現代企画室

現代企画室

お問い合わせ
  • twitter
  • facebook

状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

太田昌国の夢は夜ひらく[24]3・11から一年、忘れ得ぬ言動――岡井隆と吉本隆明の場合


反天皇制運動機関誌『モンスター』26号(2012年3月6日発行)掲載

3・11の事態から一周年を迎えるいま、山のような言説の中からふり返っておきたいいくつかの発言がある。私が共感をもつことができた言葉や分析に、ここであらためて触れても意味はないだろう。疑念か、批判か、苛立たしい哀しみかを感じた発言を挙げておくのがよいだろう。「幻想」を持ち続ける、わが身の至らなさの証左にもなるだろうから。

ひとつ目は、歌人・岡井隆の発言である。岡井については、別件ではるか以前にも批判的に触れたことがある。岡井はかつて、私のように短歌の世界に格別に通じているわけでもない若者にとっても避けては通れぬ表現者であった。だから、学生時代からその歌集や評論を読んでいた。歌会始に選者として関わる歌人に対して、そんな文学以前の行事に関わるなら皇族の歌を一つ一つ自己の文学観に照らして価値づけよ、と迫るような人物で、1960年の岡井は、あった。心強い存在だった。その彼が1993年になると、歌会始の選者になって、その「転向」の上に居直る発言を繰り返した。思想は変わってもよい、変遷の過程を文学・思想の問題として説明せよ、というのが私の批判の核心だった。

その岡井が『WiLL』 11年8月号に「大震災後に一歌人の思ったこと」という短文を寄せている。岡井と共にこの雑誌の目次に居並ぶ者たちの名をここに書き写すことは憚られるほどに内容的には唾棄すべきものなのだが、そこに岡井の名を見ると「哀しみ」か「哀れみ」をおぼえる程度には私は岡井のかつての、および現在の一部の作品を依然として「愛している」あるいは「無視できぬ」ものと捉えているのである。岡井は、3・11前後の自詠の歌を挟み込みながら、書いている。「原子核エネルギーとのつき合いは、たしかに疲れる。しかしそれは人類の『運命』であり、それに耐えれば、この先に明るい光も生まれると信じたいのだ」。雑誌の発行日からすれば、この文章は昨年7月に書かれている。原発事故発生後4ヵ月めの段階である。事故の現況を知りつつ「耐えれば」という根拠なき仮定法を、岡井は自己の内面でいかに合理化できたのか。過去の歌論の確かさを知る者には、不可解の一語に尽きる。

亡ぶなら核のもとにてわれ死なむ人智はそこに暗くにごれば

岡井の思想は、83年のこの歌の世界を超えることは、もはや、ないのか。論理的に成立し得ない仮定の後に続く「この先に明るい光も生まれる」という言葉が、他ならぬ岡井のものであるだけに、よけいに虚しく響く。

ふたつ目は吉本隆明だが、彼が『インタビュー 「反原発」異論』で登場しているのは、『撃論』3号(11年10月、オークラ出版)誌上である。誌名もすごいが、目次に並ぶ人物にも驚く。我慢して書いてみる。町村信孝、田母神俊雄、高市早苗、稲田朋美、西村真悟……! 推して知るべしの編集方針を持つ雑誌であるが、吉本はそこに編集部の言によれば「エセ共産主義者との戦いに命がけで臨みながら生きてきた真正の共産主義者」として紹介されている。彼の主張は、原発は人類がエネルギー問題を解決するために発達させてきた技術的な成果であるから、これを止めてしまうことは、近代技術/進歩を大事にしてきた近代の考え方そのものの否定であり、前近代への逆行である、というに尽きる。国家は開かれ、究極的には消滅させられるべきだという吉本の信念に変わりはないようだから、末尾ではレーニンの『国家と革命』を援用しながら、政府無き後に「民衆管理の下に置かれた放射能物質」(!)という未来の展望が語られている。

だが、原発問題は安全性をどう確保するかに帰着するとの立場から、「放射能を完璧に塞ぐ」ために、放射能を通さない設備の中に原子炉をすっぽり入れてしまうとか、高さ10kmの煙突を作り放射性物質を人間の生活範囲内にこないようにするなどいう程度の「対案」を、非現実的ですがと断りながら語る吉本を見ることは、私にとってはなかなかに辛い。それはすべて、現段階でも眼前に透視できるはずの、大地・大気・海洋の汚染に苦しみ、生活圏を放棄せざるを得ない「原像」としての福島県の「大衆」の姿を見失った地点で語られる戯言にしか聞こえないからである。戦後文学論争の中で某氏が吐いた「年はとりたくないものです」という有名な言葉で揶揄して済ませるわけにはいかない点に、いずれも80歳を超えた(心の奥底では健在を祈りたい)岡井と吉本の言動の、真の悲喜劇性が現われている。  (3月3日記)

最近の死刑関連図書から


『出版ニュース』2012年2月中旬号掲載

死刑とは、人の心をかき乱す制度だ。悲劇的な事件が起きた時と、死刑判決が確定する時点では大きく報道されて、否応なく社会的関心が高まる。だが、被害者や加害者の家族でもない限り、関心はそこで止まる。第三者の一時は激昂した心も、死刑確定者のその後・執行の実態などには何の関心も示さない。それだけに、ひとりの死刑確定者が処刑されて、何が終わったのか、何が始まろうとしているのか――それを問う作業は貴重だ。書物であれ、映画・テレビ番組であれ、人びとが冷静な気持ちを取り戻して、事件とそれに関わった人びと・その心の揺れ動き・処罰のあり方などについて思いをめぐらす機会を提供してくれるからだ。最近の書物の中から、その意味でとくに印象に残る二冊を紹介したい。

堀川惠子『裁かれた命――死刑囚から届いた手紙』(講談社、2011年)は「意外性」に満ちた本だ。本書を生み出したのは、著者自身がディレクターを勤めたテレビ番組であった。検事としてかつて一人の青年に死刑を求刑した人物が抱え込んだ苦悩に迫って、それは見応えのある番組であった。元検事はメディアで発言を求められる場合も多く、それを見聞きしていると、確信を持った死刑肯定論者だと人は思っていただろう。元最高検察庁検事、土本武司氏である。著者は別の死刑事件の取材で、土本氏との面談を続けていた。雑談のときに、土本氏は意外にも、死刑判決について従来の印象とは違う抑制的な発言をすることに著者は驚く。おそらく、数ヵ月の時間をかけて取材する側とされる側には、信頼感が生まれていたのだろう。土本氏は、捨てるに捨てられずにきたある死刑囚の9通の手紙の存在を明らかにし、それらを著者に示したのである。

はるか40数年前の事件、その5年後には死刑が執行されている。長い歳月を経て続いてきた土本氏のこだわりに著者も心が騒ぐ。9通の手紙と事件当時の新聞記事のみを手がかりに、処刑された人物・Hの人生をたどる著者の旅は始まる。か細い糸が、過去にHと交友のあった人びとや周辺事情に結びついていくさまを描いたのが本書なのだが、それもまた、意外なまでの展開を遂げていく。前著『死刑の基準――「永山裁判」が遺したもの』(日本評論社、2009年)でも顕著であった著者の取材力の賜物であろう。

本書の展開は二本の糸によって繋がれている。一本は、土本氏と、控訴審以降の国選弁護人家族が持ち続けていたH関連の手紙や資料、そして家族にすら忘れ難い印象を遺していた、Hに寄せる弁護人の深い思いのこもった数々の言の葉である。もう一本は、Hの勤め先だった小企業主の夫婦、小学校時代の旧友、奇跡的に繋がっていく遠い縁者・近い縁者たちから伸びてくる糸である。二本の糸が結び合わさった終章で、著者は言う。「裁判は法廷の中だけで判断を迫られる」が、「法廷に現れる資料は万全では」ない。「限られた材料で判断を下さなくてはならないという裁判の大前提、そして人が人を裁くことの不完全さを、裁く側は頭に入れておかなくてはならない」。

著者の執念は最後に、群馬県にひっそりと埋葬されているHの墓にたどり着く。それを聞いた元捜査検事はすぐにその墓を訪れた。大輪の百合を手向け、線香に火をつけ、目を閉じて手を合わせた――問題の根源を照らし出す、静かな末尾である。「被害者とご遺族については多くを触れていない」が、「44年前の悲劇を掘り越して遺族にぶつけることは、取材者の範囲を超える」との判断も示されている。「それでもあえて触れるのならば」「もう一冊分の重く深い内容になることを胸において取材した」。著者が、事件の全体像を視野に入れて仕事を進めたことを、この言葉は物語っている。

取り上げたいもう一冊は、『年報・死刑廃止2011 震災と死刑――生命を見つめなおす』(インパクト出版会、2011年)である。この「年報」は15号目を数えるに至った。一年間をふり返って、その年の重要な出来事をめぐる諸論文や座談会に加えて、「死刑をめぐる状況」を照らし出すさまざまな角度からの情報が毎号載っている。巻末には、死刑判決を受けた人びとのリストがあって、刑死したり獄死したりした人の枠は、薄くアミカケされているから、毎年この頁を繰るたびに、私は名状しがたい気持ちになる。ともかく、この15冊には、前世紀末から今世紀初頭にかけて「国家の名の下に殺人が行なわれる死刑という制度」と、この社会がどう向き合ってきたか、あるいは向き合うことを忌避してきたか、の痕跡が印されている。

最新の「年報」は、3・11の事態を受けて、ジャーナリストや弁護士が「震災と死刑」をめぐって語り合う座談会が巻頭におかれている。そこには、被災地の刑務所での避難指示に触れた箇所があって、宮城刑務所のいわき拘置支所の受刑者が全員東京拘置所に移送された事実が明かされている。建物の破損がひどく、原発にも近いからである。すると、刑場を持つ施設が原発事故汚染区域内にあったならば、死刑確定者も「安全な」場所に移送するのか、という問いが生まれる。最終的には死刑を執行するために「安全な」場所へ移す? これは、死刑という制度をめぐる本質的な問いかけに繋がっていく。また、或る死刑囚は、事故を起こした原発内での仕事に従事することを申し出たという。それは「人道に反するから」許されなかった。このようなエピソードが語られるというのも、この「年報」ならではのことである。多様な視線が交錯して、事態を見つめる目が豊かになっていく。ある事柄の現実に届くためには複数の視線が必要であること――それは死刑をめぐっても、そうなのだ。

(1月30日記)

二〇一二年新春二話 


『支援連ニュース』343号(2012年1月27日発行)掲載

一、原発事故から見えてくるもの――男性原理の派生物

福島原発の事故直後から、多くの人びとの目に焼きついたであろう光景があった。東京電力の経営者・原発担当の幹部、政府の関係閣僚、原子力政策を推進してきた関係省庁の官僚、原子力の専門家――大勢の人びとが、連日のようにカメラの前でしゃべった。その光景である。多くの場合、その物言いが率直さも誠実さも欠くものであることは一目瞭然であった。事故の実態を軽いものとして見せかけようとして、何事かを隠して事実を言わない、言葉遣いによってごまかす――それは、観ている者をして疲れさせるほどに徹底していた。その画面を見ながら、異様なことに気づいた。男しかいないのである。カメラの前に立ってごまかし言葉を話し続ける者も、話す男を一人孤立させるのは忍びないから一緒にいてやるよといった感じでそばに居並ぶ者たちも、例外なく男なのである。

そして思い出したのは、次の挿話である――某テレビ局の女性ディレクターに尋ねられたことがある。「なぜ、男は黙るのか」という番組を企画したことがある。男に対して女がもつ疑問や怒りは、口論になったり、男の振る舞いの欠点を女が指摘したりするときに、男というものは、ほぼ一様に黙りこくったりごまかしの言葉をもてあそんで話の筋道をずらしてしまう点に向けられている。番組をつくってみると、傍から見るとこの人(男)は相当イケていて、普通の男とは違うだろうなと思い込んでいた人でも、その「癖(ヘキ)」は多少なりとも抜け切れていないことがわかった。あなたはどうですか? というのである。私は、あれこれの自分の個人史を思い出し、このような問題に自覚的なつもりでいる私も、まだまだ緩慢な「成長過程」でしかないな、思い当たる節があるなと思い、そのように答えざるを得なかった。

原発事故でマイクの前に立たされている男たちは、少なくとも「黙ってはいない」。語ってはいるが、その言葉遣いがごまかしに満ちている点で、一般の男なるものの類例の裡に入るのである。しかし、彼らは、単なる男ではない。その背後には、政治権力があり、電力の発電・送電の独占権力があり、専門知を誇示する知的権力がある。存在論的に言うなら、いずれも広い意味での支配階級に属しているといえよう。この連中を、「権力を背景に持った男の論理」の巣穴から引きずり出すのは容易なことではない、と私は思ったのだった。

同時にまた、私は、4年有余前に亡くなったことが悔しくてたまらない、愛読する美術史家、故若桑みどりさんの言葉も思い起こしていた。「男たちが戦争を起こしてきたのだから、今度は女性たちが平和をつくらなければならない」(『戦争とジェンダー――戦争を起こす男性同盟と平和を創るジェンダー理論』、大月書店、2005年)。私は戦争廃絶・軍隊解体の論理はここから導くべきだとこの間考えてきているが、脱原発に向けた運動でも、ここに突破口があると思ったのだ。

ここでいう男と女が、生物学的なオスとメスに重なり合うものならば、オスである私には出番がない。もちろん、この「男」とは、家父長制的な男性原理による社会の支配の正当性を微塵も疑うことのない存在を指しているのだから、そこには、メスとしての女も、彼女が有する価値観次第では含まれることもあるということになる。言葉を換えると、「平和をつくりださなければならない女性たち」に、たとえば曾野綾子や塩野七生や工藤美代子や小池百合子や猪口邦子などは金輪際入れることはできないが、(おこがましくも自分を引き合いに出すなら)私を入れることはできるのである。

3・11以降の反原発・脱原発の運動は、基本的にこのような方向性で展開されてきており、私はそのことを好ましいと考えてきたが、最近次のような意見を目にした。反原発情報の発信に努めてきたたんぽぽ舎のメール・ニュースを読んだ読者からの反応である。最近の反原発運動では、「女」「母」「孕む」などの言葉が強調されていて、「母」にも「孕む」にも関係のない独身女性はこんなところでも見捨てられたのか、という気分になるというのである。この人は「放射能に男女差別はありません」とも書いている。これは、幼い子どもや妊娠する可能性をもつ若い女性に及ぼす放射能の危険性が当然のことだが医学的に強調されてきており、それが「母」や「孕む」に一面的につながっていくこと、今や反原発運動のシンボルと化した経産省前テントで座り込みを行なっている福島の女性たちが、その行動を妊娠期間に因んで「とつきとうか(10ヵ月と10日間)」と名づけていることにも関連してくるのだろう。このような言葉に覆い尽くされていく運動空間、という捉え方が事実に即しているならば、それに違和感や疎外感を抱く人びとがいるということも頷ける。いずれにせよ、傾向性を持つ何らかの言動を全否定するところに問題の本質はなく、脱原発を目指す人びとが普遍的に繋がり得る理論と実践が、どこにあるかを冷静に探ることだと思える。生物学的なオス・メスから派生する問題をすべて排除することはできないが、戦争や原発を許してきた構造上の問題を、人間が歴史的に、文化的に、社会的につくりあげてきた「男性性」「女性性」に起因するものとして把握することが常に重要なのだと強調しておきたい。

二、大量死を見てなお叫ばれる「死を待望する声」

『死刑映画週間――「死刑の映画」は「命の映画」だ』――を「死刑廃止国際条約の批准を求めるFORUM90」で企画した(2月4日~10日、東京渋谷・ユーロスペース ☞http://www.eurospace.co.jp/)。内外の映画10本を上映する。チラシをまいていると、いろいろな反応に出会う。心が弱っているときに、こんなにしんどい映画を立て続けに見せるの? 重いなあ、人生にはいろいろな辛いことがあり過ぎて、この歳になってもまだそれを続けなけりゃならないの? 見逃した映画がいっぱい、いいチャンスだから、出来るだけ行くよ。いろんな映画週間の企画があるけど、これほど、あまりに内容が暗くて観客が敬遠し、経済的にうまくいくはずのない企画も珍しい。講演者のメンバーをよくここまで集めたね……。

これらの感想には、部分的には同意する点もなくはない。私たちの企図は次のようなところにある。死刑の問題は、社会の表層で語られれば語られるほど、煽情的・煽動的なものになる。むごい犯罪があって死者が生まれ、それを実行した特定の人物がいる以上、その人間は自らが犯した犯罪の質に対応した「応報」の処罰を受けなければならない。死刑制度が存在しているからには、それを甘受するのだ――この「論理」が、ただひたすら尊重されて、現在のこの社会における犯罪報道・裁判報道はなされている。「世論」は哀しい。メディアのこの煽動に鼓舞されて、形成されてゆく。だが、ひとたび、文学・映画・演劇など人間が(創造者として、またその受けてとして)育て上げてきた芸術の分野に目を移すと、そこでは人間社会にあっては避けて通ることのできない問題として、犯罪・罪と罰・死刑・贖罪・転生・再生などの問題が扱われている場合がある。紙幅がないから、例は挙げない。誰もが、何点かの作品名を挙げるに違いない。それこそ、私たちが掘り進めるべき道だ。

読書なら、ひとりひとりの個人の努力と探究の範囲内で、或るテーマについてまとめ読みすることは可能だ。映画はそうはいかない。重たいテーマに関わる映画週間など、このカルーイ時代においては、他人任せでは実現不可能だ。やってみようということで、今回の実現に漕ぎつけた。深く、広く、問題の根源に立ち戻って考える契機をつくりたい。

震災と津波が生み出した大量死と、原発事故が招き寄せている計測不可能な数の近未来の死をこんなにも目撃せざるを得なかった悲劇的な年の終わりに、私たちがこの社会に見たのは、次の光景だった。15年前後前、間違った宗教的信念に基づいて大量殺人を犯した宗教集団メンバーに関わる死刑事犯の審理が終了し、すべて死刑確定者になったからには、その「教祖」から直ちに死刑を執行すべきだとする世論煽動である。

仮りに対象が凶悪犯罪者であれ、その「死を待望する」言論の台頭という雰囲気はいかがわしい。「いやな感じ」だ。別な考え方があり得るよ、と提示する基本的な作業だ。ぜひ、多くの方々に劇場まで足を運んでいただきたい。(1月26日記)

太田昌国の夢は夜ひらく[23]「敵」なくして存在できない右派雑誌とはいえ……


反天皇制運動『モンスター』25号(2012年2月7日発行)掲載

上丸洋一というジャーナリストが、『諸君!』や『正論』という雑誌は『「敵」を必要とする、自己の存在理由を「敵」に依拠する点、アメリカという国家に似ている』と述べたことがある。産経新聞社発行の『正論』は、今なお健在で、次々と臨時号も出しているから、街なかの書店を覗いて雑誌コーナーへ行くと、幾種類もの『正論』が面出しで並んでおり、そのそばには『歴史通』だの『SAPIO』だの『撃論』だのの〈粗雑〉誌があって、その表紙や目次を見ると、彼らからすれば「敵」に他ならない中国か北朝鮮との間で戦火が今にも火を吹くかのような雰囲気が煽られていて、すさまじい時代に生きているものだなあ、という感じがつくづくする。

居丈高なナショナリズムを煽る諸雑誌が居並ぶそのコーナーから『諸君!』が消えたのは、いまからおよそ3年前の2009年5月のことだった。消えた理由は覚えてもいないが、今になって、それが突如復活したのである。文藝春秋2月臨時増刊号『諸君! 緊急復活 北朝鮮を見よ!』である。かの国では、金正日総書記が死去し、その三男正恩氏が後継者に就任したが、かくしてついに三代にわたる世襲制が登場した機を掴んでの復活である。「敵」が蠢動すると自らも活気づく性質は、確かに上丸が言うように、文藝春秋社には変わらず宿っているものらしい。

私はかつて「右派言論を読む」作業を自分に課していた。ソ連崩壊前後からだから、もう20年ほど前になるか。私が見たところ、そのころ、体制への対抗言論はずるずると後退し始めた。同時に、勝利を謳歌する右派言論の台頭が目覚ましかった。読むに堪えない煽動と悪罵の言葉は多かったが、それが一定の人びとの心を捉えているからにはその根拠を探らなければならず、また我慢して読めばその言動には進歩派と左派の「弱点」を衝くものもないではないというのが、私の考えだった。(今日であれば、コネのある人しか採用しないと公言した岩波書店の偽善性を衝き、「進歩派・左翼の正体を見た!」という言動を嬉々として行なうだろう)。そこに私たちの現在を照らし出すものがあるならば、そこすら学びの場と思うほど、私たちはゼロの地点に立っていると考えていた。その思いだけで、激烈な言葉が満載の右派雑誌を買い求め読むという、経済的にも時間的にも虚しい行為を長いこと続けていた。お蔭で、進歩派と左派を客観化する姿勢が、私には身についた。

『諸君!』は、その間必読の雑誌であった。私にはそこまでの時間はなかったが、冒頭で触れた朝日新聞記者・上丸洋一は、右派雑誌の目次をデータベース化し、関心のある論文をすべてコピーして読み、『『諸君!』『正論』の研究――保守言論はどう変容してきたか』(岩波書店、2011年)という大著を著した。靖国神社を国家管理に移すことを企図した「靖国神社法案」が初めて国会に提出された1969年に『諸君!』は発刊されたが、それ以降40年間の保守言論の変遷を知るうえで、実に有益な書物である。

今回「緊急復活」を遂げた『諸君!』は、上丸がこの書で分析したように、相変わらず自らを問うことなく、外部の「敵」のあり方のみを言い募る点で、伝統を墨守する内容であった。植民地支配・侵略戦争・従軍慰安婦などの諸問題について、謝罪したことも謝罪する気持ちも、おそらく持たない人間が、「日本はいつまで謝り続けなければならないのか!」といきり立つ様が貫徹しているのである。自衛隊元特殊部隊隊長に「命令があれば拉致被害者は奪還できます」と語らせて「我国には任務の犠牲になることをいとわない覚悟の優れた特殊部隊がある」ことを誇示しているほどである。

それでも読みでがある記事と言えば、ソウルで収録された『脱北「知識人」大座談会』だろう。6人の共和国難民が脱北の経緯、金正日という人物、死後の状況などについて語り合っている。それは、5号を数えるに至った『北朝鮮内部からの通信 リムジンガン』(アジアプレス出版部)の内容とも響き合って、かの地の実情を垣間見せてくれる。虚偽で厚化粧した三代世襲体制が持続している限り、これを恰好の「敵」に見立てた言論が一定の力をもって日本社会に浸透していく。ここから私たちは逃れるわけにはいかないのだ。

(2月4日記)

死刑映画週間――「死刑の映画」は「命の映画」だ――に寄せて


『図書新聞』3048号(2012年2月4日号)掲載

特定の監督や俳優を回顧するための映画週間や、あるテーマを掲げてそれに関連する映画をまとめて上映する企画というのは、ありがたい。一映画フアンとして、そう思う。見逃していた作品や、もう一度観たい映画というものは、必ずあるからである。今回、私たち(死刑廃止国際条約の批准を求めるFORUM90)は、渋谷ユーロスペースの協力を得て、「死刑映画週間――『死刑の映画』は『命の映画』だ」を企画した。その企図と内容を簡潔に説明したい。

敗戦後、日本というこの国は「戦争放棄・軍隊不保持」を、憲法を通して世界に向かって誓った。国家は、長いこと、戦争行為と死刑制度という二本柱に基づいて、「人を殺す」をいう権限を独占してきた。個人にも国家以外のいかなる集団にも法律的に認められていない行為が、なぜか、国家にだけは許されてきた(きている)歴史を、いまだ人類は断ち切ってはいない。1947年、日本国はそのうちの一本の柱を放棄したのである。国家権力を成り立たせている(と信じ込まれている)秘密の鍵を、いったんは捨てたのだ。画期的なことである。当然にも、1950年代の戦後精神史のなかでは、「戦争放棄と死刑廃止は同じ」とか「前者を放棄して、なぜ後者を廃止できないか」との議論が熱心に行なわれた。だが、一九四八年「死刑は合憲」とした最高裁大法廷の判例もあって、戦後民主主義は死刑という「負の遺産」を克服し得ないままに現在に至っているのである。肝心の「戦争放棄・軍隊不保持」という、世界に対する公約もすぐに踏みにじられてきたことは、言うも悲しく、腹立たしい現実である。

世界の現状を国家の枠で見る限り、戦争放棄は、まだまだ遠い願望だ。戦争廃絶・軍隊解体に向けた個人・小集団・諸地域の努力が続いていることが、か細い希望の根拠だとしても。それに比べると、死刑廃止は「現実化」している。200ヵ国近い世界の中で、その3分の2の国々では、制度的に、あるいは実質的に、死刑は廃止されている。刑罰としての非人道性と非有効性に気づいたからである。EUが、死刑を廃止していることを加盟に必須な条件としていることもあって、日本で尊重される「産業先進国」という基準で言えば、死刑が存置されているのは、日本および米国(の一部の州)だけである。死刑制度を存置していることで、日本は「国際的に孤立している!」のである。欧米的な価値基準に基づいた「人権ランキング」で、常に最下部に位置する中国や朝鮮民主主義人民共和国と、その意味では「肩を並べている!」のである。

日本社会では知られていないこの現状がどんなことを意味しているかということを、関連する映画の連続上映を通して考える機会を得たい/提供したいというのが、今回の企画意図である。総理府が死刑に関する世論調査を行なうと、80%以上の人びとが死刑制度の存続を認めているとは、よく報道されるニュースである。設問の設定の仕方にも問題はあるだろうが、私たちは、「犯罪」やそれに対する刑罰としての「死刑」の実態をどれほど知ったうえで、この種の質問に答えているだろうか。凶悪犯罪の直後に世論調査を行なえば死刑支持率は上がるだろう。深刻な冤罪事件が明らかになった直後の調査なら(霞が関の行政官庁がそんな時期を選ぶはずもないが)、死刑支持の「世論」は急降下するだろう――人は、そんなふうに「迷いながら」生きている。どんなテーマにせよ人が佇む「迷い」や「惑い」の世界をよく描いてきたのが、文学や映画などの芸術だ。

今この社会では、ドストエフスキーの文学が若い読者の心を捉えているというが、彼の作品からは、犯罪・罪と罰・死刑・贖罪・再生など人類普遍のテーマがあふれ出てくる。その作品を深く理解するなら、犯罪も死刑も、他人事のように論評したり極刑を扇動したりするだけのテーマであることをやめ、迷い・苦しみながら自ら考え抜き、次の課題に繋げる問題であることが見えてこよう。

読書と異なり、個人の力では簡単にアクセスできない映画の分野で、この問題を考える機会を集団的につくること――初めての試みである今回は、内外から10本の作品を選んだ。上映期間は一週間だが、毎日1回ゲストを招き、映画や死刑に関する思いを語っていただくというプログラムも工夫した(詳しくは、別表を参照)。私たちの手元には、このテーマでなら上映が可能な作品リストが、まだまだある。2回、3回とこの試みが持続できるよう、大勢のみなさんが劇場を詰めかけてくださることを、こころから望んでいる。詳しくは、http://www.eurospace.co.jp/

事故から10ヵ月後、反原発運動に思うこと


『反改憲運動通信』No15・16(2012年1月18日発行)掲載

【3・11以後の反原発集会やデモにはできる限り参加しているが、それを準備する諸団体の日常的な活動や会議には、時間的制約から、ほとんど参加できていない。以下に書くことは、したがって、外在的な場からの物言いになるかもれしれない。岡目八目とは、金輪際、言えない。諒とせられよ、とあらかじめお断りしておきたい。】

①  男だけが牛耳る世界に、私たちは、なお生きているのだった

日常的な場――それが、映画館であっても、デモや集会の場であっても、講演会であっても、居酒屋であっても――において、その場にいる人びとの「性差」や「年齢差」にあまりの偏りがあると、すぐ気づく。あらかじめ気にして、見回すのではない。その均衡が極端なまでに失していると、ひと目でそのことに気づくというだけのことだ。バランスのなさに、異様さを感じるのである。私たちが生きている世界(社会)は、本来もっと多様なのに、この偏りはなんだ、と。

東京電力の福島原発で事故が発生して以来、マスメディアには連日のように、東電・関係官庁の官僚・原子力専門家・政府閣僚などの顔が写し出された。いつ見ても、そこには、男たちの顔しかなかった。言うところの「原子力ムラ」は「男ムラ」なのであった。このムラの住民たちは、事態の深刻さも知らぬかのように、起こっている事態に痛みも恥ずかしさも憤りも感じていないかのように、外部世界の人間たちには理解ができない「ムラ言葉(方言あるいは業界用語)」をしゃべり続けた(続けている)。

それを見た私は、20年来の愛読書であるリーアン・アイスラーの『聖杯と剣――われらの歴史、われらの未来』(法大出版局)と、フェミニズムの立場からこの書を重視した故・若桑みどりの『戦争とジェンダー』(大槻書店)をはじめとする一連の仕事をすぐ思い起こした。「男たちが戦争を起こしてきたのだから、今度は女たちが平和をつくらなければならない」(!)。男とは、この場合、「家父長制的男性支配型国家」、あるいは「男性原理」が支配する社会秩序のあり方に微塵の疑問も抱かない者――の謂いである。それは、アリストパネスが『女の平和』で描いているように、遠く古代アテナイの時代から変わることのない、いわば人類史的課題でもある。問題打開の方向性はここにしかない、と私は思った。

3・11以後の反原発デモ、集会、講演会のそれぞれの場で、ふだんは見かけない子ども連れの女たちの姿が目立った。メディアで発言する人のなかでも、わずかなりともその傾向が増していた。よい方向性だと私は思っていた。

この確信が日々強まっていた昨夏、私は「9条改憲阻止の会」の合宿で講演するよう招かれた。私より少し上の、60年安保世代の人びとが軸になっている団体である。震災と原発事故の後だったので、その話を中心に思うところを話した。50人近くいただろうか、出席者は一人の例外もなく、男だった。講演の最後に、私はそのことに触れた。参加していた人たちは苦笑していた、「そうなんだよなあ」。震災後6か月を経て「9・11」経産省包囲の大きな行動があった日に、「9条改憲阻止の会」の人びとは原発政策を規定方針通りに推進する姿勢を改めようとしない経産省前にテントを立て、抗議の座り込みを始めた。やがて、福島の女たちがこのテント村の場を活用して「女たちのリレー座り込み」を始めた9月末から、テント村の性格は一気に変貌を遂げた、と傍目には思えた。男ムラとして始まった場が、運動的な展開の中で女たちの共鳴をかち取り、その後ジェンダー的に女性化したのである。この変貌の過程そのものに、原発問題の本質を射抜くものが孕まれている。「9条改憲阻止の会」の人びとが発信し続けている通信を読むと、彼ら自身がこの変貌に驚き、そして喜び、楽しんでいることが伝わってくる。本質的に重要な体験がここで積み重ねられている、と私は思う。

②  「ポスト・コロニアル」の時代にも、植民地主義は繰り返し立ち現れるのだった

9・11以後米国支配層はいくつもの威圧的な言葉を語り続けてきたが、私が忘れようにも忘れられないのは、「アフガニスタンのような、国家の体をなしていない国は、いっそのこと昔のように植民地にしたほうがやりやすいな」という言葉である。アジア地域との歴史的過去に関して、日本政府と市井の人びとの間に繰り返し立ち現れる、自らの加害者性を顧みない言動を見聞きするときも「継続する植民地主義」という問題意識を強めざるを得ない。ポスト・コロニアルと呼ばれる現代――にもかかわらず、世界でも日本でも、現状はこうなのだ。

福島原発事故以後10ヵ月間のあいだに流された報道を吟味していても、いくつもの線がこの問題に繋がっていく。福島という「地方」と東京という「メトロポリス」、被爆労働に従事する「下層労働者」とその労働によって出力された電力を消費する「都会の受益者」、重大な事故を起こしたにもかかわらず既定方針通りに強行される「原発輸出」、原発大国から生み出された核処分場をたとえばモンゴルに求めようとする動き――これらはすべて、兵器としての「核」保有国が核実験場を国内の「過疎地」や旧植民地地域に持つ事実を想起させるものである。原発に使うにせよ兵器にするにせよ、支配層は、長期間にわたる展望も責任も持たないままに、植民地主義を実践することで核問題を「切り抜けていこう」としていることがわかる。

情勢的に、人類史総括の時期を迎えた20世紀末、課題は明確になった――フェミニズムが提起した「男性原理」によって支配される社会を転倒すること、コロンブス五百年(1992年)で浮かび上がる植民地主義的近代を俎上にのぼすこと。原発問題の本質もここにあることを疑問の余地なく明らかにした10ヵ月間であった。(1月13日記)

【1月25日の追記】この文章で触れた経産省前テント村に対して、経産省は1月24日付けの文書で、来る1月27日(金)17時までに経産省敷地内からの退去とテントの撤去を「命令」してきた。27日には、午後4時から6時まで、同所で抗議行動が行なわれる。

太田昌国の夢は夜ひらく[22]『方丈記』からベン・シャーンまで――この時代を生き抜く力の支え


反天皇制運動連絡会「モンスター」24号(2012年1月10日発行)掲載

3・11以後、鴨長明や、その小さな作品が触れた事態からほぼ8世紀の時間を超えた東京大空襲を重ね合せて書かれた堀田善衛の作品を読み耽ったと吐露する文章をいくつか見かけた。私も、あの3・11の衝撃的な津波映像をテレビで見たその夜、少しでもこころを落ち着かせたいと思って手を伸ばしたのは、『方丈記』と『方丈記私記』であった。それまでにいく度か読んできたはずのふたつの作品から、今までに感じたことのない感興を私はおぼえた。声高に言うことではないかもしれないが、文学の力とはこういうものか、と心に沁みた。

それは、直接的な被害者ではないことからくる、いくらかなりとも余裕のある、感傷的な態度であったかもしれない。だが翌日からは、もちろん、福島原発をめぐる深刻な事故状況が、東電と政府による恥じを知らない隠蔽工作を見透かすように、明らかになり始めていた。私の場合、『方丈記』は、安吾の『堕落論』にとって代わった。そして、つまらぬ歌手やスポーツ選手が現われて「日本は強い」とか「日本はひとつのチームなんです」とか声を張り上げるにつれて、今度は石川淳の『マルスの歌』に手が伸びるのであった。高見順の小説のタイトルそのままに「いやな感じ」を、そんな言葉が横行する時代風潮に見てとって。

人によっては、もちろん、別な文学作品を、あるいは音楽を、あるいは映画や芝居を、はたまた美術作品を挙げるであろう、3・11以後のこの10ヵ月間を生きるために、何を読み、何を聴き、何を観てきたか、と問われたならば。

事が自然災害と原発事故なる人災の結果にどう対応するかという緊急の課題である以上は、まずは社会や政治の局面で考え/行動すべき事態であることは自明のことだ――「個」から出発しながらも集団的な形で。同時に視野をいくらかでも拡大するならば、それが、私たちが築いてきた/依存してきた文明の根源に関わる問題でもあると気づけば、人は自らの存在そのものの根っこまで降りていこうとするほかはない。ふだんは「無用な」文化・芸術が、そのとき、集団から離れて「個」に立ち戻ったひとりひとりの人間に、かけがえのない価値を指し示す場合がある。示唆を与える場合がある。多くの人は、そのことを無意識の裡にも感じとって、たとえば『方丈記』に手に伸ばしたのではなかったか。

私は、昨年90歳を迎えた画家・富山妙子が、それまで百号のキャンバスに描いていたアフガニスタンに関わる作品を3・11以後はいったん中断し、津波と原発事故をテーマにした三部作を描く姿を身近に見ていたこともあって、この期間を生き延びるにあたって絵画に「頼る」ことが、ふだんに比べると多かった。戦後にあって、炭鉱、第三世界、韓国、戦争責任などを主要なテーマに作品を描き続けてきた富山は、私が知り合って以降の、この20年間ほどの時代幅でふり返ると、より広い文明論的な視野をもって、物語性のあるシリーズものの作品を創造してきた。年齢を重ねるにしたがって一気に色彩的な豊かさを増した作品群は、確かな歴史観に裏づけられて描かれていることによって、リアリティと同時に物語として神話的な広がりをもつという、不思議な雰囲気を湛えるようになった。今回完成した三部作「海からの黙示―津波」「フクシマ―春、セシウム137」「日本―原発」は、今春以降の列島各地を駆けめぐることになるだろう(因みに、彼女の作品シリーズは、http://imaginationwithoutborders.northwestern.edu/で見ることができる。米国ノースウエスタン大学のウェブサイトである)。

年末から年始にかけては、映画『ブリューゲルの動く絵』(レフ・マイェフスキ監督、ポーランド+スウェーデン、2011年)と展覧会「ベン・シャーン展」(神奈川県立近代美術館 葉山。以後、名古屋・岡山・福島を巡回)に深く心を動かされた。時代に相渉り、それと格闘する芸術家の姿が、そこには立ち上っているからである。シャーンには、第五福竜丸事件に触発された連作がある。久保山愛吉さんを描いた「ラッキー・ドラゴン」と題された作品の前に立つとき、そして福竜が「ラッキー・ドラゴン」なら福島は「ラッキー・アイランド」だと書かれたカタログ内の文章を読むとき、私はあらためて、今回の事態にまで至る過程を、内省的に捉え返すよう促されていることを自覚する。(1月6日記)

領土問題を考えるための世界史的文脈


『月刊 社会民主』680号(2012年1月号)掲載

一  occupy という言葉に心が騒ぐ

「格差NO」のスローガンを掲げて、ニューヨークで「ウォール街を占拠せよ!」という運動が始まったことが報道された時、私は、この運動の基本的な精神には共感をもちつつも、手放したくはない小さなこだわりをもった。「占拠」を意味するoccupy という語に対する違和感である。米国の歴史は、「建国」後たかだか二百数十年しか経っていないが、それは異民族の土地を次々と「占領」(occupy)することで成り立ってきた。この度重なる占領→征服→支配という一連の行為によって獲得されたのが、現在でこそ漸次低減しつつあるとはいえ、世界でも抜きん出た米国の政治・経済・軍事・文化上の影響力である。これが、世界の平和や国家および民族相互間に対等・平等な関係が樹立されることを破壊していると考えている私にとって、それが誰の口から発せられようとoccupyや occupation という語は、心穏やかに聞くことのできない言葉なのである。

同時に、1%の富裕層に対して「われわれは99%だ」と叫ぶ、訴求力の強い、簡潔明瞭なスローガンに対しても、その表現力に感心しつつも、留保したい問題を感じた。99%という数字は、米国のこのような侵略史を(現代でいえば、アフガニスタンやイラクの軍事占領を)積極的に肯定しそれに加担している人びとをも加算しないと、あり得ないからである。問題を経済格差に焦点化して提起する、新自由主義が席捲している時代のわかりやすくはあるこのスローガンは、99%に含まれる人びとの内部に存在する政治・社会上の矛盾と対立を覆い隠してしまう。

これは、国家主義的な、したがって排外主義的な歴史観が多くの人びとを呪縛している社会にあって、私たちがどんな歴史的な想像力をもちうるか、この歴史観を変革するためにどんな努力をなしうるか、という問題に繋がっていく。焦眉の問題として「1% 対99%」という問題提起の有効性を認めるとしても、99%の中身を分析する視点は持ち続けるという意思表示である。そんなことを思いながら、米国のみならず世界各地の「オッキュパイ運動」を注視していたところ、米国内部からの次のような発言に出会った。

「アメリカ合衆国はすでにして占領地である。ここは先住民族の土地なのだ。しかも、その占領は、もう長いこと続いている。もうひとつ言わなければならないことは、ニューヨーク市はイロコイ民族の土地であり、他の多くの最初からの民族の土地だということだ。どこかでそのことに言及されることを、私たちは待ち望んでいる」(ジェシカ・イェー「ウォール街を占拠せよ――植民地主義のゲームと左翼」、ウェブマガジン“rabble.ca”10月1日号)。

ウォール街で起ち上がっている人びとが「国家と大資本」を批判するのはいいし賛成だが、その視点だけでは、植民地支配に関わってのみずからの「共犯性と責任」をどこかに置き忘れているのではないか――ジェシカが問うているのは、そのことだろうか。

ところで、ジェシカ・イェーが言う「もう長いこと」とは、どんな時間幅だろうか? 米国の場合は、先に触れたように、1776年の「独立」以来の二百数十年となろう。あるいは、メキシコに仕掛けた戦争に勝利した米国が、メキシコから広大な領土を奪った段階(1848年)で、ほぼ現在の版図に近い米国領土が確定したことに注目するなら、「もう長いこと」とは、およそ1世紀半の時間幅となる。

問題を世界的な規模のものと考えるなら、「占領」という概念や「先住民族」という捉え方は、植民地主義支配に必然的に随伴することがらである。現代にまで決定的な影響を及ぼすことになった植民地支配の起源を、15世紀末、1492年のコロンブス大航海とアメリカ大陸への到達に求めることは、ほぼ定着した歴史観になっていると言えよう。したがって、世界的な規模では、500年以上の射程で捉えるべきことがらであることがわかる。

二 「無主の地」を先占する

自分たちの社会の構成体として国家を形成するという道を選ばなかった(選ばない)民族は、世界史上いくつもあった(ある)。国家を形成するに至った諸民族とて、21世紀初頭の現在の国家に繋がるものとしての近代国家を成立させたのは、19世紀後半である。日本近代史研究家・千本秀樹は、イタリアの留学生から、日本の学校には日本史という科目があることの不思議さを問われて虚を突かれた思いをいだいた経験を語っている(「歴史を共有するものが未来を共有する」、『現代の理論』25号、2010年秋号、明石書店)。若い国であるイタリアには、イタリア史という科目はないのだという。悲劇的な戦争や紛争の歴史を重ねることで、時代ごとに互いの版図・国境線に著しい変化を来した過去をふり返るなら、国家史ではなく地域史の観点こそが重要であることの示唆であろう。逆に言えば、周辺国家・民族との交流と抗争の歴史を思えば、現状の国境の枠内に限定した国家史・国民史を構想することの不可能性に行き着くということだろう。この事実を知れば、国家や国境が万古不易に存在してきた(している)と何故か思い込んでいる現代日本人の「常識」は根底から覆されよう。

だから、国家は歴史の問題を考えるうえでの唯一絶対の指標ではない。だが、その時代に形成された国家が、近現代の世界史上で揮ってきた他地域およびそこに住まう住民への支配力の強さからすれば、この存在を無視して問題を考えることはできない。すなわち、ここで言う近代国家こそが、植民地支配を世界各地において推進したからである。

初期植民地主義の最初の実践者となったヨーロッパ諸国は、現在のラテンアメリカ、アフリカ、アジアなど自国から遠く離れた地域にその対象を求めた。コロンブスの大航海を実現したスペインを先駆けとして、それら諸国は異民族の土地を次々と征服し、我が物としていく過程を暴力的に遂行した。歴史地図として多くの人びとの記憶にあるだろう19世紀の「アフリカ分割図」を思い起こせば、それが実感できよう。その過程で作り出されたのが、「先占の法理」である。

「先住民族」は、植民地主義が作り出した存在であることは、別な表現ですでに触れた。土地の私的所有観念を持たない先住民族の土地へ赴くことになったヨーロッパの人間たちは、その「無主の地」は我が物であるといち早く名乗りをあげて、そこを「実効支配」した国の独占的な占有地となるという「法理」を編み出したのである。これは、もちろんのことだが、ヨーロッパの植民地主義を「合理化」する論理にほかならなかった。

「無主の地」は多くの場合、ヨーロッパが欠く天然資源・香辛料・食べ物の産地であった。現地で開発を行なおうとすれば、「安価な」労働力は豊富にあった。アメリカ大陸の場合のように、そこの先住民族を大量に殺害してしまい、その後手がけることになる植民地経営のための労働力を必要とするときは、アフリカから多数の屈強な黒人を奴隷として連行すれば、それで足りた。こうして、ヨーロッパにおける資本主義の勃興と発展にとって、「無主の地」は決定的な役割を果たした(註)。

三 「固有の領土である」

ヨーロッパ列強諸国に遅れること数世紀を経てアジアで唯一の植民地帝国となった日本は、前者とは異なり、遠方の地に植民地を獲得することはなかった。台湾、サハリン南部、朝鮮というように、海洋は隔てているが、植民地化したのはすべて近隣地域においてであった。

日本による近隣地域の植民地化は、戦争を前提として成立したことを忘れるわけにはいかない。日清戦争(1894年)と日露戦争(1904年)である。いずれも、明治維新を経た近代日本国家が、富国強兵を旨としてヨーロッパ列強に伍そうとする路線の下で生じた戦争である。アジアの大国・清国と、ヨーロッパとアジアの双方に広がる広大な帝政ロシアに勝利したことで、日本は「アジアの盟主」を自負した尊大なふるまいを行なうようになった。近代日本は、植民地獲得後にさらにアジア・太平洋各地に対する侵略を進める一方、米国とも開戦して、破滅的な戦争に陥っていった。アジア太平洋諸地域の民衆による抵抗闘争と、1941年以来真っ向から対峙した米国軍の圧倒的な軍事力を前に、1945年、日本は戦争に敗北した。この路線を決定づけた明治維新から数えて、78年の歳月が経っていた。そして、現在、私たちは敗戦から数えて、66年目に当たる時代を生きている。双方を加算すると150年近く、およそ1世紀半の歳月である。

日本が、領土問題も含めて近隣アジア諸国との間に抱えている未決の案件があるとすれば、すべては、少なくともこの時代幅でふり返らなければならない。自民党政権時代ですら、首相レベルの談話では、日本がアジア諸地域に対してかけた多大な被害について詫びる言葉はあったのである。その反省は、戦後史の過程でどこまで社会に根づいているか、それを図る目印としてのしかるべき戦後補償は、どこまで実現しているか――を、まず問わなければならないのは日本社会である。

このことを前提として、本稿では、ここまでの叙述をうけて、領土問題について若干の考察を続けたい。敗戦から66年も経ていながら、日本は周辺諸国との間でいくつもの領土問題を係争案件として持っている。主なものを挙げると、ロシアとの北方四島問題、韓国との竹島(独島)問題、中国との尖閣諸島(釣魚島)問題――である。

特に2010年9月には、尖閣諸島をめぐって中国との間で大きな事件が起きた。尖閣諸島沖で中国漁船が日本の海上保安庁の巡視船に衝突し、同庁が船長を逮捕した事件である。この諸島の領有権をめぐる双方の主張を詳しく検討する紙幅はない。自らの問題である日本側の主張についてのみ検討する。事件の直後、前原国土交通相(当時)は「東シナ海に領土問題は存在しない」、「(船長の処遇に関しては)国内法に基づき粛々と対応する」と語った。首相の交代で外相に就任した前原氏は、さらに「(尖閣諸島は日本の固有の領土であることに関して)我々は一ミリたりとも譲る気持ちはありませんし、これを譲れば主権国家の体をなさない」とも語っている(10月15日外務省定例記者会見)。

日本共産党が持ち出すのは、「無主の地」論である。中国の文献には、中国の住民が尖閣諸島に歴史的に居住していたことを示す記録はなく、明代や清代に中国が国家として領有していたことを明らかにできるような記録もない、と述べたうえで、言う。「近代にいたるまで尖閣諸島はいずれの国の支配も及んでいない、国際法にいう“無主の地”であった」。そこへ探検した某人が貸与願いを日本政府に申請したので、沖縄県などを通じてたびたび現地調査を行ない、「1895年閣議決定によって尖閣諸島を日本領に編入した。歴史的にはこの措置が尖閣諸島に対する最初の領有行為である。これは“無主の地”を領有する“先占”にあたる」(『しんぶん赤旗』2010年10月5日)。これは、外務省発行の「尖閣諸島に関するQ&A」にも共通する「論理」である。

外相が「固有の領土」論を展開するとしても、その「固有性」はたかだか1895年以降のものでしかない。「固有の」という用語には、古代から本来的に、という意味合いが付着している。だが、「日本」という国号が定まったのは、研究者の間で多少の意見の違いはあるが、七世紀末から八世紀初頭である。それ以前には「日本」も、「日本国」の国制の下ある「日本人」も存在していない(網野善彦『「日本」とは何か』、講談社、2000年)。したがって、「固有の」という言葉を、このような領有権問題に用いることは妥当性を欠く。中国側も領有権を主張している以上、一方の側の閣僚が「領土問題は存在しない」と語るべきではないというのは、二国間関係を考えるうえで双方が弁えるべき必須のことだろう。

メディア上で俗に言われる「前原人気の高さ」なるものは、彼が主張する近隣アジア諸国に対する外交政策が強硬路線であることに由来している。内政上いっこうに解決しないさまざまな問題が山積しているとき、住民が抱く欲求不満の吐き出し口を外部に求めることは、歴史的に見ても、世界中の愚かな政治家や軍人が採用してきた、もっとも安易で、結果的には最悪の事態を招く政策である。この路線を推進したい者にとっては、いつも、外部の何者かが「悪」であればあるほど(「悪」として描き出すことが可能であればあるほど)、役立つのである。

共産党が依拠する「“無主の地”先占」論の妥当性も、十分に疑わしい。本稿ですでに考察したように、「無主の地」論は欧米列強がこぞって競った植民地主義支配の拡大過程で生まれた自己合理化の議論である。共産党文書は「1895年閣議決定によって尖閣諸島を日本領に編入した。歴史的にはこの措置が尖閣諸島に対する最初の領有行為である」と述べている。1895年とは、日清講和条約調印の年である。前年、日本は朝鮮半島支配をめぐって清国との間で戦争を行なった。日本は勝利し、条約によって遼東半島・台湾・澎湖列島を中国に割譲させた。台湾に近い尖閣諸島の領有宣言は、日本帝国のこの対外拡張路線=欧米列強との植民地獲得競争への参加、という枠内で行なわれている。このような経過を思えば、共産党の文書は歴史的な考察を欠いたまま、国家主権論の枠内に収まっていると言うべきだろう。

この問題について論じるべき点はまだあるが、紙数が尽きた。国家や領土の存亡を賭けて、戦争での勝ち負けを競った時代は、確かに続いてきた。だが、本稿で簡潔に述べた国家の成り立ちや国境の変遷過程を思えば、これに呪縛される考え方の限界性はあまりにも明らかであろう。年端もいかない(成立して1世紀半しか経っていない)近代国家が争う領土問題の地は、歴史的に見て、周辺に住まう多国間の住民が平和裡に共有し、協働する空間であった。解決の糸口は、戦争を好まない、国境を超えた地域住民の知恵にこそ求めるべきだろう。

(註)「無主」という概念をめぐって最近起きている事実に触れておくことは、きわめて重要なことだろう。2011年8月、福島原発事故による放射能汚染の影響を受けた福島県二本松市のゴルフ場が東京電力に汚染の除去を求める仮処分の申し立てを行なった。東電は答弁書で、大要次のように述べた。「原発から飛び散った放射性物質は東電の所有物ではない。したがって東電は除染に責任をもたない。なぜなら放射性物質は、もともと無主物であったと考えるのが実態に即している。所有権を観念し得るとしても、既にその放射性物質はゴルフ場の土地に附合しているはずである。つまり、債務者が放射性物質を所有しているわけではない」。東京地裁はゴルフ場の訴えを退けた(朝日新聞11月24~25日)。

本文で述べたように、資本主義は「無主の地」の身勝手な解釈を通して勃興した。21世紀の現代は、その資本主義が「グローバリゼーション」の名の下でひとつの頂点を迎えている時代であると言える。福島原発事故にもかかわらず中止されることのない、米国・フランス・日本の「原子力産業ルネサンス」に向けた動きをみると、現代資本主義と核開発の相互依存関係がわかる。生き延びを図る資本主義がここで編み出しているのが、「無主物」の論理である。これだけ多大な犠牲者を生み出している放射性物質の製造物責任を、飛散してしまったものである以上は負わないというのである。勃興期と絶頂期の資本主義が、それぞれ「無主」の概念をきわめて身勝手に、融通無碍に解釈している現実にこそ、問題の本質をうかがうことができる。

太田昌国の夢は夜ひらく[21]「無主地」論理で勃興し、「無主物」論理で生き延びを図る資本主義


反天皇制運動連絡会『モンスター』第23号(2011年12月6日発行)掲載

権力機構としての国家=政府なるものに対して、私は根本的な懐疑と批判を抱いてきた。それは、資本主義であることを標榜する国家体制に対してばかりではない。20年前に無惨にも自滅したような、自称社会主義国家体制に対しても、同じである。

また、資本主義的企業の論理と倫理に関わる不信と疑念が、私の心から容易に消えることはなかった。それは、プルードンやマルクス(ふたりの名を並列することにこだわりたい)以降積み重ねられてきた資本主義批判の論理に依拠するばかりではない。水銀を垂れ流して水俣病を発生させたチッソやカドミウムを排出してイタイイタイ病を発生させた三井金属など大手会社の企業活動の実態を、同時代的に目撃したことにも基づいている。

さらには、アカデミズムという砦の内部で培養された「専門知」から繰り出される高説に対しても、一九六〇年代後半に試みられたそれへの徹底的な批判の時代を共有しているだけに、十分な警戒心をもって対してきた。

「3・11」の前であろうと、後であろうと、そのこと自体には、何の変りもない――と、いつ頃までだろうか、私は考えていた(ように思う)。甘かった。「3・11」以降9ヵ月が過ぎ去ろうとしている今ふり返ってみるならば、この日付以前の日々に私が抱いていた国家=政府、企業及び知的専門家に対する疑念と不信の思いは、まだまだ牧歌的で、甘かった。これらの者たちの思想と行動にも、究極的にはせめても、いくらかましな論理性と、ないよりはましな程度の倫理性くらいは孕まれている、あるいは、孕まれたものであってほしい、と私は考えていたようなのだ。自分のことなのに「いたようなのだ」とは、はて面妖な、と思われるかもしれない。だが、推測するに、このような思い――それが深いか浅いかは別として――を持つ人は、けっこうな数に上るのではないだろうか。

「3・11」以降の9ヵ月間、国家=政府、企業体=東京電力、原子力および医学の一部専門家から、私たちが否応なく見聞してきた言動をふりかえってみて、そう思う。〈私たちの〉国家=政府は、〈私たちの〉企業は、〈私たちの〉専門家は、ここまで論理を欠くものであったのか、倫理的にかくまで低劣で無責任であったのか――と嘆息せざるを得ないような日々であった。それぞれの人びとが直面している重大な問題、重要だと考えている問題に即して、無数の例が挙げられることだろう。

こんなことをつらつら考えていたところへ、さらに重要な問題が浮かび上がった。朝日新聞が10月17日以降連載している「プロメテウスの罠」は、マスメディア上の言説としてはもっとも重要な情報と論点を提出してきている。その第4シリーズは「無主物の責任」と題されて、11月24日に始まった。それによれば、二本松市のゴルフ場が東電に汚染の除去を求める仮処分を東京地裁に申し立てたのは8月だった。東電の答弁書曰く「原発から飛び散った放射性物質は東電の所有物ではない。したがって東電は除染に責任をもたない」。なぜなら放射性物質は「もともと無主物であったと考えるのが実態に即している」からである。「所有権を観念し得るとしても、既にその放射性物質はゴルフ場の土地に附合しているはずである。つまり、債務者が放射性物質を所有しているわけではない」。10月31日、地裁はゴルフ場の訴えを退けた。私が迂闊だったのか、この事実を知らなかったが、調べてみると報道自体もかなり遅く、かつ小さめなものであった。東電と地裁の言い分に孕まれる「事の本質」の重大性に照らすなら、即時に、大きく報道されるべきものであった。

「無主物」と聞いて思い起こすのは「無主地」である。15世紀末、異世界征服に乗り出したヨーロッパは、「無主地」の先占は「実効的占領」を要件として成立し得るという近代国際法を創出した。植民地主義をこうして正当化した欧州は、それによって得た〈蓄積〉をも根拠にして資本主義を発達させた。それから5世紀有余後の現在、世界を制覇したグローバル資本主義は、「核開発」にルネサンスを見出して生き延びようとしている。ここでは、自らの製造物が事故によってどこへ飛散していこうと、それは「主なき」物質だから、責任を問われる謂れはない、と居直るのである。「無主」なるものを、融通無碍に解釈して、かつて資本主義は勃興し、今は生き延びようとしている。ここに問題の本質がある。

(12月3日記)

太田昌国の夢は夜ひらく[20]「官許」――TPP問題と原発問題で立ち塞がるこの社会の壁


反天皇制運動『モンスター』22号(2011年11月8日発行)掲載

そのむかし、私が愛読した書物のなかに、在野の哲学者・三浦つとむの著書があった。彼の書物から受けた「恩義」はいまも忘れてはいない。辞書にもある用語だが、彼がよく用いたことばに「官許」というのがあった。辞書で言えば「政府からの許可」とか「政府が民間に与えた許可」となるが、左翼である三浦の場合は「官許マルクス主義」のように使うのである。生きた時代の必然性からいって(1911~89年)、スターリン主義のような俗流マルクス主義の言語論・芸術論・組織論とたたかった三浦は、自称前衛党もアカデミズムも自らを支える背景としては持たない場所に、ひとり立ち続けた。だから、「官」なるもの、すなわち、政府・国家・前衛党など支配権力を持つ立場やその御用学者から繰り出される議論や言説に孕まれる虚偽と歪曲をいち早く嗅ぎ当て、それを徹底して批判する立場に立ったのである。

このところ、しきりに三浦のことが思い出されるのは、虚偽と歪曲に満ちた「官」の横行があまりに目立つからであろうか。日本的な構造なので、この場合は、霞が関「官僚」による情報統制の下で、自らの意思を持たない「閣僚」が完全に支配されている事態を指している。現象的には、前者の「官僚」と後者の「閣僚」が一体化して、「政府」として立ち現れているのである。それを「科学的な知見」に基づいて支える立場から、専門家や研究者たちが登場していることは、言うまでもない。

いまや、小さなかけらのような記憶になってしまったが、民主党政権が成立した当初には、官僚支配の政治を打破するという明確な意思表示が、まだしも、なされた。在沖縄米軍基地のあり方を見直すという形で、既存の日米関係をほんの少し変えようとした鳩山政権は、「日米同盟は不変」との信念を持つ外務・防衛両省の官僚たちからの黙殺と妨害にあって、あえなく潰された。福島原発事故の重大性に鑑みて、少なくとも「脱原発」の方向性に向かおうとした菅前首相は、原発推進に固執する経済産業省の官僚たちと経団連によるエネルギー危機の扇動と、政策次元よりも菅直人という政治家が嫌いなだけの与野党・マスメディアからの集中攻撃にさらされて、〈個人的に〉失脚した。二代続いた民主党政権下にあっては、官僚支配が打破されるどころか、逆に、その支配力の強さを見せつけられたのである。

ご面相を見ただけで、自民党時代に逆戻りしたのか、とつくづく思わせられる現首相の登場は、「日本を根本のところで統治しているのは自分たちだ」と考えている霞が関官僚たちを、自民党政権時代以上に安心させたに違いない。自民党にもできなかったことをやる用意のある政権だ――就任以来の首相のさまざまな発言(むしろ、肝心な箇所での「発言の無さ」と言うべきかもしれない)から、官僚たちは、野田政権の性格をそう読んだと思われる。

そのことがいま集中して現われているのは、TPP(環太平洋経済連携協定)交渉への参加問題である。昨秋、菅首相が突然のように打ち出したこれへの参加方針は、マスメディア挙げての支持を受けた。いくらか社会的に開かれた形で議論が起ころうとしていた時期に、「3・11」が起こった。社会全体が、その後の7ヵ月間は、震災からの復興問題と原発事故への対処が主要な関心事であった。その間に、官僚たちは着々と参加の基盤づくりを行なっていたようだ。野田政権の成立を待つかのように、この1ヵ月間TPPに関する情報が小出しに漏れ始めた。「11月にハワイで開かれるアジア太平洋経済協力会議(APEC)の場で参加表明することが、米国が最も評価するタイミング」との政府文書の存在が明らかになったのは10月27日のことだ。この「政府」文書は「官僚」文書と読み替えるべきだろう。米通商代表部高官が「日本の参加を認めるためには議会との協議が必要で、参加承認には半年必要」と語ったことを明らかにした「政府内部文書」も11月1日に明らかになった。すべてを時間不足に追い込んで、ドサクサまぎれの首相決断に委ねること――TPP問題についても、原発問題についても、経済産業省に巣食う高位の官僚たちの恣意のままに操作されているのが、この社会の現状なのだ。(11月5日記)