への復帰を試みている北朝鮮が、いまさらこんな軍事冒険主義に走るはずはないとするのが、解釈する側にあり得べき理性的な判断である。

この理性的な判断の下では、あえて過去は問わない。大韓航空機爆破も、拉致も、不審船も、工作船も、“もはや”過去のことだ、と考えよう。

その程度の信頼感をもって、相手との付き合い方を考えよう――と、そこでは思うのである。

同時にまた、こうも考える。軍事路線を優先し、軍事の力によって大国の譲歩を引き出し、貧しい社会の中で軍人層を手厚く処遇する先軍政治を、この国の指導部は放棄してはいない。

責任逃れの論理を使って金日成・金正日父子がよく言った(言う)ことばを使えば、今回の魚雷発射事件が「私のあずかり知らないところで、英雄主義に駆られた一部機関の者が仕出かしてしまった」可能性を、全面的に排除することもできない。

しかも、伝えられる経済危機は深刻だ。「やりかねない」。ここが、私が佇むジレンマの地点である。

だが、後者の可能性を考えるとき、私は問題を普遍化して、特殊に北朝鮮だけを名指しして言うのではないと考えて、辛うじて「理性」を保つ。

日本、韓国、中国、ソ連、ロシア、米国、イスラエル……およそ、人類史上に存在してきた〈国家〉なるものが、ある所与の時代に、所与の条件の下でなら「やりかねない」非行として、この種の出来事を捉えるのである。

〈国家〉の「非理性」を、〈国家〉を担うと自惚れている政治家や、軍人や、官僚たちの、そして付け加えるなら、時にそこへ哀しくも巻き込まれてしまう大衆の「非理性」を、その程度には「確信して」いる。

その意味では、古今・東西・左右のいかなる〈国家〉も、「非理性的であること」において等価である。

イスラエル国家が、封鎖されているパレスチナ自治区ガザへ救援物資を届けようとしていた非武装の船舶を攻撃したように。

北アメリカ国家が、自らは傷つかない無人爆撃機できょうもアフガニスタンやイラクの民衆の上に爆撃を加えているように。

革命後の中国国家が、チベットや新彊ウィグル自治区などで、恐るべき強圧的なふるまいを続けてきたように。

そして、日本国家が……(読者よ、皆さんの見識に基づいて、このあとを続けてください)。 したがって、仮に北朝鮮を疑う目をもつとして、その目は他国へも及ぶ。

前述の調査団報告が出た同じ日に、40近くの韓国民主運動団体が連名で、「調査内容、調査過程と方向、調査主体など、あらゆる側面から調査の科学性と客観性、透明性と公正性を認めることはできない」との声明を発表している。

それは、「反北」の感情を煽ることに利益を見出す政権と軍の拙速な論理だと批判して、慎重な対応を求めている。6月2日の韓国統一地方選挙において、与党ハンナラ党が敗北したのは、民衆レベルで広く同じ感情があることの証左なのだろう。

北朝鮮による哨戒艦撃沈説が、そのまま、反北ナショナリズムに行き着いてはいない点は、健全だと言える。

韓国では、この事件をめぐって別な情報も報道されているから、判断のための選択肢が広いのだろう。

たとえば、事件と同時刻に、同じ海域で訓練していた米軍潜水艦が沈没したが、事件は密かに処理されたという報道があった。

仮にこの事件と哨戒艦沈没事件に関わりがあったとして、米国がこれを隠蔽することは過去の歴史からみて「やりかねない」。

また前述の調査団員として「座礁・沈没」説を主張した委員が、その後公安当局の捜査を受けているという報道もある。

これまた、現韓国政権の性格からみて「やりかねない」。

総合すると、真実はまだ「藪の中」だと言える。問題は、またしても、日本社会での受け止め方である。多様な情報に接することもないままに、調査団報告を聞いてすぐ対北制裁強化を率先して主張した人物が、新首相になるようだから。(6月4日朝記す)

太田昌国の夢は夜ひらく[3]わずか二百人のアメリカ人にとっての普天間問題


『反天皇制運動 モンスター』第3号(2010年4月13日発行)掲載

「普天間という基地名を知っている米国人はせいぜい二百人程度で、それはすべて国防総省(ペンタゴン)のスタッフです。

米国は世界の百ヵ国以上に軍事基地を持っているから、人びとはいちいちその地名など知りません。

日本では、沖縄の基地問題が進展せず、アメリカは苛立っているとか、日米関係が危いなどとばかり言っていますが、そこでいう〈アメリカ〉とはその程度のもの、つまりペンタゴンなのです」。

詩人アーサー・ビナードは、私が住む地元で最近開かれた講演会でこう語った。日本に住んで二〇年が経つ、米国はミシガン州出身の人だ。

新聞に寄稿している詩やエッセイ、それが単行本にまとめられたものは、ある程度読んできた。ことばに対する感覚にすぐれた人だ。

納豆が好きで、自分の名を漢字で「朝美納豆」と書く、おかしな人だ。

自国の政治的・軍事的振る舞いを悲しみ、それに対する批判が、厳しい。

テーマは憲法9条問題だった。いきおい、民主党政権になっても一向に変わらない日米の政治・軍事関係への言及が多かった。

確かに、メディアでは、「アメリカ」を主語に据えて、米軍再編に関わっての鳩山政権の優柔不断を憂えたり、日米関係の危機を言い募る言論が溢れている。

それを見聞きするた びに、主語「アメリカ」の本質を問うてきた私の胸に、詩人のことばはすとんと落ちた。

朝青龍の角界追放問題が起こると、日本のメディアはウランバートルの街頭でモンゴル人の反応を聞く。

中国で毒餃子事件の容疑者が逮捕されると、北京市の住民の声が報道される。

トヨタの事故車が米国で問題化すると、街のユーザーの声が大々的に報道される。

しかし、(すべての報道を見聞きしているわけではないが)ニューヨークの街頭を行き交う米国人に「普天間問題」についての意見を聞くという、日本メディアが好みそうな試みはないようだ。

誰に聞いても、地名も知らない、関心もない、米国では問題そのものが「存在しない」ことが「ばれて」しまい、いうところの〈アメリカ〉なるものの本質が透けて見えてしまうから、困るのだろう。

詩人は、東奥日報記者・斉藤光政の『在日米軍最前線』(新人物往来社、二〇〇八年)が加筆修正を加えて文庫化されたこと(新人物文庫)も教えてくれた。ラジオの仕事で定期的に青森を訪れている詩人には、「核攻撃基地=ミサワ」の情報が入ってくるようだ。

沖縄基地再編問題が歪んだ形で「大問題化」している裏で、青森県ミサワ基地を中心にしたミサイル防衛回廊化がいかに進行しているかを伝える貴重な本で、それはあった。

総じて、詩人は、米国ではペンタゴンの極少数の担当者しか関心を持たない普天間問題が、あたかも日米関係の最重要事だと誤解するな、もっと根本的に同盟関係自体を問い直して主体的な問題提起を行なうべきだ、と聴衆に訴えたのだと思う。

この話は、アジア情勢に詳しいオランダのジャーナリスト、カレル・ヴァン・ウォルフレンの主張と合い通じるものがある(「ペンタゴンに振り回されるアメリカと、どう向き合えばいいのか」『SIGHT』二〇一〇年春号掲載、ロッキング・オン)。

米国の軍産複合体の中枢にいる人間たちにしてみれば、冷戦の終焉は耐え難いことであり、ソ連なき後は「ならず者国家」とか「テロリスト」なる敵を作り出すことに励んできた――とは、私もこの間行なってきた分析だ。

同じ考えを持つウォルフレンはさらに、ペンタゴンも軍産複合体の一部であって、この複合体はそれだけで存在していて、政治的な判断とまったく関わり合いがない、オバマもペンタゴンを制御できておらず、日米関係の問題をペンタゴン関係者の多い対日部門に丸投げしているが、その連中が日本に向けてふるまう態度たるや「保護領」に対するものにひとしい、とまで断言している。

日本国の外交路線を取り仕切ってきた米国かぶれの外務官僚や一部の政治家を除けば、日米関係の現状をこのような水準で冷静に捉えることは、さほど難しくはないだろう。

問題は、中国や北朝鮮など近隣諸国との間では「冷戦状態」が継続しているという意識が社会全体から払拭されておらず、その分、米国に軍事的依存を続けることで安心立命が得られるという「気分」を社会が引きずっていることにあるだろう。

その気分は実は幻想なのだと明かす作業を、なお続けなければならない。(2010年4月9日執筆)

太田昌国の夢は夜ひらく[2]脱北者を描く映画のリアリティが暗示していること


『反天皇制運動モンスター』第4号(2010年5月11日発行)掲載

韓国映画『クロッシング』を観た(キム・テギュン監督、二〇〇八年、カラー、35ミリ、 一〇七分)。

いわゆる脱北者の物語だ。北朝鮮のとある炭鉱町に住む一一歳の男の子ジュニは、父母との三人暮らしだ。つましい生活だが、日々のどんなことにも楽しみは見出せる。

父は元サッカー選手で、よくサッカーボールで遊んでくれる。巧みにボールを捌く父の足は、ジュニの憧れだ。母が肺結核で倒れた。薬は簡単に手に入らない。父は薬を求めて、危険を冒して中国へ密入国する。

働いて少しの金は得られても、脱北者であることがわかれば強制送還だ。北の実情を話せば大金が入るという話を信じてついていくと、行く先は韓国だった。

手を尽くして、北朝鮮に残した家族の安否を知る。妻は死んでいた。父と息子は何とかして連絡をつけ、危険な中国ではなくモンゴルで再会する手はずを整えた。

だが、翌日には父と再会できるはずだったジュニは、人っ子ひとりにも会えない広大なモンゴルの砂漠で、満天の星降る夜に死んでいった……。

「クロッシング crossing 」とは「横断、交差(点)、踏切り、十字路、十字を切ること、妨害」の意味だ、と同映画のパンフレットにはある。

さまざまな含意が込められていて、観客は任意にどれかを選べばよい、ということか。

私は、山のようにある脱北者の証言をよく読んできているので(図入りの本が、けっこう多いこともあって)、北朝鮮社会について、ある程度のイメージを描くことができると思っていた。

当然にも、そんな程度のイメージは破砕された。北朝鮮に住んでいた人に言わせると、庶民の住まいと食事の内容、市場・闇市の様子などがとりわけよく「現実に近く」描かれているという。

国境警備隊員のふるまいも、捕まった人びとが入れられる「鍛錬隊」なる強制労働キャンプの様子も、経験者の証言に基づいてセット造りや演技指導がなされている以上、相当な「現実性」をもっているのだろう。

私は、一九六〇年代後半から七〇年代初頭にかけて、韓国文化院にときどき通っては、まだ一般映画館では上映される機会のなかった韓国映画を観ていた。

日本文化の「浸透」を禁じていた軍事政権時代のナショナリズムに依拠して、当時の韓国映画における「日帝本国人」の描き方は徹底して一面的だった。

敵対している北朝鮮の描き方も、画一的だった。止むを得ないなと思いつつも、心打たれるところは少なかった。

多くの場合は権力者による圧力で、また場合によっては表現者の自己規制や怠惰で、どんな国でも、「表現」がそうなってしまう、あるいはそうしかできない時代状況というものは、あるだろう。

韓国映画が、総体として、特に「民主化」以降の過程で、そんな制約を乗り越えてきたことは、この間公開されてきたいくつもの秀作を通して知ることができる。

脱北者家族の軌跡を描いて、『クロッシング』は単純な「反北」映画に堕すことはなかった。むしろ、つましく暮らす北朝鮮庶民の姿を、淡々と、切なく描いて、深い印象を与えるものとなった。子役を含めた演技者の功績も大きいだろう。

感情過多の、安易な演技に流れていないことが、貴重に[思えた。それだけに、腹をすかせた労働者や子どもたちのそばを、赤旗を掲げながら「首領さま」に忠誠を誓うスローガンを唱和しながら行軍していく者たちの姿の意味が、かえって、浮かび上がってきたりもする。

キム・テギュン監督は一〇年前、道端に落ちているウドンを拾って汚いどぶ水ですすいで食べる北朝鮮の子の実写映像を観て衝撃をうけ、その時の自分の「恥ずかしさ」を原動力としてこの優れた映画を完成させた。

私がこの映画を観終わって数日後、北の社会の絶対的な権力者が、さまざまな支援を求めて中国へ向かった。人と時間と金をふんだんに使っての、相変わらずの秘密行動だった。

公開性のない、このような隠密行動が、国内・国際基準の双方でいまなお許されると考えているところが、この独裁者の度し難い点だ。映画『クロッシング』は、北朝鮮国内と(たとえば韓国のような)外国とのあいだでの携帯電話での交通が現実化している様子を、実話に基づいて伝えている。

権力者が企図する情報の封鎖、それでも流れ出る情報――北朝鮮の状況の帰趨は、ここに焦点が絞られてきたように思える。 (2010年5月7日執筆)