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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

時評自評 「日本の壊れ方」の本質


『労働情報』814・5合併号(2011年5月1・15日号)掲載

2月頃から高まり始めたTPP(環太平洋経済連携協定)反対論のなかに、「TPPが日本を壊す」という議論があった。私は、自由貿易協定の本質は、人間の生活にまつわるすべてのモノを例外なく商品化し、市場原理が独占的に規定する単色に世界を染め上げることにあると考えている。それは、人間・地域・文化の多様性を否定し、この潮流の推進者である多国籍企業が全世界を征服することに繋がるから、これに反対している。それは「日本を壊す」のではなく「対等・平等であるべき世界の、国家間・民族間の諸関係を、今まで以上に壊す」のである。世界規模の問題であるにもかかわらず、狭く日本に私たちの問題意識を封じ込める「日本を壊す」という言動に対しては、「食農ナショナリズム」に対してと同様に、厳しい批判が必要だと考えてきた。

だが、TPPの締結を待つまでもなく、「3・11」事態が日本を壊した。地震・津波という天災と、それに伴う原発事故という人災が、日本を壊したのである。否、1ヵ月半後の今も壊れ続けている、と言うべきだろう。どこまで壊れるものか、いま予測できる者はひとりもいない。どんなに悲劇的なものであろうと天災からの立ち直りは、ひとはそれなりにイメージを描くことができる。日本でも世界各地でも、人類は天災と付き合う経験を積み重ねてきた。だが、原発事故の場合は違う。事故発生後、当事者である東電の周章狼狽ぶりを思えば、彼らがこの事態を前に為すすべもなく立ち尽くしているだけだ、という現実が見えてくる。ベトナムなどへの原発輸出に、日本経済復興の明るい未来を描いてきた民主党政権とて、国内の民衆へ語りかけることばの一つも、発しない。放射性物質が大気と海洋を汚染していることを怖れる世界各地の民衆に伝えるべき釈明と謝罪のことばも、語ろうとしない。

いまだに進行中で、その先行きが誰にも見えない福島原発事故が具体的に生み出しつつある物理的な被害は、もちろん、重大だ。同時に、事態を率直に説明することば、対処方法を明示できることば、未来に向けてのことば――東電にも、政府にも、原子力技術者にも、それが決定的に欠けていることに、私は「日本の壊れ方」の本質を見る。

数日前の夜、羽田空港から高速バスに乗った。一時間ほどかけて首都高速を走り抜け、北のとある郊外駅で降りた。都心の高層ビルの照明もネオンも、以前に比べるとはるかに暗かった。私ですら、以前のあのきらびやかな明るさに慣れていたのだろうか、薄暗さは気味悪かった。この暗さに慣れていく果てしない時間が、今後は続くことになる。それは、人間の社会が持つべき明るさのために、避けることのできない過程だろう。(4月22日記)

「環」(Trans-)という概念から考えるTPP問題 ――「環日本海」と「環太平洋」


『環』45号(2011年Spring、藤原書店)掲載

「環日本海」

「環」(Trans-)は、本来なら、豊かな可能性に満ちた地理的概念になり得ると思われる。私がもっとも好ましいと考えている「環」概念は、富山県が作成した「環日本海諸国図」と称する350万分の1の地図に見られる(複数の民族・国家に囲まれている公共財としての海に、特定の国家名称である「日本」を冠していることが、他者との共存を阻害する排他性を示していることに、日本社会は徹底して無自覚である。これは重大な問題だが、テーマを異にするので、ここではこれ以上は触れない)。私たちは、日ごろから、「北」を常に上位におく方位イデオロギーに貫かれた平面地図を見慣れたものとしているが、この環日本海諸国図を見ると、今まで当然と思っていた平衡感覚が揺らぐ。日本列島は、太平洋を上にして、北から南へと(南から北へ、という表現も可能である)横たわっている。海を挟んで下方には、サハリン、ロシア東端部、中国東北部、朝鮮民主主義人民共和国、韓国と続き、さらには遼東半島を経て北京・上海・香港へと至る中国大陸が広がっている。日本海は、明らかに、これらの諸国・諸地域によって囲まれた〈内海〉であることが、自然に感じとられる地図である。

この〈内海〉を、それぞれの歴史的段階において民族間・国家間の争いと侵略と戦争の場にしたのは誰か、という問いが私たちの裡に必然的に生まれるとともに、東西冷戦構造が消滅して20年近くを経た今なお、地球上で唯一なぜこの地域には冷戦構造が維持されているのかという内省へも、私たちは行きつかざるを得ない。地方自治体や非政府組織が軸になって、環境問題などをめぐって国境を超えて「環日本海」の協働関係をつくろうとする努力は続けられてきているが、国家のレベルでは、残念ながら、そうではない。「環」を形成する諸国が、対等・平等な関係性の中で、対立/抗争の〈内海〉を、いかに、平和のそれに転化できるかが、今こそ問われている。

「環太平洋」の歴史的文脈――「黒船」の意味

さてここでの問題は、Trans-Pacific という概念である。「環太平洋」なる概念はとてつもなく広い。南米の最南端チリから、中米・北米諸国をたどり、ロシアのシベリア地域を通って東アジア諸地域、東南アジア多島海地域、オーストラリア、ニュージーランへと至り、またそれらに囲まれた南太平洋の島嶼国も含まれる。30ヵ国以上にも上るかと思われる該当国の中にあって、ひときわ異彩を放つのは米国である。なぜなら、この国は、東海岸を通してTrans-Atlantic(環大西洋)に繋がり、アメリカ大陸に位置することによってラテンアメリカ・カリブ海域と一体化した汎米州(パン・アメリカン)共同体的なふるまいを行ない、西海岸を通してTrans-Pacific(環太平洋)諸国の一員であるという顔つきもできるという、世界でも唯一の地理的「特権性」を享受しているからである。さらに、この国は、政治・経済・軍事の分野ではもとより、文化的影響力の大きさにおいても、かつてほどではないにしても現在なお、他の諸国に比して群を抜いており、加えて国際的な関係を他国と結ぶうえで、この国が対等・平等であることを心がけたことなどは一度もないからである。

米国が、環太平洋への出口を獲得したのは19世紀半ばであった。

3世紀に及ぶスペインによる植民地支配からメキシコが独立したのは1821年だったが、当時はメキシコ領であった現テキサス地域が1836年に分離したのは、「西部開拓時代」の只中にあって「西へ、西へ」と向かう米国の干渉によるものだった。これに奏功した米国は1846年にはメキシコに戦争を仕かけ、これに勝利した戦利品として、コロラド、ニューメキシコ、ユタ、アリゾナ、ネバダ、カリフォルニアという、現メキシコの2倍以上もの資源豊かな領土を奪い取った。1823年のモンロー宣言によって、アメリカ大陸からヨーロッパ列強の影響力を排除することを企図した米国は、今度は太平洋への出口を獲得したのである。米国の、環太平洋への進出の動きは素早かった。対メキシコ戦争に参戦したペリー総督は、艦隊を率いてインド洋に展開していたが、彼がその黒船を率いて、当時鎖国中であった日本の浦賀沖に現われて、砲艦外交によって開国を迫ったのは1853年のことである。19世紀前半の、この30年間有余に凝縮している米国の「拡張史」からは、「帝国」形成期における海外侵略のエネルギーの強靭さが見て取れる。

米国はさらにインディアン殲滅戦争を続行するが、これにほぼ奏功して国内統治を完璧なものにした19世紀末、その意識では「裏庭」と捉えているカリブ海域、および太平洋を横断し(trans-)、遠く東アジア地域への進出を果たした。そしてキューバとフィリピンの民衆の反植民地闘争がスペインからの独立を目前にしていた段階で、米国は陰謀的な手段で介入し、局面を米国・スペイン戦争に変えてしまったのである(1898年)。勝利した米国は、フィリピン、グアム、プエルトリコをスペインから奪い、キューバをも実質的な支配下に置いた。

TPPの歴史的文脈――中南米での教訓

米国は、19世紀の前半から後半にかけて確立したこのような地理的優位性を基盤に、20世紀における世界支配を実現してきた。1917年から91年までは、ソ連型社会主義との熾烈な競争・闘争もあったが、そのソ連が無惨な崩壊を遂げたときには、資本主義が絶対的な価値をおく「市場原理」の勝利を謳歌した。それ以降の20年間、新自由主義(ネオリベラリズム)とグローバリゼーションの掛け声の下に、地球(globe)全体を丸ごと支配する方策を模索してきているが、自由貿易はそのもっとも重要な軸であった。1994年、米国はまずカナダ、メキシコとの間で「北米自由貿易協定」(NAFTA)を実現した。関税障壁を15年間かけて撤廃したこの協定は、3億6千万人を包括する自由貿易協定として全面的に実施されている。世界最強の大国と第三世界の国が同じ自由貿易圏に入ると、いかなる結果がもたらされるか。農産物を例にとれば、メキシコの米国に対する輸入依存率は、協定前の5~10%から40~45%に高まった。農民の4割に相当する250万人が離農し、多くは職を求めて米国へ渡った(註1)。農地の一部は多国籍企業の手に渡り、先進国の食肉需要を満たすための牧草地とされた。

米国は、この余勢を駆って、クリントン、ブッシュ(子)の二代の大統領の任期を通じて、キューバを除外した米州自由貿易圏(FTAA)の実現に全力を挙げた。ガットなきあとの世界貿易機関(WTO)が思うようには機能できず、「内外無差別な投資の自由」を推進しようとした「多国間投資協定」(MAI)も、欧米のNGOを中心とした強力な反対運動によって頓挫を余儀なくされたために、世界全体に自由貿易を強要する企図を早期に実現する見通しを失った。そこで、二国間、あるいは地域限定の自由貿易体制をつくることで、突破口を切り開こうとしたのである。

2005年11月、アルゼンチンで第四回米州サミットが開かれた。ブッシュ大統領は、人口8億5千万人、GDP約13兆ドルの世界最大の市場を包括する米州自由貿易圏構想をここで一挙に実現しようとしていた。だが、1970年代半ば以降、世界に先駆けて新自由主義経済政策の荒々しい洗礼を受けていて、それによって荒廃した社会状況の辛酸をなめていたこの地域には、政府レベルでも、民衆運動レベルでも、新しい力が育っていた。新自由主義とグローバリゼーションに異議を唱え、それとは正反対の価値観、すなわち、連帯・共同・相互扶助の精神によって、地域共同体をつくろうとする大きな動きである。ブッシュ構想は、そのような各国政府から激しい批判を受けた。構想に抗議する五万人の民衆が会場を包囲した。ブッシュ構想は、あえなく潰えた。

世界貿易機関の「円滑な」運営や多国間投資協定および米州自由貿易圏を挫折させたのは、少数の大国が思うがままに作り上げてきた貿易秩序に「否!」を唱え、富裕国と貧困国の間に、公正で対等な経済秩序を打ち立てようとする民衆運動の力である。残念ながら、日本では実感できないその力が、世界的には、放埓な新自由主義とグローバリゼーションの跳梁を現実に阻止してきた。

2006年に、シンガポール、ニュージーランド、チリ、ブルネイの四ヵ国が発効させたTPPは、いわば「小国のFTA(自由貿易協定)」であった。米国のオバマ大統領が2009年にこれへの参加を表明し、それは「帝国のFTA」に豹変した(註2)。19世紀以降、米国が一貫して追求してきた自国利害優先の世界戦略にひとつの自己懐疑もおぼえたことのない米国は、「環」の理念を身勝手に利用して、19世紀半ばの帝国主義時代の価値観に基づいて、「太平洋地域」への介入を試みているのである。

世界史を顧みると、植民地支配や侵略戦争など「人道への犯罪」を積み重ねてきた欧米諸国と日本が、現在に至るまで政治・経済・軍事の世界秩序を主導的に形成してきている。

それは「もう、たくさんだ!」と拒否するところで、上に見た多様な抵抗の言論と活動が展開されている。このような歴史過程のなかに、TPPをめぐる攻防を据えること。それによって私たちは、「現在」だけに視野を拘束されない歴史的な奥行きと深みの中で、TPPの背後に広がる事態の本質を掴むことができる。

対米追従の歴史的文脈――「環日本海」と「環太平洋」

日本では2009年に民主党政権が発足した。鳩山首相は、最初の演説で「東アジア共同体」に触れたり、沖縄に集中している在日米軍基地に関しても、歴代の自民党系列の為政者からは聞かれなかった方針を明示したりして、戦後60年有余の澱んだ政治に何らかの新しい光景が開かれていくか、と思わせるものがないではなかった。

だが、いまとなっては、その後の顛末を振り返ることすら虚しい結末となって、鳩山時代は終わった。継承したのは、市民運動出身を標榜する菅直人首相である。菅氏は野党時代には「海兵隊は即座に米国内に戻ってもらっていい。民主党が政権を取れば、しっかりと米国に提示することを約束する」(民主党幹事長時代の、那覇市での選挙演説、2001年7月21日)とか、「沖縄から海兵隊がいなくなると抑止力が落ちるという人がいるが、海兵隊は(日本を)守る部隊ではない。地球の裏側まで飛んでいって、攻める部隊だ。沖縄に海兵隊がいるかいないかは、日本にとっての抑止力とはあまり関係がない」(民主党代表代行時代、2006年6月1日)などと語っていた。ところが、首相就任直後の2010年6月には「海兵隊を含む在日米軍の抑止力は、日本の安全保障上の観点から極めて重要だと考えている」(衆院本会議、2010年6月14日)と答弁し、また「普天間基地の辺野古移設を明記した先般の日米合意を踏まえ、しっかりと取り組んでいきたい」とオバマ大統領との電話会談で語りかけた(2010年6月6日)。菅氏がこのような開き直りの口実に使った出来事はあった。尖閣諸島をめぐる中国との角逐、竹島(独島)の占有権をめぐる韓国との争い、そして北朝鮮の軍事優先主義を示すいくつかの行動である。

菅氏は、環(trans-)日本海地域が直面している困難な事態を歴史的な責任を賭けて切り開く道を選ぶのではなく、むしろアジア近隣諸国との正常ならざる関係を奇貨として、はるか太平洋の向こうにある(trans-)米国との軍事同盟に日本の命運を託すという方針を、問わず語りに明かしたのである。「環」の論理が孕む豊かな可能性をなきものにし、逆に、身勝手な自己流の論理の中に「環」が有する地理的関係性を巻き込んでしまったのである。

戦後60年有余、パックス・アメリカーナ(米国による、米国のための平和)の傘の下に置かれた日本が、自らの意思に基づいて、政治・経済・日米同盟などについての指針を持つことがなかった事実については、批判派からの提起が何度もなされてきた。菅氏の前述の諸発言を思うと、根はもっと、歴史的に深いところにあるように思える。冒頭で触れたペリー来航からわずか5年目の1858年には、日米修好通商条約が締結された。周知のように、これは、日本が関税自主権を放棄し、片務的最恵国待遇を保証した不平等条約であった。米国が「修好」の名の下に、この種の二国間条約の締結を相手の「小国」に強要する例は、その後も枚挙にいとまがないままに、21世紀の現在にまで続いている。近代から現代にかけての日本は、もっとも愚劣な方法で米国に対抗した真珠湾攻撃(1941年)から敗戦に至るまでのわずかな期間を除いて、戦前も前後も、米国のこのような論理にまともに討論を挑み、抗議し、関係の是正のために尽力することを怠った。被害者意識だけを募らせたその果てに、明治維新後の1875年、近代日本は朝鮮に対して江華島事件を引き起こすことで、4隻の黒船から受けた砲艦外交と同じことをアジア諸地域に対して行ない始めた。1869年の蝦夷地併合(北海道と改称)を契機として、すでに植民地帝国としての近代日本の歩みは始まっていたが、その6年後には、もっとも近隣の国に対する露骨な介入を開始したのである。

菅氏は、この「第一の開国」が孕む問題性を自覚しているのだろうか、無自覚なのだろうか。2010年11月、突然のように、TPPへの参加の意思表示を行ない、もって「平成の開国」と呼び始めた(註3)。「第三の開国」とも称しているが、これは、アジア太平洋戦争における敗戦を、なぜか「第二の開国」と数えているからである。

このような菅氏の歴史認識のあり方は、大いに疑わしい。一部の人びとが抱いたであろう(私とて、一部の政策分野に関しては、そうであった)民主党政権に対する淡い期待は、急速に冷めつつある。その対米従属ぶりは自民党政権時代よりひどいというのが、多くの人びとの実感であろう。思い起こせば、しかし、「労働党」を名乗るイギリスのブレアも、「9・11」以後、ブッシュ路線への驚くべき追随路線を実践してみせた。議会制民主主義国における二大政党制なるものは、所詮、微小な差異を示すものでしかない、あるいはほぼ同根の価値観を持つものでしかないと腹をくくった地点で、事態を捉えなくてはならないのであろう。

TPPが包括するさまざまな産業分野に即して、また日本の現状に照らして、これに反対する論理を展開することは必要であるが、それはすでに多くの方々によって有効な形で行なわれている。TPPは、現在の構想で実現されるなら、物品貿易の全品目の関税を即時ないしは段階的に撤廃するばかりか、貿易保険、知的財産権、投資、労働、環境、人の移動などにも関わる包括的な協定である。

ナショナリズムによらないTPP批判を

このように人間生活のあらゆる分野を包み込むものであるから、「食」と「農」だけが特別視されるべきものではない。だが、TPP反対論を総体として眺め、「ナショナリズム」の匂いが鼻につくのは、ひとが「食」と「農」について語るときであることが多い。私は、TPP反対の論理にナショナリズム――それは、「国家主義」とも「民族主義」とも解釈されうる。あるいは、言葉遣いによっては「日本至上主義」というべき言動も、ないではない――が入り込む余地をなくすべきだと考えている。

去る2月26日、370人の参加を得て東京で開かれた「TPPでは生きられない! 座談会」(「TPPに反対する人々の運動」主催)での多様な人びとの発言に耳を傾けてみても、反TPPの多様な声のなかには、「国産品を買おう」という声も混じる。「水田耕作を守ることは日本文化の基本」と叫ぶひともいる。それは、私が受ける印象では、東日本大震災以降、「国難」論に基づいて、事態(とりわけ、原発危機)の責任者を名指しすることもなく煽られている「国を挙げての復興キャンペーン」にも似た「国民運動」の呼びかけとも重なってくる。

ひとは、「国産品だから」安心して、買い求め、食するのだろうか。私たちが、どんなにささやかであろうとそれぞれ可能な形で、有機農産物の産地=消費地提携活動や地域内循環(地産地消)に関わっているのは、それはいきなり「国産品」とか「日本製品」を尊重する意識に飛んでいるのではなく、限定的な地域(ローカル)で貌が見える関係性のなかで培われた双方の信頼感を基にしているからである。あの米国においてでさえ、大都市近郊には「地域支援型農業」(CSA=Community Supported Agriculture)が広がり、連帯経済の新しい形態として注目を集めているという(註4)。「国産か否か」が問題なのではなく、「有機か否か」を問うことがここでの問題だろう。直接交流しているわけでもない世界のどこにあっても、同じ志の仲間がいると思うとき、「国産品なら良い」とする意識も言葉も、自然に消えていくだろう。

水田も、日本だけの稲作形態ではない。中国にも、インドにも、パキスタンにも、それは多く見られる。ラテンアメリカ、北米、アフリカ、南ヨーロッパにもそれは見られる。私の世代なら、シルヴァーナ・マンガーノの美しさが忘れられない戦後のイタリア映画『苦い米』を脳裏に浮かべて、あの時代のイタリアにも水田耕作が行なわれていた地域があったのだと思うこともできる。自らが営む水田の光景の美しさや産米の美味しさを言いたいなら、その地元の名や、新潟や宮城の地域名で(ローカルに)表現すればよい。国家名である日本がそこに登場する必然性は、まったく、ない。「日本の水田」の美しさや文化性が、ことさらに強調される謂れは、ない。世界じゅうのそれぞれの地域での生産様式と調理方法・食べ方を等価で表現できる境地へ、私たちの意識が流れていけばよい。

この社会では、「日本文化特殊論」が、ある誇りをもって強調されてきた。それが、排他的な自民族中心主義に容易に収斂していった苦い歴史も、私たちは経験してきた。「日本海」という呼称と同じく、きわめて排他的で、「井の中の蛙」的な論理に落ち込む隙を、私は排除したいと思う。

(註1)メキシコ全国農業生産取引業連合のビクトル・スアレス執行理事の談話(「しんぶん赤旗」2010年12月6日付け、メキシコ駐在・菅原啓記者)

(註2)田代洋一「TPP批判の政治経済学」(農文協編『TPP反対の大義』所収、農文協、2010年)

(註3)この問題性に関しては、宇沢弘文もさまざまな機会に指摘している(「TPPは社会的共通資本を破壊する」内橋克人との対談、『世界』2011年4月号、岩波書店)

(註4)北野収「脱成長と食料・農村」(『人民新聞』2011年1月5日付け)。他に、「地域支援型農業 CSA」で検索すると、インターネット上でいくつもの有意義なサイトを参照することができる。

(2011年4月1日記)

太田昌国の夢は夜ひらく[13]天災を前にした茫然自失、人災の罪深さを問わず語りする放心の態


反天皇制運動『モンスター』15号(2011年4月5日発行)掲載

前世紀末からの20年あまり、私たちは政治・社会上の、経済上の、自然災害上の、大事件に見舞われてきた。ソ連崩壊(91年)、神戸大震災(95年)、地下鉄サリン事件(95年)、9・11事態(01年)、拉致事件の顕在化(02年)――加えて、世界のどこかしこで、従来の頻度と規模をはるかに凌駕して、ハリケーン、地震、津波による災厄が起こった。そのたびに、ひとは放心状態となった。それは、ときに、自分自身の姿でもあったから、他人事では、ない。

人が為したること、自然が為したること――ふたつが、未曽有の形で押し寄せてくる時代だ、と私は考えてきた。自然の、荒々しい胎動に関しては、新たな「創世記」の始まりなのか、という印象すらひそかに抱いていた。

そして、3月11日がきた。三陸沖で大地震が起こり、地震から瞬時をおかずして津波が、広く北日本・東日本の海岸地域に押し寄せた。この恐るべき天災について書くことばが、私には見つからない。三陸海岸地域の光景をひたすら目に焼きつけ、新聞記事を読みこむばかりだった。同時に、東京大空襲について考えようとした堀田善衛がそうしたように、鴨長明の『方丈記』を取り出して、読みふけった。

自然がもたらした災厄を前に、私自身が放心状態になっているとき、別な意味で放心状態になっている一群の人びとの存在に気づいた。それは、人災に関わることであるから、同じ放心状態と言っても、おのずからその意味は異なってくる。地震と津波の影響で福島原子力発電所に破損事故が発生した。この危機的事態の行く先は、3週間後の今も見えない。この問題については、毎日のように記者会見が行なわれている。登場するのは、原発の持ち主=東京電力の経営幹部・技術者・社員たち、「原子力施設を潜在的に危険性のあるものとしてとらえ、その危険性を顕在化させないこと」を使命としていると自ら謳う原子力安全・保安院の幹部たち、そして記者会見場に掲げられた日の丸になぜか敬礼してから登壇することを習慣化した官房長官と、ごく稀にしか出てこないが、東工大出身なので「原子力には強いんだ」という自負を持つらしい首相――これらの人びとの顔つき・表情に見られる「放心」の態のことをいうのである。

この時期に、いたずらに虚仮にするつもりは、ない。今回の事態の責任者たちは、ひとりの例外もなく、「想定外」の事態を前に、打つ手を知らず途方に暮れているのが現実だということを、しっかりと脳髄に刻み込んでおきたいと思うのだ。ネット情報ではあるが、原発の危険性をつとに指摘してきたある物理学者は、事故発生後「どうすればいいの?」と問うた人に、「打つ手はない。こういうことが起きる危険性があるから、原発に反対してきたんだ」と答えたという。原子力利用を推進する理論的根拠を提起してきた元原子力安全委員長・松浦祥次郎は、事故から三週間も経って発言し、「今回のような事故について考えを突き詰め、問題解決の方法を考えなかった」と語って「陳謝」したという。対極的な立場に立つふたりの発言から、私たちが現在直面している危機の深度を推測することができる。記者会見に現われる東電技術者たちは、見るからに確信を欠いた説明に終始しているが、専門家=松浦が告白したように、「想定外」のことに対処する術などもともと考えてもいなかったのだから、電力企業の技術者たちにも、日々起こっている想定外の新たな事態を前に、言うべき言葉が見つからないのであろう。泥縄式の対処であることを知っているから、表情は「放心」の態にしかならないのであろう。

福島原発の現場では、今日も、協力会社という名の下請け・孫請け企業の不定期労働者や東電労働者が、おそらく本人たちにも先の見えない弥縫的な労働に苦闘している。福島県からは、今日も、被爆を避けるために、日常的な暮らしの場を離れて県外へ出ていく人びとがいる。そして、外の世界には、「唯一の被爆国」と謳ってきた国が、人為によって、大気中と海水中に放出しつつある「死の灰」を恐れる人びとが大勢いる。名指しされるべき責任者たちが、いつまでも放心状態であってよいはずはない。津波災害に遠くから茫然自失していた私とて、「人が為しうること」を果たさねば、と自覚する。(4月3日記)

太田昌国の夢は夜ひらく[12]環太平洋経済連携協定(TPP)をめぐる一視点


反天皇制運動機関誌『モンスター』第13号(2011年2月8日発行)掲載

世界で唯一冷戦構造が残る東アジアの状況をいかに打開するかの指針ひとつ示すこともない菅民主党政権が、環太平洋経済連携協定(TPP)については、参加に向けて前のめりになり始めたのは昨年末だった。11月9日、TPPについて「関係国との協議を開始」する基本方針を閣議決定したのだ。翌日10日の日経紙は、それが「事実上の日米FTA(自由貿易協定)になる」と報じた。年が明けて、TPP参加を念頭においた首相の口からは、「平成の開国」「第三の開国」などという大仰な言葉が飛び出すようになった。

元来これは、2006年、ブルネイ、チリ、ニュージーランド、シンガポールの4ヵ国が開始したFTAである。例によってこれに米国が参入の意思を表明した。[「環太平洋」という地域概念に関わることなので、長くなるが、以下の点には触れておきたい。私は思うのだが、1846~48年のメキシコ・米国戦争と、勝利した米国がテキサス、カリフォルニアなどの広大な地域をメキシコから奪って太平洋岸へ達したことは、その後の世界にとって痛恨の出来事であった。大西洋に面しただけだった国は、「西部開拓史」の頂点をなすこの史実によって、世界最大の2つの海洋に出口をもつ大国となった。象徴都市ニューヨークを基軸に大西洋を通してヨーロッパへも、環太平洋圏にも含まれていると言い張って遠くアジアへも、そして米州圏に位置することでカリブ海域とラテンアメリカ全域へも、政治・経済・軍事・文化のあらゆる面で「浸透」を遂げてゆく世界に稀な「帝国」の礎は、まさにこの19世紀半ばの戦争と領土割譲によって築かれたのである。この出来事から5年後の1853年に、対メキシコ戦争への参戦を経て早くもインド洋に展開していた米国・ペリー総督下の艦隊は「黒船」として浦賀沖に現われ、日本に開国を迫って砲艦外交を繰り広げた。東アジア世界には精神的に閉じたままで(冷戦解消の努力もせずに「精神的な鎖国」をしたままで)「開国」を語る首相の目線は、どこを向いているのか。右に述べたような歴史的展望を背景に、首相の真意を厳しく問い質す声が、もっとあっていいだろう。]

歴史哲学を欠いた首相には、同じ水準の閣僚が随伴している。海江田経済産業相は「TPP参加は歴史の必然」と語る。前原外相は「TPPは日米同盟強化の一環」と発言する。後者の発言は、確かに、日米両国の政府関係者によって構成されている政策シンクタンクが昨秋提言した内容に合致している。軍事面での強い同盟関係には健全な財政基盤が不可欠だとする立場から、米国がすでに参加を表明しているTPPに日本も加わり、アジア太平洋自由貿易圏(FTAAP)構想の実現へ向けて積極的な役割を果たすべきだとするのが、その提言の核心だからである。

現状では、TPP交渉への参加を表明しているのは9ヵ国だが、仮に日本がこれに参加するなら、日米合わせたGDP(国内総生産)は全体の9割を超える(2009年実績)。しかも日本は、9ヵ国のうち6ヵ国との間ですでに二国間経済連携協定(EPA)を締結している。「日米間の経済協定」でしかないTPPの本質は、ここに表われている。

米国は、1994年に発効した北米自由貿易協定(NAFTA)までは、思うがままに自らの意思を押し通すことができた。余剰農産物をメキシコへ輸出し、メキシコ農業を破壊し、ただでさえ貧しいメキシコ農民をさらに貧窮に追い込んだが、知ったことか。だが、この自由貿易圏を(キューバを除く)カリブ・ラテンアメリカ全域に拡大しようとしたブッシュの試みは、自由貿易の本質を見抜いた同地の新生諸政府と民衆運動の抵抗によって、2005年に挫折した。GATT(関税及び貿易に関する一般協定)なき後のWTO(世界貿易機関)を通しての多角的交渉も失敗を重ねている。この機関が多国籍企業が企図する世界制覇の代理人であると察知した世界各地の民衆運動の粘り強い抵抗があるからである。また、農業政策をめぐって、富裕国と貧困国との間には、埋めがたい溝があるからである。

通商問題が、超大国の言いなりには進行しない現実は、こうして世界各地に作り出されている。自由貿易を、二国間あるいは「環」で括られる地域限定で実施しようとするものたちの意図を正確に射抜いた批判的言論を、「食と農のナショナリズム」から遠く離れた地点で、さらに展開しなければならぬ。(2月4日記)

憲法9条と日米安保・沖縄の基地を共存させている「民意」


『支援連ニュース』第332号(2011年1月26日発行)掲載

政治家が吐く言葉が虚しいというのは、世界のどこにあっても、多くの人びとの共通の思いだ。代議制の政治において、「選ばれたい」と好んで選挙に群がってくるのは、権力や金力や世襲制などにとても近しい感情を持つ連中が大多数である以上、そしてそれが選挙権を持つ大衆によって許容されている以上、これと同調できない者が持つ虚しさの感情は、世界のどこかしこで、際限なく続いてきた。私は思うのだが、選挙とは、有権者のなかでもっとも奢り昂ぶっている人物を、つまり金の力と、権力と、親の威光とを最悪の形でかざす人物を、わざわざ選びだす儀式と化しているのではないだろうか。

最近の日本でいえば、小泉という男が首相であった時代――それは、2001年から2006年までの時期のことだったから、現代的な時間の流れの速度でいえば、「もはや昔」の話に属する――に、つくづくそのことを痛感した。大した苦労もなく育ったことによって屈託もない笑顔を常に浮かべていることができた時期の加山雄三のような男とでもいおうか、歴史や思想を背景に深く考えるという訓練を積んでこなかった小泉は、(時に苦しまぎれにでも)即興で口にした短い言葉が、けっこう「世間」的には通用する、否、むしろ「受ける」ことを知って、5年ものあいだ徹底してその場所に居座った。居直った、と言ってもよい。思い出したくもない、無惨な言葉の数々をこの男は遺した。

この時期の私の思いは、単純に政治家個人の言葉に対する虚しさというのではなく、その虚しい言葉を連発する男に「世論」の共感が集まっているという意味で、もっと複雑で、にがいものだった。ある社会が、他地域の植民地化・侵略戦争へと向かって、雪崩を打って巻き込まれていった過去の歴史的な時代を回顧したときに否応なく生まれる思い――人間っていうものは、どうしようもないものだなあ、という感慨を持たざるを得なかった。この時期、政治全般で、とりわけ経済と軍事の領域で、日本社会のあり方を大転換させる政策が次々と採用されていった。弱肉強食の新自由主義経済秩序の浸透によって社会がずたずたに切り裂かれ、同時に、世界第一・第二の経済大国である米日二国が軍事的協力体制を強化しているという、経済と軍事の「現在」は、あの小泉時代の政治の直接的な延長上にある。

そのころ、小泉は、おそらく、政治の虚しさを実感させる頂点のような言動を弄する人物だろうと私は思っていた。ところが――これと同等の、いや見方によっては、はるかに上手、がいたのだ。

(1) 「海兵隊は即座に米国内に戻ってもらっていい。民主党が政権を取れば、しっかりと米国に提示する事を約束する」(2001年7月21日)。

(2) 自民党政権下では「政権が変わるたびに新しい首相は真っ先に首相官邸のホットラインで米国大統領に電話し、日米首脳会談の予定を入れるという『現代の参勤交代』とも言うべき慣行が続いている」(2002年9月)。

(3) 「沖縄から海兵隊がいなくなると抑止力が落ちるという人がいるが、海兵隊は(日本を)守る部隊ではない。地球の裏側まで飛んでいって、攻める部隊だ。沖縄に海兵隊がいるかいないかは、日本にとっての抑止力とはあまり関係がない」(2006年6月1日)。

野党の政治家なら、この程度は言って当然というべきこれらは、いずれも、菅直人という名の政治家がかつて行なった発言である。(1)と(2)は、民主党幹事長時代のもの、とくに(1)は参議院選挙のさなかに那覇市で行なった演説の一節である。(3)は、民主党代表代行時代の発言だ。

その菅は、前任者・鳩山が自滅して後任の首相に就いた2010年6月6日、米国大統領に真っ先に電話し、「普天間基地の辺野古移設を明記した先般の日米合意を踏まえ、しっかりと取り組んでいきたい」と語りかけた。さらに、6月14日の衆院本会議で「海兵隊を含む在日米軍の抑止力は、日本の安全保障上の観点から極めて重要だと考えている」とも語った。そして、新しい年が明けて開かれた通常国会では、1月24日の施政方針演説で「日米同盟はわが国の外交・安全保障の基軸であり、今年前半に予定されている訪米時に21世紀の日米同盟のビジョンを示したい」と断言した。

大きな信頼感を抱いているわけでもなかった政治家だが、これらの発言の間に横たわる「落差」と「矛盾」には、頭がくらくらする。小泉の場合には、以前と後の言動が大きく食い違っているという問題ではない。非歴史的かつ非論理的な発言をしておいて、恬として恥じないという(これはこれで困った特質だが)ところから派生する問題である。菅の場合は、右に掲げた野党時代の意見と、首相になって以降のこの間の言動を比較対象されたなら、人間としてナイーブな存在を想定するなら、身もだえして我が身の置き所がなくなるような矛盾である。結果的にはとても脆いものではあったが、鳩山由紀夫が最初に持っていた程度の「逡巡」や「迷い」すらも、首相に就任した菅は当初から示すことはなかった。ひとは誰でも、時に矛盾に満ちた言動をしがちである、という一般論に流し去ることはできない。政治的・社会的責任を伴う立場の人間の、底知れぬ暗闇をもった「転向」なのだから。

だが同時に、菅のこの転向が、他ならぬ「世論」によって支えられているという点を見逃すわけにはいかない。菅政権は、世論調査によれば、支持率は低い。昨今の世論調査では、設問の設定にも依るのであろうが、いかようにも浮遊する気まぐれな世論の傾向が浮かび上がるだけだから、どこまで信をおくに値するか、という疑問があるにしても。しかし、こと外交政策の問題としては、アジア諸海域への中国の軍事的台頭や北朝鮮の軍事冒険主義に大きな脅威を感じて、日米同盟の強化と自衛隊の装備増強を容認しているのが、世論なるものの大方の流れであることは、無念ながら、認めざるを得ないようだ。それがはっきりと表われたのは、昨年5月、民主党政権が鳩山から菅へと移行した際の、社会の動向だった。マスメディアの報道傾向も大きく影響したと思われるが、普天間基地の「移設先」(移設先という発想が、そもそも、おかしいのだが)を最低でも県外と公約していた鳩山が為すすべもなく対米追随へと落ち込んでいったとき、世論の大勢は、確かに、公約違反の鳩山を批判し、沖縄の民意に「同情的」だった。その鳩山が行き詰って退陣し、菅が首相に就任し、先に触れたように「日米合意厳守」の方針を明らかにしたときに、世論は急速に菅支持の傾向を示した。すなわち、社会の大勢は、公約違反の限りにおいて鳩山を批判したが、沖縄に米軍基地の過重負担を強いている現行の日米安保体制そのものには無関心であること――したがって、現状を肯定していることを自己暴露したのだった。

私たちは現在、このような社会状況のなかに位置している。沖縄のジャーナリスト、新川明は5年前に次のように語った。「憲法9条が成立しうる根拠は沖縄に米軍基地があるからだ。それがあって日本国が守れるという担保の構造を日本国も良しとしてきた」(『世界』2005年6月号)。これを換言すると、「戦争は嫌だが、中国や北朝鮮の脅威に向けて日米安保と沖縄の基地は必要だ」というのが、日本社会に住む者の多数派の意見だということになる。ここをいかに突き崩すか。今後の課題は、ここにある。

太田昌国の夢は夜ひらく[11]遠くアンデスの塩湖に眠るリチウム資源をめぐって


反天皇制運動機関誌『モンスター』第12 号(2011年1月11日発行)掲載

昨年12月、ボリビアのエボ・モラレス大統領が日本政府の招待で来日した。朝日と日経の二紙が経済面の大きな紙面を割いて、この訪問を報じた。同国には、東京都の6倍の面積を持つウユニ塩湖があり、その地底には世界の埋蔵量の半分を占めるリチウムが眠っている。携帯電話、パソコン、デジカメ、電気自動車、ハイブリッド車など現代文明の象徴というべき製品を動かす電池に、リチウムは欠かせない。その共同開発について協議するための来日である。

2006年に大統領に就任して以来、モラレスは国内にあっては「互恵と連帯を基盤にした共同体社会主義」を掲げて、諸施策を実行してきた。対外的には、帝国主義と植民主義を排して石油と天然ガスを国有化し、そこで得られた収益を子どもと老人に優先的に還元する福祉政策も実施した。リチウム開発に関しても、外国の技術を必要とはしているが、それがかつての銀や錫のように国内への経済的還元もないままに外国に持ち出されるだけだという不平等交易にならぬよう、細心の方針を立てることができるだろうか。中国、韓国、イラン、フランス、日本など、リチウムを求めてボリビアと密接な関係を結ぶ熱意を示している各国の側にも、対等・平等な交易関係樹立に向けての姿勢が問われるところである。因みに、昨夏訪韓したモラレス大統領は、「韓国とボリビアはともに植民地支配される痛みを経験していることで、信頼し合える」という趣旨の発言をしている。資本主義の獰猛な本質に、敢えて目を瞑ったリップサービスだったのだろうか?

近代化が困難な環境問題を伴うことは、今や自明のことだ。マルクスも注目した16世紀に始まるポトシ鉱山からの富の収奪構造に長いこと縛られてきたボリビアは、現政権の下で「母なる大地の権利法」を定めたばかりだ。国際社会に環境債務の存在を認めることを求め、母なる大地の権利と共存しうるかつ有効な形での環境技術の提供や資金供与を求めること/2カ国間・域内諸国間・また多国籍機関において、母なる大地の権利の承認と擁護を進めること/母なる大地を対象物としてではなく、公益の集団的主体としての性格を認めること――などを定めている。これが、開発に参与するであろう外資の、資本主義的衝動の放埓さをよく制御し得るか、が問題である。

前世紀末以降のここ十数年来は、反グローバリズムの最前線に立つラテンアメリカ地域だが、新自由主義が猛威をふるっていた頃この地域に浸透したモンサント社などの多国籍企業が行なってきた事業の結果は、今でこそ、恐るべきものとして現出している。遺伝子組み換え大豆の栽培と枯葉剤の散布によって、アルゼンチン、ブラジル、パラグアイなどで不妊・流産・癌・出生異常などのケースが急増していることがアルゼンチンの科学者によって明らかになった(11年1月6日「日刊ベリタ」www.nikkanberita.com)。ウユニ塩湖で、今後なされるリチウム開発の行方が、国際的に監視されるべき理由である。

日本資本主義の意向を反映せざるを得ない大メディアが、ボリビアのような「小国」のニュ-スを取り上げるのは自国経済の浮沈に関わる限りでしかないことは、ありふれた風景だ。だから、この情報封鎖の壁を破って、ボリビアが右の「権利法」の精神を国際社会に根づかせるための努力を行なっていることを、私たちは知っておくことが必要だ。

紙幅の都合でひとつだけ挙げよう。国連気候変動枠組み条約締結国会議は、09年にはコペンハーゲンで(COP15)、10年にはメキシコ・カンクンで(COP16)開催された。コペンハーゲン合意の水準に危機感を抱いたボリビア政府は、同国NGOとも組んで、10年4月、同国の都市コチャバンバで「気候変動および母なる大地の権利に関する世界民衆会議」を開いた。世界中から数万人が集まった会議では、国家指導者が集まる国際会議とは異なり、貧者の意思を体現した「合意文書」が発表された(現在、編集・翻訳中)。

危惧もある。モラレス政権は、イランの協力を得て原子力発電所建設を検討している。ボリビアとイランに共通する「抗米」の意思表示としての意味はともかく、電力不足解消の名目があるにしても「母なる大地」は原発に耐えられるかという問い直しが、近代主義的マルクス主義の超克をめざしていると思われるモラレスだけに、ほしい。(1月7日記)

書評:本田哲郎『聖書を発見する』(岩波書店、2010年11月刊、2500円+税)


2011年1月上旬、「共同通信」から全国各紙に配信

著者はこの20年来、大阪の日雇い労働者の街・釜ケ崎でカトリックの神父をしている。神父であると名乗るよりは、「釜ケ崎反失業連絡会」などでの社会活動に重点を置いている。三代続くキリスト教徒の家に生まれ、生後二ヵ月で幼児洗礼を受けた著者は四代目となる。70年近い人生のほぼ全体をキリスト者として生きてきた。著者の述懐によれば、長いこと、聖書の翻訳文にしても神学者たちの聖書解釈にしても、伝統的なものを疑うことはなかった。

釜ヶ崎にあるアパートの二畳間に居を移し、日雇い労働者と日々接するようになってから、キリスト者としての著者の確信は揺らいだ。そこは、仕事も住む家も持たず、路上生活を強いられる「小さくされている人たち」がおおぜいいる街だ。憐れみや施しの感情を接点にして、食べ物や寒さしのぎの毛布を配布して、著者が満足感を覚えた時期はやがて終わる。難民というべき労働者が耐え忍んでいる受苦の本質とも、自立したいという彼らの熱望とも、自分の行為は噛み合っていない事実に気づいたからだ。

そこで、著者は労働者とともに聖書を読み直し、その神髄を「発見」する。その過程を行きつ戻りつたどったのが本書だ。信仰者ではない私でも知っているような、聖書の中の有名な表現が、原語に基づく著者の再解釈によって読み直されていく。そこにこそ、本書の読みでがある。伝統的な訳業および解釈と、著者のそれとは、価値観において真っ向から対立する。だからこそ、同じキリスト者の名において、一方では十字軍や米大陸の征服のような無慈悲な事業がなされ、現代にもブッシュのような好戦主義者もいれば、他方に解放神学者や著者のような理念と生き方も生まれる。

無神論者の私にも、その宗教的理念と生き方が大切だと思う宗教の開祖や信仰者は幾人かいる。著者は、私にとってそのような人となった。

太田昌国の夢は夜ひらく[10]冷戦終焉から20年、世界のどこかしこで、軍事が露出して……


反天皇制運動機関誌『モンスター』第11号(2010年12月7日発行)掲載

朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が有する暴力装置=朝鮮人民軍が、11月23日、海岸砲なる武器を使って韓国支配下にある延坪島に砲撃を加えた。兵士と基地労働者4人が死亡した。これに対して韓国は、自らが持てる暴力装置=韓国軍による反撃を行なって、北朝鮮領内に砲弾を打ち込んだ。被害の規模を北朝鮮側は明らかにしていない。誰にも明らかなように、東アジア地域には、世界の他の地域と比較して稀なことに、ソ連崩壊(1991年)によって消滅したはずの東西冷戦構造が今なお頑として生き残っている。それは、日本国政府・社会の、歴史問題をめぐる無反省ぶりと、政治・軍事の現実のあり方に起因するところが少なくないことを自覚する私たちにとって、無念と恥辱の根拠であり続けている。その冷戦が、あわや「熱戦」の端緒にまで至ったのである。

日本の政府もメディアも世論も、北朝鮮はやはり「何をしでかすかわからない、不気味な国」だとの確信を深め、自国防衛力増強の道を嬉々として選択しようとしている。11月28日からは、「母港」横須賀から出撃した米原子力空母ジョージ・ワシントンも参加した米韓共同軍事演習が黄海で行なわれた。それを報じるNHKニュースは、「敵に対する」という言葉遣いで、この共同演習の動きを伝えた。イギリス軍も参戦した2001年アフガニスタン戦争の実態を報道するに際して、BBCは「テロリズム」ではなく「攻撃」を、「わが軍」ではなく「英国軍」なる用語を使うことでせめても事態を客観視し、視聴者の「愛国主義的」情動をいたづらにかき立てることを避ける原則を立てた。NHKの中枢には、この程度のジャーナリスト精神にも欠ける者たちが居座っているようだ。

少数だが例外的な意見もあって、北朝鮮軍による砲撃の前日から韓国軍は「2010護国演習」と称する大規模な軍事演習を延坪島周辺を含めて行なっていたこと、それを知った北朝鮮側は繰り返し演習の中止を要求していたこと――などを根拠に、韓国側による「挑発」行為の重大性を指摘しているものもある(12月1日付「日韓民衆連帯全国ネットワーク」声明など)。

全体像を把握したうえで事態の本質を見極めるためには、これは重要な指摘だと思うが、ここでは、もう少し先のことを考えたい。砲撃を行なった朝鮮人民軍は、金正日独裁体制を支える要である。人権抑圧に加えて飢餓に苦しむ民衆の上に君臨している特権的な存在である。持てるその武器を、北朝鮮の民衆に対しても躊躇うことなく向けるように教育されている「人民軍」である。韓国軍の挑発を指摘する論理が、この朝鮮人民軍の軍事的冒険主義を免罪する道に迷い込むような隙を見せてはならない、と私は自戒する。

事態は、思いのほか錯綜している。米韓共同軍事演習を伝えた12月3日の中国中央テレビ(それは、もちろん、中国政府の官許放送である)は、空母ジョージ・ワシントンの動きに焦点を当てた。中国近海の黄海における今回の演習への参加についてもとりたてて批判的な取り上げ方はせず、むしろ今夏に同空母が行なったべトナム、タイなどへの訪問の「友好・親善」的な性格を伝えたのだった。事実、米軍はベトナム軍との間で(!)合同軍事演習すら行なったのである。中国は、米国の砲艦外交を批判するのではなく、むしろそれを手本とする軍事大国への道を歩みだしている。それは、時同じくして、米国が単独では担いきれなくなった「世界の警察」になる新戦略を打ち出したNATO(北大西洋条約機構)の愚かな方針とも重なり合う。

自衛隊を正しくも「暴力装置」と呼んだ官房長官は、マックス・ウェーバーの定義にも無知な保守政治家に攻め立てられて、発言を撤回した。日本軍は、世界でもっとも凶暴な「暴力装置」としての米軍と共に、いま、九州と周辺海域での共同統合実働演習を行なっている。それは、若き日に「暴力装置」の解体か廃絶をこそ望んだであろう現官房長官も加担して推進している「防衛政策」の一環である。

東西冷戦の基本構造が消滅したことは悪いことではなかった。だが、その廃墟の上では、世界のどこかしこで、「思想」も「倫理」も投げ捨てた者たちが、古い時代の無惨な「冷戦音頭」に踊り惚けている。(12月4日記)

いま植民地責任をどう考えるか


ピープルズ・プラン研究所『季刊ピープルズ・プラン』第52号(2010年12月発行)掲載

世界で

1、継続する植民者意識

今世紀が明けて一年目の2001年、米国が「反テロ戦争」なる名目の下に、アフガニスタンに対する一方的な攻撃を開始して間もないころ、「国家の体をなしていない国は、いっそのこと、植民地にしてしまうほうが楽だな」という言葉が聞こえてきた。米国の政治・軍事指導部から出てきた言葉だ、と当時のメディアは伝えていた。大国の政治指導者が「無意識に」抱え込んでいる本音がむき出しになったこの言葉を聞いて、植民地主義を肯定する植民者の意識の根深さを思った。

このような意識が根拠づけられる素材は、日常性のいたるところに転がっているように思える。これはアフガニスタンをめぐって吐かれた言葉であっただけに、私はすぐ、コナン・ドイルの第1作『緋色の研究』(1887年)を思い出した。この作品の冒頭では、やがてシャーロック・ホームズに出会うことになるワトソン博士は、イギリスがすでに植民地化していたインドに派遣されたのだが、イギリスはアフガニスタンの植民地化をめざして第2次アフガニスタン戦争(1878〜80年)を開始していたためにその戦争に従軍し、そこで負傷して帰国した、という設定になっていたことが頭に浮かんだのである。久しぶりにこれを再読してみると、負傷したワトソンは、「献身的で勇敢な部下」が「私を駄馬に荷物のように乗せて、ぶじに英軍の戦線まで連れ帰ってくれたから助かったようなものの」、そうでなければ「残虐きわまりない回教徒戦士の手におちてしまっていただろう」という表現も出てくるのだった(創元推理文庫、1960年、阿部知二訳)。侵略行為の罪は不問に付して、相手側の「残虐」性を言うこの倒錯!

この作品には、カンダハルやペシャワールなどの地名も出ており、19世紀後半当時7つの海を制覇していたイギリス帝国の内部における世界認識が、植民地支配を通していかに広がりをもっていたかを、言外に語るものでもあった。このあと書き続けられることになるシャーロック・ホームズの一連の作品においても重要な脇役を演じるワトソンの履歴に、「植民地獲得戦争で負傷して帰国した」という味付けを施すことで、同時代に生きるイギリス人読者から「国民」としての一体感が得られるだろうという計算を、巧妙にも、コナン・ドイルはしたのであろうか。

他方、同じ事態を異なる視点から捉える人物も、同時代的に存在する。ドイツに生まれたカール・マルクスとフリードリッヒ・エンゲルスはコナン・ドイルとほぼ同時代人であったと言えようが(三者の生年はそれぞれ順に、1818年、1820年、1859年)、エンゲルスには、1857年8月頃に執筆したとされる「アフガニスタン」と題する論文がある(大月書店版『マルクス=エンゲルス全集』第14巻所収)。

翌年『ザ・ニュー・アメリカン・サイクロペディア』に発表されたものであるが、それは当時の米国の進歩的ブルジョアジーが企画した百科全書的な媒体であったから、またその原稿を書くことは当時のエンゲルスにとって(マルクスにとっても)重要な生計手段であったから、目的に即した客観的な地誌・民族・宗教・歴史の叙述となっている。19世紀に入って、この地を支配しようとした帝政ロシアとイギリスの角逐にも当然触れているが、すでにインド大陸を植民地支配していたイギリスがインダス河を越えてアフガニスタンに軍事的展開をする段(1839~42年の第1次アフガニスタン戦争のこと)の記述に至ってもエンゲルスは場を弁えて客観的な立場に徹してはいるが、イギリスのアフガニスタン征服の策動が(エンゲルスがこの論文を執筆した時点では)失敗に終わっていく過程を鋭く分析して、記述を終えている。

後世の目で見れば、当時のマルクスとエンゲルスには、イギリス資本主義による、たとえばインドに対する植民地支配の「非道なやり口」という批判的な分析はあっても、頑迷なインドの共同体構造をイギリスが破壊することによって、インド近代化の道が開けるという「資本の文明化作用」に期待を寄せていた点が、批判の対象となっている。私も、この批判的な捉え方に部分的には共感する者だが、それでもなお、19世紀後半のアフガニスタンにわずかなりとも触れた世界的に著名な著作として、コナン・ドイルとエンゲルスのそれを対照的に取り上げること、そこから、当時すでに相当な程度まで世界に進出していたヨーロッパ地域の人間たちが、意識的にか無意識的にか抱えていた「進出対象」の異境に対する捉え方を導き出すこと――「帝国」内の意識は継続していると考えられる以上、それは重要な、過去へのふり返りの方法だと思える。

2、植民者と被植民者

2001年の「反テロ戦争」を「植民地主義の継続」(註1)という問題意識で思い起こすとき、触れるべきもうひとつの課題がある。それは過去に遡及するものではなく、まさに同じ年の2001年8月31日から9月8日まで、南アフリカのダーバンで開かれていた国連主催の国際会議について、である。「人種主義、人種差別、排外主義、および関連する不寛容に反対する世界会議」(以下、ダーバン会議と略称)がその会議の呼称なのだが、「人道に対する罪」というべき奴隷制、奴隷貿易、植民地主義に対する歴史的な評価を下す場であった。

この会議については、日ごろは国際的に重要な課題に対するアンテナの精度が高くはないと私が考えている日本の新聞各紙でも、一定のスペースを割いた報道が連日なされていた。この会議が開催されることを事前には知らなかった私は、事態はここまで進んだのか、と感慨深いものがあった。

思えば、この種の課題に関して、世界的にみて潮目が変わったのは、1992年だというのが私の考えである。それは、1492年の「コロンブス航海」から500年目の年であった。500年前のこの出来事を決定的な契機として、ヨーロッパによる異世界征服の「事業」が開始された。先駆けて進出したのは、ヨーロッパの「辺境」に位置し、大西洋に面するイベリア半島のスペイン・ポルトガルの両国で、差し当たっての具体的な征服対象はアメリカ大陸諸地域であったが、やがて、ヨーロッパ全域がアメリカ、アフリカ、アジアに対する植民地支配を拡大していくことに繋がっていく。常に勝者によって書き綴られてきた世界史は、この出来事を「大航海時代」とか「新大陸の発見」と名づけてきた。いわば、それが偉大なる「事業」だとするヨーロッパ的な視点で解釈されてきたのである。

だが、「コロンブス航海」から500年目を迎えた1992年――世界じゅうで、人びとの歴史意識は現実から大きな挑戦を受けていた。前年末、74年間続けられてきたソ連型社会主義体制は崩壊した。20世紀を生きた人びとの価値意識を大きく規定してきた「資本主義 vs 社会主義」の対立構造は、この段階でいったん終わりを告げた。資本主義の担い手たちは、当然にも、資本主義システムの勝利を謳歌した。あらゆるものを商品化し、それらを単一市場での自由競争の試練に曝し、すべての欲望を解き放つことへの、手放しの賛歌! 合唱隊に加わる者も多かったが、その価値観を懐疑し、批判し、疑問を提起する者が絶えたわけでもなかった。解消できない南北格差、全地球的な環境問題の深刻化――その根源を追求しようとする「南」の世界の人びとが声を挙げ始めた。ソ連の崩壊によって「東西冷戦」構造が消滅したことで、いままで隠蔽されてきた矛盾が誰の目にも明らかになった、とも言える。

他方、欲望のおもむくままに人びとを消費に駆り立ててきた高度産業社会の中心部に広がる空虚な疲弊感――「北」の世界でも、産業社会そのものに対する懐疑が広範に生まれていた。それは、資本主義的発展が可能になった根拠までをも問い直す懐疑であった。

「南」と「北」は、20世紀末に人類が直面している諸問題の根源にまで行き着く共通の問いかけを持った。資本主義が世界を制覇するきっかけとなった「コロンブス航海」の時代にまで遡って歴史過程を総括すること、これである。アメリカ大陸の民衆は、この期間を「インディオ・黒人・民衆の抵抗の500年」と捉えて、ヨーロッパによって剥奪されてきた権利を奪い返す運動を開始した。欧米諸国や日本などの産業社会では、私たちが東京で開催した「500年後のコロンブス裁判」のように、植民地支配・奴隷の強制連行と奴隷制などを通して実現された資本主義近代を問い直す催し物が開催された。それは、世界に共時的な動きであった。「潮目が変わった」と私が表現したのは、このことを指している。

この延長上で注目されるべき2001年ダーバン会議の成果は、閉幕3日後に起きた「9・11」事件とそれに引き続く「反テロ戦争」の衝撃によって、世界じゅうに十分には浸透しないままに終わった。植民地支配や奴隷貿易などの「人道に対する罪」が、初めて世界的な規模の会議で討議されてから間もないころに、いまなお植民地主義的ふるまいを続けている超大国の為政者内部では、自国が無慈悲な一方的爆撃を実施しているアフガニスタンを指して、「いっそのこと、植民地にしてしまうほうが楽だな」という言葉が吐かれていたのである。

こうして、植民地主義を歴史的根源に遡って批判することを通してその理論と実践を廃絶しようとする動きと、なおそれを延命させ継続させようとする動きとは、21世紀初頭の世界的現実の中で対峙している。しかし、時代状況は、もはや揺り戻しの効かない地点にまで来たのではないだろうか。今年10月には、名古屋で国連生物多様性条約第10回締約国会議が開かれたが、そこでの討議においても、「大航海時代」以降と植民地時代に行なわれてきた動植物資源収奪に対する賠償・補償の必要性をアフリカ諸国の代表は主張した。先進諸国は、そんな過去にまで遡って賠償だ、補償だ、と言い出したら、世界は大混乱に陥る、と悲鳴を挙げている。だが、列強が異境を植民地化し、奴隷を強制連行した時点で、それらの現地は大混乱に陥ったことを忘れるわけにはいかない。

解決の方法は、私たちの/そして今後来るべき人びとの知恵に委ねるほかはないが、植民地支配がもたらしたものをめぐる問題設定は、揺るぎなくなされるに至った、と言える。それは、「人類」という意味での私たちが獲得している、決して小さくはない歴史的成果のひとつである。

東アジアで

1、秀吉の朝鮮侵攻を引き継ぐ意識

「韓国併合」から100年目の年を迎えた今年、過去をふりかえるためのさまざまな文献を参照した。その時どきの、さまざまな社会層の象徴的な発言をいくつもメモしたが、紙幅の制約上から傾向を2,3に絞って挙げると、16世紀末の1592年と1597年に行なわれた豊臣秀吉による朝鮮侵攻と結びつけて、自らがなした行為の意義を浮かび上がらせる表現が、近代日本の軍人あるいは軍人兼政治家の中に目立った。

有名な逸話だが、併合した際の「祝宴」の場で、朝鮮総督・寺内正毅は詠んだ。

小早川加藤小西が世にあらば今宵の月をいかに見るらむ

小早川、加藤、小西はいずれも秀吉が朝鮮侵攻のために動員した巨万の軍勢を率いた大名たちの名前である。寺内は、その後1916年には首相に就任し、成立したばかりのロシア革命に干渉するシベリア出兵を1918年に強行した。それを引き継いだ宇垣一成は、職業軍人としてやがて国家総動員体制の確立に努めることになる人物だが、シベリア撤兵の日(1922年10月25日)の日記に書き記した。

「大正十一年十月二十五日午後二時十五分は之れ浦潮(ウラジオストック)派遣軍が愈々西伯利(シベリア)撤兵最後の幕切れでありた。神后以来朝鮮に占拠せし任那の日本府の撤退、太閤第二次征韓軍の朝鮮南岸の放棄を聯想して実に感慨無量、殊に渾身の努力を以って西伯利出兵に尽したる余に於ては一層痛切なり。(……)捲土重来の種子は此間に蒔かれてある。必ずや更に新装して大発展を策するの機到来すべきを信じて疑わぬ。又斯くすべきことが吾人の一大責務である!!

偉人英傑の偉大なる力にて捲起さるる風雲は、人間生活を沈滞より活気の中に導き、弛緩より緊張の世界に躍進させ得る。」(『宇垣一成日記』1、みすず書房、1968年。原文ママ。括弧内のみ引用者)。

宇垣の場合には、神功皇后→任那日本府→太閤秀吉→シベリアの諸経験を時空を超えて結びつけ、すべてに共通する「撤退」への無念の思いを吐露している。

これと対照的な表現をなした同時代の人物を挙げるなら、芥川龍之介だろう。「金将軍」(1924年)はわずか数頁の小品だが、小西行長が「征韓の役」の陣中に命を落したという朝鮮での虚偽の言い伝えに示唆を得て、緊張感にあふれた伝説の世界を作り出している。言わずもがな、のことだろうが、そこからは寺内や宇垣とは対極にある歴史意識を感じとることができる。芥川はまた、日露戦争の「英雄」にして日本軍国主義の「軍神」=乃木希典を「将軍」(1922年)で取り上げ、残酷な行為の果てに勲章に埋まる人間に対する懐疑を表明した。芥川が、寺内や宇垣などの政治・軍事指導者が表明する価値観に強く同調しながら形成されてゆく当時の「世論」と一線を画し得た事実から、私たちが学ぶべきことは多いだろう。文学者で言えば、夏目漱石の朝鮮観については、すでにいくつもの重要な分析を行なった書が出ているが(註2)、漱石は一時期、1895年日本軍兵士と壮士が韓国王妃を殺害したことを「小生近頃の出来事の内尤もありがたきは王妃の殺害」(1895年11月13日付正岡子規宛て書簡)とまで述べて、やがて韓国を植民地していく日本社会の風潮にしっかりと同調していた。隣国の王宮に押し入った日本の兵士が王妃を虐殺するという驚くべき事件を、漱石がこのように受けとめたという帝国内部の「意識の日常性」は、現在にも引き続くものとして問い直すべきだろう。同時に、その漱石の価値観は、日露戦争を経て揺らぎ始め、晩年には戦争や侵略をめぐって別な世界に歩み出ようとしていたと思われる表現もあって、その「可能性としての」変貌の過程は、漱石が近代文学史上でもつ重要性に鑑みて、再検討されるに値すると思われる(註3)。

2、領土抗争をめぐって急浮上する植民地主義の継続

寺内正毅が秀吉軍の大将たちが抱いた朝鮮征服の夢を思い浮かべた歌を詠んでから百年後の今年、日本社会は改めて、自らの植民地主義を継続するのか否か、の問いに向かい合っている。だが、問われているのがそのような問題であるという自覚は、私たちの間に広く浸透しているとは言えない。それは、かつて植民地を保持した「帝国」が、それをはるか以前に失ってからも、例外なく抱え続けている問題である。

この年、日本ではまず、日米安保条約と憲法九条の関係性如何という問いが、沖縄の米軍基地問題をめぐって提起された。この課題に関わっての民主党政権の迷走と、それに随伴した「民意」を分析してみると、平たい言葉で表現するなら「戦争は厭だが、中国や北朝鮮の脅威があるから日米安保で守られているほうがよい」となるほかはない。

憲法9条が成立し得る根拠は沖縄に米軍基地があるからだ。それがあって日本国が守れるという担保の構造を日本国も良しとしてきた――という趣旨のことを語ったのは、2005年の新川明だった(「世界」20045年6月号、岩波書店)。新川はさらに言う、沖縄は戦後60年間ずっと「国内植民地」だったのだ、と。私は「植民地」の前に「国内」を付することだけは留保して、新川の分析方法に基本的に納得するが、そうだとすれば、問題はここでも「植民地主義の継続」なのだ(註4)。

さらに今年九月に入って、中国との間で尖閣諸島(釣魚島)領有権問題まで発生することで、「植民地主義」という問題性を帯びた問いはいっそう切実感を増している。なぜなら、民主党政権は「尖閣は明白に日本に帰属」と主張しているが、日本国が尖閣の領有権を主張したのは日清戦争後の1895年で、それは下関条約に基づいて台湾を植民地化した時期に重なっていることが明らかになるからだ。さらに、沖縄の人びとの生活圏の一部として尖閣を位置づける場合には、今度は、1879年に明治国家が行なった「琉球処分」という名の沖縄植民地化の過程を問い質す課題が必然的に生まれてくるからだ。

こうして、すでに60年前に終焉の時を迎えたはずの植民地主義支配の遺制は、「帝国」を、抜け出ることのできない蜘蛛の巣に絡め取っている。その遺制が、旧植民地主義支配国と被支配国との間の、現在における力関係(政治・経済・文化的影響・開発と低開発などの面で)の落差を規定している以上、支配された側はその遺制の撤廃と解決を求めるのが当然だからである。最近の国際会議の場における「南」の諸国の主張は、その線に添ってなされていると解釈できる。問いかけが発せられたからには、植民地主義が生み出した諸問題を解決するためのボールは、いまは、支配した側の手中に握られている。

(註1) この表現をそのまま表題としている著書に、次のものがある。岩崎稔ほか編著『継続する植民地主義――ジェンダー/民族/人種/階級』(青弓社、2005年)。また同じ問題意識に貫かれた著書に、永原陽子編『「植民地責任」論――脱植民地化の比較史』(青き書店、2009年)がある。

(註2) 最近でも、小森陽一『ポストコロニアル』(岩波書店、2001年)、同『漱石――21世紀を生き抜くために』(同、2010年)、金正勲『漱石と朝鮮』(中央大学出版部、2010年)などがある。

(註3) 松尾尊兊「漱石の朝鮮観 手紙から探る」(朝日新聞2010年9月17日付け)に示唆を受けて、未読だった漱石書簡集に目を通した。

(註4) この問題を多面的に深く分析したのが、中野敏男編『沖縄の占領と日本の復興――植民地主義はいかに継続したか』(青弓社、2006年)である。

太田昌国の夢は夜ひらく[9]メディア挙げての「チリ・地底からの生還劇」が描かなかったこと


反天皇制運動機関誌『モンスター』第10号(2010年11月9日発行)掲載

チリ・コピアポの鉱山で生き埋めになった鉱山労働者33人の救出作業は、テレビ的に言えば「絵になる」こともあって、世界じゅうで大きく報道された。

地底で極限状況におかれた人びとがそれにいかに耐えたか、外部の人間たちが彼らの救出のためにどんなに必死の努力をしたか。それは、どこから見ても、人びとの関心を呼び覚まさずにはおかない一大事件ではあった。

メディアの特性からいって、報道されることの少なかった(すべてを見聞できたわけではないから「皆無だった」と断言する条件はないが、気分としては、そう言いたい)問題に触れておきたい。

メディアが感動的な救出劇としてこの事件を演出すればするほど、北海道に生まれ育った私は、子どもの頃から地元の炭鉱でたびたび起きた坑内事故と多数の死者の報道に接していたことを思っていた。

九州・筑豊の人びとも同じだっただろう。事故が起こるたびに、危険を伴なう坑内労働の安全性について会社側がどれほどの注意をはらい、対策を講じてきたのか、が問われた。

鉱山労働者の証言を聞くと、身震いするほど恐ろしい条件の下での労働であることがわかったりもした。

一九六〇年――「60年安保」の年は、石炭から石油へのエネルギー転換の年でもあった。九州でも北海道でも閉山が続いたが、「優良鉱」だけはいくつか残された。

当時の世界の最先端をゆくと言われていた「ハイテク炭鉱」北炭夕張新炭鉱で、今も記憶に鮮明な事故が起こったのは一九八一年十月であった。

坑内火災を鎮火するための注水作業が行なわれたのは、59人の安否不明者を残したままの段階であった。

「お命を頂戴したい」――北炭の社長は、生き埋めになっているかもしれない労働者の家族の家々を回り、こういう言葉で注水への同意を得ようとした。「オマエも一緒に入れ!」と叫んだ人がいた。

結局亡くなったのは93人だった。翌年、夕張新鉱は閉山した。他の炭鉱も次々と閉山して、炭鉱を失った夕張市が財政破綻したのは四年前のことである。私の目に触れた限りでは、10月14日付東京新聞コラム「筆洗」がこれに言及した。

遠いチリの「美談」の陰から、 近代日本がその「発展」の過程で経験したいくつもの鉱山での人災を引きずり出せたなら、すなわち、一人の絵描き・山本作兵衛か、一人の物書き・上野英信の感性を持つ者が現代メディアにいたならば、問題を抉る視点はもっと確かなものになっただろう。

チリ現地からの報道では、救出される労働者をカメラ映りの良い場所で迎える大統領セバスティアン・ピニェラについての分析が甘く、「演出が鼻につく」程度の表現に終始した。

現代チリについて想起すべきは、まず一九七〇年に世界史上初めて選挙による社会主義政権が成立したこと、新政権下での銅山企業国有化などによってそれまで貪ってきた利益を剥奪された米国政府・資本がこれを転覆するために全力を挙げたこと、その「甲斐あって」一九七三年に軍事クーデタを成功させ社会主義政権を打倒したこと、の三点である。

さらに、21世紀的現代との関連では、軍政下のチリがいち早く、いま世界じゅうを席捲している新自由主義経済政策の「実験場」とされたことを思い起こそう。

貧富の格差が際立つチリ社会にあって、社会主義政権下と違って、社会的公正さを優先した経済政策が採用されたのではない。

外資が投入されて見せかけの繁栄が演出された。経済秩序は、雇用形態・労働条件・企業経営形態などすべての面において、チリに暮らす民衆の必要に応じてではなく、米国や国際金融機関が描く第3世界戦略に沿って組み立てられたのである。

現大統領ピニェラの兄、ホセ・ピニェラは、軍政下で労働相を務め、鉱業の私企業化と労働組合の解体に力を揮った。

新自由主義経済政策は国外からの投資家に加えて、国内の極少の経済層を富ませるが、ピニェラ一族はまさに、世界に先駆けてチリで実践された新自由主義的政策によって富を蓄積し、鉱業・エネルギー事業・小売業・メディア事業などに進出できたのだった。

もちろん、そこでは、労働者の安定雇用・労働現場の安全性を含めた労働条件の整備などが軽視されていることは、日本の現状に照らして、確認できよう。

救出された労働者を笑みを浮かべて迎えた大統領の裏面を知れば、チリの今回の事態も違った見え方がしてこよう。

(11月5日記)